滝川の過去 ― 家族の形 ―
あの日以来、葵の心は落ち着きを取り戻しつつあった。
少しだけ、自分のことを信じてみようと思うことができた。
けれど、家族の中で自分だけが異質の存在である……そんな思いを消すことはできなかった。
幸せそうに笑う母親、家族のことをいつも気遣ってくれる優しい父親、天使のように無邪気な妹……理想の家族が目の前にいた。自分がいなければ完璧な形。
そう、自分さえいなければ……
俺はおやじに似ている。母さんを心身共に苦しめた憎いおやじにそっくりだ。
俺の顔を見ていたら、きっとこの前のように、母さんは苦しくなる。苦しくなったら笑えなくなる。
大好きな家族だ。大好きだからこそ、この完璧な家族の幸せを壊したくない。
でもどうすればいいんだろう?
俺が黙っていなくなったら、おふくろはやっぱり悲しむだろうな。
でも、もう重荷にはなりたくない。
家族を守るために自分はどうするべきか……一途で不器用な葵は考え続けた。
そして、考え抜いた末に、一つの結論に達した。
じいさんの子になればいいんだ。
突拍子もない思いつきだったが、これが一番いい方法に思えた。
「俺、将来大工になりたいから、じいさんの子になって、じいさんの家で暮らしたい!」
中学三年の初め、葵は両親と善三じいさんに懇願した。
母親の秀子は絶句した。後悔の念に押しつぶされた。
葵と口論した時に、自分が一瞬怯えた表情を見せてしまったことに、秀子は気づいていた。いつの間にか、父親そっくりになってきた葵に、反射的に身構えてしまった。取り繕う余裕も無かった。
葵を傷つけたことを謝りたかったし、自分は大丈夫だから心配するなと伝えたくて、その後なんども話をしようとした。でも、そのたびに、葵に逃げられてしまい……でもそれは、単なる言い訳でしかなかったと気づく。
なすすべもなく今日まで来てしまったことを深く後悔した。
もっと、早く葵と向き合っていれば……
柴田の父さんは困惑していたが、言葉を選ぶように、考えながら尋ねた。
「みちる(妹)が生まれて、気を使っているのなら、心配することは無いよ。そんな風に思わせてしまったのなら、俺が至らなかったからだ」
「違う! おれ、父さんの事大好きだ! 俺のこと、すげえ大切に思ってくれているのも分かっています」
お父さんと初めて呼んだ日、柴田が凄く喜んでくれたことを覚えている。
「だったら、なぜ、そんな事を思うんだい?」
「俺、本当に父さんのこと好きです。みちるの事もかわいいし。でも、だから……」
だから、守りたいんだ……という言葉は飲み込んだ。
「でも、俺、大工になりたいから、早くからじいさんのところで修行したいんです」
「修行するのはいいけれど、家から通えばいいと思うし、何もおじいさんの子になることは無いじゃないか。名前が違ったって、後を継ぐことはできるよ」
柴田の父さんは穏やかに言ってくれた。
「将来、『滝川木工店』を継ぎたいから、今から『滝川』になっていた方がいいと思って」
優しい言葉に、何もかも甘えたくなる。でもそれでは何の解決にもならないと歯を食いしばる。
葵は必死になって、大工になると言う主張だけを繰り返した。
そんな葵の様子を、善三じいさんは黙って見つめていた。
葵の心の中の『恐怖』や、新しい家族の中での生きづらさを一番理解していたのは、じいさんだったのだろう。
「跡継ぎができれば……そりゃ嬉しいな」
静かにそう言ってくれた。
その時、思い余ったように、母親の秀子が、泣きながら葵の肩を抱きしめた。いつの間にか、自分よりもはるかに広くなった肩幅。
その途端、葵は身をよじって振りほどいた。
突然の自分の行動に、当の本人である葵が一番驚いた。見開かれた目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
それは、葵自身にとって思いもよらぬ涙。
抱きしめてくれた母の温もりに、あの日の光景がフラッシュバックした。
あの時と同じだ……俺はどうして、上手くやれないんだろう。母さんを泣かせたくないのに、いつも泣かせるようなことばかりしてしまう。
不覚にも零れ落ちた涙は、止めることができなかった。
葵の涙に、秀子は気づいた。
葵の傷がどれほど深かったのかを。
あの日、全身で耐えていた葵が、どれだけの傷を負っていたのかを、秀子は思い知った。
抱きしめてあげたい。
抱きしめなければいけないのに。
抱きしめれば葵の心は血を流す……
母親なのに、どうしていいかわからないなんて! 無力感でいっぱいになった。
秀子は葵の握りしめられた拳に手を添えて、震える声で謝ることしかできなかった。
「ごめんね……母さん、何にもしてあげられなくて。あなたを苦しめてばかりで、ごめんね」
「苗字なんてものは、別に家族の絆を表すものじゃないからな」
善三じいさんが、呟くように言った。
「家族ってのは、家と似ているな。どっちも決まった形なんてねえんだよ。家はな、柱の一本一本、壁の一面一面が、お互いに支え合っているからこそ、こうして建っていられるんだ。家族だって同じさ。お互いに思いやって支え合っている者同士があつまりゃ、それはもう立派な家族ってもんさ。だから、お前たちは、ちゃんと家族だよ」
葵、秀子、柴田の父さん、三人を見回してそう言った。
「だがな、家族だからって、全てを与えられるわけじゃ無いんだよ。いつも救えるわけでも無いんだ。そんなときは、他人様に助けてもらえばいい。ありがとうって言って、助けてもらえばいいんだよ」
秀子の肩を軽くポンと叩いて言った。
「時には、自分一人で歯を食いしばって乗り越えなきゃいけない時もあるかもしれない。でも、そうやって、一生懸命生きていりゃ、それだけで十分さ」
そう言って、葵の肩もポンと叩いた。
「葵が、こんなおいぼれじいさんと一緒に住みてえって言ってくれているんだ。こんな嬉しいことはないさ」
善三じいさんは、そう言って、心の底から嬉しそうに笑った。
こうして、葵はじいさんと養子縁組をして、
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