こんなの、俺の知ってる狸さんじゃない!

 旅装を身に纏い、浅田屋の暖簾をくぐって店頭へと出る。

 空を仰いだ。旅立ちには幸先のいい、晴れ渡った空模様である。掌で庇を作り、眩しげにお天道様を見上げた。


 俺は視線を下ろすと振り返り、見送りに出てきた者たちを見る。

 先頭は妻である於藤だ。


「旦那様……」


 そう呼ばわると於藤は、俺の頭上でカチカチと火打石を打ち合わせる。


「旦那様、どうかお気をつけて。藤は、旦那様の無事のお帰りをお待ちしております」

「ああ。暫く家を空ける。家中のことは任せたよ」

「はい」

「うん。……彦次郎」

「へい」

「店のことはお前に任せた。俺が帰ってきたら店が傾いていた。そんなことがねえようにしろ」

「お任せください」


 俺は一つ頷く。


「では、行ってくる」

「「いってらっしゃいませ」」


 俺は身を翻すと、大通りを歩き出した。



****



 ってなわけで、やってきたぜ、三河! ……ではなく、いつもの清洲城。

 三河には、織田家の交渉役一行と同行して行くことになっていた。


 得体もしれぬ商人が一人ふらりと現れても、家康が会ってくれるわけもなく。

 彼らと同行するのは当然のことではあったけれど……。

 しかし、正直な気持ちとしては、一人旅の方が気が楽で嬉しいのだが。

 織田家中のお侍さんたちの中に、商人一人混じるのは億劫で仕方ない。


 はあ、岡崎城の城下町で、現地集合とはいかないのかねえ。

 あちらさんだって、商人風情と仲良し小好しの三河行なんて、勘弁したいに決まっているのだから。


 まあ、愚痴を零しても仕方ない。今後の付き合いもあることだしな。

 コネ作りの良い機会だと割り切って、溶け込めるよう努めるか。


 なれば気になるのは、この交渉の責任者だ。


 今回の交渉、最終的な交渉に入る手前の、事前交渉となる。

 最後は家康自ら清洲城に出向いてもらい、そこで信長とのトップ会談を、というのが織田側の筋書きであるらしい。


 最後にトップ同士話して決めるなら、その前に何をするのか?

 そう、疑問に思う者もいるかもしれない。

 が、実際には、トップ会談の方は交渉事でも何でもなかった。それは、儀礼的な意味合いが強い。


 現代でも、先進国首脳が集まるサミットが開催されているが。

 あそこでも、サミット本番で何かを決めてなんかいない。

 実際には、サミット前に、各国の外交官同士で話を詰め、ある程度の結論を出してしまっているのだ。


 そんなこと、よく考えてみれば分かることだ。

 トップ同士のガチ交渉なんかして、超険悪な事態に発展したらどうする? まともに話がまとまらず、物別れになってしまったら?

 そんなもの、対外的なイメージが悪過ぎるだろう。


 交渉決裂! ○○と××の中は険悪に! そんな風評が立ってしまったら、目も当てられない。


 だから事前交渉とはいっても、これが本番みたいなものだ。

 しかも、あちらは家康自身が出てくるとのこと。

 重要も、重要。まさしく清洲同盟締結の山場と言えよう。


 なれば、その交渉を任される人物とは何者か? 誰かは知らないが、そこらのボンクラが任されたわけもない。

 つまり織田家中でも、それなりの人物が出てくる筈である。だからこそ、コネ作りの重要な機会でもあったのだ。


 さて、誰が出て来るのやら? 何故知らないのかというと、信長から届いた文には、日取りしか記されていなかったのである。

 何という端的な伝達であろうか。あの男ほど、報連相がなってない上司も中々いまい。


 気遣いが足りないんだよなあ、と心中で愚痴を零している内に大手門が見えてくる。

 そこには既に、何人かの男たちが集まっていた。

 恰好を見るに、揃いも揃って旅装だ。――あれが例の交渉団か?


 ……拙いな、集合に遅れるのは頂けない。

 例え知らされていた刻限より早く着いたとしても、だ。


 何せ、信長に目を掛けられているとはいえ、所詮は商人。それが俺の立場だからな。


 小走りで一団に近づいていく。次第に、はっきりとその一団の様子が窺えるようになる。

 俺はほっと胸を撫で下ろした。それは集まっている者たちが、まだ若輩の者ばかりだったからだ。


 恐らく彼らは、交渉役を任されたお偉方の御付の者たちだろう。

 どうやら、お偉方はまだ来ていないと見える。少なくとも、重要人物を待たせることは避けられたようだ。


 小走りで近づく俺に、一番近くにいる男が視線を向けてくる。

 俺はその男の手前で立ち止まると、軽く頭を下げた。


「おはようございます。お尋ねしますが、皆様は、三河に向かう御一行様でしょうか?」

「そうだが……。お前は何者だ?」

「手前、熱田商人、浅田屋の大山源吉と申します」

「ああ、お前が……」


 そう言って、その男は、胡散臭げに俺の頭から爪先まで見やる。


「……そこらで待っていろ。じき、村井様方も来られよう」

「承知しました」


 ……村井様方。と、言うからには、トップはその村井某か。


 織田の家臣で、村井と言えば……。もしかしなくても、あの村井貞勝のことか?

 おいおい、信長の側近中の側近じゃないか。


 村井貞勝といえば、後に京都所司代として、信長の下で行政の一切を取り仕切った敏腕行政屋だ。

 かのルイス・フロイスは、村井貞勝のことを京都の総督と記したほどである。


 そんな人物が、同盟の事前交渉を詰めるのか……。信長の本気具合が分かろうというものだ。


 しかし、村井貞勝か……。貞勝なら、如才なく俺の描いた青写真を語って見せそうだが……。

 己が本当に必要なのか? そんなことも思わなくはない。


 いや、ブランド事業は俺が発案し信長に任された仕事だ。責任を持ってやり遂げたいし、もしも貞勝では説明しきれない所があれば、補佐せねばなるまい。


 それに貞勝は、本来の軍事同盟の交渉に注力する必要があろう。

 片手間に、俺のブランド化計画までプレゼンする余裕はないかもしれないし。

 仮にあったとしても、そんな片手間仕事なら、敏腕行政屋とはいえ、やはり任せるわけにはいかないだろう。


 やはり俺が……っと!


 大手門で待っていた若者たちが一斉に頭を下げる。待ち人来たれり、か。

 俺も彼らに倣って頭を下げる。


「出立の準備は終わったか?」

「はっ! 万事抜かりありません、村井様!」


 聞かれた若者が、少々大き過ぎる声で返事する。


 俺はゆっくり顔を上げた。そして、新たに加わった数名の内、村井様と呼ばれた男を見る。


 年の頃、四十辺りか?

 そこにいるだけで、こちらの背筋が伸びるような厳格さを覚える。怜悧な瞳からは、確かな知性と、まさに切れ者という印象を受けた。


 不意にその瞳と視線が合わさる。村井某が、こちらに歩み寄ってくる。


「お主が、大山とかいう商人か?」

「はっ。浅田屋、大山源吉と申します」

「ふむ……。村井貞勝だ。此度の事前交渉は私が取り仕切ることとなった」

「はい」

「が、舞蘭度といったか。それは私の与り知らぬ所。故に、お主に一任する」

「はっ。必ずや、ご期待に応えましょう」


 貞勝がピクリと眉を動かす。


「期待? ふん、私は舞蘭度とやらの交渉が失敗しようが一向に構わぬ。故に、私がお主に望むことは一つだけだ。……私の足だけは引っ張るな。よいな?」

「……はい」


 おいおい、いきなりご挨拶じゃないか。ふと、藤吉郎の言葉が蘇る。

 

 ――『腹の内では、おみゃあのことを見下しとる。商人風情がってな』


 なるほど……な。

 まさか、貞勝ほどの男が、俺に嫉妬したり、足を掬おうなんて考える程、落ちぶれちゃいないだろうが……。

 むしろ眼中にない。そういうことだろう。


 お前のやることに関わらないから、勝手にやってろ。フォローを期待するな。そして足を引っ張るな。

 つまりは、そういうわけだ。


 いいだろう。お前の力を借りようなんて、そんなことは言わない。

 俺一人の力で、必ずや家康を説得してみせよう。


 俺のような商人風情なぞ、眼中にないというのなら。

 無理矢理にでも、俺の活躍をお前の視界に捻じ込んでやる!


 そう、心中で気炎を吐いた。



****



 というわけで、今度こそ三河! しかも、岡崎城の一室だ。


 まあ、三河なんて、お隣さんだからな。

 東海道を東に抜けて、境川を越えたら、もう三河だ。さしたる苦労もない。

 いつかの畿内への旅の方が、ずっと苦労させられたものだ。


 さて、今この部屋には、織田側の人間は貞勝と、俺、他数人。松平側は、名は知らぬ松平の家臣が何人か控えている。両者の仲介役は、水野信元。


 水野信元は、家康の叔父。そして、家康よりも先に今川を見限り、織田と同盟を結んだ男であった。

 此度の、織田、松平の仲介役に打ってつけの人物である。


 ほどなくして、部屋に居並ぶ面々が一斉に平伏する。

 そう。誰あろう、家康――松平蔵人佐元康の登場である。


 頭を下げて待つこと暫し、俺たちの頭上に声が降りる。


「面を上げよ」

「「はっ」」


 許しを得て、俺たちは顔を上げる。

 果たしてその視線の先にいたのは――細マッチョであった。


 は? 俺は二度三度瞬きする。しかし、やはり上座に座るのは細マッチョだ。


「遠路はるばるご苦労であった。今日は、両家の未来のため、胸襟を開き忌憚なく語り合おう」


 細マッチョはそんなことを言う。


「はっ。拙者、村井貞勝と申します。蔵人佐様にお目にかかれ恐悦至極。では、早速お言葉に甘えさせて頂き、我が殿の想いを代弁したく思いますが。宜しいでしょうか?」

「よい。申せ」


 うん。貞勝が蔵人佐様と呼んで、それに答える細マッチョ。つまりこれは……。


 ッ! こんなの、俺の知ってる狸さんじゃない!


 俺は心中で、そんな叫び声を上げたのだった。

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