第27章 懸念と思惑
カンファーは小国ながら歴史は比較的古く、かつニゲラ大陸から多少なりとももたらされる交易品や技術により、エルムでも有数の経済力と文化水準を有している。
そのような背景からこのエキナセアの王宮も、国の規模とは裏腹に広大だった。王家コロンバインのみならず、ソーン伯爵家からも多大な財力が注ぎ込まれた壮麗な宮殿は天に向かって
ヴィーは幾何学的な彫刻が美しく飾る木枠の嵌った窓から青空を見遣り、世間話をするようなのんびりとした口調で言った。
「昨日、貴女のお父上の屋敷に伺いました」
磨かれた石造りの回廊は、庭に面した側に規則的に縦長の窓が配置され、縞のような陰影を一行に差し掛けている。
目的の東の大主塔は、宮殿を取り巻く城郭を構成する建造物のひとつだった。王侯の出入りする建物としては、謁見の間のある主宮から最も離れた場所に位置している。王妃を伴いゆるりと向かえば、その道程はなかなかに長いものであった。
積もる話をするには、好都合である。回廊は壁に囲まれた部屋より開放的な場ではあっても、移動の道すがら交わされる会話に他人がそれとなく聞き耳を立てることは難しい。
「ええ、珍しいお客さまがいらしたようだったと姪が話してくれましたわ」
少々遠回しな物言いの王妃に、ヴィーは昨日の会見がいささか不穏に終わったことまで彼女に伝わっているようだと察した。しかしそこには特に触れずに話を続ける。
「お会いした部屋で興味深いものを目にしました」
「まあ、何でしょう」
小首を傾げる王妃に、ヴィーは少し間を置いてから答えた。
「……地図です」
「地図?」
「ええ。二大陸の――正しくは、エルム東部からニゲラ西部までの」
彼の言葉に、王妃はしばし沈黙する。彼女が再び口を開くまで、ヴィーは前方に視線を据えたまま、静かに歩き続けた。
「……存じております。父がエフェドラとランタナからそれぞれ学者を
ランタナはエルム南部の主要国のひとつであり、学都を抱えることで有名な王国だ。
「ではパースレイン様もご存知のものなのですね。ご覧になられたこともおありなのでしょうか」
「ええ……」
王妃はどこか思い詰めたような面持ちで、控えめに頷いた。ヴィーはその横顔を少しの間見つめたのち、あらためて言葉を続ける。
「描かれた二つの大陸――その中心に、カンファーはある。グネモン殿の目に、世界はそう映っているのですね」
エルムのみに目を向ければ、カンファーは大陸の東の片隅でピレスラムにへばりつくような領土しか持たない小国だ。しかし東に視野を転じれば、この国はエルムとニゲラを陸で結ぶ存在と言えなくもない。
王妃は微笑ともつかぬ曖昧な表情を浮かべて視線をこちらに向けると、静かな声音で問うた。
「……地図はあくまで地図、平面でしかありませんわ。それでもヴァーヴェインさまは、あれが父の単なる誇大妄想の産物に過ぎぬとはお考えにならないのでしょうか」
「私はニゲラの詳細な地形には疎いですが……少なくともエルム側については、非常に手の掛かったものであると分かります。最新の測量術からあれだけの広範囲を描き出すには、膨大な情報が必要なはず。エフェドラの学者も制作に携わったというお話ですから、ニゲラ側も同様か、あるいはそれ以上の精度でしょう。ただの酔狂と断じるには、あの地図は精密すぎます。そしてグネモン殿は……実現不可能な夢想に
王妃は探るような眼差しをヴィーに投げ掛けた。それに応えるように、彼は言葉を続ける。
「現にあの方はリンデンを開かれました。おかげでアキレアの『鍵』はその効力を失ったも同然……にも
しばしの沈黙が流れた。
歩みに従ってヴィーの相貌の上を陽光と陰影が順になぞっていく。その穏やかな表情はいずれの中にあろうと変わりは無いのに、光に透ける柔和と闇に冴える怜悧とが見る者の目に交互に現れては消える。それは果たしてどちらが真の姿か惑わせているようにも映り、目の当たりにした王妃の表情に仄かな緊張が
しかしやがて、彼女は呪縛から逃れるようにヴィーから視線を外して俯く。ひとつため息をつくと、重苦しい口調で呟いた。
「……そこまでお気付きでは、ヴァーヴェインさまはさぞ、父のことをお恨みでしょうね」
リンデンの開設は、アルテミジアの死、そしてフレーズ伯ローゼルからのリリー宗主権剥奪という騒動が起きた直後のことだった。当時、宮廷はソーン伯の逆鱗に触れたがゆえの彼の報復措置に動揺激しく、また当のヴィーはエレカンペインに帰国したものの、この件についてカンファーに懸念を表明してきたカレンデュラへの対処に追われていた。
その裏で、気付けばグネモン卿はすっかりリンデンを介した通商を軌道に乗せていたのである。元々の主な交易相手であったジヌラがエフェドラの侵攻を受けて以来、交易品の減少に嘆いていたカンファーの商人にとって、新たな税関での商機は特に歓迎すべきものだっただろう。
後日、リリーの宗主としてあらためてリンデンの詳細を調べたヴィーは、ピレスラムからリンデンに至る道が、アキレアに通じる既存の通商路から分岐したものではなく、そもそもニゲラ側からまったく別に山脈を貫いている道であったという事実に愕然とした。
そんな大事業をいったいいつの間に、またニゲラ側の誰とどのような交渉を経て行なったのか。そのような当然の疑問について、どうやら誰もまともにグネモン卿を追及できていないらしいということにもヴィーは戦慄を覚えた。
ニームからの解放が最も遅い地域だったとされるこのエルムが、他大陸に遅れて独自の社会と文化圏を形成し、それを維持できているのは、ピレスラムという物理的な障壁に
だがそこに風穴が開いたとしたら? 通商路とは言え、通行できるのは何も商人だけではないのである。
(道は
アキレアの城代職が『鍵』と呼ばれるのは、万一ニゲラからの侵攻があった場合、ここが防御の拠点となるがゆえであるが、果たしてリンデンは同様の役割を担えるのか。名目上はアキレア同様、王家直轄地を名乗ってはいるものの、ほぼカーラント単独の力で築かれたこの城塞は、いざという場面でいったいどちらを向いて立ちはだかるか分かったものではない。
先代フレーズ卿急死からの一連の騒動は、王家や、ヴィーを含むリリー側の陣営、そしてカレンデュラの目をリンデンから逸らすために仕組まれたのではないか、と。
そして今、ヴィーの傍らを歩く王妃の独白めいた言葉は、その推測を大いに肯定するものであった。
行く手の床を見つめたまま悲壮感すら漂わせている王妃に、ヴィーは凪いだ眼差しを向ける。
「そのように思われるのは無理もありませんが……」
彼がそう前置きすると、王妃はゆっくりと顔を上げた。ヴィーは遠い記憶に思いを馳せるように、虚空に視線を滑らせる。
「私は生まれたときから――いえ、恐らくそれ以前から命を狙われてきました。どの筋からかはまあ、ご想像がつくことと思います」
その言葉に王妃はほんの少し瞼を伏せることで、
「ラヴィッジにいた頃、私は
自身の話に静かに耳を傾けている王妃に、ヴィーはほんの少し悪戯っぽい微笑を向けた。
「相手が悪いという意識がどこかにあると、どうしても対応が一拍遅れます。それではここまで生き延びることも難しかったでしょう。……グネモン殿の件もそのような理屈の上に考えているので、仕掛けられたことに関しては恨むというより、致し方ないという気持ちが強いですね。私の方に隙があったことも間違いないので……。そして憤りという点では、対応に問題のあったフレーズ卿と陛下の方に向いています。――ああ、陛下は一応、清算済みですけれどね」
「一応……?」
「お聞き流しください」
さりげなく織り込んだ心情に即、反応を見せた王妃に、さすがに聞き逃しはされなかったか、と思いながらヴィーは平然と
どのみち綺麗に忘れ去ったと言ったところで信じる人間は皆無である。冗談混じりに本音を漏らせる程度のことだと仄めかしておいた方が、起きてしまった事態の上で相手と関係を構築するにはよほど有効だろう。
彼の目論見通り気を取り直したらしい王妃は、ヴィーが語った内容を吟味するように少し間を置くと、あらためて口を開いた。
「ヴァーヴェインさまのお考えは、理解できなくもありません。御身を救うものであったということも……。お話を伺ってようやく、
「ああ、それは良かった」
ヴィーは心底安堵した顔を見せる。そんな彼に王妃は柔らかく微笑んだが、やがて真顔に戻って言葉を続けた。
「……ですが、それを知らぬ多くの者の目には、今こうして貴方がわたくしと語り合いながらそぞろ歩くさまも奇異に映ることでしょう。貴方のその徹底なさった割り切りは、大抵の人々には容易に理解できません。それは貴方の行動の予測を難しくしますから、敵対する相手には有利に働きましょう。……けれども、お味方から不要な恐れや疑いを招くことにも繋がります。……諸刃の剣ですわね」
ヴィーは押し黙る。こうも理路整然と客観的に自身のことを解説されたことはなかったが、思い当たる節は端々にあった。実際、謁見の間にジンセング王が姿を現さなかったのも、まさしくヴィーが真実私情を脇に置いて行動する人間であることを理解できずにいるからである。
このわずかな時間でここまで明確に自分を考察してのけた王妃に、ヴィーは舌を巻いた。
「……これは単なる感想で、他意は無いのですが……。カーラントの方々は人を『見る』力に非常に長けておいでですね。フレーズ卿がどのようにグネモン殿に心酔していったかを垣間見たような気がしました。飢えた心を抱える者にとって、自身を理解されるというのは甘美な毒にも等しいでしょう」
「まあ」
王妃はおっとりと笑い混じりの声を上げた。
「……その、パースレイン様にそのような意図がお有りであろうと申しているわけではありませんよ?」
用心深く弁解するヴィーに、彼女は何やら楽し気に微笑む。
「ふふ、もしヴァーヴェインさまのお心が
冗談めかした彼女の科白に、ヴィーは複雑な微笑を返した。
やがて、少し先を行く先導の女官たちが通路を曲がる。
主宮から伸びる回廊が終わり、一行は城郭の内部へと差し掛かった。こちらも同じく石造りの建物だが、建造された年代の違いか、主宮に比べて少々武骨な印象を与える。通路の片側は城郭の内周の壁面で、
後ろに続く護衛の騎士や侍従たちも通路を曲がり終え、一行の列が元通りに整った頃、王妃は再び口を開いた。
「飢えた心……フレーズ殿がそれをお持ちであったとお考えですの?」
その問いにヴィーは肩を竦める。
「彼の詳細な背景は存じませんが、父のネトル殿と確執があったのは確かです。そうと口には出さずとも、ネトル殿が評価していたのは妹のアルテミジア姫の方でしたから、惣領としては納得のいく心境ではなかったでしょう。――ですから彼が私と妹姫とのことを良しとしなかった気持ちは分かります。……とは申せ、自身の首を締めることになると気付けぬまでに目が曇ってしまっていたことについては、遺憾としか言いようがありません」
「……ヴァーヴェインさまほど私情を切り離せる方は稀です。貴方が摂理と捉えた権力闘争も、きっかけに感情が絡まぬことはほとんどありませんわ」
王妃の言葉に、ヴィーは天井を見上げて大仰にため息をついた。
「そうなのですよね……! 私を取り巻く厄介事を振り返ってみれば、多くは誰かしらが私情に走った結果です。それこそ私が生まれた経緯すら……。自分が成長するにつれようやく理解できてきた事柄もありますが、それでも正直、いい迷惑だと思うことが多々あります。そのせいなのか、私自身は領主業に感情を差し挟むことに激しい抵抗感があって――それすら、感情だと言えばそうなのですけれどね」
ヴィーの嘆息に、王妃は感心したような顔つきで片手を頬に当てる。
「わたくしが差し出がましくお話しするまでもなく、ヴァーヴェインさまはご自身のことをよくご存知でいらっしゃいますのね」
言われたヴィーは寸刻、考える素振りを見せ、やがて不本意そうな顔で曖昧に頷いた。
「……頼んでもいないのに、自身と向き合え、とそれは有り難い説教をしてくれる人間がおりましてね――」
正直、素直に感謝などしたくないのだけど……と、かつては師と呼んでいた相手を思い浮かべ、ヴィーは内心で渋面を作った。
「こぉら! 動くんじゃない! あんたちょっとの間もじっとしてらんないの?」
頭上から浴びせられた叱責に、ディルは反射的に背筋を伸ばす。
頭の天辺が引っ張られる感覚に続いて、粗い金属の表面が
ばらりと、切られた自分の頭髪が落ちてくるのが視界の端に映ったが、毎度数本が切れずに
そのたびについ、ディルは痛みに身を竦ませてしまうのだが、そうするとすかさず先ほどのように叱りつけられるのだった。
(なんだか母さんがいた頃みたい)
叱られること自体は大したことではない。かつても日々の大半は大人――主に母親をはじめとする女たち――に小言を食らいながら過ごしていたもので、それがディルや他の子供たちにとっての日常だった。あまりに常態化していたものだから、注意のほとんどを聞き流していたくらいだ。
ここは屋敷の裏庭の一画で、ディルはホリーに髪を切ってもらっている。
ディルが食事をしている最中、どこかに姿を消したと思ったら、彼女はほどなく大きな握り鋏を持ってやってきたのだ。
「その鬱陶しい髪をどうにかしないとね。顔がまともに見えないじゃないか」
確かに、旧主の屋敷を追い出されてから切る機会があろうはずもなく、ディルの髪は伸び放題だった。特に前髪は目の下まで毛先が来てしまい、ものを見ようとするたびに首を振って髪を振り払う癖が付きつつある。
以前は散髪など面倒だとしか思えなかったが、こうして徐々に視界に映り込む邪魔者が減っていくと、ディルは自分を取り巻く世界そのものが明るさと快適さを取り戻していくように感じた。
それは、髪だけのせいではないかもしれないが。
(おれ、やっと……ちゃんと内郭に戻れたんだなぁ)
その場所は以前の屋敷とは違うし、周囲は知らない人ばかりだ。それでも、ついにディルは罪人の子としてではなく、そして虜囚でも侵入者としてでもなく、何ら後ろ暗い思いをせずにこの内郭に居られる身になったのだ。……行動には制限があるものの。
しかし多少の制約など、これまでのようないつ牢に入れられるかと怯える日々に比べたら、まったく些細なことだ。
ゆえにディルはホリーの怒声を、辟易するどころか感慨深く聞いていた。
「頭動かさない! あんた耳付いてんの!?」
「ご、ごめんなさい」
……感慨に
(ヴィーは今何をしてるんだろう)
動くなと言われ、することがないディルはふと思う。
王宮へ行くと彼は言っていたが、そこで何が行われるのかなど想像もつかない。途中までしか見ていないが、侯爵家に現れたときより更に入念に飾り立てられていたヴィーの姿はもはや物語の登場人物のようで、ディルはこの先自分と彼が再び交わることがあるのだろうかと、思い出すたびに不安になった。
そして先ほど封蝋のことが頭を
「……さて、こんなもんだろう。終わったよ」
服に付いている切り落とされた髪を払いながら、ホリーは言った。
即座にディルはぴょんと立ち上がり、彼女を振り返る。
「ありがとう、ホリー」
ホリーはさんざん叱り飛ばしたにも拘らず屈託なく礼を言うディルに、やれやれとでも言いたげに肩を竦めた。
「ねえ、おれ何の仕事したらいい?」
腹ごしらえと身繕いが済んだのだから、次は働く番……と当然のようにディルは尋ねたが、ホリーは首を傾げる。
「は? あんたは旦那様のお側にいるんでしょ? お帰りになるまでお部屋で待つんじゃないの?」
ディルは思いも寄らないホリーの言葉に目を丸くする。
「え……おれ、働くって言ったよ? お屋敷の外には出ちゃだめなんだけど」
「だから旦那様のお側にいるのが仕事じゃないのかい?」
「……それ……仕事……?」
近侍などが聞いたら激怒しそうな科白がディルの口から零れ出たが、そんな彼にホリーも困ったような顔をするばかりである。
(ヴィー、家令のひとに何て言ったのかな)
思えば彼は自分を休ませたかったようだし、こうしたほうが良いと決め込んだらディルの意向など屁理屈で捻じ曲げそうな気もした。
おかしな沈黙にこの場が静まり返り、どうしたものかとディルが視線を泳がせたとき、ふたりから少し離れた場所の植込みの辺りで、がさりと音がした。
ディルもホリーも驚いてそちらを見ると、茂みの向こうから近付いてくる人影があった。地味な身なりをした長身の男だ。腰には剣を提げているが、服装はディルと同じく短衣を着ており、騎士ではなく兵士のようである。
彼は近くまで歩いてくると、足を止めてディルを見下ろした。濃い蜜色の髪に暗い青灰色の瞳をしており、この国の人間ではなさそうだ。
「ディル……というのは君か。我が主がお呼びだ。私についてきなさい」
「……主?」
唐突なことに戸惑いを隠せず、ディルはか細い声で訊き返した。
咄嗟にホリーがディルの腕を掴み、身体ごと引き寄せる。
「あんた、このお屋敷の人間じゃないね。どこの誰だい?」
庇うようにディルを背後に押しやりながら、警戒心も露わにホリーは問う。
男はそんな彼女に苦笑して、敵意が無いことを示すためか、両手を肩の辺りまで上げてみせた。
「私はフラクスという。今こちらに滞在されているリエール卿にお仕えしている者だ」
東の大主塔は王宮の中でも最も古い区画にある。
建造されて優に二百年を越えており、分厚い壁に穿たれた小さな窓から差し込む陽の光はごく僅かで、
ソーン伯爵邸の庭のように物珍しい植物が並ぶのとは異なり、
「何とも新鮮です。見慣れた花が全く異なる世界に咲いているような……。花の色を紋様に見立てて愉しむなどという発想は、エレカンペインにはありません」
ヴィーは中庭に面した二階の露台から地上を見下ろして、弾んだ声音で言った。
エレカンペインをはじめとする大陸内部では、庭と畑の区別すら曖昧である。特に城では食料確保のための空間という意味合いも強く、植えられているのも果樹や野菜類が主であり、眺めて愉しむものという認識が薄いのだ。
「ソーンのお屋敷の庭も素晴らしいとか。代々のご当主が収集家でいらしたと伺っておりますわ」
一通り庭の概要を説明し終えた王妃が話を向けると、ヴィーは苦笑する。
「先祖が興味に任せて様々な気候の場所から構わず集めていたものですから、園丁たちが苦労していますよ。でもせっかくの彼らの苦心の成果をほとんど披露できずにいるのが歯痒いところです。いずれご招待申し上げたいですね」
「まあ、それはぜひ伺いとうございますわ」
あながち社交辞令という風でもなく、王妃は明るい笑顔を見せた。
ヴィーはそのまましばし露台の手摺近くで花々を眺めていたが、やがてその耳に、王妃が声を落としてぽつりと言った。
「……ヴァーヴェインさまが容易に父の術中に嵌まる御方でないと知れて、わたくしは安堵しております」
ヴィーはゆっくりと彼女に顔を向ける。少しの間その横顔に視線を注いだのち、彼は静かな声音で尋ねた。
「……あの方の目が、あまりに東に向いておいでだからですか」
王妃は控えめに肯く。
「……ヴァーヴェインさまがあの地図に目を留められたのには驚きました。遠目にはあれが地図であることにすら気付かぬ方も少なくありませんのに」
「そうでしょうね。エルムの地形も古くから伝えられてきたものとは異なりますし、私があれの半分がニゲラであると気付いたのは、この一年、幾分真面目にエフェドラについて調べていたからです。……彼の国は、いずれピレスラムを越える――そうグネモン殿は読んでおいでなのですね。そのとき、到底この国では対抗できない、とも」
王妃は俯いた。
「父の中にはリリーと手を組むという選択肢がありません。となればエレカンペインの庇護も望めず、万一侵攻があった場合、エレカンペインの防衛線は我が国の西側に敷かれることになりましょう。カンファー全土が戦場と化す恐れがあります」
「それを防ぐために、いち早くこの国をエフェドラの庇護下に入れてしまおうと……それであれば少なくとも、カーラントの主な支配地である東部への被害は抑えられるでしょうからね。――とはいえ、それほどまでにグネモン殿はエルムに不信を抱いておいでなのですか。リリーと手を組む選択肢が無い、というのが私には理解しかねます。あの方は現実的な思考をお持ちであるように見えるのに、ことリリーに関しては内心目の敵にされているような」
彼の指摘に、王妃は再度肯く。
「事実そうと申せます。詳しいことはわたくしの口からは申し上げられませんが……。かつての父はリリーと手を携えることも考えていたようです。ですが、その道は他ならぬリリーの内紛によって永遠に閉ざされました。以来、父はこれまでカーラントが築き上げてきたものをリリー無しで守り通し、そして更なる繁栄を目指すには、エルムを見限る必要があると考えるようになったのです」
「……柔軟なのか偏屈なのか分からぬ御仁ですね」
つい、ヴィーは正直な感想を漏らした。
「カーラントの未来はそれで繋がるかもしれぬとして、それでは貴女の王子がたの将来は厳しいものとなりましょう。――私をこの場に誘われたのは、そのためですね?」
王妃はわずかに目を伏せる。
「……そう仰るヴァーヴェインさまにも、目的がお有りのご様子」
ヴィーは眼下の花々に目を遣ると、苦笑混じりに答えた。
「……私は、貴女に相談に参ったのです。リリーの宗主権を、いったい誰に返すべきかを」
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