史実との決別

 会談を終えると、俺は再び大橋家の家人に先導されながら屋敷内を歩く。

 その帰りの道すがら、頭の中を占めるのは、これからの動きであった。


 ――楽市楽座、それまで特権を持っていた、座・問丸・株仲間を排除して、新興商業者の育成と、都市経済の活性化を図った施策。


 同時に、これまでの「市、座」から、朝延・大名・国人領主・寺社領等々、複数の権力者が中間搾取していた状態を、大名のみが搾取する形とした。

 これにより、比較的、市場が健全化すると共に、大名の市場に対する影響力を拡大、絶大的な領主権を確立するに至った。


 なるほど、市場の規制緩和と健全化、大変結構な施策だ。

 が、これは完全な自由市場を意味しない。


 何故なら、大名は依然市場への影響力を保持、いや、むしろ増大させたのだから。

 この施策の裏には、市場を統制しようという大名の意図がある。


 そして、大名が市場への影響力を強めるにつれ、ある特定の商人もまた、その力を増大させることとなった。

 その商人とは、大名と結びつきの強い御用商人たちである。

 彼ら御用商人は、楽市楽座以降も、厳然とした権益を握り続けたのだ。


 清濁併せ呑む、光と影がある施策、楽市楽座。

 しかし、俺たちの目的の為に、この影こそが重要であった。


 俺たちの目的は、商人たちに矢銭を課すこと。

 では、この楽市楽座で如何にして説得するのか?


 それは、矢銭徴課に応じた一部の商人たちに、楽市楽座後の市場においても、その権益を約束することに他ならない。


 そう、矢銭徴課に応じれば、その後の楽市楽座が敷かれた市場内でも、織田の御用商人として権益を握り続けられると、メリットを提示するのだ。


 さてさて、そうは言っても、誰でも彼でも、銭を出せば御用商人化させるというわけにもいかない。


 例えば、熱田一の織物屋と、熱田二番手の織物屋、これを同時に御用商人化しても、何が何やらだ。

 ライバルに差をつけるための権益だ。ライバルも有していては意味が無い。


 熱田、津島の大商人たち、彼らの中から味方に引き入れる者。そうでない者。これを早急に選別しなくてはならないわけだ。

 その後に、味方に引き入れるべき大商人を説得して回る。


 理屈で言えば、俺たちの要請を受けた商人が、これを断る理由はない。

 そう、その筈だ。


 ただ、余りに突飛な施策なだけに、彼らの理解を得るのも一苦労だろう。


 そうでなくても、良きにしろ悪しきにしろ、人は本能的に変化を嫌うもの。

 大商人たちの変化に対する警戒心、これを和らげるには、一朝一夕ではいかないかもしれない。


 まあ、そこらへんは、俺たちの頑張り次第、か。

 熱田は俺が、津島は重長が、それぞれ説得して回る。……うん?


 考えを巡らせながら歩いていると、ふと、視線を感じた。

 俺は足を止めると、視線を感じた方に振り向く。

 果たしてそこには、建物の陰から顔を覗かせている娘がいた。


 ぱっちりとした大きな瞳。その瞳が印象的な娘。

 視線が合わさるや、娘は慌てたように顔を引っ込めてしまった。


 ……今の娘は?


「どうかされましたか、大山様?」


 先導する家人が、急に足を止めた俺に不思議そうに問い掛けてくる。


「ああ。いや……なんでもありません」


 俺はそう言って、再び歩みを進める。


 今の娘は誰だろうか? ひょっとすると……。


 一転、俺の頭の中は、先程の娘のことで一杯になる。

 俺は垣間見た、娘の顔を脳裏に浮かべながら帰途についた。



****



 それからの日々は、矢のように過ぎ去って行った。


 熱田の目ぼしい大店の旦那たちの元を、足を使って回る日々。

 膝突き合わせて、懇々と新たな枠組み、楽市楽座のことを説明する。


「何です、そのけったいな政策は!? 座・問丸がなくなる? なら、誰でも自由に商売が出来る。つまりは、私の仕事の領分を荒らせるってわけですかい!?」

「ですから、大黒屋さん! そうではないのです。良いですか、楽市楽座とは……」



 時に、楽市楽座が齎す、熱田の発展を熱く語り、美しい夢を見せてやる。


「現状はどうです! やれ、国人だ。寺だ。神社だと、わらわらと嘴を突っ込んで来ては、我々の儲けを摘まんでいく。ですが楽市楽座が成れば……! 想像してみて下さい。織田様を除けば、我々の儲けを掠め取る輩がいなくなるのです!」

「う、ううむ。それはそうじゃが……」



 時に、織田に協力した後に得られる権益で、ライバル商人を蹴落としてしまえと唆す。


「分かるでしょう、山城屋さん? 楽市楽座が敷かれた後の市場では、織田様のみが市場を統制しうるのです。その市場で、織田の御用商人を務めるという意味が」

「それは……」

「織田様の御用商人だけが、尾張では特権を保持するのです。なれば、御用商人とそうでない商人、そこにどれだけの差が生まれます? ……山城屋さんにとって、不倶戴天の敵である、天野屋を追い落とす好機なのですよ!」



 楽市楽座が持つ、光と影。その両側面から、大商人たちを説得していく。


 ある程度、大商人たちの了解を得れば、次は具体的に話を詰めていく。


 これは、商人だけでなく、織田家中の役人連中も巻き込んでの話し合いだ。

 当然ではある。領内に敷かれる新制度のことなのだから。


 だが、余り歓迎できるものでもない。


 同じ人種である商人だけなら、まだ話が早い。しかし、ここに役人が加われば、そうもいかない。

 話は紛糾し、暗礁に乗り上げかねない事態も、多々起った。


「何を言う、浅田屋! そのようなこと前例がないわ!」

「前例がないのは百も承知! ですが、新しい枠組みを作るには、それこそが必要なのです!」

「されど……!」

「織田様もそれを望まれているのですよ! そのことを含みおき願いたい!」



 それでも、辛抱強く打合せを重ねていく。

 夏が終わり、秋が過ぎ、冬が訪れる。長い、長い、新制度作りの日々。


 無論、その間に、信長もじっと待っているばかりではない。


 来る大攻勢に備えて、足掛かりを築くべく、国境くにざかいに頻繁に進出。

 国境沿いの小城を攻め取っていく。


 桶狭間の勝勢そのままに、勢いづいた織田の攻勢すさまじく。

 それら小競り合いは、おおむね織田側優勢となった。


 やれ、かかれ柴田が活躍しただの、米五郎左が活躍しただの、という話が頻繁に舞い込んでくる。


 そして、そんな主だった諸将にまぎれて、稀に漏れ聞こえてくる名前があった。


 曰く、木下某とかいう男、目覚ましい戦功こそないものの。誰もが嫌がる仕事を率先して引き受け、各地を駆けずり回っておる。

 音を上げず、慌ただしい働きに耐えうるその様、まさに木綿の如し、と。


 ふん、猿木藤も頑張っていると見える。

 銭振りかざして、部下に発破をかけている様が目に浮かぶようだ。


 俺も負けちゃいられねえな。


 そんな藤吉郎の活躍にも励まされながら、あーだ、こーだと、纏まらない話を纏めていく。そして――



 桜の花が咲き誇る季節。俺たちは、清洲城の大広間に座していた。


 上座には、この城の主である信長が座する。

 下座には、今回の働きかけを主導した、俺と重長の二人が先頭に座す。

 その後ろには、熱田、津島に名高い大商人たちが居並ぶ。


 彼らは、俺たちの説得に応じ、矢銭を支払うことを飲んだ商人たちだ。

 そう、未来に約束された利益を欲して。


「各々、大儀である」

「「はっ!」」


 俺たち商人は、信長に対して、その頭を一斉に下げたのだった。




 永禄四年三月、信長は史実に無い大規模な矢銭徴課を、熱田・津島に課す。

 この瞬間、歴史の流れは本来のそれとの決別を告げたのである。


 そして、この流れを主導した大山、大橋両家の門出を祝すように、両家を結ぶ祝言の日が間近に迫っていた。

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