月島女史は面妖と戯る

京谷アサキ

#弌  雑貨屋店主はコーヒーに沈む



■緒言



 事細かな事情を註釈ちゅうしゃくせずとも仙波万千男の容態とはまかり間違えば命を失うほどではあったが、神本東矢が“殺人事件”と大仰おおぎょうに伝えるほどの明らかな“人死ひとしに”に直結する類の危険なそれであったのかといえば、平常から物事をひどく誇張的に吹聴ふいちょうするきらいのある胡乱うろんな彼がそれを口にしているという時点でお察しだったし、現に仙波万千男は命に別状もなく、今は店舗内のカウンターの内側に突っ伏し、妻の絵里子に介抱されていた。

 仙波万千男は、古びた田舎の県道沿いに酒やたばこ、日用品等を扱う雑貨屋としての店舗兼自宅を構えており、しかしこのところは近隣に点在する昼夜を問わず煌々こうこうと明るい二十四時間営業のコンビニにみるみる客足を吸われて奇しくも退廃の一途を辿っていたのだった。それでなくても仙波万千男の風貌は、デフォルメされた七福神の一角を担う恵比寿様のように柔軟に横に伸びて長いにも関わらず、十八番である笑みの一切をそれに浮かべないというのは単に自助努力が欠けているのと、万千男の卑屈な人間性に端を発する栓の無い話なのだった。優に車両十台以上を格納するに足る十分な駐車スペースがある敷地にも関わらず、そんな人物が古めかしい雑貨屋で店番をしているところにどうして客が足を向けたがるだろう?

 ところで神本東矢が何故このように血相を変え、徒歩で十五分以上の移動時間を要する田舎の農道をわざわざ、しかも自分が所有するでもない、車名ブランドの響きが連想させるほど小さくはない丸みを帯びたフォルムのドイツ生まれのクーペを走らせたのかといえば、仙波万千男の経営する“仙波ショップ”という安直な名称の雑貨屋が彼の馴染みの店だからであり、人好きのしない万千男のことを神本は甚く気に入っていたのだった。そしてこの日も神本は何憚ることなく仙波万千男の店を利用しただけなのだったが、今日に限って椿事ちんじは起きた。

 要するに、仙波万千男が意識を暗転させて床に崩れ落ちる正にそのときを神本は目撃したのだし、何故か彼はこの事態を指してこのように云ったのだ。


「これは“殺人事件”です。だから事件を解決してもらうために、女流探偵、月島瑞恵つきしまみずえを頼ったというわけです」


 と、このように人死ひとしにも出ていない一件を土産に、自分がオーナーである筈の件のクーペを駆ってとんぼ返りを決め込んだのである。

 月島は言った。

「ねえ、神本。繰り返しになるけれど、そもそも店のご主人が救急搬送されるでもない案件をよくも“殺人事件”なんて、莫迦ばかみたいな言い回しで誇張して説明出来たものね、私としては事の真相を知るよりも先に、彼方がどれほどトチ狂った精神状態をしていれば眼前の物事をに他人に吹聴出来るのかという事の方が気になって夜しか眠れないわ。それと語弊ごへいが無いように是非とも補正して欲しいのだけれど、私はこれまでの人生でただの一度も自分のことを“探偵”だなんて考えたことはないし、その表現は職業探偵に対する明確な侮辱だわ。どうして私に限って特定の事件を解決出来ると思って頼ったの? 何ならまず警察呼べよ」

 神本東矢は悪怯わるびれなく、というよりも問題提起に際して指摘された事項を一切問題とは思っていないことがわかる口調で次のように言った。

「だって仙波さん、毎年欠かさず受診している市民検診では六十代でありながら異常のひとつも見つからないことを常連客の僕に対してまで自慢してくるほどなんですよ。もちろん検診結果もちゃんと書面で見せてくれましたし、どの数値も満遍なく正常であるとの結果が載っていました。ねえ絵里子さん」

 真っ白に淀んだアンチ恵比須顔をカウンター上に密接させたままの万千男に手を添えたまま、彼の妻である仙波絵里子は頷き、「健康だけが取り柄の良人ですもの。そう、健康だけがね」という風になかなかに嫌味がましく蛇足した。

 次いで、地獄で仏、物故者ぶっこしゃとはならなかった当該の万千男自らが首をもたげるようにして言及した。

「俺はこれまで病気なんて病気ひとつかかることなく過ごしてきたんだ、直近の検査でもまるで異常の見つからなかった俺が、病気の類で倒れるだと? 何かの間違いだ。バカな」

 神本は「ほらね」とでもいった絶妙な表情を用意して親指でくいっと万千男を指した。「じゃあ誰かに毒でも盛られたんですかね? って話になりまして」

(そこでお前も同調するんじゃないのよ神本さあ)

 どうして彼はそこで率直に病の類に係る線を推さなかったのだろう? 彼なりに仙波万千男の前後の動向に違和感を覚えたというのだろうか?

 仙波万千男が続けた。

「そうでもなけりゃ、無駄な時間と無駄な金を使って毎年足繁あししげく検診に通いに通ったことになる俺の行為はなんだ? 俺の健康は積み重ねた俺自身の歴史が証明している。データは嘘を吐かんだろう」

 月島は呆然とした面持ちで言った。

「とはいえご主人、そう易々と見つからないのが病気というものですし、こう云っては角が立つかもしれませんが、勿怪もっけの幸いという言葉もあります通り、早期に何某か初期症状が発見が出来たということはそれだけで僥倖ぎょうこう…」

「そんなことは知らん! 自分の身体のことは自分が一番よく分かっておる! 俺は誰かにかたられたんだ!」

 万千男は血走った小さな眼を月島に向けてがなり立てた。

 そして察するに、社会性にいて視野狭窄しやきょうさく直情径行ちょくじょうけいこうのきらいのある万千男は同じ緊急車両でも殊に警察車両の方を呼ぶことを声高に言い出しもしたのだろう。そして居合わせた神本が一応は彼をなだめて押し止めた。月島も、仙波ショップは神本の案内でよく利用していたが、残念ながら店主の万千男が向こうの未来でも腹を割って語らいたいと思えるような為人ひととなりをしていないということもあり、いつか神本にこの店とは別の利便りべんを求めて開拓をすることを薦める積りでいたのだった。

 そうと考えれば、まるで駄々をねるようにしている万千男を大人しくさせる為に神本をき付けたのは絵里子夫人かもしれないのだったが、月島は、我が従者ながら安い同情で被害者を顕正けんしょうした積りでいる万千男に寄り添わんとしている神本東矢の無能さの方を先に取り沙汰したい衝動に駆られるのだった。確かに神本は月島自身の身辺の世話を為す“家政夫”としてはそつなく業務を遂行するのだが、ひるがえって世情に対しては彼にしか通じ得ない尺度を以て接するのだし、直截ちょくせつに云えば必要以上にお節介が過ぎる一面が散見された。せめて神本が人並みとはいわないまでも、万千男のような偏屈者と同列と見做みなされる価値観を再吟味さいぎんみしてくれれば…

 すがるような、神本と絵里子の視線が月島を向いた。そして、相手が仮に婉曲的えんきょくてきな姿勢で依存しようとするにせよ、ここでそれらを突っねないあたり、自分もヒトとしての甘さが拭えないものだけれども、と月島は思った。

「あのねえマチさん、そうだとしても僕までここに残る必要はあるのかな? こんなことを言いたかないが、まだ事件と決まったのでもない事情にこれ以上僕が徒に首を突っ込むのもねえ。こんな風になっちゃ用事どころじゃないだろうし、僕も店に従業員残して出て来ているものだから、出来ればそろそろ戻りたいんだけどね」

「何だと! なら長西クンが俺を殺そうとしたと後から解釈違いに陥ったとしても異論は無いということだな!」

「そんな無体な! どうして僕がマチさんを殺そうとしなくちゃいけない!」

 しかしながら仙波万千男が周囲の恨みを買い易い天性の資質を備えている、という点について鑑みれば、こんな厄介な店主をどうにかして社会から除いてしまいたいという風に悪知恵をこしらえる者がひとりやふたり現れても不思議はなさそうだった。万千男が精神面に抱える瑕疵かしはまた病気とは異なる内面性の脆弱ぜいじゃくさに裏打ちされる要素か、あるいは現代では該当する疾病しっぺいの名称があるにもかかわらず万千男の理解がそれを拒んでいるかのどちらかである気がした。

「なあ、瑞恵ちゃん、頼むよ! これじゃおちおち仕事に戻れやしないよ!」

 何となれば、長西亨は月島の行きつけの純喫茶のマスターという身持ちなのであり、彼の経営する店舗が夕刻につれて客足が伸びている輓近ばんきんの繁盛ぶりを月島はよく知っていた。

「いや、あのねマスター、前段の神本の話もそうだけれど、それで私に処置を頼むというのは違わない?」

「今月いっぱい、瑞恵ちゃんに限って珈琲飲み放題にするからさあ」

 そして長西の提案を受けて返答を遅疑ちぎした自分の現金な一面を恥じた。小さな喫茶店として看板を上げつつも、長西の店は良質な欧米の店舗用焙煎機てんぽようばいせんきを店先にレイアウトしているばかりか、銀色に輝くイタリア製のセミオートのエスプレッソマシンまでカウンターテーブル上に完備している。それほど分野に注力している長西の店をいずれ界隈は“喫茶店”ではなく“珈琲専門店”と呼ぶだろう。長西は珈琲を淹れるまでのすべての過程、豆の品質や産地にとっての選美眼にかけても遜色そんしょくなくスペシャルだった。そんな彼の店の業務が遅滞ちたいを解消せんと試みることは、不要な万千男の意地を徹すことよりもよっぽど重要な使命であるように月島には思われた。

「マスターにそこまで是非にと頼み込まれたらなあ? やぶさかじゃあ、ないんだよなあ?」

 月島の頭の中はにわかに長西の淹れる上質な珈琲の印象で満たされた。

「チョロいですね。先生」

 神本がな口調で月島を煽った。

「あら、曲解しないでくれる、神本。貴方が偽善ぶって運んできた胡乱な偶因ぐういんを鵜呑みにして私の時間をいたずらに費やすことに気乗りがしていなかっただけのことよ。けれどこのままマスターが徒に本件に巻き込まれてしまうことはそのまま本来の業務に遅滞を及ぼすことと同義だもの。それはいけないわ、由々しき事態よ」

「長西マスターがこの場所に拘束され続けると、先生の日課でもある“夕食前珈琲”をたのしむ機会を逸することにもなりかねませんしね」

 て、神本と長西のさも月島をあがめるような眼差しを受け、何とも不可解な高揚感こうようかんあおられる心地を味わったのだったが、しかしこんなもの、要は仙波万千男が病という概念を軽視している背景を浮き彫りにし、彼を強引に納得させるように屁理屈へりくつを捏ねてくれ、と暗に周囲が満場一致で月島に訴えかけているようなものなのだ。要するに、万千男が店舗内で昏倒こんとうしかけたという事実は、彼が検診に足繁く通ったところで四百四病しひゃくしびょうをたちどころにぎ分けるには及ばないのだということを体感する機会として受容させれば宜しい。

 但し、それを説いて聞かせる相手が、あの仙波の頑固オヤジであるという点を注視するのなら、確かに神本の手に余って持ち帰っても来るわけだと月島は思った。



■登場人物


 ●月島瑞恵(つきしまみずえ)……………文芸家

 ●神本東矢(かなもととうや)……………月島瑞恵の家政夫/付人

 ●仙波万千男(せんばまちお)……………雑貨店店主

 ●仙波絵里子(せんばえりこ)……………仙波万千男の妻

 ●長西亨(ながにしとおる)………………純喫茶のマスター



■被害者:仙波万千男



「ご主人の、朝から今までお過ごしになったあらましを話してください」

 あくまで警察沙汰に移行させることなく、暫定的に仮想犯人を用意して仙波万千男の納得を取り付けるにせよ、彼がどうして昏倒しかけたのか、という原因に至るまでの過程をそれぞれに聴取し、得られた根拠を論理的に整理する必要があった。

 万千男は問うた。「何から何まで全部?」

経口摂取けいこうせっしゅした食品や飲料、あとは接触した人物がいる場合にはそれ。場所や時間について知りたいですね。どんな些細なことでも結構です。それと差し支えなければ、店舗の中や、場合によっては自宅の中を拝見させていただければありがたいのですが」

「構わん。本当にあんたがそんなことが出来るというのなら是非そうしてくれ。その為に協力出来るすべてのことを俺は惜しまずあんたに提供する。もちろん、何らかの成果があった際には謝礼も出す」

「いいえそれには及びません。このお店にはウチの神本がお世話になっていますので、その辺はボランティアと見ていただいて結構です」

 そう言って月島はちらと長西亨を流眄りゅうべんすると、奇しくも彼も月島を見、苦笑するように頬を弛緩しかんさせた。こんなもので下手に仙波からの信用を勝ち得ることになってしまっても困るだけだし、すくなくとも万千男の命を脅かす“仮想殺人者”など端から存在し得ず、すべては万千男と神本のような人間の被害妄想が齎した愚挙ぐきょであるのだということを間接的に証明すればいいのだ。成功報酬なら、拘束が解かれた長西がまたとない機会を奢ってくれるという風に進言してくれたのだし、下手に万千男に恩を着せる積りも毛頭ないのだった。


 仙波万千男の生活リズムを耳にすることなど月島瑞恵にはまったく興味を抱こうと努力を傾ける要素もなかったが、必然的に割り切って情報収集を進めなければならなかった。仮想犯人が実体を伴って想像上からするりと抜け出てくる可能性があるのなら輪郭を鮮明するものだし、仮にそんなものが想像上の産物で留まるにせよ、万千男を納得させるに足る屁理屈の材料となってくれるのだとすれば収集する情報はあり過ぎて困るということはないのだ。

「前日に夜遅くまで誰かに付き合ってもいない限り、俺は決まって六時に起き、整容をし、すぐに朝食を摂る。昔は和食だったが、最近は専ら洋食でね、軽く焼き戻したバゲットに薄くバターを塗る。それとサラダ。食後は決まってコーヒーを飲む。妻の淹れたドリップパックのインスタントだがね。これと決まった専用のカップなどはない。妻はいつも決まって客人用のカップとソーサーで出してくれる。…そうそう」

 そう言って仙波万千男は、カウンター上にぽつねんと置かれたカップとソーサーを指差した。紅茶やコーヒーにと使用するシーンを選ばない陶磁器に金のラインと青のゆうに基づく汎用的な品物。既にミルクなどが混じっているようで、しかし半分ほど飲まれてそのままになっていた。

「そこそこ値のする“茶器”だと妻が言っていた。俺にこだわりはないが、大抵このカップとソーサーが使われるな」

 念の為、月島はカップには手を伸べず、「一応、万一のために現場はこのまま保存しておいてくださいね。既に片付けてしまったものはありますか?」

「絵里子、どうだ」と、万千男が絵里子夫人に問うた。

「いいえ、それどころじゃなかったわ」

 実際に犯人と呼べる人物が存在し得ないものと半ば投げやりに思わずにはいられない状況であるとて、呈示する根拠としては正確なものを取り揃えておいた方が何かと楽だろう。

「話を戻していいか。それで俺はコーヒーを飲みながら新聞を読み、傍ら、そこでルーチン化した仕事以外の、その日一日の計画のすべてを予め立てるようにしている。それが済んだら七時半頃、決まって散歩に出る。もちろん事前に準備運動をしてからな。コースは決まっているが、季節で足を向ける場所は変えている。多少の悪天候の場合でも傘を差してでも出るようにしているな。歩き終えて家に戻る頃にはたいてい八時を過ぎているのでな、それから喉の渇きを癒すために飲み物を口にする。そこでしばらく休憩をしてから、開店準備に取り掛かる。店を開けるのは九時だ」

「散歩から戻って口にされた飲み物はなんですか」と月島は尋ねた。すると万千男は露骨に視線を月島から外して、だが説明した。

「エナジードリンクと呼ばれるヤツだ、“青い魔獣”が眼光を光らせているデザインの。ボトルキャップの附属したタイプの、500mlの缶だ」

 月島は黒の眼を丸くした。齢六十を過ぎた融通の利かない人物が若者に人気の清涼飲料水を口にするというのは正に意想外いそうがいだった。彼が暗に“飲み物”と濁すほどには年齢不相応なものを口にしているという自覚こそあるようだったが、可能性の範疇にとって無い話ではないのだ、嗜好品の類に関する事情を他の尺度とにしてしまうのは物事の本質から我知らず遠ざかることになる。

「何か言いたそうだな。意外だとでも?」

「そんなことはありませんよ」

 万千男ほどの年齢の男性が四方や都会の何処かに夜な夜な寄り集まって明け方まで盛会せいかいに興じて騒ぎ倒す若年層の人々が好むような飲料を口にするというのは不釣り合いであるとは思ったが、「私もよく仕事の合間に口にしますから。あまり甘味が過ぎるのは苦手なのですが、“白馬”の描かれたそれなど、甘みが薄くて私は好きです」

「“ホワイトホース”か! ああ、俺もあれは好きだぞ」

 その申告が万千男の気分を晴れやかなものにしたようだった。頻繁ひんぱんに口にするものではないが、商品の詳細を多少なりとも記憶していたことが思いがけず万千男の気を引いた。

「日頃の睡眠が不足しているのではないが、あれを口にすると眠気が飛ぶし、集中力が増すんだ。カフェインが多く入っているからな。開店前の掃除や品出しといった作業を集中してこなしたい時には重宝する」

 食後にだってコーヒーを飲んだのに?

「開店後は妻も店に出てくるから、俺は専ら店の品物の管理に努める。在庫の確認や発注におけるあらゆることだが、まあ、その辺は割愛しても構わんな?」

「ご主人の行動がざっと分かれば宜しいので、業務の中身にまで言及せずとも構いませんよ」

 もっとも仕事を為した際に発生した影響が他者にまで及ぶ何某なにがしかの事項があるというのであればその限りではないが、それは後から別個に申述しんじゅつしても貰えばよいだろう。

 万千男は続けた。

「ちょうど正午を過ぎた時点で、妻に店を預けて長西クンの店に行った。町内会で催す今年の夏祭りのことでな。例年のことだし、話す内容は勝手知ったるもので、午後二時前にはそれが終わった。その間、長西クンの店の新しい従業員が珈琲を出してくれた。美味いものだったよ。都合、ドリップコーヒーの、二杯を頂いた」


(あー…)


 その申告を万千男から受けた辺りで、月島はいよいよ彼がどのような原因を受け、彼が意識を失いかける破目に陥ったのかという背景に対し薄らと思い当たった。

「復路は長西クンに車で送ってもらった。ちょうど妻にも、彼に対して用向きがあったらしいからな、そのまま店の中に直接、長西クンを招き入れた。二時半を少し過ぎたくらいだったと思う。戻ってすぐに妻がコーヒーを出してくれ、少しだけそれを口にして、俺はまた品出しを始めた。長西クンの店でも散々珈琲をご馳走になったからな、口が潤いさえすればそれでよかったし、本職の味を堪能した後では短時間であれ舌が肥えてしまったというのもあってな。妻の淹れたコーヒーを飲んだ量は半分くらいだった。だが、その三十分と経った後のことだ、ちょうど神本クンが店にやってきて、二言三言会話を交えたあたりで、急に視界が灰色になって、それと手に痺れが走る感覚があった。ああ、これはまずいと思った」

 その後の万千男の容態について月島を迎えた車内で神本があらましを話してもくれ、そこから先は床に崩れた万千男に、居合わせた神本や長西が駆け寄り、が、完全に意識を喪失したのでもない万千男が寸でのところで踏み止まって再起し、また救急搬送の用意をしようとした神本の腕を万千男が掴んだという。もう少し様子をみたい。待ってくれ、と。

「重ねてになるが、前触れなく気を失うなんてことがあるとは思えなかったからな。何せ俺は健康体だからだ。それこそ検診でも異常の見つからないほどのな! だとすれば、前後で俺に飲食物を提供した誰かが俺をかたったに違いない!」

 結局その事実を再度思い返し、万千男は鼻息荒く、どしんと椅子に腰を下ろした。控えめに評言ひょうげんを加えるにしても下衆な物言いで、また粗忽そこつな言い掛かりでしかないと月島は内心で仙波万千男という人間性に対して落胆を禁じ得ないのだった。

(だけど、たとえば仙波万千男が、私が想像したところの経緯から意識を暗転しかけたというのなら、彼の申告した限りの条件では結果を確実に再現し得るだけの蓋然性がいぜんせいには十分に満たない気がする。逆説的に、本当に犯人と呼べるような存在が居ると仮定すれば、どうだろう…)

 月島の脳裏に並び、浮かんだ可能性を前提とするのなら、仙波万千男が昏倒するだけの要件が単に偶発性の高い、不運と目されるだけの事象じしょうともまた異なるように思われたのだった。


 この一件、もう少しだけ慎重に探ってみる必要があるかもしれない。


「これでいいのか、月島さんよ。これが今日の俺の行動のすべてだが」

「ありがとうございました」と月島は万千男に会釈し、「この後、今日、貴方に対して接触した幾人かの人たちにも事情を伺おうと思います」


 くして、月島瑞恵の探索が始まった。



■容疑者A:仙波絵里子



 このように話が進むとにわかに不憫な立ち位置に置かれることになったのは仙波万千男の妻である仙波絵里子であり、事もあろうに万千男は自身の妻が淹れたコーヒーの品質についてケチをつけようとしているのだし、またぞろ彼女の害意を以て万千男が命の危機に瀕したものと訝ったのだから、彼女には悲憤慷慨ひふんこうがいするだけの十分な事由であった。

 絵里子夫人は歳相応と限らず、疲れた表情をしており、扱けた頬や節榑立ふしくれだった手がいやに目につくほどにげっそりとしていた。瞳は小さく、細く、けれども仮にも接客業あることから余所行きの微笑だけは貼り付いているようだったが、それは単に彼女の皮相の話であった。そして案の定。

「こっちは好かれと思ってやっているのに、私がコーヒーに毒を盛ったとでも言いたい訳!?」

 突として激昂したように絵里子は声を荒げ、すると彼女は万千男が疑義ぎぎを正さんとした、店舗のカウンターの上に置かれていた、絵里子が万千男に提供したカップに残ったコーヒーの液体を一気にあおった。


「これで疑いは晴れたかしら!」


 絵里子の立証は見事に果たされ、万千男もこれには呆気に取られざるを得ないのだった。

「ああ。そう、だな。すまん」

 すくなくとも万千男が懸念するところの“毒物”の類が混入していない証左しょうさを詳らかにするには打ってつけの方策だろう。万千男は即座に意気阻喪いきそそうした様子で悄悄しょうしょうと声を潜めた。絵里子夫人が決して亭主関白の一辺倒いっぺんとうに甘んじることなく、して形勢を有利にも不利にも傾かせることなく夫婦関係を息長く存続させるに足る気概きがいのようなものを月島は見て取ったような気がした。

「絵里子さん、あの、お気持ちは重々承知しておりますが、現場の保存にご協力を」

 一瞬、ぎらりとしたヒステリックな眼差しを彼女は月島に向けたが、しかし直ぐに冷静さを取り戻したようだった。「ごめんなさい、つい。気を付けるわ」

 とはいえ、万千男の満足に足る探索をすることを長西から依頼されてもいる以上、単に万千男の証言のみを採ることは偏頗へんぱである。気乗りはしないが、絵里子夫人にも事情は訊ねるべきだろう。

「奥さま、私からはごくごく形式的な質問をさせていただきますね」

「ええ、構いませんわ」と、絵里子は相槌を打った。

「ご主人が今回のような症状となったのは、初めてですか」

 この質問に対して色濃い反応を見せたのは寧ろ万千男の方だった。「だから病気の類に縁がないと言ったろう! しかも何故それを俺に聞かない!」

「そういちいち怒らないでください、確認しておく事項は幾らかでも多い方がいいのです。では、双方の目から見ても今回のような症例は初めてだった、ということですね」

 仙波夫婦は揃って首肯した。

「ああ、それともう一つ聞き忘れていました。ご主人はご自宅でコーヒーを飲むとき、ミルクや砂糖は入れますか」

 先程のコーヒーにそれが混じっていたことを月島は判っていたが、提供される状況の点をかんがみて再度この質問を投げ掛けた。

「入れる。家で飲む場合には必ずだな」

「なら外では? マスター…いえ、長西さんのお店で提供された珈琲には?」

「長西クンの珈琲を飲むときには何も入れん。彼の淹れるのはスペシャル…なんちゃらという何かに法則染みたものを目指しているというからな、彼の心意気を汲んでいる」

「“スペシャルティコーヒー”。提供するカップの品質から、生産される豆の品質や背景、それから鼻孔びこうでる芳香ほうこうから先、舌触り、そしてフィニッシュに至るまでのストーリーを如何いかに体するかを問われる珈琲の極致きょくちを謳う要素です。マスターの珈琲はその領域を目指して砥礪しれいを重ねているのです」

 故に、仮にも珈琲の芸術性を追求せんとしている長西亨に向けてまで仙波万千男が根拠なくいぶかっているのだとしたら、それはもう月島にとっても盤石ばんじゃくに理論武装して仙波万千男を完膚無きまで叩きのめそうと試みるのも吝かではなかった。

 長西が照れたように言った。

「褒め過ぎだよ、瑞恵ちゃん、僕の珈琲は未だその域には達していないことを自覚しているんだ。勿論、これからもたゆまず技術に磨きをかける積りではいるよ。瑞恵ちゃんのようなお客様が僕の珈琲を好きだと言ってくれるからね」

「マスター…」

 思い掛けない言葉に月島の涙腺が俄かに解けそうになったが、「と、とにかくよ! この後マスターにもちゃんと聞き込みはするからね。心苦しいとは心の底から思っているのだけれど、こういうことは徹底的に公平にやらないと収まりがつかないから」

「ああ、それでいい、瑞恵ちゃん」



■容疑者B:長西亨



 公平性を遵守じゅんしゅするのなら疑わしき要素を徹底的に除き、残った事象のみをして残す必要がある訳なのだったが、しかしながら月島の想像した通りに仙波万千男が変調する事由を宛がうことが出来る可能性を長西亨は有している。これは事実なのだった。

「先生、涙を拭いてください」と、神本が月島の肩を叩いた。

「神本、お前、いったい誰の所為でこんなことになったと思ってんのよ…」

 彼が裁量で万千男を医療機関に誘導してくれてもいれば、徒に面妖めんようを招き入れることもなかったのに。

 とはいえ、長西亨が“喫茶店”若しくは“純喫茶”と標榜ひょうぼうしてはばからない、その実、月島が界隈で贔屓ひいきにするだけの技量を備えた限りなく“珈琲専門店”に近しい店舗の事情は、店内の要所を指向する幾台かのカメラがどういう風に対象を補足しているのかも含めて月島は個人的な観察を以て知り得ていたのだし、そうしたカメラは客側にとって限らず、従業員の側に手元をも鮮明に映すように備わっている。したがって、長西当人が万千男の訪問した際に“毒物”等の混入を為すことがどのように難しいのかは既に判然はんぜんとしている。つまり、間断かんだんなく記録され続ける領域の中で、仮に万千男や神本が口にするところの犯行の類に及ぶにしろ、長西はその間、カウンターの内側から離れて仙波万千男と連れ立って別席に腰かけたということだった。都合一時間半ほどを万千男は長西の店で過ごしたのだったが、長西自ら珈琲を提供したのではなく、その間の給仕の、都合二回は彼の店の従業員が行った。

「嬉しいことに客足が伸びてね。いずれ店のコンセプトを一元化するつもりで経験者を一人雇ったんだ。何にせよ若いから発想力も見事でね、まあ、その辺は瑞恵ちゃんも見ているでしょう?」

 月島は相槌あいづちを打ったが、正直なところ、月島は長西が珈琲を提供するまでの一連の淀みない円熟えんじゅくした、いぶし銀の手つき、所作しょさ、何より彼があやなす珈琲を眺める彼の表情が好きだったのだから、正確無比な技術ばかりが息衝いきづくのみで満足を得られるのかというと、すくなくとも月島にとってはその限りではなかった。「そうね」

「すこし長く溜めたね。長尾君の仕事は瑞恵ちゃんの口には合わないかい」

「いや、あの、そういうことではないのだけれど…」

 月島は長西から視線を逸らした。憶えている限り彼の風貌は初老を超えた頃から、逆に彼の為人ひととなり内奥ないおうからあふれ出す意力いりょくに適した顔馳かおばせをするようになったように感じられた。元より細面ほそおもての端正なかおには丁寧な口髭くちひげが添えられ、彼がふと笑みを浮かべる際に皺が寄る様の秀逸さは筆舌ひつぜつに尽くし難く、また彼の口から囁かれる重低音は何とも耳心地が好いのだった。

「私は、マスターの珈琲が好きだなあ」

 しかし長西の返答を待つ前に、不貞腐れたように従者が口を挟んだ。「せっかくの美人が締まりのないザマになってますよ先生。そりゃ長西マスターが淹れる珈琲は絶品であることは周知の事実ですが、それだと日頃の僕の出すドリップパックにお湯を注ぐだけの行為が瑣事さじだとろされているかのように聞こえて、僕の心境は何とも複雑です」

「あら、神本、そんなことはないわ。誰かの心尽こころづくしの行為について貴賤きせんを論うなんて皮相浅薄ひそうせんぱくなことだし、ローマは一日にして成らずなのよ」

「とはいえ僕の日頃の行動が、マスターの珈琲が美味であると感じる為の前座として機能しているのなら望外ぼうがいの幸いですよ」

 そう云って神本は月島からふいっと貌を背けて席を立った。「お花を摘みに」

「なによ、…ったく、もう」

 月島の感覚を通して思えば、神本東矢はどういうわけか妬心としんを表に出して反撥はんぱつすることが多いのだったが、これでも普段は冷静沈着に物事を運ぶのだ。月島は小首を傾げた。

「大分色々と板についてきたじゃないか、彼も。もちろん仕事が云々というのではなく、瑞恵ちゃんの性質に見合った言葉選び、息遣い。何というか神本君は瑞恵ちゃんとは馬が合うように傍目はためには映るんだけどねえ」

「どうかしら。私の側にとってはそういう積りで彼を抱えているのでもないのよ。神本はずっと昔から月島の家に仕えた一族の出自で、要するに、幼い頃からの腐れ縁みたいな感じ。たしかに、彼に対して他の誰よりも信頼を預けているという点は揺るぎないのだけれど、…なんだろ。きっと誰もが望むような理想の関係をあの子に対して求めるのは、ちがう…んだと思う」

 他称たしょうかこつければ眉目秀麗びもくしゅうれい、多少なりとも弁も立つ。着痩せする種の美丈夫で、見て呉れの軟弱な印象よりもずっと屈強に肢体したいが仕上がっているということもあって身辺警護としても遜色そんしょくなく機能はするのだし、それでいて月島以外との交友関係が浅いという具合でもない。

 積極的に他所に繋がりを求めようとしない自分とは視ている世界が異なることは知っていたが、何故か自分をとても慕ってくれてもいる。が、それは主従関係という垣根を越えてまで彼を自分に近付けることの妥協点と判じたくはなかったし、腐れ縁と口にしたとはいえ、万人が空想上の世界で愉しく連想するところの理想像を神本に対して強いる積りも月島には無かった。

「だけど、彼が私の想像だにしない大言壮語を吐いて手を引いてくれる“いつか”を期待していることは間違いないよ。情人の慣れ合いとは違う、あの子だけにしか映し得ない情景を私の目の前に広げてくれる可能性を、…その、待っているの」

 そして等しく月島は理解していた。荏苒じんぜんと待つばかりでは結果なんて向こうから歩み寄っては来ないのだということも。

「しかし本当に瑞恵ちゃんは二十代とは思えない口ぶりで話すんだよね、絵面だけなら女子高生の娘と会話する父親との対面、ってな構図だと思うんだけどねえ。しかもとびきりの美人ときている。言っとくが僕は世辞の類は口にしないよ」

「あら、ありがと。さっきマスターの珈琲を褒めたことの返礼とでも受け取っておくわ」

 そして偏屈な人間ではありつつも、神本はある程度、月島の周囲の関係性にとっても程よく潤滑じゅんかつに機能している点を長西も買っているのだ。それは必然、月島にとっても。

閑話休題かんわきゅうだい

 月島は区切るようにそう言った。

「つまり、マスターは仙波のご主人と対面してからは店の仕事を従業員に預け、それから彼が帰宅するまでの送迎をも行った。その間、仙波のご主人に対して直に商品を提供するような行為は一切行わなかった。こういう感じで間違いない?」

「ああ、そうだね。マチさんも言っていた通り、今度の夏祭りの打ち合わせに終始したよ。もっと具体に状況を説くと、ウチの店の窓際の二人掛けの席に向かい合って座った。僕は一度手洗いに立ったが、マチさんは一度も席を立たなかった。マチさんはネルドリップのコーヒーを二杯飲み、僕は最近導入した機材の調整がてらエスプレッソを二杯飲んだ。ウチではチェイサーとして水を出しているんだけど、マチさんは口にしなかったね。僕は二杯ほど飲んだ。エスプレッソは濃いからね」

 すくなくとも、はっきりと異物と思しきものが長西の手によって混入された可能性について粗方潰れたように思われた。もっとも、彼が事前に店の食器に細工をしていた、といった異質な方法を採った、等と追及する必要があるのであればその限りでもないが。

「マスターの車を見せてもらってもいい?」


 長西は、嘗て国内最大手のメーカーがフラッグシップセダンとして売り出していた最終モデル、ハイブリッドシステムを積んだV型6気筒エンジンの黒塗くろぬりを愛車としていた。よく手入れが行き届いており、先週の長雨を経ても車体に汚れがないのはこまめに長西が洗車をしていることを裏打ちしている。

 月島は助手席のドアに手を近づけ、「開けてもいい?」と、長西の表情を見た。

「もちろん」

「乗っても?」

 そして月島は衣嚢ポケットから白い手袋を取り出そうとし、やめた。形式だけの探索だと言い聞かせている行為の途中とはいえ、自分が長西を訝っている等という要素を露骨に見せたくない、という反発心が沸き起こったからだ。

 長西は同様の頷き、月島は4ドアセダンの助手席へと身を潜らせた。すると長西も続いて運転席側に乗り込んだ。月島はおそらく仙波万千男が行ったのであろう、シートベルトを挿入するまでの動作に及び、その後、改めてインテリアの全域に視線を向けた。折々、白と黒とが調和する革張りの豪奢ごうしゃな仕様で、また琥珀めいた光沢のある木目調もくめちょう化粧板けしょうばんが装飾として綾なされてもいる。何故かというかやはり珈琲の匂いがした。

「助手席の、ココ、開けていい?」

 月島はグローブボックスをちょちょいと指差し、長西を見た。「何をしてもいいよ瑞恵ちゃん。先に言っておけばよかったね」

「ううん。こういうことだって前提がなければ不躾ぶしつけで褒められたものじゃないもん」

 とはいえ実際、この行為の結果が長西の行動の潔白を証明することに繋がるのだから、つまり彼にとっては触れられても問題のない領域だということを裏打ちしている。

 グローブボックスの中には、例によって車検証や、車両の説明書が織り込まれたそれが保管されているのと、伴って自賠責等の保険証が収納されていた。そして同グローブボックスの最下部にリング綴じ状のB6サイズのカレンダーが一冊、保管されているのを見つけ、手に取った。

 カレンダーの頁が既に現在である同年の5月までめくられているということは、すくなくとも当月に入ってから長西が頁を捲ってから、改めて収納し直したのだ。

 そして奇しくも、本日13日の数字が赤い丸で囲まれている。

「誤解が無いように言っておくと、実は今日、僕にとっては少々大きな意味のある日なんだ。偶々たまたま、それが今日のような事態に重なったというだけ」

「それは私が今聞いてもいいことかしら? いまいま、この件の性格に直に関係しないような事柄なら切り離すけれど」

「後者だね。敢えてそれに触れた方がいいというのならそうするが」

 月島は頭を振った。本件が刑法や司法の範疇に足をかけてもいない以上、これは他者のプライバシーに干渉する越権行為に他ならず、そしてこれは明確な長西の制止とも取れる意思表示だった。月島は頷き、カレンダーをグローブボックスに戻し、その上に車検証を重ね、そっと閉じた。

 車両に備わる小物入れとしては、他に運転席側部のアームレスト下に付随する開閉するコンソールボックスであり、これは最早、長西の方から率先して見せてくれた。

 封入されていたのは、スマートフォンの充電ケーブルに、免許証。いくつかの小銭。あとは何処かの医療機関の名称がゴム印で捺された“長西亨”の名で発行された“お薬手帳”と、その脇にはプラスチック製の透明なピルケースが。今度は事前に長西が会釈し、月島はおずおずと、手帳、それからピルケースの両を開けて確認を始めた。

(“ラベプラゾールナトリウム錠”、10mg。プロトンポンプ阻害剤…)

 長西が言及した。

「僕もいい歳でしょ、歳相応の病気にかかったりもするんだ。流行りというには語弊ごへいがあるが、“食道”に関する一般的な病気だね。やれやれだよ、お陰で一月に一度は受診を余儀なくされる」

 その辺りの事項は“お薬手帳”の情報が丁寧に説明してもくれ、またピルケースに封入された錠剤の形状や特徴と一致する画像が手帳の最終頁に貼付されている。

 服用頻度は一日一回。

「こういうのって、朝に服薬するイメージがあるのだけれど」

 既に午後4時に近しい時刻にピルケースの中に錠剤が残っているというのは?

「これで結構飲み忘れることが多いんだ。だから、飲んだ傍から次の日の分をケースに予め入れて、こういう風にたまの外出の際にも持ち歩くようにしている。お守りみたいなものだね」

 とはいえ流石に長西の持病の類に長く話題を宛て続けるのも気が引け、軽く会釈を返して月島は手帳とピルケースを早々に戻した。特段、車内に仕舞われているものとしてはこれで全てのようだった。

「ありがと、マスター。車はもういいわ」

「トランクは見なくていいの?」

「私に見せることでマスターが安心するというのなら」

 そう告げて月島はシートベルトを外し、ドアハンドルに手を添え、そこでもう一度、長西を見る。

 その頃には既に長西もまた運転席から降車しようとしていて、その背を追うように月島は車外へと逃れた。

 因みにトランクの中からは何も見つからなかった。つまり何ひとつ積載されていないという意味で。


 長西亨に対する探索の類について、月島がざっと辿れる限りの情報は充足したように思われたし、月島が欲するような類の根拠を得る機会としては問題なく役目は果たされた。

「解けそうかい、瑞恵ちゃん。本当に事件性のある事柄なんてものが最初から存在するのだとすればの話なんだけど」

「初めからそんな積りじゃないってことを前提にうけれど、マスターだって容疑者の一人なんだってことを努々ゆめゆめお忘れなきよう。誰か一人に必要以上に肩入れすること自体が偏頗へんぱな行為に他ならないのよ」

「だとすれば、ホラ、店の入り口で仏頂面決め込んでいる神本君に今すぐにでも話しかけてあげたらどうだい。彼にとってはこんなオジサンが、うら若く可憐な淑女と、密閉された車内で相席しているだなんてちっとも面白くない筈だからね」

 神本東矢は長西の弁の通り、彼にとってこれ以上はないという位に不機嫌極まりない形相で、ともすると月島を睥睨へいげいするようにして腕組みをしているのだった。月島はげんなりした。神本の嫉妬深さは、それが月島にとっての異性とあらば誰であれ敵愾心てきがいしんを燃やそうとする悪しき性質さえ備えているのであり、そして一度へそを曲げると主人である月島でさえ容易に命令した内容を受け付けない状態となるのだ。

 月島は長西に会釈をし、すぐに神本の元へと足を向けた。


「今宵は、どうぞ、先生は是非とも長西マスターと会食でもなさっては如何でしょうか、凡愚ぼんぐな僕はこの一件が片付きましたら、今日のところは早急に身を退かせて頂きますのでね」

「なによ、神本、それはどういう意味?」

「先生には、長西マスターのような老年の燻し銀がお似合いだと申しているのです」

「ふうん」

 月島は後ろ手に組んだまま、頭一つ分突出した偉丈夫いじょうふである神本東矢のすぐ間近で仰ぎ見るように、やや上目遣いにじっとりと黒を向けた。「ふうん?」

「なに。…なんなんですか」

「べっつにい?」

 月島はくるりときびすを返し、ややあってちらと半身だけ身を翻し、細首を擡げるように神本に一瞥をくれた。


「ホラ、次はお前だよ。…容疑者のひとり、私の従者の神本東矢くん?」



■容疑者C:神本東矢



 せんじ詰めれば、形式的とはいえ順繰りに取り調べの真似事のような行為に及んでいるものの、土台の発想における姿なき“仮想殺人者”は、あくまで想像の裏側に住まう、今は未だ根拠を伴わない架空の存在に他ならないのであり、そしてまだ月島にとってもそれは懐疑的かいぎてきに扱われていた。

 なので、神本に対する同列の行為はほとんどど形式的に、そして“適当”に行われた。勿論もちろん、それらしい質問はすべて神本に対して投げはしたが、月島にとって真に欲するべき事項は仙波夫妻や長西の説いたことを斟酌しんしゃくし、またその際に神本の行動が補足された限りで十分と思われた。

「もういいわ。以上よ」と、月島は言った。

「それは、僕が先生の従者として、お役御免という意味で?」

 しかし先程の長西との一件からこの方すっかり機嫌を損ねてしまった神本は顔を背けながら言った。

「だあ、もう! うだうだうだうだ何なのよ、そう思いたければ勝手にそうすれば!? …そんな、些細なことまで真に受けなくったっていいじゃない。そんなこと、いちいち口にしなければ伝わらない…?」

 しかし自分が神本に対して怒気を向けているということに客観的に思い当たり月島は途中ではっとしたのだったが、勿論こんなことは日常茶飯事ではあったし、神本東矢はこういう人物なのだという前提は彼の使用者である月島瑞恵自身が一番よく知っている筈なのだったが、先に長西が自分へと向けた言葉を反芻するうち、不思議と神本に対して向けていた感情の類が迷走を始めた。

(そりゃ、伝わらないわよね。…だって、伝える努力をしていないんだもん)

 意味を込めた言葉にしなければ相手に伝わらないことなんて世界にはごまんと事象が存在するのだし、そういう風に言葉を差し込むことを億劫おっくうに感じて手を拱くからこそ、今回のようなつまらない事件が起き得るのだ。

(それに)

 何時か、神本東矢が月島瑞恵に対して言葉を向けたように、固まった言葉を彼に対して向けようとしないまま間延まのびさせたのは誰だ?

「ごめん。神本」

 月島は言った。「色々、もう少しだけ、私に時間を頂戴。…それと。とっととこんな事件、解決しちゃいましょ」


 神本の元から離れるや、月島は彼とのつまらない痴話喧嘩について振り払うように思考を戻した。何より、仙波万千男の不可解で分不相応ぶんふそうおうに端を発する一件が先延ばしにされる分、長西や、果てには自分のタイムスケジュールにまで皺寄せが及ぶことはやはり避けなくてはならないのだし、月島のやっている、一見するに本当に意味があるのかどうかさえ不透明に他者には映るであろう子供騙しのようなものでも、事実を取捨選択する為の明確な材料にはなり得るのだ。


 少し横になると仙波万千男が言ったので、絵里子は彼と連れ立って自宅の居間へと一時的に引っ込み、その間、好きに店内を物色して構わないと万千男が附言した。絵里子は難色を示したが、結局は自分の身の潔白に直結する機会なのだと理解が及んだのか、最終的には万千男の提案に承諾する形となった。

 もっとも、いくら許可を得たからといって人様の店内を不躾に物色することは憚られたので、自主的に、探索する月島の監視役に長西亨を推薦した。それに一応、“仙波ショップ”にも店内を余すことなくカバー出来るだけの監視カメラが備わってもいるので、そういう点を前提として絵里子もそれ以上は何も口を挟まなかった。

 月島としてもこれ以上あまり多くの時間を割きたくはなかったし、自分の思考の整理の都合にとって必要と思われる、月島が思惟するところの、原因が起こった明確なトリガーだけが手札に揃わずにいた、というだけのことだった。


 月島は今度こそ衣嚢ポケットから白い手袋を取り出し、骨張った、細く長い手指をそれに入れた。

 探索を続けるうち、仙波ショップのカウンターテーブルの上、幾分か古びた型式のレジスターの横に置かれていた幾つかのものにふと月島は目を留めた。

 最初は、午後になって“仙波ショップ”に彼らが帰投した際、そして万千男が変調する前に最後に口にした、コーヒーの注がれた“茶器”。金のラインのある白と青の際立った磁器製の洋物のカップとソーサー。結局、その中身は感情的になった絵里子夫人が現場の保存を度外視して一気にあおったことで中身は失せてしまっていたが、思えばどうして一人分だけしかないのだろう? 万千男は長西に送迎されて帰宅したのだとすれば、彼にも等しく飲み物が振舞われて然るべきであろう。それとも、店舗とは別の、住居の側の客間に長西は通されたのか?

(いや違うわね。たしか、ご主人は直接マスターを店舗内に通したと云っていた)

 客人を持成もてなすに際しては客間に通す方が流れとしては自然だが、仙波夫妻の場合はことに客商売を営んでいるのだから、もっぱら、客を持成すとしたら住戸ではなく、こちらの店舗の方で行うほうが仙波夫妻にとっては自然な帰着とも考えられる。そうだとすれば、万千男の分のカップとソーサー、その一揃えだけがここに取り残されているのはやはり不自然な気がした。それとも、早い段階で長西が振舞われたコーヒーを飲み干し、既に絵里子夫人に片付けられた? しかし、あれから間断なくいざこざがあったというのに彼女にそれだけの余裕があった?

(一応、さっき口頭で確認した限りでは、絵里子さんはそれ以上現場を荒らしてはいないと言っていたし、それ以上動かしたものはないというニュアンスで話していたけれど)

 月島はそこで新たな違和感に気付いた。万千男に事情を聴いた際、彼は自宅で出されるコーヒーにはミルクと砂糖を入れると言っていた。が、ソーサーの上にはミルクの容器や角砂糖、あるいはスティックシュガーを使った後の“芥”に相当するものが見当たらず、更にはそれらを攪拌かくはんするためのスプーンの類もない。

 月島は手近にあったゴミ箱を覗き見たが、すくなくとも直近で棄てられたと思しき物の中にそれらしい形跡を見つけることは出来なかった。

(でも、薄ら残ったカップの底辺には、確かにミルクの残滓ざんしが見えるのに)

 すると、万千男が飲んだコーヒーには最初からミルクや砂糖が含まれていた状態だった? 等しく、長西に対しても同様の提供が為されたのだとしたら、本職で珈琲を専門に扱う彼に対して、最初から砂糖入りのミルクコーヒーを出したということだろうか?

(そこまでしてマスターにコーヒーを出す意味とは。…私は専ら神本に頼りきりだけれど、そうね、私だったら、大人しく緑茶なり紅茶なりを出そうと方針を切り替えるかな)

 ならば、本来ある筈のものは、一体どこに消えたのだ?

 次に、月島が目を向けたのは、店番の合間に仙波夫妻の何れかが手に取る為に設置したと思しき雑誌やファイル類の列伍れつご。それに向かうような形でリクライニングチェアが配され、カウンターの裏面に相当する店舗側に向けて数段の引き出しが付随している。最上部のみ構造的に施錠出来る種のそれではあったが、上から全部で四段ある引き出しはどれもすべて開いた。中身を確認するに吝かではないが、これは後でもいいだろう。

 同カウンター上、レジスター脇にはつい先ほどまで使用されていたものと思しき帳簿や筆記具の類、それから卓上カレンダーがひとつ。幾つか予定や時間が女性らしい筆致で記されているが、中でも当日、13日の欄に“長西”と、そこだけ油性のエメラルドグリーンで着色されていた。

 他には、絵里子夫人が淹れた緑茶の冷めた液体が居残るマグカップが置かれている。すくなくとも仙波の家には“緑茶”の類は存在しているということである。他にもティッシュ箱や、消しゴムなどを順繰りに眺め、そして最後に、ある物が月島の目に留まった。

(ピルケース?)

 いわゆる長西も車内に所持していた、服薬する錠剤やカプセル等を予め収納しておく携行具である。月島はそれを手にとって、ざっと眺めた。全部で八つの角が総じて丸みを帯びたプラスチック製の拳大のケース。小脇には可動する留め具が備わり、開くと全部で八つにも及ぶ小窓が顔を覗かせた。中には何も入っていなかった。既に飲み終えた後だろうか? ケースの表面には薄くロゴが浮き出ており、その文字が、さる大手の健康食品メーカーの名称を象っていることに月島は気付いた。

(ということは、これ、サプリメントケースか)

 昨今、薬品として処方されるそれよりは成分量が満たないまでも、日常的に栄養素が不足しがちな現代人にとってサプリメントによる栄養補給は方々で取り沙汰されているところであるし、それらは比較的薬品の類よりも手軽に入手出来るという利点も挙げられる。もっとも、摂取の量に依っては明確に害を為す副作用も考えられることから、サプリメントの扱いは薬品と同等に慎重に扱われるべきという考えも巷では根強い。


 が、そこで月島の想像の内側に、出し抜けに、ひとつの想像が鮮烈に駆け巡った。


 程なくして、月島は弾かれたように先ほど眺めた雑誌の列に視線を戻し、その中から、ある特定の誌面を探索すべく指を奔らせる。幸運にも、意中の冊子は直ぐに見つかり、月島は当該の冊子を手に取って、それから目的とする頁を目掛けて手早くそれを捲った。


(そうか。…そういう、ことだったのね)


 月島はそこで一旦、瞑目めいもくし、一度、脳裏から本件以外のすべての事象に対して向けた想像を切り離した。

 もし、初期に想像したところの仮想犯人が実在するものとして、主として仙波万千男だけを狙って効果的に害しようとするのなら、皆が想像するとおり、確かに“犯人”は万千男に対して“毒物”を盛るという動作に及ばなくてはならない。

 但し、本件の場合の“毒物”とは、換言するに特定の者以外に対しては本来“効果ベネフィット”を齎す筈のものであるが、翻って“副作用リスク”の方が色濃く浮き立つことを念頭に入れたもの。

 そして、それらの仕組みや概念、種々のサイクル等をある程度把握している者が…


「犯人だ」


 一しきり想像を及ばせ、月島はカウンター裏のリクライニングチェアに腰かけ、そこから腕が伸びる限りに存在する空間という空間に向けて手を伸べ、事の最後に、先ほど手を離したカウンター下部の引き出しの取手を、上から全部で四段、順繰りにすべて引いて、そして、それを見つけた。

 月島は小さく口元に笑みを浮かべた。



「これで、必要なカードはすべて揃ったわ」



 人けの無い“仙波ショップ”の店舗内で突として月島が口にした呟きは容易に長西の耳にも届いたようで、それから直ぐに彼は自分の元へとやおら歩み寄ってきた。

「幕が開いた以上、須らく、それが下ろされる恰好かっこう事宜じぎというものがあるわ。…マスター、悪いけど神本を呼んで来てくれる? 私は、仙波夫妻を連れてくるから」

 その申告を受けて、長西亨は図らずも黒眼を丸くした。月島がそう宣ったということは、これまで想像上の産物に留まるばかりであった仮想殺人者が、実体を伴って一統の前に姿を引き摺り出される可能性について示唆するものでもあった。


「そろそろ幕を引きましょうか。…そういう訳だから、覚悟はいい? マスター」

「ああ、勿論だとも。僕から瑞恵ちゃんにお願いしたことだからね」


 月島は首肯し、それから、長西亨もまた直ぐに首を縦に振った。



■究明



「それじゃあ、答えを聞こうか、探偵さんよ」

 仙波万千男は調子の戻らない頭を何度か振るようにして居間から這い出てきてそう言った。果たして被害者である仙波万千男にとって真に望むべき解答を与えるのだと口にした積りこそ月島にはなかったのだったが、帰着がどうあれ一定の道筋を整えて本件に幕を引く動線だけは確保しようとは月島は思った。

 しかし本源的には、真に他者を害する明確な企図を以てこの場に臨んだ悪辣者が含まれているのだということを、“犯人”である者を除けば、おそらく月島瑞恵だけが知覚しているということでもある。“仙波ショップ”の店内に一統が集ったのを見、月島はやおら口を開いた。

「この一件の発端ともいうべき引き金を引いた人物が用いた、決定打となるべき根拠を発見しました。どうせ誰の目にも留まらないだろうと犯人は高を括ったのかもしれませんが。…ああ、因みに証拠品である“毒物”は、皆さんの目が届かぬうちに接収させていただきましたので予め申し添えておきます。とまあ、それは後ほどお目にかかるとしまして、その前に順を追って今回の事件について註釈をさせていただければと思います。病み上がりのところ恐縮ですが、ご主人にも一度、店の外までご足労願えますでしょうか。…神本!」

 月島は戸口に立って神本を呼ぶと、四方やここで名を呼ばれるとは思っていなかった神本はびくりと背筋を粟立たせるようにして目を瞠った。

「ご主人に付き添ってあげて頂戴」

 月島が粛々と言い放った言葉に神本は、だが視線を外したまま応じた。

「承知しました、先生」

 次いで月島は長西亨に視線を這わせると、彼は、豊かに揃った口髭の下、口の端を上向きに微動させたのを月島は見た。月島の言葉に呼応するように一統は促されるまま“仙波ショップ”の外へと出、そして長西がこちらに踵を返して完全に進み終えるまで、月島は十分にそれを見届けてから。



 踵を返した。



 月島は努めて気配を殺したまま、敷居の高くなった仙波宅の住戸へ通じる勝手口の段差で靴を脱ぎ、摺り足になって音を響かせることのないよう慎重に歩を進めた。

 夕刻に近付くにつれ次第に薄暗く変じていく短い廊下を先行する、“その人物”が踏み入った先の部屋で、脇目もくれずに“その人物”はある一角に立ち並ぶ戸棚の最上部の引き出しを横に引いた。


「なによ、…ちゃんとここにあるじゃない。…あの女、何が、『接収させていただきました』、よ」

 その声の主が発した意味深な一言を十分に聞き終えてから。


「なるほど。最後のピースはそこに仕舞われていたのですね」

 更に月島は“その人物”が手にする、小さなボトルに封入された“毒物”をしっかと見届けてからそのように訊ねた。



「仙波絵里子さん」



 月島が前段、声を上げたばかりでも絵里子は腰を抜かすほどに狼狽を呈した。まるで見てはいけない、この世ならざる幽霊を目の当たりにしたかのように目を瞠り、そして、往々にして追い詰められた人物が取るであろう悪足掻きと推量するに差し支えない類の反応を呈した。

「お、驚かさないでくださる、月島さん。…ああ、ごめんなさいね、鍋に火をかけていたのを忘れていたものだから戻ろうとしたのよ…」

「では、その手に持っているものはいったい何です」

 月島は絵里子の言い開きを十分に聞き終える前にそう告げた。

「それが、ご主人・仙波万千男さんを昏倒寸前まで追い遣った原因ではありませんか? そして私の推理が的を射ているのならば、先にご主人が昏倒されかけた最後の引き金を引いたのは、貴女ですね、絵里子さん」

「ちょっとまってくださる!」

 絵里子は万千男に喰って掛かった折に見せたような幾分かヒステリックな調子で声を荒げ、「まさか、この期に及んで私が良人のコーヒーに毒を盛った等と仰るつもりなの!? だとしたら、あの場で私が主人のカップの残りを飲んで見せたでしょ!? 残念ながら私はこの通り生きているわ!」

「そうでしょうね。なにしろ貴女が、長西マスターの店から戻ったばかりの万千男さんに出したカップの中に混入されていたのは、すくなくとも常人にとっては“毒物”とは呼べない成分の溶けたコーヒーだったからです。…ですが絵里子さん、貴女にとってその成分は最初からご主人の体調を左右することの出来る“毒物”であるという認識だった。だって、今この店に集まっているあらゆる人物の認識の中で、唯一絵里子さんにとってのみ、“ある条件”を満たした万千男さんの命を奪う可能性を十分に帯びたものだったのです。…ですが、仮に、私や神本、それに長西マスターが、件の残余のコーヒーを口に入れたところで、おそらくそこまで致命的と思しき影響は被らないでしょう。絵里子さん、貴女がいま手にしているそれは、万千男さんに限ってはそうではない、“毒物”足り得る効果を成すものだったからですよ」

「だから、私は何もやっていないわ!」

「知らぬ存ぜぬと仰るのであれば、どうして『残念ながら私はこの通り生きているわ!』、等という風な科白が出てくるのでしょう? そもそも私が先に“毒物”を接収した、という風に公言しただけで、どうしてそのボトルの所在を、いの一番に確認に戻られたのでしょう?」

 月島は、衣嚢からボイスレコーダーを摘まみ上げて絵里子の前に翳した。


『なによ、…ちゃんとここにあるじゃない。…あの女、何が、『接収させていただきました』、よ…』

 と、先ほどの絵里子が恨めしそうに独り言ちた様はしっかと記録されていたのだった。


「言い掛かりは止めてちょうだい、そんなものは言葉の綾よ! それに、第一これはサプリメントよ!? 月島さんの解釈はどうあれ、薬品ですらないコレを使って、どうやって私が主人を殺せるというの!?」


「カフェイン」

 月島はその成分の名前を口にした。


「着眼する点が成分である以上は、それが薬品であろうがサプリであろうが同じことです。ご主人、仙波万千男さんが先ほど変調した症状は、おそらく“急性カフェイン中毒”に準じるものでしょう。主として短時間、一般には1乃至ないし3時間の内に合計1,000mg程の急激且つ過剰な摂取で引き起こされる中毒のことです。ご主人の申告や、貴女の同意に照らす限り、すくなくとも長西マスターの店で珈琲を飲み終える頃までに、既に総じて500mgを大きく上回る累積るいせきした摂取量に及んでいました。もっともこの数値には個人差がありますし、当該成分に弱い人物であればうに影響を被っていてもおかしくはない量なのですが、果たしてご主人はそうではなかったようですね。先ほど私は、お二人に『ご主人がこのような症状を呈したのは初めてか』と問いましたが、しかし揃ってお二人は否定なさいました。…要するに、貴女はご主人がこの程度の摂取量で変調するほどの影響を来さないことを予め知り得てもいたのでしょう。なにしろご主人は平常からこの程度の上限量は軽く踏み越える量のカフェインを摂取しているのでしょうからね。なので、日頃ご主人が摂取するカフェイン量が経験上の上限値を叩き出しそうな、ご主人が長西マスターの店へと打ち合わせに赴く今日を予めエックスデーと定めていた。行けばご主人が必ずと表現しても差し支えない程に珈琲を飲んで帰ってくることは容易に想像が出来ますしね? ですので、恰も、偶発的にご主人が“急性カフェイン中毒”に陥るトリガーが、長西マスターの珈琲を飲用したからであるようにと、場の状況を副次的に託けることも狙った」

 そして月島は、予め店内のカウンターから、先に見つけた“冊子”を絵里子に振り翳した。それは月島が店内のカウンター上で発見したサプリメントケースにも名の刻まれた大手健康食品メーカーが発行しているサプリメントのカタログだった。取り分け、“カフェイン”の成分が主体となる頁の下部には折り目が付いていて、更には通信販売で当該商品を購入したことのわかる領収書が挟まっていたのだった。病気の類に対して無縁であることを公言している万千男の生活史にとって、そもそも服薬をするという要素は存在していないし、万千男が披歴ひれきした本日の日程の中にも服薬の事情は確認し得なかった。

 そして奇しくも、いま、絵里子が手にしている商品は、カタログの当該ページに同一の画像が備わっているのだった。

「貴女が手にするサプリメントの一錠あたりのカフェイン含有量は100mg。とはいえ問題は端的に量じゃありません。やろうと思えば、貴女の随意で、計画的に、ご主人が摂取するカフェインの総量を融通することが出来るという点です。つまり、機会さえあるのなら貴女は狙ってご主人を重篤じゅうとくな症状に傾かせることが適うというわけです。…最初からおかしいと思っていたんですよ。ご主人の、朝から現在までのカフェインの摂取総量を簡易に累計しても、または、短時間における大量摂取に該当しそうなタイムテーブルを断片的に鑑みても、ちょっと長西マスターの店で多く珈琲を飲んだとしてもこうはならないはず。中毒を発症し得る可能性が限りなく十割に近付く数値に満たないにも関わらず、どうして彼がこうも容易く中毒を発症したのかって。それで皆さんから事情を聴取する限り、結果として貴女が為したような“一手間”を加えないことには、ご主人を明らかな危殆きたいに誘い込むことは難しいと推論付けたのが、出発点でした」

 濫觴らんしょうこそ、神本たちの暴論が導いた末の仮想殺人者が仕立てられたものと高を括っていたところ、四方や本当に蛇が出る等とは思いも依らなかったのだったが。

「無論、この中毒症状を意図的に引き起こすなんて、数値だけを見て容易に為せるものでもなければ、運の要素が影響するものでもありましょう。…ですが、貴女はその可能性を踏み越えた」


「証拠は? 私が! あのカップに! これを入れたという証拠はあるの!?」

 半狂乱になって絵里子は猶も声を荒げた。


「カウンター裏の引き出し、最下段の、内奥」

 更に月島は、自らのスマートフォンで撮影した、一枚の画像を絵里子に提示した。


「ご主人が長西マスターの店から戻られた際、予め二人分のコーヒーを用意していて、しかも、貴女がその何れにもサプリメントの“カフェイン”を多めに溶かしていたのなら?」

 絵里子夫人は息を呑んだ。

「戻られたご主人に対して是が非でもコーヒーを飲ませたい貴女は、かといって客人である長西マスターにそれを振舞わずに一人分だけを用意してご主人に提供する訳にもいかない筈です。なのに、あの場には万千男さんの分のカップとソーサーしか残っていなかった。後から長西マスターにも裏を取りましたが、その際には確かに貴女は二人分のカップをトレイに携えて給仕をしたということでした。…その辺の推理は後述しますが、カウンターに備え付けの引き出しに入れられたまま、飲まれず残ったコーヒーの注がれた“茶器”は、先にご主人に振舞われたものと同じ品物でした。ご主人も、日頃から客人に出すものと同種のカップとソーサーを用いて絵里子さんがコーヒーを提供してくださることをお話になっていましたよね。そして貴女は今日、長西マスターがご自宅で会う約束をされていたことをご主人がお話になっていた以上、当然、貴女がそれを知らない筈はありません。ならば確実を喫するために、同じように高濃度のカフェインを溶かしたコーヒーをもう一揃え、準備しておいたのなら? 両者がどちらに手を伸ばしても差し支えない、けれども、万千男さんにとってのみ累積したカフェインの摂取総量が上限値を振り切るであろう濃度のサプリメントを、予め双方に混入しておいた。ですが、不自然にサプリメントを溶かした液体を見て、二人のどちらかが気付いて違和感を訴えてしまうかもしれない。況してや本職の長西マスターにブラックの状態で出してしまえば容易に風味の異質さに勘付かれるかもしれないことを貴女は危惧した。そこで貴女は、予め両方のカップにミルクと砂糖を入れ、更には混入したカフェインサプリメントを攪拌した状態でお二人に提供した」


 月島が撮影した、カウンターの引き出し内から発見したコーヒーの画像は、最初からミルクを溶かした後の色合いをしていた。


「もっとも、本職であり舌の肥えた長西マスターは、当然、そんな状態で出されたコーヒーには手を伸ばさなかった。“珈琲”を淹れることを本職とする人間に向けて“コーヒー”を提供するに際して、予めミルクと砂糖を入れた状態で客人に提供するなど本来であれば御法度。…ですが、そこでは長西マスターにコーヒーを忌避してもらう方が、貴女にとっては余計に都合が好かった。万一その違和感に気付かれる可能性を極端に低減させられるのですからね? ところで片一方の万千男さんは無類のカフェイン好きですから、あれほど長西マスターの店で珈琲を飲んだにも関わらず、訳もなく摂取せずにはいられなかった。結果としてご主人が先に件の症状を発現させてしまい、いよいよという状況に事は推移した。貴女は、長西マスターに提供した片一方のコーヒーを下げたフリを装って、咄嗟に余したそれを引き出しの中に隠した。…悪手だとは思いますが、なにしろ貴女の込めた悪意が明確に含まれた産物だったのですし、そんなものを何時までも場に残しておくことは憚られた、といったところでしょうか? あまつさえ、憔悴しょうすいなさったご主人が予期せずカウンターの前に陣取って身をやつしてしまったのですから、そうすると、しばらくもう一方のコーヒーの入った茶器は引き出しから取り出せぬまま。しかもその後で私たちが場に現れてしまい、ついぞ貴女は片付ける機会を逸してしまった」

 仙波万千男や長西亨の供述を耳にする限り、万千男が崩れ落ちた後の状況では普く視線が総じて絵里子の行動を見て取ることになる。衆人環視の及ぶ中で高濃度のカフェインが溶けた違和感だらけの液体の入ったカップを放置したままにしておくことは、その後に、万一絵里子に対して疑念が向けられたときに突破口とする要素を重複させることにもなる。それでもひとつ、強引に現場を荒らすことで退けたのだったが。

「さて、これでもまだ証拠を、と仰るのでしたら、残ったもう一方のカップについて、知り合いの専門家に鑑定を依頼するまでですが…」


「もう、その辺で、結構ですわ。…月島さん」


 絵里子がぐったりとその場に膝を折った。

「まさか、そんな犯人などは想像上の産物で、到底存在し得るものではない、という誤認を良人に促すべく利用しようとした傍観者の一人に、あなたのような人物が含まれてしまうだなんてね。…そうよ、あなたの推理どおり、人間の摂取限界量に近い、“急性カフェイン中毒”を誘発するかどうかギリギリの成分を見計らったのは、他でもない、私ですわ」

 その様子をしっかと見て取ってから、月島はスマートフォンに向かって語りかけた。


「そゆことよ、マスター」

『ご明察だよ、瑞恵ちゃん。ああ、こっちもマチさんに対して説明は済ませておいたから。マチさんは日頃から摂取しているカフェインの量が異常なんだってことで、“急性カフェイン中毒”の、初期症状みたいな状態だったんだぞって、神本君と一緒にきっかり説明しといたよ。…まあ、始終、神本君は仏頂面だったけどねえ』

 通話越しに、月島は薄く嘆息を吐いて一拍置き。それから再び絵里子に視線を戻した。


「と、いう訳です、絵里子さん。敢えてご主人には真実を伏せて申告してあります。このあと貴女がどうするのかは、貴女自身がお決めになってください」

 こちらの敷いたレールの上に乗るか、若しくは、自身の罪を認めて反るか。

「ただ、最後にひとつだけ聞かせてもらえませんか」

 おそらく、論理的な範疇を踏み越えて思索することの適わない領域に差し掛かる、ヒトの感情に即した要素ばかりは推量が困難な事由であったから、月島は問うた。

「どうぞ」

 絵里子は虚ろな様子で応じた。

「確かに貴女がカップに混入したカフェインの量をもう少し引き上げていたのなら、ご主人はもっと最悪の状況に陥っていたかもしれません。畢竟ひっきょう、貴女はご主人を殺すだけの手段に訴えるのなら十分な条件を揃えていたのです。…けれど、ご主人は死ななかった。ううん、貴女は意図してご主人を殺さなかったのではないですか? 確かに、使用する分量を見計らうことで不慮の事故に見せかけようとしたのだとすれば辻褄は合いますが」

「そこまで私を糾弾きゅうだんしておきながら、今更そんなことを私にあなたは問おうというの月島さん」

「絵里子さん、ほんとうはご主人の…」


「今更そんなことは栓の無い話だと言っているのよどうしてそれが解らないの!!」

 遂に、絵里子夫人にとっての逆鱗に触れたようだった。


「どのみち無理だったのよ、こんなことをしたところで結局、良人の習慣を私の言葉なんかで改めるよう促すことなんて無駄だったのよ! なまじ自分の健康に妙な自信があるから聞く耳なんて持たない。かといってコーヒーを出し渋ればあの通りに感情に任せて怒鳴るのよ。こんなもの、私がそうしなくったっていずれ彼は自壊することになっていたと思うわ。…挙句、最近は…エナジー…? あの妙な色のジュースにまで手を出して、よくよく見たらコーヒーなんて比較にならないカフェインが含まれていると知って、私は居た堪れない気持ちになったわ。…ちょっとぐらい懲りてくれればよかったのよ。せめて良人が来年の健康診断で、また笑って私に結果を見せてくれる未来があればそれでよかった」

 仮に、絵里子夫人に仙波万千男を殺害する明確な動機があるのなら、既に今日、彼がこの場に命を留めて息衝いていることはなかった。つまり、本気で彼を殺そうとするのなら、もっと巧くやる方法があった、という意味で。

「それでも施しは不要よ、月島さん。あなたは私が向こうの未来でも良人と恙無つつがなく過ごすことの出来る退路を用意してくれたのでしょうけど、私は一度でも彼の身を損ねようとしてしまったのだという私自身に対する呵責かしゃくがきっと鳴り止まないわ」

「そう、ですか」

 そのように彼女が決めたというのであれば、月島に彼女をこれ以上諭す道理はなかった。自分は法の番人の代行者等ではありはしないのだ。

「行きましょうか。あなたにも余計な手間を取らせてしまったわね、月島さん」

 月島は頭を振った。だが、自分の導いた推論が、整えた道筋が、すべからく意味を伴って仙波絵里子を鋭利に穿っていくような言い知れぬ不快感が月島の胸臆きょうおくに熱く揺れて、消えないのだった。自分の言葉が彼女を不幸に誘っているのだという、明確な感触だけが。


 家屋から店舗へと戻るや、様々な色合いの、どれをとっても一様ではない顔馳せが月島を、そしておそらく絵里子夫人にも向いたのだった。

 だが次に、何らか、彼らが月島に労いの類を向けようとする前に、仙波絵里子は、隠し持っていた包丁を握り締め、自らの首筋に宛がったのを、その場の誰もが呆気に取られて見たのだった。

「馬鹿者、何をやっている!!」

 仙波万千男が俄かに怒鳴った。

「もう何もかもおしまいなのよ、こうでもしないと私がこれから赦される方法なんてある筈もないのよ!」

 絶念に駆られた人間が、普遍的に次に為すべき行動を十分な選択肢の中から予見出来るだけの気力が残っていなかったことは大いに仇となった。

 だが。


 紫電一閃、鋭く眼光を研ぎ澄ました神本東矢が急速に動いて神速の回し蹴りを絵里子夫人の右腕目掛けて放った。彼女は悲鳴を上げ、また手にした包丁が刹那に店舗の床に甲高い音を立てて落ち、転がった。

 続けざまに神本は絵里子夫人の身柄を取り押さえ、それから峻烈しゅんれつな声音で言った。


「何もかもお終いだ? 仮にも一度は誰かを愛した人間が容易く命を軽視するなよ。アンタにとっての事情は詳しく知らないが、そんな余計な事をしている暇があるくらいなら、アンタの都合で振り回された人間が残った世界でどのように不幸になるのかを少しは頭を捻って考えろ」


 神本の放った一言が決定打となった。まるで繰り糸が切れた人形のように、仙波絵里子はそのまま抵抗を止めて、感情もろとも凍結してしまったかのように、停止した。



■終幕



「すっかり夜も更けてしまいましたね、先生」

 事件を解き明かしたのが暮色ぼしょくに染まる頃であったこと、そして月島瑞恵にとっては十分に意想外の顛末てんまつに転んでしまった、真犯人を藪から突いて白日の下に曝してしまった事情を説くべく、警察関係者に対して然るべき対応を迫られたことを重ねると、一統いっとうが感じていたよりもよっぽど時間は過ぎていたのだった。「そうね」

「しかし、本当にこんな推理をやって退けちゃうとはね瑞恵ちゃん。通話越しに聞かせてくれたキミの推理を耳にしている最中は手に汗握ったよ。だが、そうと考えれば確かに神本君が瑞恵ちゃんを是非にと呼びに戻った訳だね」

「ううん。私がやったのは所詮、ごっこ遊びの真似事に過ぎないのよ。これが“名探偵”なんて呼ばれる類の人間にとってなら、最後まで寸分も手抜かりなく粛々と処理していたでしょうね。…いや、そもそもどうしてこんな始末になったんだ? ふざけんなよ、神本」

「僕ですか!?」

 あの時、神本が即座に場を制してくれもしなければ、或いは、少し違った今を過ごすことになったのかもしれないと踏まえると、やはり月島瑞恵は“名探偵”等という二つ名は背負えそうもないし、そもそも自分は職業探偵を愚弄するような立ち回りをしたいのでもなかった。単に、その時点で起きている事柄の中から事情を取捨選択し、論理的に肝要と思しき事実だけをして残したというだけ。それが他者の人生を左右するほどの意味を持つものなのだと頭では理解が及んでも、実際に誰かが奈落の底へと転落していく様を直に目の当たりにするのは、やはり、堪えた。

「そういえば」

 ふと、月島は鞄から包装された箱を取り出して長西に手渡した。

「お誕生日おめでとう、マスター」

 長西は率直に目を丸くした。「いや待って? 確かに僕はさっきカレンダーを見せはしたが」

「ちょっとした推理よ」

 といっても至極単純な話で、先に長西亨にとっても意味のある日であると彼自身が宣った今日5月13日を、奇しくも仙波絵里子までもが個人的に記憶して卓上カレンダーに書き込んでいたというだけのこと。他の書き込みが単に黒で記されている中で、どうして今日の“長西”と書かれた文字だけ翠色エメラルドグリーンで着色されていたのか。

(5月の誕生石はエメラルド。…ってね)

 果たして長西が仙波絵里子との用向きというのがそれに係るものであったのかどうかを知る機会は失われてしまったが、これ以上、彼の生誕の日に余計な曰くを上塗りするのは忍びなかったのだ。勿論、この挿話を彼に敢えて説く必要もないと月島は思ったし、またここまで前提を踏まえずとも、彼の車の希望ナンバーや、更には、彼のセダンにあった免許証が実に明瞭に教えてもくれた。

 ただひとつ正確に分かることは、長西亨は周囲にとって、よくよく愛されている人間であるということ。

「開けてもいい?」

「どうぞどうぞ」

 長西は包装を解き、而して収まった箱に記されたブランド名、そして現れた金の装飾の施された黒色のボールペンに目を落として声を大きくした。「ちょっと待って、これかなり高いものでしょ!」

「マスター。こういうの似合うかなって。ありきたりのモノになっちゃって、ごめんね?」

 平常から長西が選んで好む色彩を月島は彼の店にて長西が珈琲を淹れる所作を眺めながらも片手間に観察をしてはいたし、先ほど彼の所有するセダンのインテリアを目にしてそれは確信に変わった。他の衣料の類と異なって好みに左右されることのない、率直に長西に似合うだろう筆記具を月島はこれぞと選んだのだった。

「つまりアレかい、何某なにがしか瑞恵ちゃんが僕の誕生日と確信してから即座に計画を練って? しかもさっき道々姿を消していたのは、ああ、これを買う為だったのか」

「皆まで声に出して云うな。…淑女のいじらしい心意気をちょっとは汲んでよね…」

 だが、そう言って俄かに目元を潤ませた長西の面貌に月島ははっとし、訳もなく頬に熱が差す感覚を覚えて思わず目を逸らした。閑雅なこの男の面貌は月島には刺激が強過ぎるのだ。

「ほんとう、お似合いですよ、お二人とも。見ているこっちが妬けるくらいだ…」

 そして神本は相も変わらず不貞腐れたまま、何処か遠い目をしながら吐き捨てるように言った。月島が反応した。

「いや、あのね神本くん。マスター、妻帯者だぞ? 仮に、私がマスターに本気で気があるようなら、それもう色々な要素をひたすら快哉かいさいにすっ飛ばして率直に、不倫よ? さしもの私とて明らかに公序良俗に反する社会の敵に傾きたくはないわ、可惜あたら、愉しむべき未来があるもの」

「へ」

 そもそもどうして五十を超える男性を目の前にして頑なに神本が長西を独身男性であると履き違えていたのかはようとして知れないが、月島が長西の喫茶店に通うようになったのは単に彼の眉目秀麗びもくしゅうれいを狙ったものと思われていた節があるのだったし、その辺りから神本は自身にとってよりネガティブに曲解し、何時しか長西亨は妻に先立たれた独身男性である、といった謎めいた設定が付与されていたのだった。

(あ、いや違うわね。そういう風にこの子に吹聴ふいちょうしたの、私だ)

 果たして何の折節おりふしであったのかどうかすら覚束ないが、結局その際、誤解したままの反応が面白いからという短絡的な事由じゆうから処置をほうったままにしておいたことが災いした。

「だって、前、先生、長西マスター、奥さんに先立たれたって…」

「こらこら、僕の妻を勝手に殺さんでくれ。もう、瑞恵ちゃんでしょ、神本君に嘘を仕込んだのは」

「瑞恵、なんのことだかわかんなあい」

「こんの、…畜生が…」

 神本は口元に薄ら笑みを湛え、努めて静かに赫怒かくどした。とはいえ、他人が不幸になる類の下賤げせんな嘘は程度をわきまえるべきだわと月島は思った。折を見て神本には詫びを入れるとして。


「何から何までありがとうね、瑞恵ちゃん。コレ、大事に使わせてもらうから」と、閑話休題、襟を正して長西亨は月島に向かって礼を述べた。

「いい、いい。そういうことは改めて声に出して言わなくていいんだよ、もう…」

 長西のその一言と反応で、今日の自分の為した行いに対する負い目のようなものが一気に解きほぐされたような気がした。彼にとっての要らぬ疑念を払えて本当によかった。


「なら、そうだ。こんな時間からで構わないようなら、二人にオジサンが食事を奢ろうかな?」

 長西亨もまた決して疲労の色が隠しきれている訳でもなかったのだが、結果として件のいさかいに月島たちを巻き込んでしまったことに対する負い目を頻りに口にしていたのだった。

「生憎、午後八時以降の飲食はしないように努めているのよマスター。惜しいけれど、そのお誘いはまたの機会に受けるわね」

 そう告げ、月島は神本の背中を思いっきり引っ叩いた。


「ほれ。帰んぞ、…盆暗ボンクラ


 去り際、月島はそっと長西に向けて眴せをした。直ぐに彼は気付き、そっと静かに親指を立てて応じた。きっと彼は素晴らしい食事を奢ってもくれたのだろうけれど、今日のところは飼い犬が忙しなく妬きに妬いてお話にならなかったのだし、本来であれば彼の生誕を共に祝いたかったところ、だからこそ予め長西には贈答品を手渡すことにしたのだった。



 許容されざる悪意に対して、ろくすっぽ真っ当な倫理観やら正義感が根付いているでもない月島瑞恵にとってそれ等を作為的ではない方法で裁くという、独善でしかない手段に依ることは望むところではなかったし、また夢想家であるという自他の評言に甘んじつつも、徹すべき筋だけは一本、しかと貫きたいという意地だけは張っている積もりではあったのだったが、それでもやはり、想像の領域を脱して目の当たりにした事実に手を伸べたとき、日頃慣れ親しんだ活字からは決して掘り起こすことの適わない痛みがはしったのを耐え難いと思ってしまったのだった。

 月島邸への着くや、月島の身に降り注ぐようにどっと重い疲労が圧し掛かって感じられた。惰性だせいに任せるようにリビングのソファに崩れ、そしてそのまま月島はごろんと身を横たえた。疲れた。

「紅茶でも淹れましょうか、先生」

 結局、その後で夕食を口にする機会を逸した月島の胃は空っぽではあったが、不思議とこのまま何も口せず明日を迎えても差し支えないと思った。「ううん。いい」

「では、何か召しあがりますか」

「ねえ、神本」

 真横に転じた世界の中に辛うじて神本を捉え、だが、ぞんざいに語るには幾分も扱いの難しい話題を選んで月島は語りだした。


「何時かの、貴方の言葉に対する回答だけれど。私はたいてい高慢ぶって、他者を、活字を通してしか量れないような偏屈な女なのよ。その意味では私の視野はあまりにも狭窄で、他の誰かの感情がどういうものを由来として活性化するのか、とか、ヒトが普く思惟しいするところの機微きびに対してまるで造詣ぞうけいがないの。…私、ヒトを好きになったことがないんだ。だから、私が口にしている誰かの愛とか恋とか、その時々の誰かの情意じょういをもっともらしく拝借してかたどっているだけの、この世で最も信憑性の無いものなのよ」


「ですが先生、そういう感情がどういうものかってこと。先生の心はちゃんと理解していますよね。先生はそういう状況に立ち会った折に、しっかと人間らしい反応を見せてくれます。…いいんですよ、それで先生が僕の言葉を受容しかねると仰られたところで、僕はこれからも月島瑞恵の従者であり続けます。先生が僕の存在を疎んじない限りに於いて、ですが」

「貴方の厚顔無恥には夙夜しゅくや辟易へきえきしてもいるんだけれどね」

 それでも月島にとっては、ふと気付けば隣に神本が立っていて、何をするでもなし、とかく自分の視ようと試みてもこなかった可能性を彼にとっての意に換言して見せてくれる神本と過ごす時間に小気味好こきみよさは今の自分にとって欠くべからざるものだと思っていた。芯がしっかり通っているようであるのにどこか粗略そりゃくが目立つ、不完全で、だのに月島が持たない要素ばかりを方々から拾い集めてくる忠犬だ。


「まあ、その。…なんだ。…それでも構わないから。…これからも、私の傍に居ろ」


「はい、録音完了」

 奸佞邪智かんねいじゃちの極みのようなしたり顔で神本東矢は死の言葉を吐き連ねた。神本の手にはボイスレコーダー。


 月島は矢庭に身を横たえていたソファから跳ね起きて忽ち叫んだ。「神本、貴様あ!!」

「これだから先生の従者はやめられません。こんな可愛い生き物を他の誰の手にだって死んでも渡してやるものですか。本来であれば悪い蟲が付かぬように厳重に囲繞いじょうして鄭重ていちょうに箱に詰めてしまいたい程ではあるのですが、…まあ、今日のところはこれでいいでしょう、このように言質も取ったことですしね? 沈黙は金、雄弁は銀。言わぬは言うにまさるとは先生こそが得手とする古諺こげんであった筈ですのに、はてさて、すっかり毒気を抜かれましたね、月島先生?」

「消せ。…消せてっめ、コラあ!! …え、なんで? なんでそういうことすんの? 神本、…おま、…誰に対してそんな反抗的な態度を取っているのか理解してんのマジで!!」


『まあ、その。…なんだ。…それでも構わないから。…これからも、私の傍に居ろ』

 神本が機材の再生を押下するや、すぐさま自分の恥辱ちじょくつまびらかになった。月島は頭を抱えて絶叫した。


「もういい、お願い、殺して」

「先ほどは大分僕のことを虚仮コケにしてくれましたのでね、ささやかなが意趣返いしゅがえしというもので御座いますよ。…因みに、僕そろそろ帰りますんで。こんな素敵ボイスが無料で入手出来るなんて僥倖ぎょうこうあやかったものですから、自宅に戻って軽く百万回ほど再生しておきますね。…あ。おかしな真似はしない方が身の為ですよ、高く麗らかに澄み渡る凛冽りんれつとした先生のお声はいま正に僕が質草しちぐさに取っている訳ですから、どうかご賢察の程、宜しくお願い致します。…それではまた、明日の朝にお目にかかりましょう。お疲れさまでした」

「くっそ! お前! 出禁だからな!? 二度と息をしたままウチの敷居を易々とまたげると思うなよ、次に二度同じツラ提げて私の顔を拝めると思うなよ!? …鬼だよ、悪魔だよ、愛すべき主人に対する遺恨いこんを晴らせてそんなに満足なの!? …ねえ、あの、ちょっと待ってよお願いだから! …消してよ? ちゃんとそのデータ根元も残さず焚き上げてよ!? ねえ、神本!!」




【この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません】



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月島女史は面妖と戯る 京谷アサキ @asaki_Abt12

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