謀略家
締め切られた障子。閉ざされた部屋の中、文机の前に初老の男が座っている。机の上には、何通もの文が積み重なる。
その内の一つを手に取りながら、男は微かに笑う。
「成程、斯様な手を打ってきたか。その場しのぎではあるが、悪くない手を打ってくる。が、少し手筋が真っ直ぐすぎるきらいがあるな」
男、友野宗善は敵手の打ってきた手をそのように評した。
敵手、大山源吉が打ってきた手は、明快な一手である。それは文机に積み重なった文が如実に物語っている。
積み重なった文は、宗善が放った鼠からの報告であった。
しかし、それらがもたらす情報は余りに錯綜している。全体を見回せば、どうしようもないほど矛盾した報告も少なくない。
それが意味する所とはつまり、源吉が偽情報を意図的に発信しているに違いなかった。
鼠の炙り出しは困難。そう判断して、いくつもの嘘を織田家中に流したのだろう。
これでは、鼠が何か一つ本当の情報を掴んでいたとしても、無数の報告の中からどれが本当の情報なのか、宗善に判断することなどできない。
「懐に放った鼠は無効化されたか。しかし、防御だけでは勝てぬよ、若造。そも、全ての攻撃を受けきることなど、神ならぬ身で出来るわけもなし」
宗善はそのように呟く。彼の言葉に強がりの色は感じられない。
事実、彼にとって鼠の存在が無為になったことは、大した痛手でもなかった。
何故なら、数ある攻め手の一つが潰されたに過ぎぬからだ。
宗善の謀略の意図もまた、単純明快である。ようは数打てば当たる。その論理である。
彼の目には、攻め筋がいくつも見えていた。
未だ不和の種が取り除かれてない、織田家中と尾張商人が相争うよう仕向けても良かったし。
新有松織を実現させている、織田松平同盟、この二者の離間工作をしても良い。
あるいは、尾張商人の中心に立つ源吉を亡き者にしようと、刺客を放っても良いかもしれない。
一つ一つを見れば、その成算は低いと言わざるを得ない。
が、宗善にとっては、それで構わない。そう、失敗しても構わないのだ。数打てば当たる。
無数の失敗の上に、どれか一つ成功すればいい。致命的な攻撃は一つ通ればそれで十分であった。
正しく、宗善が口にした通り、全ての攻撃を防ぐことは能わぬのである。
ただ、織田家中に潜めた鼠は、致命傷と言えるものになりえなかった。
あれで柴田佐久間を躍らせ、源吉を排するように動かせたなら、宗善にとって最上であったろう。しかし、新有松織の情報を盗むに留まってしまった。
「思いの他、柴田佐久間は理性的であったな。両名が暴走し、大山を始末してくれれば有難かったのだが」
宗善は手にした文を文机に放る。
「それがなれば、子飼いの商人を殺した両名は、重臣とはいえ織田上総介の怒りを免れまい。同時に織田家中にも痛打を加えられる。……はずだったのだがなあ」
少々自分に都合の良すぎる筋書きに、宗善は苦笑する。
「そこまで思い通りにはいかぬか。……織田上総介は予想以上に、大山なる商人に目を掛けているようだ。その事実が、両名を自重させたと見える。だが……」
宗善は凄みのある笑みを浮かべる。その事実こそが、攻め入る隙であると看破して。
その見立ては決して見当違いではないだろう。
一介の商人を、信長が目に掛ければ掛けるほど、織田家中の者は面白くあるまい。
上手く謀略の糸を紡げば、宗善が刺客を放つまでもなく、源吉は身内の手によって始末される。
そのように宗善は目論んでいるのだった。
宗善は立ち上がり障子を開くと、庭を眺め見る。そうして凄みのある笑みから一転、どこか寂しげな表情を見せた。
「大山源吉、か。舞蘭度なる新たな商売の創設。非凡なる発想よ。その才気だけ見れば、私をも優に超えておろう。が、十年早かったな。老獪さが足りぬ。まだワシには及ばぬ。……何とも惜しいことだ」
宗善は思わずといった具合に呟く。次いで、軽く首を振った。
「ハハ、ワシも年を取ったものだ。まさか、敵を惜しむようになるとは」
宗善は乾いた笑い声を漏らしながら自嘲する。
が、気を引き締め直すと、敵を屠るための策謀に思いを馳せる。
「ふむ、織田家中の者に揺さぶりはかけるとして、そればかりに期待するわけにもいかぬ。他にも手を打たねばな。……さて、他にどんな手を打ったものか?」
そのように、宗善は謀略家の表情を取り戻したのだった。
策謀を巡らす宗善。しかし、策謀を巡らすは宗善のみにあらず。
駿河から遠く離れた尾張でも、宗善の敵手たる男が、源吉が策謀を巡らす姿があった。
源吉もまた一人、自室で今後の展開を予想する。自らの敵手、宗善の先日の一手を顧みて、彼の性質を悟る。謀略家としての性質に。
「……奴は、多方面から揺さぶりをかけてくるに違いない。数打てば当たる。そういうわけだ。ふん、それは正しいよ。受けに回れば防ぎ切ることはできないさ。……しかし気付いているか、友野宗善? 敵を陥れることに拘泥し、数多策謀を巡らせるほどに、数多攻勢を掛けるほどに、自らの脇が甘くなるという事実に」
源吉は伏せていた顔を持ち上げる。その顔色は青白い。腹を括ったように言葉を吐き出す。
「攻撃にばかり気を割けば、防御が疎かになる。……数多謀略を仕掛けてこい。俺はたった一矢の反撃をしよう。お前が防御に意識を戻す前に、その一撃で致命傷を喰らわしてやる」
そう言って立ち上がると、源吉もまた障子を開いて庭を、いや、その遠く向こうに目を向ける。
「「この商戦、勝つのは俺(ワシ)だ」」
二人の商人は自らの必勝を口にしたのだった。
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