回れ、回れ、回れ

 少し肌寒い風が吹く。

 俺は縁側に座りながら、ぼんやりと空を見上げていた。今にも落ちようとする、その儚くも美しい茜色を。


「旦那様、こちらにおられたのですか」


 暫く縁側に座っていると、妻である於藤が声を掛けてくる。

 彼女はそっと俺の横に腰掛けた。


「ずっとこちらに?」

「ああ。夕陽を見ていた」


 俺の言葉に、於藤も空を見上げる。


「……美しいですわね。毎日見ているのに、不思議と感情を揺さぶられます」

「ああ」

「旦那様、夕日を見上げるのもよろしいですが。少し冷え込んできました。ほどほどにして、お下がりくださいまし」

「そうだね。於藤はもう下がりなさい。俺もすぐに後を追うから」

「……はい。約束ですよ。すぐにお下がりなさいますよう」


 最後にそう釘を刺すと、於藤はすっと立ち上がって去っていった。

 俺はその後ろ姿が見えなくなると、沓脱石に置かれた草履を履き、庭へと歩み出る。


 視線は変わらず夕日の茜色を追っていた。


 

 清洲同盟がなった。

 これで、俺がずっと講じてきた諸々の施策が、現実のものとなる。

 

 実際、机上の空論に過ぎなかったそれが、織田松平両家の力により肉付けられ、もうじき日の目を見ようとしている。


 新農具の導入。そこから波及して可能となるブランド政策に、敵領地への謀略。そして、それら全てを噛み合わせた商戦。


 もっとも、万事が万事、想定通りにいくとは思えない。

 神ならぬ身で、先のことなぞ見通せるものか。

 きっと、想定外のことが起きる。その都度計画を修正して、何とか企みを軌道に乗せなければならない。


 上手くやれるだろうか? 一連の流れで、俺の望みは叶うのか?


 人事は尽くした。織田松平の協力で新農具も量産し、水面下でブランド生産体制も整いつつある。

 工場は、未来の成功にあやかって、有松で着工中だ。もうじき竣工する。


 つまり、後はもう実行に移すだけ。果たして、俺の願い通りに行くだろうか?

 天下取りのへの足掛かりに、そして時計の針を……。


 ああ、息が苦しくなる。

 やってやるぞという気概の裏で、強い焦燥感が滲む。


 焦燥? ……俺は焦っているのか?


 ああ、焦っているとも。何せ、俺の持つ歴史知識を以てしても、全く見通せないものがある。

 ……俺自身の寿命だ。こればかりは、どうしたって分からない。


 全てに失敗して破滅するなら、まだ納得もできよう。

 人事を尽くして至れなかったのだ。仕方ない。

 だが、道半ばで寿命が尽きるだけは、どうしても許せない。また、そんな事にだけは絶対に……。


 夕日が人に与える寂寥感からか、どうしてかネガティブな方向へと物思いに耽ってしまう。

 かつての苦恨がまざまざと思い起こされる。


『どうして俺が? まだ二十代なのに!? 必死に勉強していい大学に入って、やっと卒業して、これからなのに! どうして、どうしてだよ!?』


 唇を真一文字につむぐ。ギュッと胸元の襟を握り締めた。


「ッ! …………回れ回れ、時間よ回れ。疾く回れ。俺の望む明日みらいを早く連れてこい」


 俺は落ち行く陽を眺めながら、思わずそんな戯言を口ずさむ。

 零れ落ちた言の葉を、不意に吹き抜けた強い風がさらっていった。



****



 永禄四年


 尾張、三河西部を中心に『千歯こき』『唐箕』といった新農具が普及し出す。

 それらは、農作業を短縮する画期的な新農具であり、美濃、東三河、駿河でも大々的に販売されることになった。

 各地の大名始め、国人衆もこれらの新農具の性能を認め、領内で活用しようと購入する者も少なくなかった。


 しかし、普及以降、美濃を中心に不穏な噂が流れ始める。


 新農具で手隙になった農家から何人かの男を駆り出し、鉱山などの厳しい労働に当てさせようというのが、殿様の意向なのだ、と。

 そのために、殿様は新農具を買い付けてきたのだという噂だ。


 全く根も葉もない噂であったが、民草たちは領主への警戒心を高めた。


 そんな折、ある風説が各地に流れ出す。

 曰く、『我々の生活を守る為、新農具を破壊せよ』と。


 どこから流れ出したのかも分からない呼び掛け。流石に、それだけで民草が決起するということはなかった。

 が、それらの噂は領主たちの警戒心を煽った。民草に対する警戒心を。


 ただでさえ、先日からの民草から向けられる警戒心に、領主たちは敏感になっていたのだ。

 この不穏極まる噂を彼らにとって聞き捨てならないものであった。


 両者の間に埋めようのない溝が広がる日々。そしてついに事件が起きる。


 場所は美濃国。よりにもよって稲葉山城に程近い町のこと。

 新しく買い付けた新農具をまとめて置いていた商人の蔵で、無残にも破壊された新農具が発見されたのだ。

 そこには汚らしい、所々誤字が見当たる犯行声明が残されていた。

 曰く、『民草は先祖代々の土地と共に生きるもの。いかに殿様とはいえ、これを覆すこと能わず』と。


 かねてよりの噂もあり、これはどこぞ近隣の村に住まう民草の犯行に違いないと、人々は色めき立った。

 そして始まる犯人探し。益々、両者の溝は広まるばかり。


 愚かにも踊る。他人の手の平の上で。そう、新農具を破壊したのが、美濃の民草でないと気付くこともできぬまま。


 狂騒は行き着くとこまで行ってしまう。


 この犯人探しに憤った一部の民草たちが、直訴を企てたのだ。

 当時、下々の者がお上へ直訴するというのは、通常許されない。それこそ、命がけの所業だ。


 だが日々慎ましく暮らす民草には、この濡れ衣が耐え難かったのだ。

 自らの身の潔白を晴らそうと、有志が集い稲葉山城を目指した。


 これに驚いたのは、稲葉山城の者たちだ。

 すわ、一揆かと思い込み、直ちに取り押さえに掛かる。これに、強く反発した若い民草が応戦。

 直訴のために集まった筈の民草たちが、暴徒と化してしまったのである。


 この自らの膝下で起きた事件に、斎藤家当主の座を継いでまだ間もない、若き龍興は怒り狂う。

 事件に関与した者全てに厳罰を与えるよう命じたのだ。


 かくして、取り押さえられた暴徒たちは全て磔に処されることとなった。

 しかし、此の事件と、その対応には、民草ならず美濃の国人たちをも眉を顰めることとなる。


 そも、龍興の美濃での評判は元々芳しくなかった。

 まだ、家督を継いだばかりの若輩者であること、ここ最近続く織田との小競り合いに終始翻弄され、いいようにしてやられていること。

 更に今回の事件で、更に国人たちの心が離れていった。


 そして、それを見逃す織田ではない。


 木下藤吉郎改め、木下藤吉郎秀吉が中心に、美濃国人への調略を仕掛ける。

 秀吉の暗躍凄まじく、時に言葉巧みに、時に豊富な銭を以て、美濃国人たちを口説き落としていく。

 この際、秀吉が費やした銭は膨大なものであった。

 織田家中の者たちが一様に、一体何処からその銭が出たのかと、首を傾げるばかりであったという。


 次第に、国境に近い国人から、織田に寝返る者が続出し始める。


 龍興は、寝返りは許さぬとばかりに国境に出撃するが、織田もまた国境に兵を派遣し、寝返った美濃国人たちと共にこれを撃退する。


 やはり、龍興の信望は落ち行くばかりであった。




 一方、東三河。ここでは、美濃ほどの混乱は起きなかったが、それでも不穏な空気が立ち込めていた。


 美濃の二の舞は御免だと、東三河の諸勢力は、人心の慰撫に努めんと奔走する。奔走するが、自らの膝下に気を取られた隙を、西三河の松平に衝かれたのだった。


 出陣した元康は、織田の後援を受けながら、次々と東三河を切り取っていく。中には、今川への不満から戦わずに松平に下る国人さえも出る始末。

 その電撃的な侵攻には、今川が介入する隙もなかった。


 更に元康は、義元の名から貰った一字を返上。元康より家康へと改名する。

 これは、今川と完全に袂を分かち、かつ、明確に敵対するとの宣言であった。


 家康による東三河切り取りと改名、これを聞いた今川氏真は、『松平蔵人逆心』『三州錯乱』などと怒鳴り散らし、憤りを隠しもしなかった。



 東三河より更に遠く離れた駿河では、新農具による混乱は起きなかった。

 が、先述の如く、氏真は家康の振る舞いに怒り心頭。

 また、義元の死と、この氏真の東三河への無策が原因で、氏真は美濃の龍興と同じく、国人からの求心力を減じさせていった。




 永禄五年――稲葉山城


「殿! 一大事です!」


 廊下を歩く龍興の背に、悲鳴のような声が掛かる。

 龍興は億劫そうに振り返った。血相を変えた臣下の姿に鼻を鳴らす。

 まだ十代の若い顔立ちは、神経質そうに歪められた。


「何じゃ、騒々しい」

「て、敵襲です!」

「何? また性懲りもなく織田が国境に侵攻したか! 全く忌々しい! ……それで? ふん、どうせ使えぬ連中は、織田に押されておるのだろう?」

「ち、違います! 殿、違うのです!」


 おや、と龍興は眉を持ち上げる。


「何じゃ、まさか織田を押し返しておるのか?」

「違いまする! そうではなく……!」

「ええい! 訳が分からん! 落ち着いて話せ!」


 そう言って、龍興は苛立ち紛れに手に持つ扇子で、目の前の動転した男の頭を叩いてみせる。

 その痛みで、少しは我に帰ったのか、男はようやっと意味の通る言葉を吐く。


「違いまする! 敵襲は国境ではなく、この稲葉山城に!」

「はっ……」


 予想だにしない言葉に、龍興はポカンと間抜け面を晒す。

 が、次の瞬間に顔を真っ赤に染めた。


「馬鹿を申すな! 一体どうやってこの城を襲撃するというのか!」

「わ、分かりませぬ。されど、確かに敵襲が……!」

「まだ言うか! この……」


 怒鳴り散らそうとした龍興であったが、遠くから聞こえてくる喧騒に気付く。

 暫く訝しげに耳をそばたてたが、その意味を悟ると、真っ赤な顔から一瞬で血の気の引いた真っ青な顔立ちになる。震える声を漏らした。


「に、逃げるぞ。早うせい! 早うせい!」



 史実よりも二年も早い稲葉山城乗っ取り事件であった。

 史実通り、安藤、竹中は後に稲葉山城を返還するが、龍興の信望は完全に失墜することとなる。




 同年――駿府城


 氏真は、平伏する目の前の商人の頭を見詰める。


「面を上げよ」

「はっ」


 顔を上げたのは駿河一の御用商人、友野宗善である。

 その宗善の顔を見ながら氏真は話し出す。


「昨今の新農具の混乱……出元である尾張、西三河では混乱が起こらぬ。ばかりか、上手く立ち回り、新たな商売を始めるようじゃ」

「新たな商売?」

「うむ。乱破の報告によると、綿織物じゃ」

「綿織物……」


 宗善が呟くように繰り返す。氏真は一つ頷いた。


「うむ。お主にとっても、他人事ではなかろう?」

「はっ。確かに……。して、手前に何をせよと仰せで?」


 氏真は脇息に肘を置くと、ポツリポツリと語り出す。


「松平蔵人、彼奴には、煮え湯を飲まされ続けておる。そろそろ彼奴の鼻を明かしてやりたいもの。この新たな商売を潰したい。……始めたばかりの商売など、生まれたての赤ん坊のようなもの。お主なら、赤子の手を捻るも容易いのではないか?」

「はっ! もとより商売敵の台頭を見逃せるわけもなく。全力で潰しに行きましょう!」


 宗善の返事に、氏真は満足気に頷く。


「期待しておるぞ」

「はっ!」


 宗善は深々と平伏して見せた。




 同年――尾張有松


 催し物をするに適した、よく晴れた日になった。


 俺は目の前の熱気を見詰める。

 野外に設けられた大きな舞台。その周囲を、貴賎を問わず詰めかけた群衆が取り巻いている。


 貴賓席には、信長始め、織田家中の重臣たち。信長に招待された尾張国外の賓客の姿もある。その中の一人は、家康であった。

 貴賓席以外には、それこそ下々の民草たちまでが詰めかけてきている。


 俺は貴賓席の近くで、立ち見をしながら舞台の様子を眺める。

 急くような気持ちで、開催の時を待っていた。


 それは、この場に詰めかけている他の者たちも同じで、貴賎の別なくその時が来るのを落ち着かなげに待っている。

 そして、一等落ち着きのない奴が、俺の傍に立っていた。


「まだかのう。まだかのう。のう、源さ、まだ始まらんか?」

「少しは落ち着いて下さい。藤吉様」

「またまた! お前さんも内心では同じ気持ちじゃろ? 分かっとる。分かっとる」


 バシバシと、人様の背中を叩いてくる秀吉。

 本気でウザいんだけど、この禿げ鼠。


 禿げ鼠野郎は、昨今の調略活動の為に舐められぬようにと、いかにも百姓上がりくさい名前と、言葉遣いを改めた。

 もっとも、言葉遣いを改めても、そのウザさは健在なのだが。


 ってかお前、調略に人の銭を使い過ぎなんだよ。

 本当に借りた恩を返すのだろうな? 貸しがすごい勢いで積み上がっているぞ。

 心配だ。こいつ、平気で借金を踏み倒しそうだしなあ。


 一言文句を言ってやろうと口を開いた瞬間、場内の声が高まる。

 群衆の視線は一点に集中していた。


 俺もそちらに視線を向ける。


 舞台へと続く花道を、一人の少女がゆっくり歩いている。

 両手で持つ朱傘と、身に纏う藍色の着物のコントラストが良く映える。


 体型、立ち振る舞い、醸し出す気品。

 それらから、その少女が美少女に違いあるまい、と想像を掻き立てられるが、肝心の容貌は傘のせいで見えにくい。


 たっぷりと時間を掛けて舞台に上がった少女。

 彼女は朱傘を畳みながら下ろすと、ついにその顔を衆目にさらす。


 そう、花のように麗しいかんばせを。


 目鼻口、どれ一つとっても瑕疵の無い完璧な美しさ。また、それらが絶妙な塩梅で顔に配されている。

 透き通るような白い肌は、思わず触れてみたい劣情に駆られる。その白と、夜の闇を溶かし込んだ様な髪色、その対比もまた素晴らしい。


 誰あろう、その美姫こそが、尾張随一の姫。市姫その人であった。


 美しくなった。そう思う。

 初めて見た時も美しかったが。更に磨きがかかったと言えよう。

 初見の時の幼さは鳴りを潜め、代わりに妖艶さを纏い始めている。


 市姫は、舞台の周囲を囲む観衆に、己が身に纏う着物が良く見えるようにと、その場で優雅に一回転する。

 蝶を模した図柄の入った袖が、ふわりと舞った。


 おお、と誰ともなく声を上げる。


 市姫は声を上げた観衆に、艶やかな笑みと流し目をくれると、朱傘を開いて舞台から降りていく。

 そうして、元来た花道を帰っていった。


 誰しもがまだ物足りないと、惜しむようにその背を見送る。


 ああ、大成功だ。俺は確信する。

 今日、ここに来た人々の目に、美姫とその身に纏う着物の鮮やかさが焼き付いたことだろう。

 俺は思わずほくそ笑む。すると、どこからか視線を感じた。


 周囲に目を走らせる。労せず、こちらを睨む男を貴賓席に見つけた。

 ガタイの良い男だ。歴戦の武士、その風格を漂わせている。あの男は……。


「いやあ、美しかった。流石は市姫様じゃ! うん、どうした源さ?」

「……藤吉様、あちらの御仁をご存知ですか?」

「うん? …………にゃ!?」


 秀吉が奇声を上げるや、思いっきり嫌そうな顔をする。


「御存じですよね?」

「そりゃ、当然知っとる。……柴田様じゃ」

「なるほど。あの方が……」


 そうか。お前が柴田か。

 気に入らないのか? 女を見せ物にして、銭を稼ごうという魂胆が。


 ああ、気に入らないのだろう。

 正に武闘派という言葉が似合いそうな男だものな。

 単純に槍を、刀を、弓矢を使った戦いしか認め難いのだろう。


 ああ、いいとも。嫌うなら嫌え。

 俺も大いにお前を嫌ってやるからな。気にするな。


 俺は挑戦的に、こちらを睨むその目を睨み返してやった。




 永禄五年のことである。

 信長公主催にて、有松で舞蘭度の初お目見えとなる舞台が設けられた。

 舞蘭度『新有松織』を身に纏いたるは信長公の妹君、市姫様であらせられた。

 その容貌の美しさ、新有松織の見事さは筆舌に尽くし難く、上下の区別なく誰もが感嘆の声を上げた。

 舞台の盛況ぶりに、信長公ご機嫌斜めならず。

 これより後、新有松織は飛ぶように売れ行くこととなったのである。


 ――『信長公記』

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