第28章 介入

 王宮から屋敷に戻ったヴィーは、従者たちに礼装を解かせる間、家令から家中かちゅうの諸事に関する報告や相談を受けていた。

 蟄居先でもヴィーは普段から自身の領地、そして所有する城や屋敷について小まめに情報を集めさせており、この家令との書簡によるやり取りの頻度も相当なものだ。しかし主人あるじと面と向かって話せる滅多にない機会となれば、相手の話題が尽きるはずもないようだった。

 とはいえ、家令も主人の貴重な滞在時間を仕事ずくめにするのは本意ではないらしい。ヴィーの装いが、彼が平服としてよく身に着ける騎士服に代わるのを見計らい、それらの話を切り上げる。そして最後に、彼は付け加えるように言った。

「ところで旦那様――。厨房に向かわせたディルのことですが、先刻リエール卿がお呼びになって以降、見かけた者がおらぬとか。卿のなさることゆえ心配は無用とも存じますが、旦那様からは特にうけたまわっておりませんでしたので……」

 その報告にヴィーは動きを止める。次いでわずかに目をみはり、眉をひそめて初老の家令の顔を覗き込んだ。

 家令がなぜこの注進を自分の耳に最後に入れたのかは、不本意ながら理解できた。

 ヴィーは当面ディルのことを他人任せにする気がない。そんな主人が正装を解いて身動き取れるようになるまでに、この場で話せば済む事案から片付けてしまったほうが時間の無駄が無いと考えたのだろう。

 それはよく分かる。普段こちらのことは任せきりにしてしまっている負い目もあるので、尚更に。

 しかしどうしても、ヴィーは彼に言わずにはいられなかった。

「……それ……最初に言ってください」

 ヴィーは更に二、三、相手からその件について情報を聞き出すと、従者が捧げ持つ剣を取って身を翻し、足早に自室を出る。

 騎士用の青いマントをはためかせ、脇目も振らず大股に歩む当主の姿に、行き会った使用人たちが皆何事かと目を丸くした。しかしヴィーは構わず突き進み、戸外に向かう。

(ああもう、やはりあのひとを野放しにするとろくなことがない!)

 少なくともこの国にいるあいだ、終始目の届く範囲に留め置きたいところだったが、さすがにソーン伯としてカンファー国王の――結局目通り叶ったのは王妃のほうであったが――謁見の場に臨むにあたり、エレカンペイン貴族であるリエール卿を伴うわけにもいかない。そのような事情で彼を屋敷に置いていったのであるが……。

 リエール卿はヴィーの後見役であるケンプフェリア大主教の甥に当たる。家令をはじめとする殆どの者たちには、彼はその関係で大主教から内々にヴィーの教育を要請された人物、という認識しか無い。

 つまりヴィーの意思に反するような行動を取りうるとは目されていなかった。

 リエール卿もそれは承知しているはずで、ゆえにここで表立って妙な真似はするまいとヴィーは考えていたのであるが、認識が甘すぎたかもしれない。

(こんなことなら縛り上げて色街にでも蹴り出しておくんだった!)

 実際にそれが可能かはともかく、ヴィーは心の中で呟き、唇を嚙んだ。



 春の陽気をはらんだ柔らかい風が、切られたばかりのディルの髪を撫ぜる。

 フラクスと名乗った男の後を、ディルは緊張の面持ちのままついて歩いた。

 彼が仕えるリエール卿と言えば、ヴィーの剣の師だったと紹介された、あの黒衣をまとった騎士のことである。

 すでに師弟の関係ではないという話だったが、エレカンペイン王族と承知していてなお、ヴィーをぞんざいな態度で叱り飛ばし、またヴィーもそれを自然に受け入れている様子で、互いに気安く言葉を交わしていたのが印象的だった。

 ディルのヴィーに対する態度についても特にとがめるでもなく、それどころかヴィーとの会話に耳を傾けながら要所でディルを助けてくれるなど、恐ろしく理解があるようにも感じられた。

 しかしそうは言っても、ディルからすればはるかに上の身分の相手であることには違いない。ヴィーが傍にいない今、いったい自分などに何の用だというのだろうか。

 まるで想像がつかず、ディルは不安になりながら懸命に長身の男の背中を追う。

 このソーン伯爵邸の全容は未だディルの把握するところではないが、それにしてもずいぶん長い距離を歩かされていた。

 一度父に連れられて赴いた、王都外の荘園の領主館がディルが訪れたことのある一番大きな館だったが、あれは小規模な城のようなものだと父から聞いた。ソーン伯爵邸は内郭の中にあるというのに、それに引けを取らない広さに思える。そういえば、ヴィーの部屋から厨房に行くまでにも、かなりの距離を移動したのだった。

 上がる息の合間にそんなことを考えていると、やがて周囲が次第に木立に覆われ暗くなっていき、ディルは胸騒ぎを覚えた。

「あ、あの……フラクス……さん」

 明らかに怯えた声音の呼び掛けに、フラクスがわずかに顔をこちらに向ける。それに伴い彼の歩む速度もやや緩んだが、その足が完全に止まることはなかった。

 肩越しにディルを見遣った彼は、いかめしい顔にかすかな苦笑を滲ませる。

「すまない、だいぶ歩かせてしまっているな。別に君をかどわかそうとしているわけではない。込み入った話をするために我が主が場所を選んでおいでなのだ。君はこの屋敷では新参で、人目を引きやすいのでね」

 フラクスは外見とは裏腹に、その口調は柔らかく丁寧で、話し方にそこはかとない教養を感じさせた。

 よくよく思い返してみれば、昨日侯爵家に現れた一行の中に彼の姿があったような気もする。とすると、平民だとしてもリエール卿の側近くに仕える従者なのだろう。

 書記であった父にも通じる空気を感じ、ディルはほんの少し、懐かしさを覚える。

 しかしそれはごく一瞬のことで、語られた内容がまるで安心できないものであることに、ディルは遅れて気が付いた。

(つまり……目立たないところに連れてかれる、ってことだよね!?)

 人目をはばかる話をされるということが既に穏やかではない。

 ディルがさらに表情を強張らせるのと、どこからか笑いを含んだ声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。

「――フラクス。お前はそのガキを安心させたいのか不安にさせたいのか、どっちだ」

 ディルは驚いて声のした方を振り向いたが、フラクスは表情も変えずに歩を止めると、平然と答える。

「特にどちらというものでもありません。事実を述べたまでですので」

「相変わらずお前の回答は可愛げがないな」

 呆れたような科白と共に、前方の木立ちの間からリエール卿が姿を現した。

 昨日は全身黒ずくめであったが、今日は薄青の地に濃色の縁取りという、生地や仕立ては上等そうだが、ごくありふれた色合いの外衣を纏っており、かなり印象が違う。

 そもそも一般に黒衣というのは珍しい。

 大量の染料を要する濃い色の布は必然的に高価であるうえ、黒は夜や闇を表す色であり、救い主たる聖者を光にたとえるエルムにおいては不穏、不吉といった意味合いを持つ。

 となるとわざわざそのような生地や糸を用いた衣服が広く仕立てられるはずもなく、昨日のリエール卿の装いはそれだけディルの目に異様に映った。

 対して今日の姿はずいぶんとやわらいだ雰囲気に感じる。

 しかし、皮肉な笑みに唇の端を吊り上げた偉丈夫の眼光は、変わらず鋭かった。

「熱は下がったようだな」

 フラクスがディルの目の前から脇に身を退くと、代わってリエール卿が正面まで歩いてきてこちらを見下ろす。

「は、はい……」

 口の中の渇きを覚えながら、ディルはかすれ気味の声で答えた。

「それは重畳ちょうじょう。――さて、お前にいくつか問いたいことがある」

 ごくりと唾を呑むディルの顔に視線を注いだまま、リエール卿はゆったりとした歩調ですぐ横手の樹に近付くと、腕組みをしてその幹にもたれかかる。

 相手が体勢を変えたことで、ディルはわずかに息をついた。

 リエール卿にそのつもりがあったかは分からないが、真っ向から見下ろされることで受ける威圧感は、ディルの心を、その小さな身体もろとも理屈抜きに委縮させてしまう。

 しかも彼はつい一昨日、正面に立ったグネモン卿に顎を掴まれ間近から見下ろされるという、恐怖の体験をしたばかりだ。その記憶が掘り起こされてしまい、一層ディルの身体を固くしていた。

 リエール卿が敢えてディルの真向かいから身をずらしたのは、彼のそんな緊張を読み取ったためかもしれない。

 卿はディルを注意深く眺めてひと呼吸置くと、静かに切り出した。

「メリア付き書簡の『封蝋』――この言葉がなんだか分かるか?」

 緊張が緩んだのも束の間、ディルはその問いにびくりと肩を震わせる。

(どうしてこのひとが……!?)

 まさかここに来てまで聞くとは思わなかった。それもヴィー以外の相手の口から。

 封蝋のこともそうだが、平民にとっては禁忌である「メリア」という単語に対する恐れで、顔が強張る。

 否定も肯定もできずに唇を戦慄わななかせたディルの様子に、リエール卿は彼の返答を待たずに口を開いた。

「ほう、これは面白いな。お前はメリアが何なのかまで正確に理解しているようだ」

「よ……読めたりはしません!」

 ディルは慌てて弁明する。かつて初めてメリア書体を目にした際に、老司祭から言われた「学んだら厳しく罰せられる」という言葉が脳裏をよぎったのだ。

「だがメリアがいかなる扱いのものかは承知している……そうだな?」

 リエール卿の口調は淡々としており、特に非難している風でもない。しかしそれがかえってディルには尋問のように感じられ、彼は返答に窮して押し黙った。

「別にお前を役人に突き出そうというわけじゃない。話がメリアにれたが私がお前に訊きたいことはそこではないのでな。……それで、その『封蝋』とは何のことだか分かるのか?」

 メリア署名が質問の主眼ではなかったと分かり、ディルは安堵する。そして重ねられた問いに小さく頷いた。

「……おれのこと……です」

 自分はその役割だった、とクローブから聞かされている。メリア署名はともかく、封蝋に見立てられていたことについては特に隠す必要があるとも思えず、ディルは素直に答えた。

 リエール卿は眉を上げる。

「そこまで分かっているのか。カーラントが自らのはかりごとをわざわざお前に語って聞かせるとはな。本気でお前を召し抱えるつもりだったようだ」

「で、でも、どうしてそれを?」

 ヴィーと親しい間柄だとしても、リエール卿はエレカンペインの貴族であり、彼自身がリリー家やカーラント家と繋がりがあるとは聞いていない。にもかかわらず書簡の封蝋という、ヴィーにもまだ話していない言葉を知っているとは、陰謀を企てた側の情報を彼は握っているのだろうか。

 ディルの問いに、リエール卿は口許を皮肉っぽく歪めた。

「その程度の情報を掴むことなど造作もない。私はヴィーの周囲で起きる出来事を嗅ぎ回るのが仕事なんでな」

 それはまるで自らをあざけるような物言いだった。穏やかならぬものを感じ、ディルはかすかに眉をひそめる。

「ヴィ……あ……と、ヴァーヴェインさまの?」

 つい相手と同じように呼び慣れた愛称が口をついて出て、ディルは慌てて言い直した。

 そんな彼をリエール卿は面白そうに見遣る。

「言いにくそうだな」

 ディルはそんなことはない、とかぶりを振った。

 正直、リエール卿の言うとおりではあったが、かといってそれを認めるわけにもいかない。

 しかしそんなディルの内心を見透かしたように、リエール卿はわらった。

「はっ、わきまえたガキだ。お前にとって、さしずめヴィーは自分を絶望の淵から救い上げて光をもたらした、エルムにとっての聖者バルサムのような存在か」

 ディルはしばし考える。

(確かに、そうかもしれない……)

 リエール卿のたとえに否定するところは無かった。

 ヴィーは親しく接してくれているが、本来はディルの手の届く相手ではなく、そして自分の救い主であることは疑いようもない。

 教典の描写に重ねるまでもなく、ディルにとって、ヴィーは聖者にも等しい存在と言えた。

「……はい」

 確固たる表情で、ディルは答える。

 その真っ直ぐな眼差しを受けたリエール卿の顔にほんの一瞬、憐憫の色が差し、そしてすぐに消えた。



「……その書簡のメリア署名が、誰を指していたかはもう分かっているな?」

「はい」

 リエール卿の問いに、ディルは即座に答えた。

 侯爵家で、ほかならぬヴィーが「私の署名」と言ったのである。

「お前はヴィーをソーン伯の地位から退けるための陰謀に利用されたわけだ」

 冷徹な言葉に、ディルは息を吞んだ。

 それはまさに、先ほどの食事中に自分で思い至った事柄だったからである。

「で……でも、おれは……!」

 何はともあれ自分にヴィーを陥れようなどという意思があるはずもない、と訴えようとしたディルを、リエール卿は片手を上げて制する。

「お前に責があるなどとは言っていない。そうではなく、お前はヴィーのせいで陰謀に巻き込まれ、リリー家を追い出された。そう考えたことはあるか?」

 ディルは大きく目を見開く。自分の血の気が引くのをはっきりと感じた。

 リエール卿の問いが、先刻から自分の胸中をざらつかせている何かに繋がるものであると、直感的に察したからだ。それとほぼ同時に、彼は反射的に叫んでいた。

「ヴィーのせいじゃありません!」

 それは正しくは、自分の心を守りたいがための言葉だったかもしれない。

 ディルは再びヴィーのことを愛称で呼んでしまっていたことにも気付かなかった。

 彼の頭の中で警鐘が鳴り始める。まるで心臓が耳元にあるかのように、自分の鼓動の音がはっきり聞こえた。

(どうして、このひとはこんなことを言うの!?)

 漠然とした腹立たしさを覚える。それと共に、呼び覚まされそうな不都合な思考と、それを恐れて抑え込もうとする意識がせめぎ合い、錯綜し、頭の中が千々に乱れる。

 聞きたくない。考えたくない。――考えてはいけない。

 考えたら、自分の存在を揺るがす恐ろしい繋がりに行き当たってしまう。だからそこに目を向けてはいけない。そうして心に蓋をしようとしていたのに。

 一刻も早くこの場から逃れたい。

 泣きそうに顔を歪め、知らず、よろめきながら後退あとずさるディルの両肩を、いつの間にか彼の背後に回り込んだフラクスの大きな手が押さえた。

 決して力ずくで抑えるわけではなく、どちらかと言えば彼をなだめようとする手つきであったが、ディルは退路を断たれたと感じて蒼白になる。

 リエール卿は寄りかかっていた樹の幹から身を起こし、腕組みをしてディルに向き直った。

「落ち着け。衝動で喋るな。お前は今私が言ったことをしっかり考えたうえで答えたか? 確かにヴィーはお前の身に降りかかった災難の直接の原因ではない。だが決して無関係でもない。そのことをお前はどこまで考えているのかを私は質問している。ヴィーを遠因と感じたことがあるのか否か。そこに答えろ」

 ディルは激しく首を振る。

「あ、ありません」

「そうか?」

 疑わしげな声の相手を見上げ、ディルは膝が崩れそうになるほどの無力感に襲われた。自分がどうにか避けて通ろうとしているものを、あくまでリエール卿は突き付けるつもりなのだと悟ったのだ。

 それでもディルは、弱々しくも声を絞り出した。

「……考えたことなんか……ない……」

 リエール卿は顎を撫でつつ、勢いを失ったディルの顔を無表情に見下ろす。

「だが心当たりはある。考えそうになったが目を背けている。……そんなところか」

 動揺激しいディルとは対照的に、リエール卿はそんな彼をしげしげと眺めて分析する。

 自身の心情を的確に言い当てられてしまったディルは、もはやそれ以上の否定の言葉を紡げなくなった。

「ならばもうひとつ、お前にとって厭な話をすることになるな。お前の父のことだ」

 項垂うなだれかけていたディルは眉根を寄せて、再び恐る恐るリエール卿を見上げる。

「……父さん?」

「事故死という話だが、それではあまりにリリーにとって都合が良すぎる」

 どういうことかすぐには理解できず、ディルは険しい顔のまま首を傾げた。

「そうだろう? メリアを秘密裏に書記に偽造させようという折も折、同じ家中の別の書記が事故死するなど。お陰で不都合なことは全て死者に被せてしまえる。偽造行為そのものを見咎められる心配も無くなるしな」

 ディルの顔から、ついに完全に血の気が失われた。身が凍るような寒気がする。脳裏に忌まわしい瞬間が蘇った。

 恐ろしい速度で迫り来る荷車。荷の重さを知らしめるように響く暴力的な車輪の轟音。為す術もなく立ち尽くす自分の身体を横から突き飛ばしたのは、直前まで繋いでいた父の手だった。驚く自分の視界に最後に入ったのは、その掌。それはすぐに荷車に遮られ、その先にあったはずの父の顔は見ていない。

(あ……あれが……事故じゃない、って……つまり――)

「父さんは……殺された……ってこと……?」

 これまでになくディルの声は震えた。

 非情にもリエール卿は肯く。

「十分考えうる話ではある。いずれお前も自身でその可能性に気付いたはずだ」

「やめて!」

 堪らずディルは絶叫し、フラクスの手を振り切って木立ちの中に駆け出した。



 ディルが走り去った後、その姿が見えなくなるとリエール卿は小さくため息をつく。そして同じく少年の行く手を見つめていた自身の従者に顔を向けた。

「フラクス、なぜ逃がした」

 主人の問いに、フラクスは首をゆっくりと左右に振る。

「見るに堪えません。ヴァーヴェイン様はさぞお怒りになることでしょう」

「そんなことは分かっている。あいつの怒りが恐ろしくてこの仕事がやっていられるものか。あいつがこれまで私に殺意を抱いたこととて、一度や二度ではないはずだ」

「ですからなおさら……です」

 悲痛な面持ちで言い募る従者に、リエール卿は怪訝な顔をした。

「お前……なぜそうもウォータークレス公の肩を持つ?」

「貴方の教えを唯一まともに受けられた方です」

 リエール卿は鼻を鳴らす。

「まとも、ねぇ……。あんな不器用に剣を振り回す奴が」

「貴方が伝授されたのは剣技のみではないはず。そもそも、剣豪にお育てするようにとのご下命だったわけでもありますまい?」

「さてな」

 フラクスの指摘にリエール卿は肩を竦めた。

「お前、まさか何の考えも無しにあのガキを逃がしたわけではあるまいな?」

「彼には受け止めて考える時間が必要です。あの状態でまともな結論など出せるわけがありません」

 リエール卿は半眼になる。

「あのなフラクス、勘違いするな。ガキの結論を得るのが私の目的ではないぞ。毒になりうるか薬になりうるか、はたまたそれを論じるほどの価値も無いかを私が見極める、それだけだ」

「敢えて毒になるよう誘導されているように見えましたが」

「そうじゃない」

 責めるような目でこちらを見るフラクスに、リエール卿は静かな声で言った。

「厭な情報は、得てして最も聞きたくないときを見計らって耳に届くものだ。我がエレカンペインの第二位王位継承者でありながら、逆賊の子の汚名も背負うあいつの傍近くにろうとするなら、何を聞こうと己を見失わない信念が必要だ。ここで私の言葉に揺らぐようなら、それまでのことでしかない」

 リエール卿は一度言葉を切ると、再度ディルが消えた方向を見遣る。

「……ですが貴方も仰ったように、そもそもヴァーヴェイン様ご自身があの子に災難を招いたわけではありませんものを」

「フラクス」

 もっともな指摘に、リエール卿はフラクスに顔を戻した。

「世のあらゆる感情がすべて理屈に則して生じるものであるなら苦労はない。だが現実は違う。見当外れなわだかまりが生み出す誰の得にもならぬような陰謀が後を絶たん。ゆえにウォータークレス公はアルテミジア姫を失い、あのガキは不運に見舞われた。違うか?」

 フラクスは口を噤む。それは主人の言葉に対する肯定を意味していた。

 しばし彼は沈黙していたが、やがてやるせない表情で嘆息する。

「……だとしても、これはウォード様が担うべきことなのでしょうか? 貴方はどこまであの方の憎まれ役を買うおつもりなのです」

「心配は要らん。憎まれてはいないと思うぞ。恨まれてはいるだろうが」

 飄然とどこまで冗談か分からないことを言う主人に、フラクスは呆れ顔になった。

「いったい何を根拠に……。貴方はそれほどまでにご自身に人徳があるとお思いなのですか」

 あまりに辛辣な従者の言葉に、リエール卿は両の口の端を押し下げる。

「ひどい言い草だ。――だがまあ、残念ながらお前の言う通り、私がそう考えるのは己れの人間性に対する自信ゆえじゃない。あいつの常軌を逸した度量に確信があるだけだ」

「常軌を逸した……」

 自分の言葉を反芻するフラクスにリエール卿は肯く。

 彼は木々の間を、ディルが走っていった方角に向けてゆっくりと歩き出した。フラクスは一歩遅れてその後に続く。世間話でもするかのような長閑のどかな口調で、リエール卿は話を続けた。

「あいつは一見、ごく真っ当な人間に見えるが中身は底が知れん。すべてを我が事のように受け止めながら、一方ですべてを他人事のように清算する。実のところ度量があるというより、あいつの中で、物事と感情を結びつける糸がまともに繋がっていないと言った方が正確かもしれん」

 フラクスは主人の言葉をしばし吟味し、それから口を開く。

「……わたくしはヴァーヴェイン様をさほど深くは存じ上げません。ですが……それほどまでに並外れた精神をお持ちの方であるからこそ、貴方が唯一まともに関係性を築けたというわけなのですね」

「おい……?」

 リエール卿は眉根を寄せ、執拗にき下ろしてくる従者を振り返った。

「あのな、ウォータークレス公に言われるのならまだ分かる。だがなぜお前にそこまで突っかかられなきゃならん?」

 不貞腐ふてくされる主人に、フラクスはこれ見よがしにため息をついてみせる。

「誉れ高き騎士たる貴方が、あのような……年端もいかぬ子供を言葉で追い詰めいじめ抜くさまを目の当たりにしては……一言申し上げたくもなるというものです。情けない」

「だから仕事だと言っているだろう! 誰が好き好んでやるか。ついでに言うとお前、どう見ても一言で済んでないぞ」

 主人の反論に、フラクスはまたも首を左右に振る。

「本当は十や二十の苦言でも足りないところです。それにその仕事とやらは貴方が安易に剣を捧げられた御方のご意向……つまりウォード様ご自身の選択が今日の事態を招いていると言えるのでは?」

「飛躍が過ぎる」

 馬鹿馬鹿しい、とばかりにリエール卿は鼻を鳴らし、顔の向きを往く手に戻した。しかし寸刻ののち、彼は再度従者を振り向く。

「……お前、さっき安易と言ったか?」

「今頃お気付きとは」

 まるで否定する気が無いどころか、こちらに呆れた様子のフラクスに、リエール卿はついに何かを言う気力を失い、押し黙った。



 リエール卿とフラクスの主従が追う――と言うにはあまりに呑気のんきな歩調であったが――少年の姿は未だ見えないものの、まばらに生える下草の合間、まだ雪解け後の湿気が幾分残る柔らかい土の上には、子供の足跡が刻まれている。

 あまり人が立ち入らない場所であるため、そこに残された痕跡を辿るのは、ふたりにとって造作もないことだった。

 しかし、道なかばで彼らは歩を止める。往く手に立ち塞がるひとりの人物の姿を認めたからだ。

「この先には行かせませんよ」

 彼にしては珍しく腕組みをして、リエール卿に相対したヴィーは、厳しい顔つきで言った。

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