第29章 矛先

 ――ヴァーヴェイン様。貴方が、貴方ご自身が逆賊となってはなりません。たとえ父を見捨てた息子とそしられようと。貴方が背負っているのはアイブライトの名のみにあらず。貴方はカンファー王権の庇護者なのです。このエレカンペインで力を失えば、かの国の命運まで尽きるのだということを、ゆめゆめお忘れなきよう。


 そうさとされ、窮地の父の許に参じることを止められた。どちらを取るのか突き付けられた自分は、自らの意志で一方を選んだ。

 ――つまりもう一方を選ばなかった。

 正義が奈辺にあろうと、……たとえ慈しんでくれた父の側には無かろうと、それもひとつの事実であることに変わりはない。正しい選択であったか否かなど、自身の心とはまったく関係のない話だ。

 決断したその日から、自分の中の何かがぱきりときれいに割れたまま、ずっとふたつの欠片として漂っている。

 いずれかが消えることはないだろうし、消してしまおうとも思わない。どちらも手放さないことこそが「自分」を自分たらしめている最後の砦だから。

 ただ、この割れてしまった何か――心が、ひとつに戻ることは、もはや無い。



「なんだヴィー、ずいぶん早いな。王宮で門前払いでも食らったか」

 ディルの残した足跡の真上で立ちはだかるヴィーに、リエール卿は軽口で応じた。フラクスはそんな主人の背後でうやうやしく一礼する。

 ヴィーの心情など百も承知の卿には、動揺も焦燥も見られなかった。

 そんな相手に憎たらしさを覚えつつ、ヴィーは瞼を半ばまで伏せる。その呆れも露わな表情は、瞳の奥にくすぶる怒りを、烟る金の睫毛で覆い隠そうとするかのようでもあった。

「貴方ではあるまいし。私がその気になれば、一刻もせずに陛下に接見して戻ってくることも可能だと分かっているでしょう」

 ソーン伯爵邸は王宮に隣接しているうえに、ヴィーは主宮の奥深くまで馬車や騎馬で乗りつけられる身だ。そして日頃高位貴族と関わりがない下級役人たちならいざ知らず、宮廷の侍臣がソーン伯の用件を後回しにするなど有り得ない。

 王妃のもてなしによりいささか滞在が長引いたが、もっと早くにヴィーが戻る可能性も十分にあった。

 それをリエール卿が認識していないはずがない。にもかかわらずこのような真似をする以上、卿には自身の行いを彼に隠すつもりが無いということだった。

「あの子に何を言ったのです」

 足跡の読み方は、他ならぬこのリエール卿から教わった。ディルが激しい動揺と共にこの場を駆け抜けていったらしいことは、ヴィーにも分かる。

「お前が切り出せずに抱えていた懸念を問い質しただけだ」

 リエール卿は平然と答えた。

 ほんの一瞬、ヴィーの頬が怒りにれる。

「余計な真似を――」

「ついでに、父親についても伝えた。他殺の可能性もあるとな」

「殴っていいですか?」

 相手の言葉が終わるか終わらないかのところで、被せるようにヴィーは言った。

「訊かれてわざわざだくと答えるほど、私に被虐趣味は無いな――」

 飄々と答えつつ、リエール卿はすいと横に身体をずらす。

 寸前まで彼の顔が存在した空間を、ヴィーの拳が切り裂いた。

 会話とは拍子を外しつつ、かつ可能な限りの速度に乗せて攻撃したつもりだったが、難なくかわされてしまった。即座に次手を繰り出す……が、これもまた標的に届かない。

 蹴りも交えて三手、四手と続けざまに攻める。と、それまで流れるような動作でヴィーの攻撃をいなしていたリエール卿が突如彼の右腕を捉えた。掴んで脇に抱え込み、動きを封じる。

「血の気の多い奴め」

 間近に引き寄せられたヴィーの顔を見下ろし、呆れ顔で卿は言った。

「貴方に対してだけですよ。光栄に思ったらいかがです?」

 冷静に返しつつ、利き腕をられたヴィーは相手が腹に叩き込んできた拳をすんでのところで左手で払い除ける。そのまま空いた下腹を狙って膝蹴りを繰り出した。

 リエール卿は一旦ヴィーの右腕を強引に引き寄せてから突如解放する。ヴィーは重心を振り回されむなく両脚を地面についた。

 その間にがら空きになった彼の左側面にリエール卿が回り込み、気付いたヴィーは即座に向き直る。しかしその反応に合わせて卿の拳が真正面から襲い掛かってきた。

 咄嗟に身を沈めて躱したものの、頭髪に受けた風圧にヴィーは肝を冷やす。だが怯んでいる場合ではない。屈んだまま相手のすねに蹴りを入れた。

 しばし攻撃と防御、立ち位置と立ち位置が目まぐるしく入れ替わる。

 無論、リエール卿が手加減しているからこその均衡ではあった。本気の戦闘ならば、一手か二手で彼はとうにヴィーを捩じ伏せていたはずである。

 しかしヴィーに付き合ってはいるものの、卿にはただで殴られてやる気は毛頭無いようだった。ヴィーが繰り出す攻撃のことごとくを、彼は徹底して防御しては容赦なく反撃を入れてくる。しまいにはどちらが攻め手か、はたで見ているフラクスの目にも怪しく映ってくる始末だった。

 このままではいずれヴィーの方に体力切れが訪れる。残念ながら若さという利点を以てしても、技術と経験、そして日頃の鍛錬の量からして、この剣豪とまで謳われる騎士をヴィーが凌駕することは難しかった。得意な得物えものが何であれ、体術が近接戦闘の土台である以上、リエール卿が格闘に秀でているのは当然なのである。

 明らかに技量が上回る相手に、せめて一撃たりとも食らわせるには――。

 ヴィーはリエール卿の拳を掻い潜り、身を屈めると低い体勢のまま踏み込んだ。相手の腹を狙っての突進……と見せかけ、その身体の下でおもむろに剣の柄を逆手で握る。

 抜いた刀身の物打ち辺りを左手で掴み、右手も素早く左手近くに持ち替えると、そのまま横に薙ぐ。

 突き出た棒つばの先が側面からリエール卿に襲い掛かった。

 斬るという機能こそ持たないものの、長剣の鍔も柄頭ポンメルも頑丈な金属の塊である以上、十分な殺傷力を持つ。これは破甲術あるいは殺撃と呼ばれる、長剣を打撃武器として使う技の一種だった。

「……っ」

 リエール卿の目がわずかに見開かれたのを、ヴィーは視認する。

 唐突に到達範囲リーチを増した一撃。さしもの卿も為す術無く食らうか――と、ヴィーが半ば確信を持った次の瞬間、だが驚愕の声を上げたのは彼の方だった。

「……フラクス!?」

 手応えはあった。

 しかし、最後の最後、標的がいるはずの位置でヴィーの目に映ったのはフラクスの姿だったのである。

 本来は鎧を着た相手を想定した技であるため、無論力は加減していた。とはいえまともにその身に打撃を受けたフラクスは、声も無く身体を折り曲げくずおれる。

「ちょ……っ」

 ヴィーは慌てて剣を放り出し、身を屈めてフラクスの顔を覗き込んだ。

「何してるんです!?」

「……申、し訳……」

 彼の問いに、フラクスは苦悶の表情で声を絞り出す。

「……あ、主人あるじに……貴方様の剣、は……っ」

 ヴィーの眉根が寄せられた。彼は途切れたフラクスの言葉の先を推測してみる。

(まさか……)

 従者として、主人の身体にヴィーの剣を当てさせることなどできない、とでも言うのだろうか。

「過保護――!?」

 愕然と叫んだヴィーの身体は、直後、いつの間にか背後に回り襟首を掴んできたリエール卿に、派手に投げ飛ばされた。



 受け身を取り損ね、仰向けに転がって咳き込むヴィーの許に、早くも復活したフラクスがやってくる。

「ヴァーヴェイン様……。おふたりに割って入った無粋をどうかお赦しください」

 間近に膝をついたフラクスに大真面目に頭を下げられたヴィーは、寝転がったまま微かに顔をしかめて訊いた。

「……いったい何の真似なんです……」

 フラクスは神妙な顔つきで答える。

「このままでは戦技訓練が始まってしまいそうでしたので。差し出がましいとは存じますが、これ以上ヴァーヴェイン様の貴重な時間を無為に割いてしまっては……」

「一発見舞えば終わりにしましたよ」

「恐れながら、あのまま見舞えるとお考えでしたなら大変な見込み違いと存じます。ウォード様は既に反撃の構えに入られていました。打ち込めば逆に剣をられ、更なる窮地に追い込まれてしまわれたことでしょう。その先に待つのはあの方のながの講釈です」

 ヴィーは口を閉ざす。

 リエール卿とは長年の付き合いだというフラクスの言葉を、無闇に否定はできなかった。

 あのとき驚きに目をみはったように見えたのも、彼の手の内だったのか。

(手の込んだ真似を……)

 踊らされた身としては当然、面白くはないが、それも彼に言わせればこちらが未熟ゆえということなのだろう。

 そしてヴィーの戦い方の何が悪かったのかを微に入り細を穿って指摘し出して延々終わらないに違いない、とフラクスは言うのだ。それは一時期彼の弟子であったヴィーにも十分想像できることだった。

「……つまり私のためと?」

「は……。よりによってウォード様相手に剣を持ち出されるなど……お次の機会には、複数人による長弓での同時攻撃をお勧めいたします」

「べつに暗殺したいわけじゃないですよ。今のところ」

 従者とも思えないフラクスの助言に毒気を抜かれ、ヴィーはため息をつく。

「……もしかして私、説教されてるんですか?」

「ご認識の通りかと」

 至って生真面目な顔で返された答に、ヴィーは釈然としない面持ちになった。

「なぜ……。私の方こそ叱りに来たのに」

「なら拳でやるな」

 フラクスの背後から顔を覗かせたリエール卿が口を挟む。

「まったく、何が過保護だ馬鹿たれ」

 ヴィーはむっとした表情で反論した。

「貴方も自分が何をしでかしたか分かっているのですから、少しは黙って私の制裁を受け入れるべきではありませんか」

 その抗議をリエール卿は鼻でわらう。

「お前のその、糖も蜜も恥じ入りそうな甘ったるい考えはどこから湧いて出てくるんだ」

 もはや理不尽とすら言いたくなる相手の科白に、ヴィーは心底辟易した顔になる。

「……私に謝罪の言葉のひとつもあるべき立場というのに、その言いよう。――まったく、私だって非論理的な行動を取りたくなるときくらいあるんです。それを受け止める度量も無いなんて、ほんとうに貴方はどこまで大人気おとなげ無いのか。年齢の代わりに面の皮を重ねているとしか思えません」

 ぼやいてヴィーは身を起こした。

「剣で殴りかかろうとした奴が何を言う」

「貴方に私の拳は届かない、と言われたことを思い出したので」

 ヴィーが立とうとする素振りを見せると、フラクスが即座に手を差し伸べる。その手を借りてヴィーは立ち上がり、フラクスは彼のマントに付いた泥や草を手早く払ってその衣服を整えた。

 ただの幸運か、それともさすがにリエール卿も配慮したのか、ヴィーが投げ飛ばされた先は下草が土を覆っており、さほどひどいことにはならずに済んだ。

 最後に落とした剣をフラクスから受け取り、鞘に収めたヴィーはリエール卿に向き直る。

「いいですか、本人の意志がどうであれ、今現在ディルの身柄の責任者は私です。それを勝手に呼びつけて横から引っ掻き回すなどという真似は無作法極まりない。厳重に抗議します」

 リエール卿はヴィーの非難などどこ吹く風といった様子で片眉を上げる。

「抗議は聞くが謝罪はしない。今更主君の意向を否定するような真似をするくらいなら、最初からやるものか」

「へえ? 平民の子供ひとりの処遇にまで口出ししろと? そんな些末さまつなことまで逐一指示されているというのですか」

「お前自身にとって些末とは言い難いことは、自分が一番分かっているだろう」

 その指摘にヴィーは口を引き結んだ。

「さっきも言ったように、お前は甘い。一事が万事とまでは言わんがな。……拾った孤児がお前と何ら関係の無い者だったというなら好きにすればよかろう。だがあのガキはそうじゃない。ろくな見極めも無しに懐に引き入れ過ぎるのは役目上、看過できん」

「役目、ねぇ」

 ヴィーはすっと目を眇め、冷えた笑いを口許に貼り付ける。

「毎度毎度、何かというと私に有難いご高説を垂れてくれますけどね。貴方の主も含め、ラウウォルフィアエレカンペイン王都の宮廷は傍流の私にかかずらっている場合なのですか?」

 彼の声音から歳相応の青さが消えていた。

 リエール卿はそんなヴィーを興味深げな目つきで眺める。

 周りの空気が急激に熱を失っていくのが見える気さえするほどに、その変化は劇的だった。

 聖人もくやと謳われる春の薫風のごとき気質が、北の大地の支配者たる片鱗を覗かせた冷厳さにすっかり取って代わられている。

(……なるほど。この変貌ぶりをまともに見せつけられたら、あの気弱なジンセング陛下などひとたまりも無かっただろう)

 鮮やかに場の雰囲気を塗り替える若者を自身は冷静に観察しつつ、リエール卿は声には出さずに独り言ちた。

 ヴィーはわずかに顎を上げ、昂然と続ける。

「貴方がたが私をどう評価しようと勝手ですけどね。こう見えても私はソーンにラヴィッジ、そしてウォータークレスに至るまで、自身が継承したものをこれまでひとつたりとも欠けさせてはいません。それより王太子という立場でありながら、いずれ自身が受け継ぐものを守る気概があるのかどうかも分からぬソレルの方が問題ではありませんか。なぜ私ばかりを構いつけるのです。のつもりだとしても順序が逆でしょう」

「殿下には重臣が選りすぐった傅役もりやくがついている。私のような不品行な騎士の出る幕など無いさ」

 リエール卿は他人事だと言わんばかりで、顔色ひとつ変えない。そのことにヴィーは苛立ちを募らせる。

「その優れた傅役とやらがどれほどの働きをしていると? レティから伝えられる様子を見る限り、十分とは思えません。私の手紙を開く度胸すら、彼は取り戻せていないのですよ?」

「スキレット姫がお前に殿下の何を伝えているかは知らんが……。そもそもお前は元凶と言われている。そんな相手からの私信に向き合うというのは殿下にとってある意味最も難しいことかもしれんぞ。……無論、間違っても気骨があるとは言えないが」

 相手の指摘にヴィーはわずかに押し黙り、やがて小さく息をついた。

「元凶ね……。それがラウウォルフィアの見解なら、なぜ私の首を落とさず蟄居などという生ぬるい措置に留め置いたのか。私という存在が消えれば、ソレルがりもしない怨嗟の影に怯えて王宮の奥深くに引き籠ることもなかったはず」

「私に言われてもな」

 リエール卿は肩を竦める。

「私はただの騎士に過ぎん。傍系王族お前なまりきった肉体をしごけと命じられたことはあるにせよ、王太子殿下の傅育ふいく――ましてや帝王学など管轄外だ。それにいくらお前が自分より殿下を優先しろと私に言ったところでどうにもならん。私はお前の目付け役であって、殿下に対して何ら任を負う身ではないからな」

「貴方じゃなくて。これは言っているんですよ」

 その言葉にリエール卿は首を振った。

「だから私に言ってどうする。私は伝令じゃない」

「役立たず」

 低い声でヴィーは言い放った。

 唐突に稚拙とも言える罵倒を浴びせられたリエール卿は、不意を突かれたように口を噤む。ずっと静かにふたりを見守っていたフラクスまでもが、わずかに目をみはった。

 突如訪れた沈黙のなか、額にうっすら青筋を浮かせたリエール卿がどう反論してやろうかという顔つきで口を開きかけたとき、ヴィーが唇の端を吊り上げた。

 相手の反応にようやく溜飲が下がったとでも言うように、その凍てついた眼差しが和らぐ。途端、彼の周りの張り詰めた空気が氷解していった。

 ヴィーはいつもの穏やかな微笑をその口許に戻し、小さく笑い声を漏らす。

「ふふ、貴方は意外と雑兵に足元をすくわれるたちかもしれませんね。気を付けたほうがいいですよ」

「……自分の語彙を雑兵にたとえて哀しいと思わんのか」

 厭な顔をしながらそれでもリエール卿が反撃すると、ヴィーは屈託のない笑顔を向けた。

「ちっとも。目的が果たせれば私は満足です」

「私に八つ当たりすることがか。ずいぶんとささやかな目的なものだ……」

 リエール卿が呟くと、ヴィーは身を翻しながら彼を横目で振り返る。

「貴方はそこに感謝するべきですよ。でなければ命がいくつあっても足りなかったはずなのですからね」

 こちらに向けられた透き通るような瞳は、優しげな光を湛えていながら、しかし不思議とリエール卿には怜悧な刃を思わせた。柔和な表情と相俟あいまって、その印象との乖離にどこか底冷えがする。

「……分かっているさ」

 既に何度、彼の中の大切なものを壊してきたか、それを重々承知しているリエール卿は憮然として答えた。

 ヴィーはディルの足跡を追って歩き出す。その背を寸時、リエール卿は物思いと共に見つめたが、すぐにフラクスを伴い彼に続いた。

 先ほどはこれ以上行かせない、と告げたヴィーだったが、特にリエール卿を止めはしなかった。

 しばし彼らは言葉も無く進み続ける。辺りに響くのは小鳥のさえずりのみで、それに加えて時折、風が木々を揺らす葉擦れの音が、うねりのように彼らを取り巻いては流れていく。

 ヴィーは木立ちを満たす静穏な空気に黙然と身を浸していたが、やがて囁くように切り出した。

「ねえ、リエール卿」

 呼び掛けた相手が自分に視線を注ぐ気配を確かめてから、彼はあらためて口を開く。

「……仮にソレルの現状が私のせいだとして――」

 そこで一度言葉を切り、どこか思い詰めた眼差しを虚空に泳がせる。

「眼前で父の首を落とされた子供が、恨みと怒りに任せて仇敵を睨みつけたからって、それはそんなに責められなければならないことなのでしょうかね?」

 リエール卿はかすかに息を呑んだ。

 内容とは裏腹に、ヴィーの口調はどこまでも凪いでいた。卿の目に映る彼からは、ただ凛とした静謐さが伝えられるのみである。まるで、あらゆる激情など存在さえ知らぬかのように。

 ヴィーが口にした想いは、彼が人として抱いて当然のものだ。ゆえにどちらと答えるべきかと言えば、迷うまでもなく「いな」だろう。

 しかしリエール卿には、これまでヴィーの至極真っ当な個人的心情を散々に踏みにじり、その立場としての振る舞いを強要してきた側の人間であるという自覚があった。他人であれば容易であろう回答も、彼が口にした途端、その決まりきった答が多くの矛盾をはらむものに変質してしまう。

 互いに好き放題言い合っているようでいて、それはあくまでヴィーが腹に据えかねたまま抱えている本音を、本人が全て飲み込んだうえで成り立っているものでしかない。感情を深く沈めた湖面に張る薄氷に過ぎないのだ。

 だがそれがいかに儚いものであろうと、ヴィーが、自身が常人に近い感情の機微を保つために有用と考えていることも、リエール卿は承知していた。ゆえに彼は、ヴィーの師という立場を外れた今も、当時と変わらぬ態度で接し続けている。

 しかし今、ヴィーは自らその薄氷に片脚を置いてみせたのだった。ひとたび割れてしまえば――その下から何が首をもたげるのかすら、リエール卿には予測がつかない。

 それだけにヴィーの真意も掴みかねるまま、いつもの調子で言葉を返すことなど卿にはできなかった。否定であれ肯定であれ、その問いに答える資格を彼は持ち合わせていないのだから。

 珍しく黙したまま返答に窮するリエール卿を振り返り、ヴィーは柔らかい笑みを向ける。

「――答えなくていいです。言いたかっただけなので」

 敢えて自分たちの間に横たわる危うい均衡を揺さぶり、こちらの良心をえぐってみせたのだと明かされ、リエール卿は、彼にしては乱暴な所作で頭を掻いた。

「やれやれ……まだお前の腹いせが続いていたとはな」

 ヴィーは悪童のような顔つきになる。

「そう簡単に放免されるはずがないでしょう。忘れましたか? 私は貴方の鬼畜な主と同じ血が流れているんですよ?」

「……今のは注進しておく」

「まだお仕置きが足りないなら追加しましょうか。大人しく殴られておけばよかったと思わせてさしあげますよ」



 一頻りの応酬を終え、再び口を閉ざして進むヴィーの耳に、遠くからまきを割る音がかすかに聞こえてきた。屋敷で働く人夫か何かだろう。

 同じ木立ちの中であっても、静寂に耳が慣れてくると、人々の生活の気配がすぐそばに息づいていることに気付く。つい先日まで歩いた山中とは違う――そう思った途端、ディルと共に旅した日々が脳裏によみがえった。しかしその情景がやけに遠くに感じられる。

 ディルとの距離が二度と縮まらない可能性は、最初からあった。だから覚悟はしている。……否、それほど格好をつけた話でもなく、諦めなければならないと理解している、と表現したほうが妥当か。

(それなら、いったい私は何にこんなに腹を立てているのだろう)

 もちろん、自身で決着をつけるべきと考えていたことに横合いから手を出されたのは気に入らない。だがそれだけではなく、そうなった原因を辿っていくと、どうにも納得いかない事実が潜んでいるのだった。

 先ほどリエール卿にも言ったように、なぜ自分ばかりがこんなにまで有難ありがた迷惑な介入を受けるのか。「彼」を差し置いて鬱陶しいほどに注視されているのか。

 リエール卿はああ言ったが、自分が卿から授けられたものは決して剣技をはじめとする武術だけに留まらない。彼に弟子として付き従いながら見聞きしたもの――そこで得た視点や広げられた視野の多くは、本来はいずれエレカンペインを担う従弟、王太子ソレルにこそ必要なものではないのかという気がしてならないのである。

(まるで――)

 そこでヴィーは内心のその先の言葉を飲み込んだ。知らず、右手が拳を握り締める。そればかりはどうしても認めたくない推測だった。

 どうにか浮かびかけた思考を押し留め、ヴィーは小さく息を吐く。

(ソレル。父上を逆賊に追い落とし処刑に至らしめた仇を私がどう思うか、その仇の血に連なる君のことをどう捉えるか、それは私自身が決めることだ。君が決めつけることじゃない。いつになったら君はそこに気付くのだろう。……それとも、気付いてはいても受け入れられないのか)

 自分や、自分に近しい者から災難をこうむった相手がこちらをどう思うのか、恐れる気持ちはヴィーにも理解できる。それは今まさにヴィーが直面している、ディルが自分についてどのような感情を抱くのか、という懸念と同じものだから。

 ただ、それは結局、当人に確かめてみなければ本当のところは分からない。無論確かめてみたとて、本心を得られるとは限らないし、得られた本音そのものが時と共に変化することとてある。

 けれどいずれにしても、その道を勝手な憶測に基づいて閉ざしてしまっては何も始まらない。本来、閉ざす資格はこちらには無いのだ。

 ゆえにどれほどその足が重くなろうと、ヴィーはディルの許へと向かう歩みを止めることはできなかった。



 走り続けたディルは眼前が唐突に開けて思わず足を止める。

 言葉も無く立ち尽くし、前方を見渡した。

 木立ちが終わり、広々としたその先は土を掘って付けられた窪みで地面が大小に仕切られ、区画ごとに様々な植物が植えられている。

 花を付けたものもあれば、柔らかい緑を茂らせているもの、まだ芽吹いたばかりの小さな子葉が並ぶ場所など実に多様だが、共通するのはいずれもディルが目にしたことのない植物であるということだった。

(なんだろう、ここ……)

 使用人として育ったディルにとって、庭の植物は身近なものだ。母親や厨房の者たちの言いつけで香草を摘んだり果実をいだり、落ちた木の実を集めたり――いずれにしてもそこに生えている植物が何か分からなければ始まらない。それは他の子供たちとともに雑用をこなすうちに、自然と覚えていくものだった。

 だというのに、ここで育てられているらしき植物たちは一つとして、彼の記憶のどこにも存在しない。

 ディルは異界にでも迷い込んだかのような違和感を覚え、これまでの混乱も忘れて辺りを見回した。

 戸惑いながら巡らす視線の先で、ふと何かが目につく。ディルはほとんど無意識に、覚束おぼつかない足取りでそこに歩み寄った。

 細く長い、縁が波打った葉が地面から幾つも生えており、その区画の半分を埋めている。近付いてみると、その葉は規則的に植えられたたくさんの株元から、何枚かずつ上に向かって伸びているのだと分かった。どれも中心に真っ直ぐな茎が天に向かって伸びているが、その先が摘み取られたように無くなっている。

 しかしひとつだけ、まだ摘まれずに花を咲かせており、それが遠目にディルの注意を引いたのだった。

(……この花……)

 そよぐ風に可憐に揺れる花姿に見入り、ディルはごくりと唾を呑み込む。

 空に向けて控えめに開く、先の尖った六枚の花弁。奥まったその中心に濃い色のしべそなえた、拳くらいの大きさの花――。

 それはこの景色の中で唯一、ディルが見覚えのある造形すがただった。

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