第30章 不協和音

「よりによって書簡を当人に奪われるとは! いったい何をどうしたら、かような失態を犯せるものなのでありましょうな?」

 耳障りな甲高い声でなじられ、フレーズ伯ローゼルは危うく知るものか、と吐き捨てそうになった。

 そもそも行方が分からなくなっていた偽造書簡が、あろうことかソーン卿の手に渡っていたということを今この相手から聞かされたばかりである。

 せた金茶の髪を後ろに撫でつけたその人物は、歳の頃で言えば、自分の背後に控えている騎士マダーと同じくらいといったところか。痩せぎすな体格に尖った顎という、見るからに神経質そうな外見に、忙しなく動く視線と口許も相俟あいまって、見ているこちらまで落ち着かない気分にさせられる。

「しかもグネモン卿は不手際の始末をつけもせず、この件から手を引いたというではありませぬか! これは安易にかの一門を引き入れた貴殿の失策ですぞ。あの信用ならぬ老人ははじめからこちらを裏切る腹積もりであったに違いありますまい!」

 一方的に決めつけられ、ローゼルは半眼になった。

 確かに結果だけを見れば、今日の状況はそう捉えられても無理はない。だが、そもそもの前提がまず狂っていたのだということを、ローゼルは眼前に立つエレカンペインからの使者に理解させなければならなかった。

「ソーン卿が我が国で自由に動いているという事態をどうお考えか。こちらが何度問うても貴国で拘置されているという返答だったではないか。貴殿らはいったい何を見ていたのだ。そもそもソーン卿がケンプフェリアを離れるなど、王命違反ではないのか。ひっ捕えて国許に連行すれば我らが面倒なことをせずとも失脚に追い込めるであろう。なぜこんなところでおびえた犬のように吠えておいでか」

 ローゼルの反論に、相手は骨張った頬を紅潮させ、自身とローゼルを隔てる執務机に両拳を叩きつけた。

 現れて早々粗暴な振舞いに及ぶ相手に、まったく品性の欠片もない……と、ローゼルは軽蔑を心の中に押し隠し、近付けられた顔からそれとなく上体を引いてどうにか距離を保つ。わざわざ立ち上がって迎える気にもなれず、椅子に身を預けたまま応対したが、失敗だったかもしれない。

 そんな彼の内心など知る由も無く、使者はまくし立てた。

「それができれば苦労はありませぬ! ウォータークレス公――もとい、ソーン卿のこの国での行動は陛下が容認なされておいでゆえ、こちらでは手出しできぬのです!」

 相手の言葉にローゼルは呆れ顔になる。

「ならばせめて、貴殿らはソーン卿がケンプフェリアから動けぬよう確実に措置すべきだったであろう。それすらできずにメリアの偽造などを強要してきたとは……あまりに無責任というものだ。それとも分かっていて私をそそのかしたというのなら、むしろこちらへの悪意を疑わざるを得ぬが……」

「言いがかりはおめいただきたい! 私が何故なにゆえ雪も消えぬうちから難儀してこの国にやってきたとお思いか。ソーン卿が動くはずのない時期を狙ってのことです」

 街道に雪が残り、泥濘ぬかるむ季節に敢えて旅しようと考える者は少ない。ましてやそれが貴人であればなおさらである。

「しかも今年は王太子殿下のご成人の儀を間近に控えているのです。王族に名を連ねる身でありながら、そのような時期に敢えて他国に赴くなど!」

 相手の熱弁にローゼルは冷めた目を向けた。

「だが現にソーン卿は王都エキナセアにいる」

「それはそうですが……!」

 相手は読みの外れをただの災難と捉え、想定外の動きをしたソーン卿を無為に呪い嘆いているようであるが、ローゼルにしてみれば立場が危うくなるという実害を伴う以上、事情が何であれ、非難の手を緩めることはできない。

 彼の追及に窮したらしい使者はどうにか反撃を試みた。

「そもそも! ソーン卿がこの国での行動の自由を認められ、蟄居ちっきょ措置が形骸化しているのは、貴殿らリリーの動きが我が国から信用されておらぬがゆえのことではありますまいか」

 その不満は彼の本音には違いないにしろ、この流れにおいてはいささか強引な引き合いだった。ローゼルは鼻を鳴らす。

「ふん、言いがかりはどちらの方か。信用とはいったい何だ? 我らリリーについて他国に口を出されるいわれはないわ。結局ウィロウごときにはアイブライトの一員たるソーン卿を抑える力が無かったというだけの話ではないか」

 冷笑するローゼルに、相手はまなじりを吊り上げた。

「ウィロウですと? エレカンペインに大功ある我が一門を侮辱なさいますか」

 ローゼルはせせらわらう。

「大功? 明礬ミョウバン石の上にそうとは知らずに突っ立っていたことがか」

 殊更ことさら侮蔑的な言い回しに、使者の顔が今度は蒼褪めた。

「な……!? 聞き捨てなりませぬな……!」

 この使者も属するエレカンペインの外戚、ウィロウ一門は、つい一世代前までは誰もその家名を知らなかったような辺境の田舎貴族だ。

 しかしその岩がちな領地が、皮なめしや羊毛の染色に用いられる明礬の原料、明礬石の巨大な鉱床であるとランタナの研究者によって判明し、一転、国内外から注目を集めるようになったのである。

 目ぼしい産業も無く荒涼とした寒冷地を抱え、慢性的に国庫が傾きがちであったエレカンペインにおいて、王国の新たな経済のかなめたり得ると目されたのは言うまでもない。

 発見された鉱床から明礬を精製し流通させるのは、関連する知識も伝手つても無いウィロウの手には余る事業であり、鉱床は王家に召し上げられた。代わりにこの一門の宗主カウスリップ伯の娘が当時の王太子の妃に迎えられる。それが現在の王妃ロベリアなのであった。

 ウィロウは鉱床の所有権こそ手放したものの、その地域一帯の領主の一族であることに変わりはなく、明礬生産に関わり続けた。後年には鉱床の管理の一切を委ねられるまでになり、この一門が事業から得る利益は莫大なものであるという。

 その資金力と、更には輩出した王妃が現王との間に無事王太子ソレルを設けたこともあり、今やウィロウは王都ラウウォルフィアの宮廷でも大いに権勢を振るっている。

 そしてこの一門が目の敵にするのが、彼らが奉じる王太子よりはるかに王家の血を濃く引く、王弟の長子ウォータークレス公ヴァーヴェイン――つまりこの国におけるソーン伯なのであった。

「ソーン卿の動きも把握せぬままことを始めたうえに、一方的にこちらが失策を犯したかのように喚き散らされては言いたくもなるというものだ。おまけに我が国の外戚をも軽んじた発言をするなど……。ここは貴殿の国許ではないということを、今一度よく考えられることだな」

 相手はぎり、と唇を噛んでローゼルをめつけた。

 実際にはローゼル自身もグネモン侯の奔放な振舞いの被害者ではある。しかし心情的にどうしてもこの正面に立つ人物より、かの老人を擁護したくなってしまうのであった。それはほとんど個人的な好悪の問題であると、ローゼル自身も内心分かってはいるのだが。

 元より、ローゼルはエレカンペイン人には強い反感を抱いている。加えて実際の身分は男爵に過ぎないにもかかわらず、王妃の係累という立場を笠に尊大な態度で陰謀への加担を強要してきたこの使者に、良い印象など持てるはずもなかった。

 それでも協力したのは、この使者を遣わしたエレカンペインの王妃が、憎きソーン伯と敵対していること、そしてローゼル自身に何としても早急に、リリーの宗主の座を取り返したい事情があったからである。

 また実際問題として、エレカンペイン王妃の意向となれば、ローゼルに拒否という選択肢など有りはしなかった。

 建前上、カンファー貴族のローゼルが他国であるエレカンペインの王家の命に従う義務は無い。しかしカンファーとエレカンペインではあまりに国の規模が違いすぎる。ローゼルが単独で抗うことはおろか、たとえこの国の王家を巻き込んでも勝ち目は無いのが実情だった。

 ローゼルとしては渋々彼らに従ったわけであるが、その挙句の果てが、標的のソーン伯にことが露見するという最悪の展開である。

 苦労だけさせられたうえ一方的に窮地に立たされた格好であり、到底納得できる状況ではない。自然、相手への口調も憤懣ふんまんと不信に満ちたものとなった。

 もはや口喧嘩の様相を呈してきた主人と客人の応酬に、見ていたマダーがそっとため息をつく。

 このフレーズ邸に乗り込んできたウィロウ卿が立つのは、ローゼルとは執務机を挟んだ向こう側だ。しかし見るからに寛容さや冷静さとは無縁な人物であり、このままではいつ掴みかかってくるかと心配になる。

 貧相な体格を見るに取り押さえるのは容易だろうが、何しろこの相手はエレカンペイン王妃と縁続きの貴族であり、あまり無体なことをすればローゼルの立場が悪くなりかねなかった。

 仕方なく、マダーは慎重な面持ちで口を開く。

「お二方とも、どうか落ち着かれますよう。今は口論なさっている場合ではございませぬ」

 ローゼルの一言一句に顔色を変えていたウィロウ卿は、むっとした顔でマダーの方を振り向いた。しかし彼がマダーに何か言う前に、ローゼルが自身の側近に同調する。

「まったくだな。貴殿は早急に国許に戻られてはいかがか」

 ローゼルとしては、これ以上この男にまとわりつかれるのは願い下げだった。

「エキナセアをうろついている間にソーン卿と鉢合わせしても、我らは関知せぬぞ。まあ、貴殿に直接ソーン卿と面識があるのかは知らぬが」

 政敵の首魁に認知されるほどの大物でもあるまい、というローゼルの侮りきった言葉に、それが図星であったらしいウィロウ卿は口惜しげに顔を歪ませる。

「しかし――」

「これ以上、私の身辺をうろつかれるのも迷惑千万なのだが? 正直に計画は失敗したと報告する以外、貴殿に道は残されておるまい――ああ、これはお返ししよう」

 マダーが差し出した書簡を受け取り、ローゼルはウィロウ卿に突き出した。彼が持ち込んできた、ソーン卿が王太子ソレルに宛てた私信である。

 ウィロウ卿はそれを無言で受け取った。

「これでもう、我が国に用は無くなったものと思われるが」

 あからさまに追い払おうとするローゼルの言葉に再び怒りを見せるかと思いきや、何を思いついたのか、ここに来て初めてウィロウ卿は薄ら笑いを浮かべた。 

「いや――帰還の前に一度、グネモン卿にお目に掛からねばなりますまい」

「……グネモン殿に? ……会ってどうされると?」

 どうにも面倒に聞こえることを言い出した相手に、ローゼルははっきりと顔をしかめた。

「卿は我が陛下の岳父に当たる人物。貴殿と言えど表立って計略からの離脱を弾劾することなどできぬぞ」

 ローゼルの指摘に、ウィロウ卿はこちらを小馬鹿にしたような顔つきで首を振る。

「何を言われるやら……。貴殿からの要請とはいえ、我らが王妃の意向に一度はご協力いただいたゆえ、謝意をお伝えせねばなりますまい。あちらの行いがいかにエレカンペインへの敬意に欠けていようと、我らウィロウが礼を失することなどありませぬからな。――それに、グネモン殿のお考えが此度のお働きに表れていたというのであれば、やはりきちんとエレカンペインの威勢をお伝えし、ご理解いただく必要がありましょう。今後の貴国のお為にも」

 ローゼルは気色の悪さに眉間の皺を深くする。

「フレーズ卿、ご協力いただけましょうな?」

 相手はさも当然という口調でローゼルに迫った。



 ウィロウ卿の扱いと今後の対応に頭を悩ませているローゼルの許に、叔父のアブラス・リリー男爵が訪ねてきたのはそれからほどなくのこと――ソーン卿がグネモン侯爵邸に現れたというその日の夕刻のことであった。

 先ほど同様、マダーと共に自身の執務部屋に迎えたリリー卿の顔は、ローゼルがこれまで目にしたことがないほど蒼褪めていた。

 そんな叔父の様子に自らも暗い心持ちになりながら、ローゼルは声を掛ける。

「叔父上……」

「甥御殿、あの書簡はどうされた?」

 ほとんどローゼルの声を遮るように、リリー卿は性急に尋ねた。

 書簡というのが、メリア署名の写しを取るために持ち込まれたソーン伯の書簡を指していることは、ローゼルにもすぐに分かる。

 燭台に燈る灯火が揺らめき、叔父の肥えた身体を照らし出すが、ローゼルにはその体躯が心なしか、数日前に顔を合わせたときより一回り小さくなっているように見えた。

「今しがた、エレカンペインの小役人に突き返しましたよ。私の手許にはもうありません」

「そ、そうか……。使者殿はなんと?」

 リリー卿の問いに、ローゼルは肩を竦める。

「グネモン卿ははじめから裏切るつもりであったのだろう、などと喚いておりましたよ。標的たるソーン卿をケンプフェリアに繋ぎ止めることもできぬ無能を棚に上げて、よく言えたものです」

 呆れた口調のローゼルとは対照的に、リリー卿は辺りをはばかるように目を泳がせた。

「だが……掌を返されたのは事実だ。はじめに封蝋を取り逃がしたことも捨て置けぬ。いっそのこと、グネモン殿に一切の責を押し付けてしまうのも手ではあったのではあるまいか」

 小声でぼそぼそと言う叔父に、ローゼルは内心でため息をつく。

「安易にカーラントと敵対するのは上策ではありません。宮廷で内紛など起こしていては、ソーン卿とエレカンペインに更なる介入の口実を与えてしまう」

「しかし――」

 そもそも国の展望などという視点を持たないリリー卿は、納得できない様子で言葉を続けようとする。それを制し、ローゼルはゆっくりと首を振った。

「叔父上はエフェドラとの交易を望んでおいででしょう? カーラントと明確に敵対しては、その機会は永遠に得られませんよ。グネモン卿はソーン卿の想定外の動きに対して自衛したに過ぎません。敵対するのではなく、そこを酌んでやったというていを取り、交渉の手札とするべきです」

「だ、だが、グネモン殿は『封蝋』を生かしたままソーン卿に引き渡してしまったようだぞ! 本当にそれは裏切りではないと言えるのか!?」

 ローゼルは片眉を上げる。

「『封蝋』を? 確かなのですか?」

「ソーン卿がグネモン邸から子供を連れ出したという情報があってな、まさかと思い執政府の役人どもから聞き出したのだ。ソーン卿の指示で、我が家が追放した子供の手形が発行されたらしい。となると間違いなかろう」

 ローゼルはわずかな間黙考した。

(偽造書簡も『封蝋』もソーン卿の許に揃っているだと? ……しかし、あのウィロウはどうやって書簡がソーン卿の手にあると知ったのだ)

 『封蝋』の件も今聞かされたばかりである。しかもそれは執政府に広く顔が利くリリー卿だからこそ引き出せた情報であって、エキナセアで大した人脈も持たないであろうウィロウ卿に可能な手段ではない。

 ローゼルの沈黙にリリー卿は不安を抑えきれず、彼が言葉を発するのを待たずに口を開いた。

「甥御殿……あの子供はまずい。写しを取った現場を見たらしいうえに、署名をメリアだと看破しておるやもしれぬ。あの書記見習いを生かしておくのは、我が家が捏造に加担した証拠をソーン卿に握られているようなものなのだ」

 ローゼルの顔色が変わる。同じく聞いていたマダーもわずかに目をみはった。

「……メリアを? 叔父上、文字の読める者を『封蝋』になさったのですか?」

 リリー卿ははっとして気まずそうに眼を逸らし、歯切れ悪く答える。

「……生かしてはおけぬゆえ、その者にしたのだ」

 なぜなら、『封蝋』は赤夜狐あかよぎつねに始末されるはずであったからだ、というのがリリー卿の言い分である。しかし、ローゼルの見解はまるで違った。

「叔父上……そのような者はまずその場で斬り捨てるべきでありましょう」

 リリー卿はローゼルとマダーから厳しい目を向けられ、激しく首を振る。

「我が家は議員の禄をける、剣とは無縁の家柄なのだ! そんな血生臭い真似をすれば屋敷中が大騒ぎになってしまう!」

 仕える騎士を持ち、領主として常日頃から武力を保持している伯爵家とは違うのだ、とリリー卿は必死に主張した。

 それはそれで、一理あるかもしれない。しかし、ならばせめてその事実は事前に伝えておいてほしかった、とローゼルは内心で舌打ちする。そうであればそもそもカーラントになど任せず、確実に子供の息の根を止めるべく動いていたであろうに。

 今更ながら、カーラントの子飼いが『封蝋』を取り逃がしたことに、叔父がやけにこだわっていたその理由が分かる。事ここに至っては、すべてが手遅れだが。

(草……はもはや使えぬ)

 ソーン卿が現れた以上、指揮権は完全に奪われたと見て間違いない。ローゼルは歯噛みした。

(忌々しい……! 今回は今回として、やはり宗主権は取り戻さねば)

 宗主の座を奪われたことで、ローゼルが失ったのは草の最高指揮権だけではない。一門に関するあらゆる物事に対して、その影響は及んでいた。

 なかでも問題なのが、婚姻における決定権である。

 ローゼルにはアイブライトの影響を排してリリーを再興させたいという望みがある。その構想を実現するためには、家と家とを結びつける婚姻という手段が外せない。

 貴族同士が王や教会を介していかなる協定を結ぼうと、実際には血に勝るほどの強固な同盟は望めないものだ。

 ゆえに貴族にとって、縁組みはもっとも有効な勢力拡大の手段と言えた。

 しかしその決定の自由が、今のローゼルには無いのである。彼が独自に力を蓄えるために、一門の誰かにこれと狙った他家の息女をめあわせようと考えても、実現には宗主であるソーン伯の承認が必要だ。

 追い落としたい当人に、その計略の許可を取り付けねばならないなど、これほど馬鹿げた話もない。

 そういった弊害こそが今回、不本意ながらもメリア偽造に手を染めた最大の理由だった。

(まったく、なぜ私がこのような目に遭わねばならぬ! そもそも、あの愚かな妹が馬鹿な真似さえしなければ……!)

 大人しくカーラントに嫁ぐべきであったものを、と今なおローゼルは、命を絶ってまで自身に逆らった妹に腹を立てている。

 兄と並べば見劣りがする、と何かにつけささやかれた地味な容姿に加え、性格も変わり者で扱い難かったアルテミジアに、ローゼルは肉親としての情など欠片も持ち合わせてはいなかった。何しろ、他ならぬ自分たちの母がまず彼女に対してそのような態度であったので、そのことに疑問すら持ったこともない。

 それでも彼女が自身と同じ血を引くフレーズ家の直系であることは確かであり、それがあのソーン伯に身を任せたという事実は、ローゼルにとって受け入れ難いものだった。

 栄えあるリリーの宗主フレーズ伯の息女が、傍系王族ごときの愛人として庶子を設けようなど、恥もいいところである。

 だからこそ、その屈辱的な状況を正すため、カーラントの次期宗主であるデーツ伯の後添えに据えてやろうとしたというのに――。

「……殿、甥御殿!」

 つい、物思いにふけってしまったローゼルの意識をリリー卿の声が引き戻す。

 つとローゼルが顔を上げて叔父を見れば、相手はすがるような目でこちらを覗き込んできた。

「あの子供を……『封蝋』を消してもらえような!?」

「『封蝋』を……」

 ローゼルは叔父から視線を外し、わずかばかり難しい顔をする。そうしたいのは彼とて同様だが、既にソーン伯の手に渡ってしまった後となると、容易たやすいことではないだろう。

 しかしその逡巡を別の意味に捉えたらしいリリー卿は、恐怖に駆られた顔つきでローゼルのマントに縋りついてきた。

「ま、まさかフレーズは我が家を見捨てるというのではあるまいな!?」

 偽造元の書簡もエレカンペインの使者に返却された後とあっては、残る証拠はリリー男爵家に仕えていた例の『封蝋』と、実際に偽造を行った書記だけだ。つまりリリー男爵家だけにこの陰謀との繋がりが残されていることになる。リリー卿が恐れるのも無理は無かった。

「見捨てるなど……心外です。リリーの再興が悲願である私が、一門に連なる叔父上を切り捨てることがあるとお思いですか?」

 ローゼルの落ち着いた声音に、リリー卿も自らの取り乱しようを恥じたらしく手を放す。しかしその言葉だけで安心できるかと言えばそのようなはずもなく、上ずった声で続けた。

「し、しかしだな」

「しばしお待ちを、叔父上。そのようにかされては考えられるものも考えられませぬ」

「我が家の存亡の危機なのだ! 落ち着いていられようか」

 なおも己れの不安を一方的にぶつけてくるリリー卿に、ローゼルはわずかに眉根を寄せる。元々彼の私欲を利用してこの企てに引き入れたわけであるが、ここまで小心となるとかえって扱いが面倒だ。

「……恐れながら、アブラス様。今から『封蝋』の口を塞いでも意味はありますまい」

 これまで沈黙を守っていたマダーが、そんな主人の様子を見かねて静かに切り出す。

 リリー卿は両眉を跳ね上げてマダーを振り向いた。

「なんだと!?」

「既にその子供の口からソーン卿に事実が伝わっている可能性がある以上、もはや手遅れです。ソーン卿の懐に刺客を送り込まねばならぬという危険も含めて考えれば、有効な策ではないかと」

「ではどうすると言うのだ!? 危険だからやらぬで済まされては堪らぬぞ」

 詰め寄られたマダーは、努めて穏やかな口調でリリー卿に語る。

「そもそも、エレカンペイン王妃のご使者の要請を、このカンファーでねつけられる者がおりましょうか。ローゼル様は心ならずもエレカンペインにおける王族同士の争いに巻き込まれてしまわれただけのこと。そして――我が国でロベリア妃に対抗できるとすれば、それこそソーン卿くらいのものでありましょう」

 リリー卿より先にローゼルがマダーの言わんとしていることに気付き、唸るように言った。

「……そうソーン卿に弁明しろと言うのか、マダー。あれに這いつくばって許しを請えと!?」

 いくら有効な手立てと思われても、ローゼルには到底受け入れられない。それは予測済みであったのだろうマダーは、神妙な顔つきのまま淡々と続ける。

「ローゼル様がそこまでなさる必要が無くなるような、手土産がりましょうな」

 ローゼルとリリー卿はどちらも眉を顰めたまま、顔を見合わせた。



「……マダーめ、あのような理屈で儂をうまく納得させられたとでも思っているのか」

 フレーズ邸を辞し、自身の屋敷に戻る馬車の中でリリー卿は独り言ちた。

 先代の頃からフレーズ伯家に仕えるマダーは、当然ながら今の主人であるローゼルの保身を第一に考えるだろう。甥のローゼル自身が何と言おうと、実際にことに当たるのがあの騎士になる以上、リリー卿が切り捨てられる可能性は未だ消えてはいなかった。

(それだけではなく、あの書記見習いの命がある限り、儂は破滅の影に脅えねばならん)

 ソーン卿に知られてしまったであろうことに対しては確かに打つ手が無いし、先ほどマダーがローゼルに進言した策で、ソーン卿の怒りを回避することはできるかもしれない。

 しかしそこを首尾良く切り抜けられたとしても、この先も『封蝋』の中には旧主の屋敷でメリア署名の偽造が行われたという記憶が残り続けるのだ。大人相手であればある程度取引や脅迫で口をつぐませることもできようが、子供となるとその手もさして有効とは言えない。

 この先ずっと、悪事がいずこへかと漏らされる危険に脅え続けねばならないなど、もはや悪夢である。

(まったく冗談ではない。甥御殿もマダーも当てにならん。ここは儂が……自力でどうにかせねばなるまい)

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