ラピスのオーナー

 いつもは滝川が一人で黙々と作業をしている仕事場に、今日は珍しく大勢の人が集まっていた。ブーランジェリー・ラピスのオーナーの兵藤圭介ひょうどうけいすけと広報担当の藤本京香ふじもときょうか、設計デザイナーの青木卓也あおきたくやと、秋本不動産社長の秋本恒夫あきもとつねお、そして陽人の五人だった。改築工事の進捗状況を確認しに来たのだ。

 

 兵藤は、パン職人と言うよりは、テレビに出ている芸能人のような華やかな雰囲気を持つ人だった。実際、何度かテレビで紹介されたこともあり、身振り手振りを交えてよくしゃべった。

「やっぱり、カウンターを檜にしたのは正解だったな! いい香りだ」

 厨房が見えるカウンター席は、まるで寿司屋のカウンターのような感じで、低いガラス越しに対面形式で接客ができるようになっていた。ガラスの向こう側には、大理石の作業台が広く備え付けられていて、パン生地を打ったり、成型したりする様子が見えるようになっている。


「実演販売みたいで、面白いだろ!」

 兵藤は自分のアイデアに満足げである。

「この喫茶店は、僕にとっては原点回帰がテーマなのさ!」

「原点回帰?」

 秋本社長が聞き返すと、

「ああ!最近の僕はラピスの営業に忙しくてね、なかなか自分でパンを作る時間が無いからね。でも、もう一度ここで、自らの手でパンを作ってみたいのさ。パリに修行に行っていた時みたいにね」


 兵藤は若かりし頃、単身パリへ修行に行って本場の味を極めたことが、ブーランジェリー・ラピスを一流店へ押し上げた要因の一つだった。

「自分で作ると言うと、ここのお店は圭さんが直接営業するのかい?」

「毎日は無理だけど、できる限り来るつもりだよ。それで、恒ちゃんにちょっとお願いがあるんだよねー」

 兵藤と秋本は歳が近い。今回のプロジェクトで初めて顔を合わせたのだが、あっと言う間に意気投合して飲み仲間となり、今ではお互いを『圭さん』『恒ちゃん』と呼び合うほどになっているのだった。

「なんだよ?」

「こっちにセカンドハウス欲しいんだよね。どこか紹介してよ」

「この町に引っ越してくるつもりかい?」

「まあねーこの町、何気に便利だよな。東京と観光地の真ん中くらいでさ。高速のインターも近くにあるし、海の幸も上手い! 住み心地よさそうだよね」

「どこぞの不動産会社の宣伝文句と一緒のこと言うなよ」


「でも、田舎と都会、自然と便利さがごっちゃになっていてさ。それを中途半端ってとらえる人もいるだろうけれど、僕はいいなと思ったんだよ。だから、将来的にここに住んでのんびり過ごすのもありかなってね。家族のいる恒ちゃんと違って僕は独身だからね、身軽~」

「そんなに一気に散財して、会社大丈夫なのかい?」

「このショップはね、ラピスの営業とは切り離した、コンセプトショップって言うか……うーん、ラピスをもっと深く知ってもらうために作る、実験的なお店と言う位置づけ」

「要するに、君の道楽ね」

「ま、そうとも言うかなー」

 秋本社長に突っ込まれても、どこ吹く風で兵藤は続ける。


「でも、今回のプロジェクトは開業資金が安く抑えられたからね。古き物を見事に再生させるタッキー君の腕があれば、材料費がほとんど掛からない。助かるよー」

「兵藤さん、そのって言うチャラい呼び方やめてください」

 滝川が憮然として抗議した。

 兵藤はみんなに、軽い呼び名を付ける名人らしい。秋本社長も『恒ちゃん』と呼ばれているし、他にも、設計デザイナーの青木は『たっくん』、広報の藤本は『京香女史』と呼んでいるのだった。

「いいじゃないか!アイドルみたいで」

「いや、だからそれが嫌なんですよ」

 言っても無駄と言うことが分かっているが、滝川はとりあえずもう一度抗議した。


「滝川君の腕は、本当に大したものだと思います。でも、滝川君の腕だけでどうにかなる事では無いですよ。兵藤さん!」

 そう言って話を戻したのは、設計デザイナーの青木卓也あおきたくやだった。青木は四十歳になったばかりだが、すでに独立して設計事務所を経営していた。木材を豊富に使ったデザインが得意で、兵藤とは、テレビのプロフェッショナルを紹介する番組で共演して出会い、その縁で、今回初めて一緒に仕事をすることになったのだった。

「元々この家は、とても良い木材を使って、丁寧に作られているんですよ。それから使っていた人も、綺麗に手入れをして住んでいた。だから今、滝川君の腕で再生できるわけで、元々チープに作られていたら、再生することなんてできないんです。滝川君のおじいさんの腕は、本当にすごいですよ」


「ありがとうございます!」

 祖父の事を褒められて、滝川の瞳がグッと輝きを増した。

「なるほどなるほど! 物を長く生かすためには、素材を大事に選ぶことが第一段階で、第二段階としては、継続して管理していく力が必要ってことだね。これは、経営にも生かせる名言だよ、たっくん!」

「兵藤さんに言われると、なんか胡散臭く聞こえるから困りますね。でもありがとうございます」

 青木は苦笑いながら礼を言った。


「そう言えば、みそ汁とパンを提供するって言っていたけれど、みそ汁なんて、圭さん作れるの?」

 秋本が不思議そうに尋ねると、

「ああ、それなら駅前のアーケード街にあった、小料理『さくら』のおばちゃんをスカウトしておいたから」

「え! いつの間に!」

 秋本がびっくりした声を挙げた。

「おばちゃん、腰痛いからリタイアするって言って、お店閉めたんじゃなかったっけ?」

「ああ、だから、監修って立場さ。で、実際に作るのは、料理学校出たてのフレッシュな子を採用して、おばちゃんのレシピを完全に再現するための特訓をしてもらうんだ。いやーあそこのみそ汁はうまかったからな~生き返るって感じ。衝撃的だったよ」

 一杯の味噌汁で息を吹き返す感覚は、つい最近陽人も感じたことだった。なんとなく、兵藤の目指すお店のイメージが沸いて、ワクワクしてきた。


「もともと僕がパン作りにのめり込んだのは、パンはものすごく生活に密着していると言うことと、長い歴史と伝統が詰まっていると言うことが理由なんだよ」

 兵藤はみんなを見回した。

「みんな腹を満たすために食べなきゃならないからパンを作るんだけど、よりおいしく作るために、昔の人が工夫をし続けてきたから、今、色んな種類の美味しいパンが食べられるんだよね。先人たちは、きっと一生懸命研究したんだと思うよ。まるで、理科の実験みたいにさ。どの酵母がいいかとか、温度、焼き時間、何回も試行錯誤してね。一つのパンには、そんな古の人々の汗と、涙の結晶が……いや、どっちも入っていたら食べたくないな。ま、要するに知恵の宝庫だってことさ!」

 そう語る表情は熱を持ち、とても真剣だった。


「で、もちろん日本にも、生活に密着していて知恵が含まれている食べ物がたくさんあるよね。その一つが豆製品で、僕は味噌に決めたのさ。以前から和と洋のコラボをやってみたかったからね」

「君って人は、本当に面白いね!」

 以前、滝川が兵藤について言った同じ言葉を、秋本も口にした。

「そうかな。僕は自分が面白いと思うことをやっているだけだよ!」

 

 陽人は傍でそっと聞きながら、兵藤の行動力に舌を巻いた。


 兵藤さんって、ものすごくエネルギッシュな人なんだな。さすが、仕事で成功している人って感じ! 周りの人をいつの間にか巻き込んで、でもなんか楽しい気分にさせてしまう天性の人なんだ!


「君、名前はなんて言ったっけ?」

 急に、兵藤が陽人に声を掛けてきた。

「あ、はい、牧瀬陽人まきせはるとです」

「じゃあ、君はマッキー……いや、なんかマッキーペンみたいで変だね。『はるくん』でいいね」

 兵藤は早速陽人にも呼び名をつけた。

「では、はるくん。質問です! 君は一つ百五十円のパンに、どれだけの人の手がかかっているか考えながら食べたことはあるかな? あるいは、百五十円のうち、どれだけがコストでどれだけが儲けの部分になるかなんて考えながら食べたことは?」

「え! な、無いです」

「そうだよね! それが普通だ」


 俺はお腹がいっぱいになればそれだけで十分なんだから、そんな事考えたことなかった。


「我々のような経営の立場にならなければ、そんなことはいちいち考えないし、買う側からすれば、できる限り安くおいしい物が買えれば、それで十分だからね」

 兵藤は続けた。

「安い物を提供するには、大量に生産して大量に売らなければならないんだ。大量に作るためには、商品の作り方をシンプルにするとか、画一的にするとかして、作業を機械で自動化しないと難しいよね。そうなるとどうなるかな?」

「えっと……?」

 陽人がまごまごしていると、秋本が助け船を出した。


「個性とか、手作りの良さとかが失われてしまうと言いたいんだろう」

「もちろん、大量に安い物を生産して、より多くの人に提供することは、とても大切なことだし、社会を豊かにしていくために絶対に必要なことなんだよ。しかも僕は経営者だからね、今の値段と質を維持する義務を負っているんだよね。いつも食べているパンが高くなったり、まずくなったらいやだろう」

 兵藤の表情は、さっきまでの軽いおじさんではなく、企業のトップとしての顔だった。

「でもさーそれだけじゃ味気なくなっちゃってね。時には、手間暇かけて作って、それを大切にしてくれる人にだけ、食べて欲しいなと思ったりしてね」

「あ、その気持ちわかります!」

 陽人は、滝川が丁寧に修理してくれたオルゴールの事を思い出して、思わずそう言った。

「この大理石の作業台で試行錯誤して、偶然が作り出すを作る。それは、今この時にしか作れない一点もの。唯一無二の存在さ!」

 兵藤はパンをこねるしぐさをした。大切そうに手の中にできあがったであろうパンを想像して見つめる。

「まあ、僕が作るのは、パンだから、最後は食べて無くなっちゃうけどね!」

 そう言って、ハハハっと笑った。

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