滝川の過去 ― 太陽 ―

 その日も、言いようのない暗闇に押し潰されそうになって、あおいは一人やみくもに町中を歩き回っていた。

 あまりにも適当に歩き過ぎて、ようの家の近くにまで来ていたことに、気づいてさえいなかった。


「あれ? あおくん、こんなところでどうしたの?」

 急に呼びかけられてびっくりして振り向くと、陽がニコニコと手を振っている。

「こんなところで何しているの?」

「別に……散歩だよ」

「へー散歩していたんだ」

「そう言うお前は何しているんだよ」

「私、この近くに住んでるし、今はピアノの帰りだよ」

 そう言って、習い事のバッグを上にあげた。

「ピアノ続けているんだ。偉いな」

 思わず言ってしまってから、くるりと背を向けて走り去ろうとした。

 

 危うくこいつのペースに巻き込まれるところだったぜ!


 ところがハシッとTシャツの裾を掴まれて身動きできなくなった。

「ちょっと、待ってよ!」 

「なんだよ!」

「せっかく会えたんだし、おしゃべりしてこうよ」

「するかよ!」

「いいじゃん」

 陽はそう言うと、母親へ遅くなる旨の電話を入れてしまった。


 なに、勝手に決めてんだよ!


 葵はポケットに手を突っ込んだまま、それでも一応逃げずに立っていた。

「お母さんに連絡したから、大丈夫だよ。少しおしゃべりしようー」

「お前、暗くなると危ないから早く帰れよ!」

「あおくんが家まで送ってくれたら平気だよ。あおくん強いから安心」

「な、なんで俺がお前を送らなきゃいけねえんだよ。それに、俺は全然強くない!」


『お前の父親は、乱暴者でも、悪い奴でも無いんだ。ただ、ちょっと弱かっただけだ』

 じいさんの言っていた言葉が頭の中を巡った。


 俺は強くなんかない!


 けれど、結局、ように連れられて、近所の公園のブランコに座らされた。

 

 ブランコなんて、何年ぶりだろう……


「あおくん、私が聞いてあげるから、言ってみてよ。なんでそんな顔しているの?」

 そう言いながら、陽はいきなり両の人差し指で葵の額を撫でた。

 思わずブランコから転げ落ちそうなほど驚いた葵だったが、必死の思いで踏みとどまる。

「いきなり何すんだよ! 触るなよ!」

「だって、眉間にすっごい皺よってて、伸ばしたくなったんだもん」

 ケロリとした顔で言ってきた。

「あおくんの顔、すっごく悲しそうで、すっごく苦しそうだから、私が悩みを聞いてあげるって言ってるんだよ。三人寄れば文殊の知恵って言葉があるじゃん。一人より二人だよ。だから、言ってみて!」

 真っすぐな瞳を向けてくる。


 お前に話して解決するようなことじゃねえよ!


 そう思いながらも、見つめられて思わずドキドキする。

 まあ、話してやってもいいか……という気分にさせるから、陽は不思議な奴だなと思う。


 こいつ無防備にちょろちょろついてくるからな。俺は危ない人間だってことを今のうちに言って、追っ払っておいた方が安全だな。


 葵はそう思い直して話すことにした。

「俺は短気で喧嘩っ早いからさ、きっといつか誰かをぶん殴って、大怪我させてしまうと思うんだ。そんな危ない人間だからお前もこれからは纏わりつくな」

「悩みって、それ?」


 そんな単純な話じゃねえけどよ。

 と思いながらも、めんどくさくなって、ああと頷いた。

「他人に怪我させたくないんだったら、喧嘩しなきゃいいじゃん」

「だから、喧嘩しようと思ってなくても、思わず手が出ちゃうって話をしてんだよ。俺は臆病で弱い人間だからさ」


 陽の目が急に尊敬のまなざしに変わったのを見て、葵はびっくりしてポカンと口を開けた。

「あおくんって、すっごい深いこと考えているんだねー」

「おい! 真面目に話しているんだぞ!」

「真面目だよ。大真面目に言ってるよ!」

 陽の目は確かに真剣だった。

「でもね、私知ってるよ。あおくんが怒る時って、いつも陽のことを守るためだよね」

「はあ? そんなことあるか!」

「あるよ! 本当だよ! 私の筆箱取った子から取り返してくれたりさ」


 うわ! お前それいつの事だよ! 

 しかも喧嘩の規模がめちゃくちゃ小さい。


「他にもあるよ~運動会で負けたのは私が転んだせいだってみんなに言われて泣いてたら、怒ってくれたしさ」

 のほほんとした陽の言葉に、急に肩の力が抜けた。


 そうなんだよな……俺はこいつの、このちょっとピンぼけな答えに弱いんだ。


「いや……そりゃ、たまたまそう言う時もあったかもだけど」

「何かを守るためだったら喧嘩してもいいんじやない?」

「それはそう思うけど、そんな時ばかりじゃなくて、どっちかって言うと、むしゃくしゃしてあたり散らす喧嘩の方が多いんだよ」

「ふーん、そうなんだ。でもさ、なんであおくんは、自分が人を傷つけるかもってそんなに心配しているの?」

「それは……」


 葵は勇気を振り絞るようにして答えた。

「俺の父親は母親に暴力振るっていたから……だから俺もその血を引いてるから、危ない人間なんだよ」

「えー! なんでそうなるの?」

「なんでって、俺はおやじとお袋のDNAを引き継いでいるから、暴力的な遺伝子も引き継いでいるって話だよ」

「DNAって、あのらせん状のぐるぐるだよねー」

「お前なー」


 陽は少し考えるように間を空けたが、いい事を思いついたような顔をして、

えへん! とわざとらしい咳ばらいをした。

「暴力の遺伝子なんて無いと思うけど、もしあるとしたら、それは人類全員が持っていると思うよ。だって、みんな自分を守りたいじゃん」

「守るための暴力?」

「そう、だから、みんな平等に持っているのよ。自己防衛本能って奴よ!」

 得意げに言ってくる。


「それに、遺伝って隔世遺伝とかいろいろなパターンがあるから、そんな単純な引き継ぎの仕方してないと思うよ。あおくんが考えているみたいに単純だったら、人類アッと言う間に滅んでたと思うよー」

 なんか急に理科の授業のような話にすり替わっているな……と思いつつも、葵はさっきまでのどうしようもない恐怖の気持ちが薄らいでいくのを感じた。


「だから、あおくんの引き継いだ遺伝子パターンは、あおくんだけのスペシャルバージョンなの」

 陽は葵の目を真っ直ぐに見つめると、念を押すように言った。

「だから、あおくんはあおくんだよ! お父さんとは違うんだよ! 忘れないでね!」


 俺は俺……おやじのコピーでは無いんだ。


「だから、心配しないで大丈夫だよ!」

 そう言って、とびきり明るい太陽のような笑顔を見せた。



 陽と話した後も、恐怖が消えたわけでは無い。

 けれど、あの時飲み込まれそうになった、どうしようもない暗闇は薄まった。

 自分の弱さをさらけ出してもなお、変わらず照らしてくれる太陽が、暗闇を追いやってくれるのを感じた。


 それ以来、陽は葵にとって、特別な存在になった。


 そして、いつも無意識に、あの太陽のような笑顔を探していた。

 

 があれば、俺は大丈夫だ。

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