於藤(前)

 朝、目が覚めると、お布団の上でむくりと身体を起こす。

 暫くぼーっと、意味もなく正面を見詰め続ける。

 頭がまだ半分寝ている。この夢現のような感覚は、存外嫌いではない。


 覚醒するにつれ、込み上げてくるものを抑えられず、ふああーと、欠伸を漏らす。

 口元に当てた手は、せめてもの乙女らしさだ。


 あらら、誰も見ていないとはいえ、はしたない。

 まったく、私には、嫁入り前の娘としての自覚が足りぬようだわ。


 のほほんと、まだ少し微睡を残した頭の中から、そんな言葉が自然と浮き上がる。

 直後、はっと、顔を強張らせた。眠気が一気に吹き飛ぶ。


 ――嫁入り前、その文言は、ここ最近の気鬱の原因そのものであったので。

 

 ふと、脳裏に過るのは、昨年の夏に見た殿方の後ろ姿。

 振り返った彼と、遠目ながら確かに合わさった視線。


 遠目であるから判然とはしなかった。しかし、なんとなくではあるけれど、振り返った殿方に驚いた様子が見受けられたのだ。


 そこまで思い返すと、苦い気持ちが湧いてくる。


 頭を振るうと、すっと立ち上がる。

 腰元の紐を解くと、ぱさりと寝間着を布団の上に脱ぎ落す。そのまま手早く寝間着を折り畳んでいった。


 それを終えると、衣装箪笥から新しい襦袢を取り出して、すすすっと身に纏う。しゅるしゅる、きゅっと紐を結んだ。

 次いで取り出したのは、紅緋色の色無地の長着、そして染め帯である。


 かしこまった着物ではない。

 気軽に、身軽に、外を歩ける様にと選んだ着物であった。

 そう、今日は久々に、津島の街並みを散策する予定だったので。


 もっとも、その予定は私の中にだけあるものであったが。

 家人には内緒でのお忍び。そう、建前は。


 昔から何度も繰り返されてきた、私の津島での散策。

 始めは猛然と反対していた父上も、最早呆れ返ってしまい、黙認するようになって久しい。


 そうは言っても、父上が公認したわけではない。

 だからこそ、建前上は秘密の散策であった。いわゆる公然の秘密というものね。


 私は着付けを終えると、伸ばした黒髪に櫛を通す。


 他家のお嬢さんだと、この髪の手入れも、着付けも、世話係の女に手伝わせる者も多いそうだけど、私は全て自分一人でやる。


 他人に自分の髪を弄らせるのが好きになれなかったし、それに、着付けの手伝いなど、自分がうんと小さな娘になったような気がしてしまうのだ。


 髪を高い位置で結わえる。これも、外行きの為。身嗜みを整えると、確認のために金属鏡に手を伸ばす。

 蓋を外すと、その鏡面に自身の髪を映す。


 うんうん、問題ないわね。


 私は一つ頷くと、軽く化粧を施していく。


 そうして出来栄えを、今一度確認する。問題はない。問題は……。

 それまで敢えて目に留めないよう努めていたのに、ふと、鏡面に映る自身の目と視線が重ってしまう。

 じっと睨み合うこと暫し。

 むっとした私は、パタンと蓋を閉めてやった。


 立ち上がり障子を開けると、気持ち良く晴れた青空が私を出迎える。

 すっと、私室の外に足を踏み出す。


 渡り廊下を歩いていると、朝のあれこれの仕事の為に歩き回っている家人たちと、時折擦れ違う。

 彼、ないし、彼女たちは、私の格好に一瞬片眉を上げるも、何も言わぬまま、見て見ぬ振りをして通り過ぎていく。


 なんとも、できた家人たちだわ。


 私は内心でそのように思う。

 そう、家人たちもまた、公然の秘密に気付かない振りをするのが、この屋敷の暗黙の掟であったので。


 私は居間へと到着すると、自分の指定席に座る。

 暫く待っていると、母上、次いで、父上が居間に顔を出す。


 母上、くらの方は、絶世の美女との誉れ高い織田のお姫様と、姉妹の間柄なだけあって、大層麗しい顔立ちをしておられる。


 その母上が、優美な顔をこちらに向ける。

 すると、怜悧な細い目が、娘の悪戯を見つけた時特有の愉しげな色を帯びる。

 私はその母上の目を、羨ましげに見詰め返した。


「おはよう、於藤おふじ

「おはようございます、母上」


 次いで私は、家長である父上に丁寧に体を向け直すと、挨拶をする。


「おはようございます、父上」

「……ああ、おはよう」


 父上のぎょろりとした目は、咎めるように私の髪や服を見やる。

 

 ――大橋の当主は、大層眼力がお強い。

 そう評される父上の視線は、人に威厳と共に恐れも与えるものであったが、見慣れた私にとっては、痛痒を感じさせるものではない。

 私は澄ました顔で、その視線を受け流した。


 父上はそれきり、文句を漏らさず上座に座る。

 すると、家人たちが、食膳を運んでくる。

 

 私たちは、しばらく無言で朝食に箸を伸ばす。


「……於藤」


 沈黙を破ったのは、味噌汁のお椀を手に取った父上であった。

 私はその呼び掛けに返事をすべく、口を開く。


「はい、父上」

「今日は一日どう過ごす予定だね?」


 父上が味噌汁を啜りながら、嫌味ったらしくそのように問いかけてくる。


「今日は私室で一日、書写をする予定ですわ」

「……そうか」


 私がしれっと言い返すと、父上は顔を顰めるも、それきり押し黙る。


 ふんだ。そんな嫌味も、数年も繰り返せば、慣れっこというものよ。

 私は澄ました表情のまま、内心で舌を出して見せる。


 そんな様子を黙して聞いていた母上が、今度は口を開く。


「於藤」

「はい。何でしょうか、母上?」

「くれぐれも気を付けてね?」

「はい? 書写の何に気を付けよと?」

「ふふふ。ほら、墨が着物に飛んでしまうかもしれないでしょう?」

「……そうですね。気を付けるようにします」


 私は素直に頷く。

 残った食事を、はしたなくない程度に急ぎお腹の中に収めていった。



 朝食後、一旦私室に戻ると、文机の上に置いておいた合切袋を手に取る。

 その中に、こまごまとした小物を入れていく。

 準備も手慣れたもので、必要となるであろうものを、手早く入れ終えてしまう。


 よし、これで出立の準備が整ったと、障子を開けるや首だけ外に出す。

 ひょい、ひょいっと、左右を見る。


 ……家人の姿はなし。ほうほう。


 本当にできた家人たちだわ。

 決定的な瞬間だけは目撃しないようにと、朝食後直ぐの時間には、姿を現さないようにしているのだ。


 私は一応、忍び足で渡り廊下を行く。一応、一応ね。

 

 一歩一歩、歩く度に気分が高揚してくる。


 そうして歩を進めると、ついに屋敷の門まで到達した。

 ちらりと背後を確認。……うん、誰もいない。


「ふふーん、それでは、街に繰り出しましょう」


 私は意気揚々と門を潜る。

 

 そして、女人としては、少しはしたないぐらい急ぎ足で、大橋家の屋敷から遠ざかっていった。




 俗に、津島商人たちが言うところの、『ぎょろ目於藤様の津島巡り』が、久方ぶりに開幕と相成ったのであった。

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