禿げ鼠とお姫様
遥々、畿内から尾張まで戻ってきた。
真夏の旅路は、相当堪えた。
唯でさえ痩せ……少し細身の体が、もう少しだけ細身になった。
そんな苦労をしたのに、真っ直ぐ熱田に戻って休むわけにもいかない。
まずは清洲城に登城し、信長に報告せねばなるまい。
俺はまず、城下町で旅の垢を落とし、旅装から正装に着替える。
謁見の為に身形を整え終わると、真っ直ぐに大手門へと続く道を進む。
門を潜って、城の内部へ。
暫く歩いていると、唐突に小煩い声が聞こえてきた。
「おみゃあ、そこのおみゃあ、待つんじゃ!」
声のした方を振り向く。
声の主と思われる男が、真っ直ぐ俺の元へと駆け寄ってくる。
どうやら、呼び止められたのは俺であったらしい。
足を止めて、男が近づくのを待った。
「やっぱり、そうだ。おみゃあ、最近、殿が気に掛けておられる商人だぎゃ。確か、浅田屋とかいう」
「左様ですが……」
頷きながら男を観察する。
おそらく年の頃は、二十過ぎ、二十半ばには至ってはいまい。
俺より二、三歳年上といったところか。
小柄な体に、貧相な顔立ち、何とも小者臭のする風態。
だが、俺は警戒心を強める。
その瞳だ。その瞳に理知的な光が見え隠れする。この男は……。
「貴方は……」
「ほほー、面白い組み合わせじゃの!」
俺の問い掛けは、新たに上がった甲高い声に遮られる。
今度は誰だと、声の主を振り返る。そして思わず絶句した。
先に声を掛けてきた男よりも、ずっと身長が低い。
当然だ。声の主は女人、いや娘子であったから。
大層豪奢な着物を身に纏う。
だが、その着物すら、その主の華やかさの前に霞んでしまっている。
夜の闇を溶かしたような黒い長髪。
踏み荒らされていない新雪か、麗しい白磁のような、白い肌。
整った目鼻立ちに、白い小顔の中、唇に引いた紅が映える。
体躯は、硝子細工を思わせるように華奢だ。
年の頃は、十二、三歳辺りだろうか?
まだ幼さが色濃く残るが、数年も経てば、間違いなく絶世の美女と評されるであろう、美しい少女が立っていた。
後ろに控える女人は、付き人であろう。
「おみゃあ、頭を下げるんじゃ!」
はっと、正気付く。下を見れば、先程話し掛けてきた男が平伏していた。
俺も見苦しくない程度に急いで、男に倣い平伏する。
並んで平伏する俺たちの傍まで少女が歩み寄ったのが、足音から分かった。
「面を上げなさい」
「「はっ」」
俺たちは同時に顔を上げる。
見上げた俺の視線と、少女の視線が重なる。
「そなたが、兄上の仰っていた、うらなりですね。そうでしょう?」
「はっ。おそらくはそうでしょう。大山源吉と申します。……許されるなら、姫様の御名をお伺いしても?」
「そなた、わらわが誰か分からぬと申すか?」
少女がむっとした表情になる。
「お初にお目にかかる故。しかし、姫様がどなたであるか、想像はつきます」
「ほう。本当かの? では、わらわは誰じゃ?」
「身形から高貴な方と推測できます。更に姫様の御年齢と、何より、月花も霞む様な大層麗しい御容貌から、答えは明白……」
俺は一拍置いて、答えを告げる。
「織田家が誇る美姫、上総介様の妹君、市姫様とお見受けいたします」
そう口にすると、俺は市姫の顔を見上げる。
すると、どうしたわけか、市姫は頬を赤く染めてしまった。
「どうかされましたか?」
「そ、そなたが、歯の浮くような台詞を吐くからじゃ! それで、調子が狂うてしまったわ!」
俺は少しばかし小首を傾げてしまう。
「異なことを仰ります。市姫様ほどの御容貌なら、この程度の賛辞、聞き慣れておいででしょう?」
「馬鹿者! 質実剛健を地でいく武士は、そのような浮ついたことは口にせぬ!」
ははあ、なるほどと、俺は得心する。
「これは失礼を。何せ、我々商人は、武家様と違い、美しいと思えば、素直に美しいと口にする故」
「うなっ!」
市姫はますます頬を赤く染め、心なし潤んだ瞳を横に逸らしてしまう。
「い、市姫様! ひ、姫様が御容貌を褒めて欲しいのでしたら、せ、拙者も、何度でも褒めさせてもらいます!」
「黙りなさい! 禿げ鼠!」
「にゃ! も、申し訳ありません!」
市姫が男を叱責する。男は反射的に謝りながら、額を地に擦りつける。
何とも情けない姿だが……。
禿げ鼠? 禿げ鼠と、市姫は言ったのか?
俺のうらなりよろしく、信長は人にあだ名を付けるのが好きだったという。
信長が、家臣に付けたあだ名、その内のいくつかは現代にも伝わっていた。
禿げ鼠、禿げ鼠といえば……。
「市、うらなり、禿げ鼠。珍しい組み合わせ三人が、一体何をしておる?」
俺たちは、はっと、声のした方を見る。
俺と禿げ鼠と呼ばれた男、市姫の付き人が平伏を。市姫が立礼する。
更なる登場人物、それは信長であった。
「それに、うらなり、貴様帰っておったのか。ならば、畿内での報告を聞こう。貴様に話したいこともある」
「はっ」
短く答えると、信長はついてこいと言わんばかりに踵を返す。
俺がその後ろに続こうとした、その時――。
「わらわも、御一緒しますわ、兄上!」
信長は市姫に顔を向けると顔を顰める。
しかし、何も言わずに歩き出す。
好きにしろ、そういうことであろう。
あの信長も、可愛い妹には甘いと見える。
「で、では、拙者も御一緒したく……」
「貴様はそこにいろ! 禿げ鼠!」
「にゃ!」
男は再び、額を地面に擦りつける。ああ、本当に情けない姿だが……。
俺は歩きながら、先に行く信長に問い掛ける。
「上総介様、先程の殿方は……」
「なんじゃ、誰か知らずに話しておったのか?」
「はい。御名前をお聞きしても?」
「あの禿げ鼠の名は、木下藤吉郎だ。が、そんな名は覚えんでもよい。禿げ鼠は、禿げ鼠じゃ」
「そうじゃ、そうじゃ」
市姫が楽しげに相槌を打つ。
木下藤吉郎、やはり。では、あの男が……後の天下人、太閤秀吉。
俺は、今日一日に出会った、歴史上の人物の多さに、少し眩暈をするような心地を味わった。
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