第31章 追う道にて

 機嫌を損ねたままグネモン侯爵邸に戻ったオリスは、その足で祖父のいる本棟に押しかけた。しかし居室の前に立ちはだかった家令に、執務中との理由で追い払われてしまう。

 仕方なく自室に戻り、侍女に礼装を解かせていつもの窓辺に腰掛ける。憤懣ふんまんかた無し、とばかりに頬を膨らませ、窓の向こうに広がる空を睨みつけた。

 地上から黒歌鳥クロウタドリ長閑のどかさえずりが耳に届くが、その澄んだ美しい声も、彼女の心をやわらげるには至らない。

 子供扱いされたくない、などと子供じみた文句を言いたくはないが、こと自分に関しては無条件に守りに入ろうとする周囲の姿勢が、オリスには納得いかなかった。

 そのままいかほど経った頃か。傍を離れていた侍女が背後にやってきた。

「姫様……王宮からご使者がみえて、こちらを姫様にと」

 どうせ自分の態度に対する小言だろうと決めつけていたオリスは、一瞬、反応が遅れる。

 真顔に戻って振り返ると、侍女は神妙な面持ちで何かを差し出した。

 その手つきが妙にうやうやしく、オリスは不審に眉をひそめて相手の顔を見上げ、次いで差し出されたものに目を向ける。

 彼女が捧げ持っているのは書簡だった。

 それは公的な文書と見紛う大きさで、普段オリスの許に寄せられる、身内や知人からの私信の倍ほどもある。丸めた羊皮紙を留める封蝋に捺された印には、見覚えがあった。

「伯母上から? ……先ほど伺ったばかりなのに、どうなさったのかしら」

 オリスは小首を傾げて書簡を受け取ると、光の差す窓辺に向き直る。

 これまで王妃である伯母から、このような改まった形式の書簡が届いたことはない。

 何しろこれほどの大きさの羊皮紙は、それだけで高価で貴重なものである。それを、たとえ権勢誇るカーラントの直系とはいえ、どこかの家の女主人でもなく、何ら責任も権限もない未婚の自分宛てに用いるなど、いったい何事か。

 そう感じた彼女は、まず侍女を部屋から退がらせた。

 慎重な手つきで書簡の封印を解く。封蝋が砕け、巻いていた羊皮紙はするりと彼女の手の中に広がった。

 すぐさま紙面に視線を落としたオリスは、その瞬間目を見開き、息を呑む。

(メリア署名……!?)

 人の顔より大きな書状の下半分を占める、円形を形作る流麗な筆致の組み文字。その意匠は確かに『カンファー王国王妃 グネモンのPurslaneパースレインof Gnemon』を表していた。

 オリスはごくりと唾を呑む。上流貴族のたしなみとして、読み方こそ心得てはいるものの、書状にしたためられた実物を目にするのは彼女も初めてだった。

(ああ、なんて美しい手蹟なの。筆運びの一つ一つから伯母上の気高さが匂い立つよう)

 オリスは敬愛する伯母の筆跡を、隅から隅まで食い入るように見つめる。あまりに音沙汰が無いのを心配した侍女が、隣室から控え目に呼び掛けてきてようやく、まだ本文を読んでいないことに気が付いた。



 未知の草花が広がる中、ただひとつ目についた、見覚えのある――。

 見覚えがあるどころではない。鮮明に脳裏に刻まれている。

 もっとも、ディルの記憶にあるものは白かったが、目前の花は明るい黄色をしていた。

「おい、何やってる」

 視線が吸い込まれるまま屈み込んだ途端、少し離れた場所から鋭い声が飛んできて、ディルは驚いて顔を上げる。

 ひとりの男がいくつか向こうの区画から、大股にこちらに歩いてきた。

 掛けられた声の険しさにディルは身動きも取れず、相手がすぐ目の前までやってくるのを凝然と見つめる。

 その男の顔には、長年陽に晒され続けたことを思わせる細かい皺が無数に刻まれていた。着衣を見れば、短衣も肌着もあちこちに土が付いている。腰に吊るした革の物入れにははさみや小刀を挿し、左手は使い古されたすきの柄を掴んでいた。

 庭の手入れを行う園丁であろうと思われる。

「ここはガキが来ていいところじゃねぇっていつも言ってんだろうが。……なんだ、見ねえ顔だな」

 怒られるのかと身を縮こませながら、ディルは小さな声で答えた。

「……昨日、来て……」

 相手は片眉を上げ、しげしげとこちらを覗き込む。

「新入りだってのか? こんな奥まで入り込んで何してる。まさかここの花に悪さしようってんじゃ……」

 ディルは慌てて首を振った。

「違うよ! そんなことしない。ええと……おれは……」

 しかし相手の疑いを否定したものの、ディルは言葉に詰まる。何と言えばいいのか、自分でもまるで分からないのだ。

 困り顔で口を噤むディルを、園丁は顎を撫でながら見下ろした。

 愛想が良いようには見えないものの、その表情はよく動く。興味津々といった目つきでディルを見つめ、やがて彼はそれまでの責めるような口調をあらためて、静かに尋ねた。

「どっから来た? 食い詰めた親に売られたってつらにゃあ見えねえが……」

「別の……リリーのお屋敷。父さんが書記だった……でも死んじゃって……」

 そこまで言って、先ほど受けた衝撃をまざまざと思い出し、ディルは顔を歪める。

 あの事故が、故意に引き起こされたものかもしれないなんて。

 しかもそれが、ヴィーに関わりのあることかもしれないなんて。

(ヴィーが……ヴィーがいなかったら、父さんは……?)

 そんな風に考えたくはないのに。

 けれど、父の死はディルにとってあまりに重大な出来事だ。ヴィーという存在が無ければ、父の命が失われることもなかったかもしれない――などとほのめかされてしまったら、どうしてもその繋がりが頭にこびりついて離れない。

 再びじわりと涙が滲んでくる。歪みかけた視界の片隅にあの花が映り込んできて、更にディルの胸は締め付けられた。

「お前さん、その花がどうかしたんか」

 父の死について口にするなり半泣きの顔のまま固まってしまったディルに、園丁は少し唐突に問う。話題を逸らそうとでも考えたのかもしれない。

 ディルは涙を堪えて相手に視線を戻した。しばし声もなく口を開閉させたあと、ようやく言葉を絞り出す。

「……っ、あの、おじさん……」

 園丁の眉間の皺が深くなった。

「親方って呼べ」

「親方……」

 訂正され、ディルは慌てて呼び直す。

「あのね、この花……白いのもある?」

 園丁は驚きに両眉を上げた。ディルの言葉は、見知らぬ花に対する問いとは思われなかったからだ。

「……そこの半分は白花だ。全部御当主様に差し上げちまったがな」

 相手が顎で示した先は、黄色い花がひとつ残る区画の向こう側半分、花どころか茎も全く見えない、葉ばかりが伸びる場所だった。

(やっぱり……)

「どういうこった。まさかお前さん、こいつの白花を見たことがあるってのか?」

「うん……」

 園丁は更に眉根を寄せて首を振る。

「そんなはずはねぇ。この国でもここにしか無いだろうってくらい、珍しい花なんだぞ」

「ええと、たぶん、ここの花……。おれ、旦那様にもらった」

 ディルの答に、園丁は動きを止めて彼の顔をまじまじと覗き込んだ。

「……お前さんが? ……御当主様に?」

 相手のいかにも疑わしいという声音に、ディルは真剣な面持ちでこくりと頷く。

 園丁はあんぐりと口を開けたまましばしディルを見下ろしていたが、彼が嘘を言っているようにも見えなかったのだろう。なおも信じがたいという表情のまま、頭を掻いた。

「はあ……お前さんがねぇ? で、その花はどうしたんだ」

「……父さんの墓に……」

「ああ」

 悄然とした彼を園丁は何とも言えない目つきで眺め、そしておもむろに持っていた鋤をその場の地面に突き立てる。柄から手を離すと、花に近付いた。

 なんだろう、とディルがぼんやり彼を見遣るなか、園丁は咲いている黄色い花に手を伸ばす。そして腰の物入れから鋏を取り出し、遠慮のない手つきでその花茎を切り取った。

「えっ……」

 予想もしない行動にディルは目を丸くしたが、園丁はそのまま花を彼に差し出す。

「やるよ」

 ディルの目が更に見開かれた。相手を見上げたまま、戸惑った声で問う。

「ど、どうして……?」

「こいつは遅れて咲いた最後の一輪だ。どのみち、咲いたら株が弱る前に摘み取らにゃいかん。手入れのついでってやつだ。どうせすぐしおれちまうがな」

 ディルがなおも躊躇ためらっていると、そら、と更に花を突き出される。同じ状況でも、こちらが受け取るまで静かに待ち続けたヴィーとはずいぶん違う……と、他人事のように内心の声が呟くのを頭の片隅に聞きながら、ディルはおずおずと手を伸ばした。

「……ありがとう……」

 未だ困惑の残る声で礼を言う。

 そもそもヴィーのことをどう捉えていいのか分からなくなっている自分に、果たしてこれは嬉しいことなのかも判然としなかったが、何にせよ相手が示してくれた厚意には謝意を伝えること、と師にも両親にもしつこく言い聞かせられていた。


 ――貴方は大事に育てられていたのですね。


 そう言って、頭を撫でてくれた優しい手を思い出す。比喩ではなく、はっきりと胸に痛みが走った。

(やっとヴィーにも……花のこと、ありがとう、って言えたのに)

 まさか直接礼を言えるとは思っていなかっただけに、あれがヴィーだったのだと分かったときは、その巡り合わせを天や聖者に感謝したものだ。

(だけど――)

 侯爵家でヴィーに見捨てられたと伝えられたときですら、ここまでの絶望を感じただろうか。

 それがどうしてなのかは漠然と分かる。今回、翳りが差したのが他ならぬ自分の心の方だからだ。

(分かってる。ヴィーのせいじゃないって。分かってる……のに……)

 ディルは園丁を見上げ、すがるような声で訊いた。

「おじさ……じゃない、親方。おれ、ここ手伝っていい?」

 もともと仕事をしたいと思っていたところであったが、何より今は、手持ち無沙汰になって思考を遊ばせるのが辛い。ここは庭園というよりはそこに植える植物を殖やす耕作地のように思われた。そんな裏方の場所なら、この屋敷の主人であるヴィーと顔を合わせることもないだろう。

 迷い込んだ自分を叱らずにいてくれた、この園丁に報いたい気持ちもあり、ディルにとっては渡りに船のように思えたのである。

 しかしそんなディルの申し出に、相手は鼻を鳴らした。

「花持ったまま何しようってんだ。だいいちさっきも言ったろう、ここはガキは立入禁止だ。さっさと出ろ」

 すげなく断られ、ディルは項垂れる。

「一応言っとくがその花わざわざ見せびらかして回るんじゃねぇぞ。そんで、さっさと御当主様のところに戻れ。一人でふらふら歩き回るな。分かったか? そら行った行った」

 よほどここの植物を不用意に触られることに神経を尖らせているらしい。園丁は鋭い目つきでディルが入ってきたのとは反対の方向を顎で示す。

 ぐるりとここを囲む植栽が、そこだけ途切れていた。あれが本来の出入口なのだろう。

 ディルはもう一度園丁の顔をちらりと見遣ったが、相手は断固とした表情を崩さない。

 仕方なく、ディルは重い足取りで歩き出す。

 とぼとぼと、しかし園丁の強い視線に押されるように、真っ直ぐ囲いの切れ目に向かった。



 ディルの足跡を追うヴィーがそこに姿を現したのは、ディルが追い出されるように去ってしばらく後のことだった。

 見知った園丁がこちらに気付いて剪定の手を止め、軽く頭を下げる。

 再び作業に戻る彼に、ヴィーは歩み寄って声を掛けた。リエール卿とフラクスは、少し距離を取って彼の後に続く。

 まさか当主が自分に用があるとは思っていなかった園丁は、驚いた様子で顔を上げた。

「……御当主様? また花でもご入用で?」

 先日季節外れの百合ユリを所望され、憤慨したばかりの園丁の声にはどこか警戒の色がある。それを感じ取り、ヴィーは控えめに苦笑した。

「いえ……。ここに子供が来ませんでしたか?」

「ああ、あの鬱金香チューリップを頂いたって子ですかい。あっちに出ていかせましたがね。ほら、ここは皆が知らない毒草なんかも多いんで、子供は近寄らせねぇようにしてるんでさぁ」

 園丁の言葉にヴィーは奇妙な顔をして小首を傾げた。

「……あの子、貴方に花のことを話したのですか?」

 彼の問いに、園丁ははたと何かに気付いたように目を見開き、次いで気まずそうに視線を逸らす。

「え? ……ええ、まぁ……いや……なんかまずいこと聞いちまいましたかね」

 なぜ相手がここまで歯切れの悪い反応をするのか不思議に思いつつ、ヴィーは首を振った。

「そんなことはありません。少し意外だっただけで」

 年若い主人が特に気分を害した様子もないことに、園丁はあからさまにほっとした表情を浮かべる。安堵した勢いか、彼は若干気安い口調になり早口で喋り始めた。

「いやぁ、てっきりどこぞの姫君かご婦人にかと思ってたんですが、あの子だったってんで、あっしも驚いちまいましたよ」

 ヴィーは穏やかな表情のままわずかに片眉を上げ、そっと口を噤んだ。

 身分の隔たりが大きい相手の前では、咄嗟に眉根を寄せるなどの不穏な動きは禁物だ。無闇に委縮させ、意志の疎通が困難になる恐れがあるためだ。

 ただ、園丁の話が何のことを指しているのか分からなかったうえ、その声音にわずかな興奮まで滲んでいることに、ヴィーは奇妙な不安を覚えたのである。

「……。何がです?」

「ほら、百合ユリを贈ろうとなさってたじゃあありませんか」

 相手の言葉から何やら大きな齟齬を感じ取り、ヴィーはわずかに目を見開いた。

 以前この園丁と交わした会話の記憶を辿ってみた結果、どうやら彼が、あのとき自分がディルのために白百合を探していたと思い込んでいるらしいと分かり、遅まきながら衝撃を受ける。

 ヴィーは危うく大声で否定しそうになった。

 叫ぶ直前で相手が平民の使用人であることを思い出し、辛うじて言葉を飲み込む。

「……それは……違います……」

 努めて冷静にヴィーは答えた。この思い違いだけは解いておかなければ、後々どのような話が使用人たちに広まるか分かったものではない。娯楽の少ない下々の者たちの口は、悪気は無くとも絹より軽いのだ。

 少なくとも、連れてきたばかりのディルが妙な目で見られてしまうのは、自分の責任において避けなければならない。

「ええと、誤解があるようなので正しておきますね。貴方が渡してくれた花――鬱金香でしたっけ――それを一輪あげたのは事実ですけれど、白百合はあの子のために探していたのではありません……」

 園丁に噛んで含めるように説明しつつ、ヴィーは後ろで無責任に笑いを堪えているリエール卿を、主人をたしなめているらしいフラクスの焦った気配から察知する。

 そろそろあのひとの暗殺を真面目に検討してやろうか、と腹立ち紛れにヴィーは思った。



「あの子、どんな様子でした?」

 即座に追いかけるべきか迷いつつ、ヴィーはどうにも気になって園丁に尋ねる。

 誤解を解かれて拍子抜けした顔をしていた園丁は、少し考えると真顔に戻り、痛ましげに答えた。

「ここに黄色い鬱金香がひとつだけ咲いてたんですがね、それ見ながら泣きそうな顔してしゃがみ込んでましたよ。……父親が死んだとかなんとか……?」

「……そうですか」

 得た答はヴィーにとってまったく救いにならない内容だったが、だからと言って相手にそれを責める話ではない。暗澹たる心裡こころうちを微笑で覆い隠し、静かに頷いた。

 園丁から離れると足早に、ディルが向かっていったと聞いた方角に向かう。

 囲いの植栽を抜け、再び木立ちが現れた中を突き進むヴィーの背に、突然、リエール卿が問い掛けた。

「ヴィー。お前、今すぐあのガキを捕まえたとして、語る言葉は考えてあるのか」

 ヴィーは振り返らずに眉根を寄せる。マントの内側に隠れた右手の拳を強く握ったが、しかしすぐに、その衝動的な所作を改めるように掌をじ開けた。

 湧き上がった苛立ちが、開いた指の間から幾分零れて抜けていくような感覚を覚える。手を握り締めたまま答えたら、いくらでも語気が強くなってしまいそうだったのだ。

「……知りませんよ……そんなこと。何を話すべきかなんて、会ってあの子の気持ちを聞かない限り分からないじゃないですか」

「お前が無策のまま人に向き合おうとはな」

 呆れたような、あるいは感心したようなリエール卿の言葉に、ついにヴィーはたまりかねて歩みを止め、彼を振り返った。

「……っ、それがなんだというのです? 何でも先回りして知った風な口を利けばいいというものでもないでしょう。私はディルの感情を絡め取って、自分の都合のいい方にじ曲げたいわけじゃない。たとえあの子から憎しみの言葉しか聞けなくなったとしても、真実を隠してこれ以上私に依存させてしまうより余程ましです。私は……ディルには、どこであろうと自分の足で立っていられる人間になってほしい。その手助けをすると、約束したのですから」

 既に自分は過ちを犯してしまっているのだ。

 弟のように思っている、などと伝えるべきではなかった。作意があったわけではないが、自分が軽々しく口にしてよいはずはない言葉だった。

 そうして自分にすがらせておきながら、残酷な事実を突き付けることになったのだ。余計に苦しませてしまったのは間違いない。

 彼が泣きそうな顔をしていたとはっきり聞いた今、その後悔と自責の念が、ヴィーの胸で重く渦巻いている。

 自分が抱いた親愛の情を、その立場から相手に伝えられない状況は初めてではない。そしてこれまではきちんと口を閉ざしてきたというのに、どうしたわけかディル相手には失敗した。

「私はあの子から何をぶつけられても、受け止める覚悟ならできています。貴方が今更何を懸念しているのか知りませんが、見縊みくびらないでいただきたいですね」

 こちらを睨みつけ、珍しく口調まで感情的になっているヴィーに、リエール卿はひとつため息をつく。そして静かに問い掛けた。

「……お前な、今自分から破滅的思考に突っ走ろうとしていることに気付いているか?」

 それは思いも寄らない言葉だった。虚を突かれたヴィーは口を引き結ぶ。

「……どういう意味です?」

「その様子じゃ、仮にあのガキがお前を恨んでいないと答えたところで、お前の方がそれを受け入れられるように見えん。疑心暗鬼に陥るだけだ」

「馬鹿な――」

 ヴィーは咄嗟に反論しようとした。しかし今の自らを振り返り、それが図星であることに気付いて愕然とする。

「覚悟ができている、と口で言うのは存外簡単なことだ。だがどんな結果でも受け入れると言い放つ人間の多くが、実は一方の可能性にしか意識を向けていない。私にはお前の『覚悟』も『思い込み』の取り違えに見える。その思い込みは、殿下がお前に対して感じておいでであろう負い目と同じものだ。向き合う気があるか無いかの点が違うだけでな」

 リエール卿の率直な指摘に、ヴィーは苦しげに顔を歪めて俯いた。

 従弟のソレルが自分を恐れ、心を閉ざしてもう六年。ヴィーは制約を受ける身でそれなりに手を尽くしてきたつもりだったが、ほとんど何の成果も得られず、年月ばかりが虚しく過ぎ去っている。その事実が知らず、彼の心に大きな影を落としていたらしい。

 従弟とディルは別人だと頭では分かっていても、気付けば同じように、断絶という結果を迎えるに違いない、と思い込んでいる自分がいた。

 それを自覚すると同時に、ヴィーはなぜ、ディルにだけは自分の心を隠し通すことができなかったのか、ようやくさとる。

 ディルとは互いのことを何ひとつ知らずに出会った。その彼から向けられる畏れも屈託も無い眼差しや言葉は、いつしか従弟の拒絶に疲弊し、摩耗していたヴィーの心の奥深くにまで響いていたのだ。

(……なんてことだろう)

 ヴィーは自分がひどくもろい存在に感じられた。あの何も持たない小さな子供に、実はこちらが救われる心地でいたなんて――。

 押し黙ってしまった彼に、リエール卿は穏やかな声で続ける。

「分かったか? お前はどうしたってこれまでの体験や記憶に囚われる。だがそれはあのガキにとっては何の関係も無いことだ。そこを踏まえず向き合っても更なる悲劇を生むぞ」

 ヴィーは眉を寄せたまましばし沈黙した。やがて顔を上げ、一度リエール卿を見遣ったのち、大きく息を吐く。

「……貴方、自分がこの事態の元凶だって分かっていますよね?」

 その口調からは、さきほどまでのどこか捨て鉢な気配は消えていた。

 彼はくるりと身を翻し、リエール卿に背を向ける。

「礼は言いませんよ。それから――もう、分かりましたからついてこないでください」

 相手の答を待たず、ヴィーは歩き出した。



 リエール卿は大人しくその場に立ち止まったまま、束の間彼の後姿を眺めていたが、ほどなくその背に呼び掛ける。

「おい、ひとりで向かうのは結構だが、自分が何を追っているのか忘れたのか?」

 その言葉に、ヴィーははたと立ち止まる。次いで自身の足元に視線を落とした。

(あ……)

 いつの間にか、行く手の路上からディルの痕跡が消えている。

 園丁と会った後も彼の足跡は続いており、それをヴィーは追っていたはずだった。いつまで記憶にあったか……と思い返したところで、リエール卿に話し掛けられてから気が逸れてしまっていたのだと気付く。

 ヴィーは慌てて振り返り、元来た道を凝視した。一度立ち止まった場所――つまりリエール卿が今立っている場所から、まだそれほど離れてはいない。途中から足跡が消えているということは、この辺りでディルは道を外れたということだ。

 小径こみちの両脇に迫る木立ちに視線を遣る。道の左右どちらに入っていったのか、と首を巡らせる間もなく、ヴィーの視界の端で、黄色い小さな何かがちらと揺れた。

(あれは……?)

 それはヴィーの右前方の道脇、ほんの少し木立ちの中に入った辺りだった。ヴィーは吸い寄せられるままに視線を向ける。

 木々の合間の薄暗がりの中で、ひときわ鮮やかなその色の主は、見覚えのある形の花だった。

(鬱金香――)

 その花茎を両手で握りしめたまま、ディルがこちらを向いて立ち尽くしている。

 あの誤解から、園丁が気を利かせたつもりで花を渡したのであろうことは、すぐに察しがついた。

 ディルが自ら欲したわけではないだろう。そう思うと心のどこかが、何かに掴まれたように委縮するのを感じた。

 彼から歩み寄ってくることはあるまいと考え、ヴィーは引き摺りそうなほど重く感じる足をどうにか進める。ディルの顔が良く見える位置まで近付き、そこで歩を止めた。

「ディル……」

 そう呼び掛けたものの、続く言葉が出てこない。

 ディルは頬に涙の跡を幾筋も付けていた。

 昨日からいったいこの子は幾度涙を流しているのだろうか、とヴィーは痛ましく思いながら、しかし手を伸ばしたものかと逡巡する。

 自分が心のままに振る舞った結果が、今のディルの、この有様でもあるのだ。

(これ以上、この子を私の情で無理に引き寄せる真似は……)

 そう自戒するが、さりとて一方的に突き放してよいわけでもない。

 ヴィーはディルに向かって広げかけた両腕を、そのまま差し出すことも退げることもできずに凍りついた。

 今自分はどんな顔をしているのか、想像するのも怖くなる。

 言葉も無くこちらを見上げるディルの瞳は、震えるように揺れていた。それがどのような感情によるものなのか、ヴィーにはもはや判断がつかない。

 それはこちらから働きかけることを封じ、ディルの出方に全てを委ねるという、ヴィーが心掛けた結果そのものではある。しかし、ただ成り行きを見守るということが、これほどに寄る辺無い思いをするものだとは、彼の想像を超えていた。

 微動だにせず、視線だけが唯一彷徨いその戸惑いを表すヴィーに向かって、ディルがそろりと足を踏み出そうとする。しかしふと、彼は動かしかけた足を止め、すぐそこにいるリエール卿を気にするような素振りを見せた。

 それに気付いたリエール卿が、おもむろに自身の従者に呼び掛ける。

「――フラクス」

「は」

 背後に控えていたフラクスが応じると、卿は顎でヴィーを示して言った。

「私は外す。お前はしばらくあの単身飛び出してきた馬鹿についていろ」

「……は」

 馬鹿、というのが供も連れずに駆けつけてきたヴィーを指しているだけに、憚るように頷いたフラクスを残し、リエール卿はふたりに向かって歩き出す。

 怯えに顔を強張らせているディルの目前を素通りし、ヴィーのすぐ前まで歩いてきた彼は、歩調を緩めぬまますれ違いざまに言った。

「そのガキにどう思われようが、お前は庇護者を完遂するんだろう? 覚悟していると言った奴が恐れてどうする」

 ヴィーは呪縛を解かれたように顔を跳ね上げ、離れていく騎士を急いで振り返る。

 リエール卿はいち早くディルが木立ちの中に潜んでいるのを察知し、機を見計らって自分に話しかけ足を止めさせたのだと、もうヴィーは理解していた。彼の耳に届くのを計算のうえでわざとヴィーの神経を逆撫でし、その心の乱れようをディルの目に晒させたのだということも――。

 どこまでも相手の手の中で踊らされていたかと思うと、悔しさに血が上り、顳顬こめかみから頬にかけてが熱くなる。

「……っ、礼は言いませんからね……!」

 精一杯の意地から出たヴィーの再度の科白に、リエール卿は何の反応も示さずそのまま去っていった。

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