滝川の過去 ― 傷 ―
次の日、珍しく滝川は仕事を休んだ。
朝から一階の作業場に籠っていたが、物音は何もしない。心配になった陽人は、昼食を届けると言う口実をつけて、思い切って覗きに行ってみた。
音をたてないように気を付けながら扉を開けると、立てた片膝を抱え込むようにして、座り込んでいる滝川がいた。目線の先には、昨夜届けられた机。
陽人はしばらく逡巡していたが、ようやく意を決して声をかけた。
「滝川さん、お昼持ってきました」
「あ、ああ、陽人、悪かったな」
ようやく気付いた滝川が、ダルそうに陽人の方へ顔を向けた。
「この机、大切な人のなんですよね」
「そうか……茜に聞いたんだな」
「はい……」
「陽人、昼めしは?」
「あ、食べてきました。滝川さんも食べてください」
陽人が持って来てくれたおにぎりに手を伸ばしながらも、いつもの力が無い。
「心配させて悪かったな」
「いえいえ、物音しないから、お昼持っていってもいいかなって思って」
陽人は努めて何でもない様子で、明るい笑顔で答えた。
その真っすぐな眼差しに、
滝川の心の扉がカチリと開く。
陽人って、なんか陽と似てるな。
どんな話でも、こいつになら話してもいいかって思えてくるから不思議だ……
「陽人には、話しておいたほうがいいかもしれないな」
滝川はそう言って視線を逸らすと、ぽつりぽつりと過去を語り始めた。
滝川は、生まれた時は
父親はサラリーマン、母親は近所のスーパーでパートタイマーをしている、ごく平凡な家庭。
だが、
ストレスの捌け口は母親への暴力。それはだんだんエスカレートしていった。
そんな父親が怖くて、葵はなるべく近づかないようにしていたのだが……
その日父親へ水を持っていったのは、たまたまだった。
いや、違う。良い考えが浮かんだと思ったからだ。
母親を助けてあげたいと、無意識にそう願っていたのだろう。
酒では無くて水を持って行ってあげれば、父さんは暴れないで済むはず……子ども心にそう思ったのだ。
ところが、その考えは裏目に出た。父親は酒で無いことに気づくと、コップを投げつけた。そして、
「このクソガキ!」
と叫びながら、葵に向かってきた。
ぶたれる!
そう思った時、ぎゅっと温かいものに包まれた。
だが、その温かいものは、次の瞬間、衝撃で大きく揺れた。
何度も何度も揺れながら、それでも必死に葵を抱きかかえていた。
それは母親の秀子だった。父親に背中を殴られ、蹴られ……それでも葵を守りたい一心で耐えていたのだ。
葵の目から涙がこぼれた。
母さん!
葵は自分のしたことのせいで、母親が殴られていることに気づくと、更にショックを受けた。
母さん、ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい……
心の中で何度も何度も謝る。
そして、深く、深く、深く…… 傷ついた
父さん、もうやめてよ!
やめて!
やめてくれよ!
声のない叫びをあげる。
「やめろ!」
その時、低い声が部屋に響いた。
葵の心の叫びをすくい取ってくれたような静かな怒りを秘めた声。
続いて葵の目に、善三じいさんに腕を捩じり上げられている父親の姿が、スローモーションのように映り込んできた。
近所の人から様子を聞いて、心配して駆けつけたところだったのだ。
「やめろ!」
もう一度、低い静かな声でそう言うと、父親の腕をさらにきつく締めあげた。
善三じいさんは大工だったので、普段から鍛えている。身長は高いが細い葵の父親は、アッと言う間に抑え込まれた。
「二人は連れて行く。少し、頭を冷やせ」
じいさんはそう言うと、母親と葵を連れて帰った。
その後、両親は離婚して、母親は実家へ戻り、葵は
しばらくして、父親はアルコール依存症を改善する施設に入院した。
葵は思わず叫んだ。
「あんな奴、病院に入ったって、治るわけないよ!」
でも、善三じいさんは静かに言った。
「お前の父親は、乱暴者でも、悪い奴でも無いんだ。ただ、ちょっと弱かっただけだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます