第32章 魔手

 リエール卿が歩き去り、フラクスも少し離れて控える。それを待って、ヴィーはあらためてディルに向き直った。

 ディルは無言でまっすぐこちらを見つめたままだ。

 ヴィーは観念したように一度大きく息を吸い、それをそっと吐き出してから、静かに切り出した。

「リエール卿から指摘されるというのは想定外でしたが……。いずれ貴方も気付くだろうとは思っていました。グネモン邸での話の通り、貴方が目にしたメリア署名は私のもの――つまり、貴方は私に関わる陰謀に巻き込まれたのです。確証はありませんが、恐らく貴方の父上も……」

 そこまで話したところでディルの目に再び涙が膨れ上がり、ヴィーは口を閉ざす。

 わずかな沈黙ののち、ディルが震える唇をどうにか動かした。

「……ヴィー……」

 この場で初めて、ヴィーはディルの声を聞いた。

 ディルは嗚咽おえつを堪えるようにうつむく。

「ヴィーの、せい、じゃない……って、分かって……る……」

「ディル……」

「だ、だけど……」

 しゃくりあげながらディルは握っていた花から右手を離し、その甲で乱暴に両目を擦る。しかし涙がとめどなく流れ続け、その手はただ濡れるだけだった。

「おれ……どうして、旦那様が……そんな、こと……したのか分かん、なくて……。あ、あたま、ぐちゃぐちゃ、で……。ど、したらいい、か……分か……らない……」

 ディルの言葉にヴィーは痛ましげに眉根を寄せる。

 無理もないことだった。

 そもそも、彼がグネモン邸から助け出されたのはつい昨日のことであり、ヴィーの素性を知ってまだ一日とっていない。敵地ではないにせよ、初めての場所で知らない人間に囲まれている現状だけでも負担だろう。

 そこへ息つく間もなくこのような衝撃の事実を聞かされて、まともな思考ができるはずもないのだ。

(大人相手でも性急だ。ほんとうに、あのひとはなんて無茶なことを)

 リエール卿を野放しにしたまま、ディルから目を離した自分が悪かった。

(こと剣と主命に関しては手加減ができないひとなのだから……!)

 文句は尽きないが、この場にいない人間をなじっている場合でもない。

 どうしてやればよいのか、ヴィーにも正解など分からなかったが、自身の厄介な事情に巻き込まれ、こうして泣いている子供を前にして、これ以上自分が狼狽うろたえた姿を見せるわけにはいかなかった。

「……ディル。難しいことを考えるのは後にしましょう。まずは貴方がいま、何を感じているのか聞かせてください。貴方の気持ちを」

「気持ち……?」

 ディルはヴィーを見上げて訊き返す。その顔に向けて、ヴィーは頷いた。

「ええ。……私のせいかそうでないかは、一旦置いておきましょう。今ここで自分に嘘をついて心を殺しても、きちんと向き合ってあげない限り、本当の気持ちは決して消えはしません。許せない、でも、殴りたい、でも……まずは思ったことをそのまま教えて。何を言っても心配はりません。貴方が私の恩人であるという事実は変わらないのですから、悪いようにはしない、と言った約束は生きていますよ」

 ディルはしばし地面を見つめて考え込む。幾度か瞳を揺らしたのち、やがてぽつりと言った。

「悲しい……」

 その言葉と共にまたひとつ、大粒の涙が零れる。

「……おれ、誰が、とか……どうして、とか……分かんない、けど」

 そこで言葉を切ると視線を上げ、ヴィーの瞳を覗き込んだ。

「……父さんがもう、いないのが……。あとそれが……誰かが、ヴィーに悪いことしようとしたせいだ、っていうのが……悲しい……」



 その言葉は真っ直ぐに、ヴィーの胸をいた。

 自らの素直な気持ちに目を向ける――自分で言っておきながら、それはヴィー自身はそうしたくてもできなかった多くのことのうちのひとつだった。

 なぜなら、どのような悲しい目や辛い目に遭っても、ヴィーには常にその事態に至るもつれた因果の糸まで見えてしまっていたからだ。

 立場の違い、利害の不一致、そして自身に流れる血にまつわるしがらみ――単純に善と悪、敵と味方に分け難いそれらが、ヴィーが個人的感情に心を揺らすことを常に阻んできた。

 だいいち、彼にまつわる凶事は常に政治的な異変を伴う。その対処が最優先であるがゆえに、その場に立ち止まり自らの感情を受け止めることなど、彼には許されない行為だった。

 灼けつく憎しみ、痛いほどの悲しみ、燃えるような怒り――どこに向けるべきかも分らぬまま、未消化で積み重なった感情は、今なお心の奥底に確かに存在する。

 それらは複雑に絡み合ったまま、過去という記憶の深層に押しやられて、一つ一つをひも解き、すくい上げて昇華させることは今更不可能だろう。……仮に、ヴィーが今の身分から解放され、心のままに振る舞うことが許される身となったとしても。

(……そうか)

 ヴィーの中で唐突に、何かが繋がる。

(私がこの子に重ねていたのはソレルじゃない……私自身なのか)

 相次いで両親を亡くし、しかも父の命は他者によって奪われ、それをきっかけに自らはそれまでの居場所を失い――背景は違っても、ディルの身に起きたことはヴィーの過去と重なる部分が多い。

 だからこそ、ヴィーは無意識にも、自身がその立場ゆえに叶わなかったことをディルには成してほしいと望んでいるのかもしれなかった。

(仮にこの子の心を救えたとして……私自身の心に決着がつくわけではないけれど)

 それでも、辛い出来事に捉われたディルの心が、多少なりとも解放される手助けができたなら、ヴィーはこの皮肉な出会いにも救いを見出すことができるように感じるのだ。

「……ディル――」

 自身の心情を伝えてくれた彼に答えようと、ヴィーは口を開いた。

「ヴァーヴェイン様!」

 しかし切り出した瞬間、少し離れた後方から呼び掛けられ、反射的にヴィーは言葉を飲み込む。

 振り返ると、この屋敷でヴィーの従者を務める若者が緊迫した表情で足早にやってきた。

「何事です」

 静かな声音で問うと、しばらく主人を探し回ったらしく息を切らした従者は、彼の面前に立ち慌ただしく一礼する。

「火急の使者が参りましてございます。急ぎヴァーヴェイン様にお目通り願いたいと申しており……」

 どこからの使者、と彼が口にしなかったのは、この場にいるのがヴィー一人ではなかったからだろう。

 それを察したヴィーは詳細を尋ねることはせず、小さく頷く。

「すぐに行くと伝えなさい」

「は」

 従者はすぐさま立ち去っていった。

 ヴィーは再びディルに向き直ると、身を屈めて彼に視線を合わせる。

「ディル、ゆっくり貴方の話を聞いてあげたかったのだけれど、しばらく難しくなりそうです。必ず貴方との時間は取りますから、それまではここの皆と過ごしていて」

 ディルは鼻をすすりながらこくりと頷いた。

 ヴィーは顔を上げると、離れて控えているフラクスに声を掛ける。

「フラクス。貴方の主人にディルに近付くなと伝えてください」

「は……」

 頭を垂れつつ、いささか歯切れ悪く答えるフラクスに、その理由を知るヴィーは付け加えた。

「どうせ聞きはしないというのは分かっています。ですが、少なくとも私がそう言ったということだけは、あのひとの耳に入れておいてください」

「御意に」

 フラクスの答を待って、ヴィーは顔をディルに戻す。

「ディル、残念ながら私はリエール卿の主君ではないので、あのひとの行動を確実に制限することができません。ですから、もしまた呼びつけられたら拒むか、難しければ逃げてください」

「えっ……」

 ディルは困惑してヴィーを見上げる。

「貴方は今、このソーン伯家の人間です。当主である私の意向を伝えてある以上、それを無視するリエール卿に応じなくても貴方がとがめられることはありません」

「で、でも……」

 そうは言っても、自分があのリエール卿直々の呼び出しから逃れるなど、そんなことが可能なのか。不安にディルは俯く。

 ヴィーは彼に顔を寄せ、その耳にフラクスにも聞こえぬよう小声で囁いた。

「何かあったら、厨房のある棟から出て、王城が見える方角に逃げてください。大きなカシの木の向こうに山査子サンザシの植え込みがあります。貴方の身体なら下を潜れるでしょう。それを抜けると白い印のついた木戸がありますから、そこから向こう側に出て。木戸はいくつかあるので間違えないでください。白い印です。――分かりました?」

 その真剣な声に、ディルは緊張に表情を強張らせながらヴィーの顔を見る。何かを言いかけ、しかし思い直したように口をつぐんでから、同じく小声でたどたどしく復唱した。

「……厨房のところから、王城の方に逃げて、えと……樫の木の向こうの山査子を潜って、白い印の木戸」

 ヴィーは頷いた。

「必ず迎えに行きますから」

 心細さからか目に涙を溜めてこちらを見つめるディルに、ヴィーはそっと微笑んだ。

「……貴方は昨夜、私が何者か知ってなお『ヴィー』と呼んでくれた。真相を知らされた貴方がこれから私のことをどのように思おうと……私にはそれで充分です。ですから――あらためて言いますが、私の約束を決して忘れないでください」

 ディルの頭を一度だけ撫でて、ヴィーは身を起こした。咄嗟に声を詰まらせたディルに再度微笑みかけると、フラクスに彼を元いた場所まで送るよう指示する。

 フラクスが了承すると、ヴィーはそのまま身を翻し、先ほど現れた従者の後を追って歩き出した。



 ディルはフラクスによって、厨房のホリーの許まで戻された。

 その間、二人とも互いに口を噤んだままだった。

 ディルにしてみれば、フラクスはやはりあのリエール卿の従者なのであり、到底心を開ける相手とは思えなかったし、フラクスもまた、そんなディルの心情を汲んでか、何も言わなかった。

 散髪したときとは打って変わって打ちひしがれた様子のディルに、ホリーはまなじりを吊り上げてフラクスを睨んだが、彼は困ったようにいかつい顔に苦笑を浮かべ、すまない、とだけ彼女に告げて去っていった。

「大丈夫かい? いったい何された……なんて訊いちゃいけないのかもしれないけど」

 ディルが客人の貴族の意向で連れていかれたことを思い出したらしく、ホリーの口調ははばかるように尻すぼみになる。

 ディルは無言で首を振った。何かをされた……というわけでもない。ただ、厳しい事実と問いを突き付けられただけだ。

「……おや、その花はどうしたの」

 彼の手に握られた花に気付き、ホリーは覗き込む。黄色い花弁はそろそろしおれ始めていた。

「……親方がくれた……どうせ切らなきゃいけないからって」

 ようやくディルが口を開いたことに、ホリーはあからさまにほっとした表情を浮かべる。

「へえ、園丁のルバーブさんかい? 珍しいこともあったもんだ。それ、奥庭の花だろう?」

 奥庭というのが恐らくあの、自分が迷い込んだ場所のことなのだろうとディルは察し、うなずく。

「うん……。あ……いけない、見せびらかすな、って言ってたのに……持って歩いちゃった……」

 珍しいという相手の言葉で園丁の忠告を思い出し、ディルが困ったように言う。ホリーは呆れた顔をした。

「そんな目立つ花渡しといて、無茶言うねぇ。……ま、ルバーブさんの心配も分かるけど。あんたは新入りだし、ここには悪ガキどももいっぱいいるから、ちょっと変わったもん見たら間違いなくちょっかい出されるだろうね」

 う、とディルは口を引き結ぶ。

 仕える屋敷が変わったのは、今回が初めてではない。そんなディルには、ホリーの懸念が容易に有り得ることとして想像できた。

「そろそろ萎れてきてるし、咲いてるとこをしっかり見てやったんなら、捨ててきたほうがいいよ」

「うん……」

 ディルはしぶしぶ頷いたが、どうにも思い切れずに手の中の花を見つめる。

 ホリーの言うことはもっともだと分かっている。あの園丁とて、すぐ萎れちまうが、と一時のなぐさめであることを承知のうえで渡してくれたではないか。

 それでも、ディルはこれを打ち捨ててしまうことに強い躊躇ためらいを覚えた。

(……そうだ!)

 あることを思いつき、ディルは勢いよく顔を上げる。

「ねえ、ホリー。これ、吊るして乾かしたらだめかな。ほら、薬草みたいに」

 かつて仕えていた屋敷では、薬草や香草が毎年干されていて、その中には花を付けたままのものもあった。恐らくここでも同じことが行われているに違いない。

 しかしホリーは難しい顔をして首を傾げた。

「どうかしらねぇ……。だいいち、奥庭の花は他の香草と一緒に置いといちゃいけないことになってるんだ。同じ場所では干せないよ」

「どうして?」

「あそこの花はみんなが知らない珍しいものばっかりだからね。どれが毒草か分かったもんじゃない。だから無闇に厨房や食糧庫に持ち込んじゃならないって決まりがある」

 ディルは目を見開く。

「えっ、じゃあこの花、ここで持ってちゃいけないの?」

 ホリーは気の毒そうに肯いた。

「そういうこと。だからね、他の人に見つかる前に捨てといで」

 ディルは肩を落とす。

 そこまで明確な理由があっては、拒むわけにもいかない。仕方なく、花を持ったまま外に出た。

 いつしか太陽は建物の向こう側に傾き始め、頬に感じる風もわずかに冷気を帯びている。

(……そういえば、どこに捨てたらいいんだろう?)

 ディルはきょろきょろと辺りを見回す。きっと近くに野菜や果物のくずや、肉を食べた後の骨などを捨てる場所があるのだろうが、位置が分からない。

 ホリーに訊いてくればよかった……と、一度厨房の方に身体を向けたが、しかしそこでディルの動きはぴたりと止まる。

(……別の場所でなら……いいかな?)

 食べ物のそばに置いてはいけない、とホリーは言ったのだ。

 まったく違う場所でなら、この花を捨てずに乾燥させても構わないのではないだろうか。

 人目に付かずに花を吊るせる場所を求め、ディルはふらりと歩き出した。



 どうしてこんなにも、この萎れてしまった花を捨てることに抵抗を感じるのか。

 もちろん、園丁が自分を気遣って渡してくれたものだというのはある。しかし、それだけではない何かにディルは突き動かされていた。

(父さん……ヴィー……)

 それぞれの顔が交互に浮かぶ。

 父の死とヴィーの存在に関わりがあったとしても、以前、侯爵家で自分を見捨てて去ったのだと告げられたときのような、ヴィーに対する印象がディルの中で揺らいでしまうことはない。なぜなら、ヴィー自身が父の死に加担したわけでも、そのような意志があったわけでもないのは分かりきっているからだ。

(だから、苦しい……おれには、もう父さんしかいなかったのに)

 ヴィーという人間を、ディルは変わらず慕わしく思っている。だからこそヴィーに話した通り、ことの真相がただただ堪え難く、悲しかった。

 そんななか、色が異なるとはいえ、一番最初にヴィーと自分を繋げたであろうあの花と同じ花に遭遇したことに、ディルは何らかの意味があるように感じずにはいられない。

 もちろん、ただの偶然でしかないかもしれない。しかし、心の整理がつかず、何をどう考えたらよいのかも分からない今、この花を手放すことが自分にとって正しいこととは思えなかったのである。

 ――とはいえ、新参者のディルに、この屋敷で個人的な場所などない。厨房に身を寄せていなければならない自分が安全にこの花を保管できるところが、果たしてあるのか。

 思い立ったはいいが、その先で途方に暮れて、ディルは辺りを見回した。

 ふと、何かが彼の目を惹く。

 視界の上部を占める青空の中、壮麗な塔がいくつも重なって見える一角があった。

(王城……)

 王都育ちの彼には、何かと考えるまでもない。さして遠くない距離にそびえるのは、紛れもないエキナセア宮だった。

 その方角に視線を彷徨わせ、ディルは無意識のうちにあるものを探す。

 数々の植栽の向こうに、ひときわ堅牢な幹に枝葉を繁らせた大木が目に入った。

(あれが樫の木)

 記憶の中のヴィーの言葉をなぞりつつ、ディルは食い入るようにその木を見つめる。


 ――山査子の植え込みがあります。貴方の身体なら下を潜れるでしょう。


(じゃあ、大人はあんまり来ない場所ってことかな)

 逃げ込む場所として教えられたということは、人の出入りが難しい、あるいは少ない安全な場所なのではないか。

 ディルは見つけた樫の木に向かって踏み出した。

 手前の植栽の合間を縫い、大木に近付くにつれ、その向こうに聞いた通りの茂みが現れる。大人の背をはるかに超える高さで、垣根のように何本もの山査子が切れ目なく左右に広がっており、これでは確かに、下を潜らなければ向こう側には抜けられそうになかった。

 小さな蕾を付け始めたばかりの灌木は、葉陰に鋭い棘を隠し持つ天然の防護柵だ。子供のディルの身体と言えど、油断すればどこかを引っ掛けてしまうだろう。

 どこから潜ろうか、としばらく身を屈めて木々の下を覗き込んでいたが、株と株の合間なのか、枝の下にわずかな隙間のある箇所を見つけた。

 ディルは握ったままの花を傷めないよう慎重に両手を地面につき、そろりと山査子の枝下に頭をくぐらせる。

 そこは外からは目立たないものの、子供の身体であればどうにか抜けられる空間が獣道のように通っている。ディルは思ったよりも容易に茂みの向こうに這い出すことができた。

 だが、そこで顔を上げた瞬間、思わぬ光景に目を見開く。

 潜り抜けてきたディルを囲むように、数人の子供たちが立っていた。いずれもディルと同じくらいか、もう少し年上と見られる、使用人らしき少年たちである。元々こちら側にいたところ、物音を聞きつけてやってきたのだろう。

「おまえ、なに?」

 一番年長であろう、ディルの正面に立つ少年がぞんざいに訊いてきた。

 誰もいないだろうと思い込んでいたディルは驚きのあまり反応できず、無言のまま身を起こす。同時に、今自分が通ってきた道が、なぜあれほどすんなり通れたのかを悟った。

 ヴィーを始め、大人たちはきっと知りもしないだろう。ここが子供たちの格好の隠れ場、つまり秘密の遊び場になっているということを。

 厄介なことになった――と、ディルは無意識に眉根を寄せる。悪いことに、それが子供たちには敵意と取られてしまったようで、それまでどちらかというと好奇心に彩られていた彼らの表情が、一気に険しくなった。

「なに黙ってんだよ」

 別の少年が横合いからディルの頭を小突く。ディルがそちらに抗議の目を向けたとき、反対側の小柄な子供が彼の握っている花に気付いた。

「こいつ変な花持ってる」

 必要以上に大きく甲高い声が響き、他の少年たちも覗き込んできた。

「ほんとだ! なんだこれ」

「……もしかしてルバーブ親方んとこの花?」

「あーっ、盗んだな」

「悪いやつだ!」

 ディルが進退窮まっているうちに少年たちは次々と騒ぎ立て、彼らの中で勝手な憶測が広がっていく。

 その事態にディルは慌てて立ち上がり、急いで否定した。

「違う! もらったんだよ。萎れたから捨てに来ただけだ」

 乾燥させて取っておくつもりだ、とはとても言えない状況だった。本当はもらったということも彼らには喋りたくなかったが、盗んだと言われるのはあまりに心外だ。

「嘘だぁ、親方がくれるもんか」

「あそこ入っただけで怒られるもんな」

 案の定、ディルの言葉を少年たちはまるで信じない。

「大体おまえ何なんだよ。いつからいる?」

 最初に声を掛けてきた少年が横柄な口調で尋ねた。

「昨日……」

 言葉少なにディルが答えると、相手は首を傾げる。

「親は?」

 ディルは首を振った。

「いない。前のお屋敷にいたときに死んじゃったから……」

「親無し? なんでそんなやつがこのお屋敷に来るんだよ。おい、誰か新入りが来るって知ってたか?」

 少年は他の子供たちの顔を順に見ながら訊くが、皆首を横に振るばかりである。

「怪しいよこいつ」

 最初にディルの花に気付いた子供が言った。

「花捨てるのにこんなところ来るなんてさ」

 身体はディルよりも小さいくらいだが、頭の回転が速いのだろう。痛いところを突かれ、ディルは言葉に詰まった。

 他の子供たちはうんうんと頷く。

「そうだよな」

「あ! 外に逃げて誰かに売る気だな?」

「違う!」

 精一杯否定するが、彼らを納得させられるだけの事情を話せない以上、あまりに分が悪かった。

「他のお屋敷にいたんだろ? なんでこっちに来たんだよ」

「追い出されたんだ!」

「悪さしたんだろ」

 口々にはやし立てられ、ディルは激しく首を振る。

「何もしてない!」

 必死に叫んだものの、子供たちはにやにやと笑うばかりだった。

 そんななか、先ほどの小柄な少年が合点がいったとばかりに手を打つ。

「そうか! なんか盗もうとして見付かったんだ! 今みたいに」

「……っ」

 ディルは怒りで言葉を失った。

 父に無実の罪を着せられ、放逐の憂き目に遭わされたことだけでも散々だったというのに、それが原因でここでもいわれのない疑いを掛けられるのか。それも面白半分に。

 ディルはたかぶる感情に任せ、かんに障る相手に体当たりした。

「わっ」

 彼は不意を突かれて尻餅をつく。うっかり体勢を崩したばつの悪さも手伝って、上目遣いにディルをめつけた。

「こいつ!」

「何すんだ!」

 他の子供たちも次々に非難の言葉をディルに浴びせ、掴みかかってくる。

 ディルはその手を振り払い抵抗したが、元々腕っ節が強いわけでもない。すぐに取り押さえられてしまった。

 そもそも、昨夜は熱を出したばかりであるし、それまでは飢えに苦しんだり幽閉されたりで、身体はすっかり弱ったままだ。

 自分でも驚くくらいに息が弾む。激しい呼吸で、胸に痛みすら感じた。

「生意気なことしやがって」

 はじめに尋問してきた大柄な少年が、仲間に身体を押さえつけられたディルを見下ろす。ディルも怯むものかと目を逸らさない。

 睨み合っている間に、先ほど突き飛ばされた少年が彼の手から花を奪った。

「あっ」

 してやったりという顔で歯を剥いてみせ、彼はこれ見よがしに取り上げた花をディルの鼻先に突き出す。

「返せ!」

「捨てるって言ってただろ。おれが捨ててやるよ」

「返せ!!」

 ディルは重ねて怒鳴った。しかしかえって相手は面白がるような顔になる。

「やっぱり捨てないんじゃないか! 嘘吐き」

 嘲笑われ、ディルは堪らず叫んだ。

「うるさい……うるさいっ!! 何も知らないくせに!」

 これほど語気を荒げたことなど、ディル自身にも覚えが無かった。思わず少年たちも口を噤む。

 激昂したディルは続けた。

「おまえの言う通りだよ! 捨てるために来たんじゃない。捨てろって言われたけど、捨てたくなかったんだ!」

「……なんで?」

 花を奪った少年が鼻白んだ顔で訊く。しかしディルはそっぽを向いて吐き捨てた。

「おまえらなんかに言うもんか」

(こいつらにはどうせ、大事なものを取られたり、失くしたりする気持ちなんて分からないんだ)

 ここで平和に暮らしている彼らには想像もできないだろう。犯してもいない罪に問われ、居場所も未来も失うことの苦しさを。

「なんだよ、偉そうに」

 ディルの態度に苛立ったように、先ほどまで睨み合っていた少年が言い、再び険悪な空気になる。

「こら、お前たち。仕事もせんで何やってる」

 突然大人の声が掛けられ、少年たちは驚いてそちらを向いた。

 まき割りなど、戸外の作業に従事する使用人と思しき男がこちらに近付いてくる。別の場所から山査子の植え込みを迂回して、こちらにやってきたのだろうか。

 くたびれた服装にひげ面の男は、ディルと、彼を取り押さえている少年たちをぐるりと見回す。

「どんな悪いことしたかはともかくなぁ、そういうのは子供だけでらしめちゃいかん。ちゃあんと大人に言わんとな」

「で、でも……」

 子供たちは戸惑ったように互いの顔を見合わせ、口籠る。

「口答えしてねぇでさっさと仕事に戻るこった。お前たちも叱られたいんか」

 反論を封じられ、子供たちは不承不承という顔つきでディルを離し、一人ずつ茂みの下をくぐっていった。

 最後に花を取り上げていた少年が乱暴にディルにそれを突き返し、仲間の後を追う。

 花が手許に戻ったことにほっとしつつ、しかしディルは釈然としない心持ちで現れた男を見遣る。

 先ほどの言動を聞く限り、この男は自分が悪事を働いたと思っているようだったからだ。

 相手がなぜか無言でこちらを見下ろしていることに困惑しつつ、ディルは口を開いた。

「あの、おれ……悪いことなんて何も……っ」

 ディルの言葉は唐突に途切れる。

 男がディルの身体を突き飛ばしたのだ。予想もしない相手の行動に、ディルの身体は為す術もなく吹き飛び、山査子の茂みに突っ込んだ。

「痛っ……! 何するん……」

「うるせえよ」

 抗議の声をあげかけたディルの胸倉を掴み、男は薄ら笑いを浮かべる。先ほど子供たちをさとしていた態度からの変容ぶりに、ディルは背筋が凍った。

「ガキどもを張ってて正解だったな」

 いったい何の話をされているのか皆目見当もつかず、ディルはただ怯えた顔で男を見上げる。

「見つけたぜ。お前がディルってガキか」

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