第26章 蠢動と萌芽

 しずしずと眼前に現れた女性に、ヴィーはほんのわずか、小首を傾げた。

「……妃殿下?」

 彼の前まで進み出た、王権の象徴である白貂の毛皮アーミンで裏打ちされたマントを纏うその貴婦人は、いささか困ったような表情を浮かべてヴィーに向き直る。この謁見の間の入口付近には随行してきた数名の文官や侍従、女官が控えるものの、彼女自身の隣には誰もいない。

 しかしヴィーが怪訝な様子を見せたのは一瞬のこと。彼はすぐさま表情をあらため、無言のままこうべを垂れて礼を取る。

 ほどなく、その頭上におっとりとした柔らかい声が掛けられた。

「お久しゅうございます、ソーン卿ヴァーヴェインさま。こうしてお会いするのは二年ぶりになりましょうか。ずいぶんとお背が伸びられましたこと」

 ヴィーは姿勢はそのままに相手に応える。

「永の無沙汰をおゆるしください。パースレイン様におかれましてはお変わりなく麗しきご様子にて、心よりお慶び申し上げます」

「どうぞお顔をお上げくださいませ。……貴方こそ、ますますお美しくなられて」

 上体を起こしたヴィーは複雑な顔になった。

 自分が男である以上、どう考えても女性から――いや、男性からではなおさら問題か――贈られるのが妥当な賛辞、はたまた美辞麗句とも思われない。

 単に事実を述べただけといった相手の様子に、彼は首を傾げて素朴に問うほかなかった。

「……そうですか?」

「ええ」

 微笑みと共に、大真面目にうなずかれる。ヴィーは何も言えなくなってしまった。

 玉座のしつらえられた壇上に立つ王妃パースレインは、女性にしては丈高く、壇の下に立つヴィーとは目線がほぼ同じか、少し上くらいになる。恐らく夫であるジンセング王とも変わらない背丈だったように、彼は記憶していたが、その体格とは裏腹に挙措はゆったりと淑やかで、性情も至って温和だ。

 ヴィーの再従弟はとこに当たる王子二人の母であり、その容貌には幾分年齢が感じられるものの、十分に女性的な魅力を放っている。

 深い栗色の髪こそカーラントの血を想起させるが、柔和な顔立ちや雰囲気からは、一見して父グネモン卿との共通点はあまり見られなかった。

 さきほどちらと見掛けた、騎士クローブが護衛していた姫――恐らくこの王妃の姪に当たるであろう少女のほうが、祖父の面影を色濃く映していたように思う。

「ところで、パースレイン様――」

 頭の片隅でそんなことを考えながら、ヴィーはあらためて切り出した。相手を正面から見つめつつ、そこで思わせぶりに言葉を止め、にっこりと笑う。

 それを受けて王妃も口許に笑みを形作った。しかしその表情はどちらかと言うと苦笑に近く、わずかに眉間がひそめられている。

 ヴィーは十分な間を置いてから、そんな彼女に向けて努めて朗らかに尋ねた。

「……陛下は?」



 高位貴族と内々に会見するための小規模な場とは言え、ここは謁見の間。しかし玉座は空で、その傍らにひとり佇むパースレイン妃。

 彼女がヴィーの問いを予測していたのは間違いない。何しろ、この間のあるじが不在なのだから。

 王妃はついに笑顔を解き、いささか表情を暗くして答える。

「……申し訳ございません、ヴァーヴェインさま。陛下は急にご気分が優れなくなり、寝所に戻られましたの」

 ヴィーは笑顔を消すと、王妃同様、かすかに眉をひそめた。

「それは気掛かりな……。早速お見舞いに伺いましょう」

 心配で仕方がないといった様子の彼に、王妃は遠慮がちな微笑を浮かべる。

「有難き仰せに存じます。ですが貴方にお運びいただくほどの大事だいじでは……」

「であればなおさら直接お見舞いを申し上げて、元気づけて差し上げたく存じます」

 相手の歯切れの悪さなどまるで気付かぬ風に、ヴィーは真摯な顔つきで食い下がった。パースレイン妃の眉尻が微かに下を向く。

「ヴァーヴェインさまのお気遣い、まことに痛み入ります。されど――」

 彼女は遂に言葉を切り、意味深に押し黙った。それに合わせてヴィーも口を噤む。

 ひとときの奇妙な沈黙ののち、ヴィーはこれまでの芝居じみた態度を一変させ、低い声で率直に問うた。

「……逃げましたね?」

 すると示し合わせていたかのように、王妃もあっさりと認めた。

「ええ」



 再びの沈黙がこの場を通り過ぎたが、今度はふたりの間に漂っていた奇妙な緊張は跡形もなく消え失せている。

 ヴィーは肩を竦めた。

「……ここで私からお逃げになられたとて、何かが解決すると本気でお考えなのでしょうか、あの方は」

 王妃も心底困ったように、右手を頬に当ててため息をつく。

「……面目もございません。わたくしも、同じことを申し上げたのですが……あとは頼む、とのみ仰せになられて……」

 ヴィーは半眼になった。金の睫毛が影を落とし、薄青の瞳を不穏な色に染める。

「陛下は私の要求をれられ、そしてきちんと果たされました。ですから約束通り私も水に流すことにいたしましたのに、信じていただけていないとは……悲しいことです。――それとも、あれしきのことでは到底埋め合わせに足りぬと懸念しておいでなのでしょうか。陛下が良心の呵責を覚えることのないように、それなりに難しいことをお願いしたつもりでしたが……。手ぬるかったかな」

 最後、ヴィーが王妃から視線を外しつつ思案顔で付け加えた一言に、この場に控える王宮側の面々が揃って震え上がった。

 ソーン卿が突き付けた最後通牒に宮廷と議会がどれほどの混乱をきたしたか、いまだ彼らの記憶に新しい。

 ひとり、真っ直ぐヴィーの顔に視線を注ぎ続ける王妃のみは、表情を引き締めて口を開いた。

「恐ろしいことを仰せになります。――とはいえ、これはわたくしの父に責のあること。ヴァーヴェインさまのお怒りはごもっとも……。わたくしは貴方のいかなる非難も甘んじて受ける覚悟にございます」

 その言葉にヴィーは小首を傾げ、無邪気にも見える笑顔を王妃に向けた。

「……『いかようにも償う』ではなく?」

 冗談めかした――であるとしてもいたく大胆な問いだったが、それは相手の言葉が、文句はいくらでも聞くという、逆に言えばそれ以上の実のある言質げんちは一切与えない内容だったからだ。

 しかし王妃はヴィーがそこを看破したと明かしても、まるで動じずそっと瞼を伏せる。

「そちらはどうか、父や陛下にお求めくださいますよう。力無き女の身ひとつでは、申し上げたことで精一杯にて、どうぞご容赦を」

 ヴィーは緩く丸めた右手の人差し指を口許に添え、小さく吹き出した。

 殊勝な様子を見せていながら、この王妃もまったく食えない。

 もっとも、あのとき狼狽うろたえるばかりの夫に代わって実際に尽力したのは彼女だったであろうことは明白で、それに王妃という立場上、いかに全面的な非が自身の父と夫にあったとしても、際限なくヴィーに対してへりくだるわけにはいかないのだ。

 それを分かっていて敢えてただしたヴィーこそ意地の悪い真似をしたとも言える。しかしこちらがこうむった被害を考えれば、彼もまた立場的に、厭味のひとつも無く済ませることは難しかった。

 ただヴィーには、王妃個人に怨嗟を向ける気があるわけではない。このやりとりは互いに無難な落とし所を探るための、ある種の儀式のようなものだ。

「その陛下にも恨み言は申さぬと約しましたのに、どうしてそれを貴女に向けられましょう。――無礼をお赦しください。意地悪を申しました」

 ヴィーは真顔に戻るとそう言って、頭を下げた。

 王妃は穏やかな声音で応える。

「ヴァーヴェインさまが謝られることなどひとつもありません。如何なる非難もお受けする、と申しましたでしょう?」

 彼女の言葉に、ヴィーは一瞬虚を突かれた顔になり、その後すぐに破顔した。

「――そうでした。妃殿下の寛容なお心に感謝申し上げます。……ご理解いただきたいのですが、私は無論、あの件については腹も立てましたし、看過できぬ重大な事案であったと今も考えています。ですがパースレイン様にその矛先を向けるつもりはありません。むしろ、貴女にはご迷惑をお掛けしてしまったであろうこと、心苦しく思っております。貴女を巻き込んでしまうと分かっていて、陛下にあのように申し渡しましたからね」

 王妃はゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ。貴方の寛大な措置にわたくしは感謝しております。――勿論、陛下も」

「であればよろしいのですが……。陛下はともかく、パースレイン様にご負担を掛けることは私の本意ではありません。あの件に関しては、これ以上陛下に何かをお願いするつもりはありませんので、安心召されませ」

「ヴァーヴェインさまのご意向、陛下にもお伝えいたしましょう」

 ヴィーは柔らかく微笑んだ。

「そうしていただけると助かります。陛下も他ならぬ貴女がお耳に入れる言葉なれば、信じてくださることと思いますので」

 王妃はヴィーの目を真っ直ぐ見つめたまま、小さく頷く。

「わたくしにできることであれば、なんなりと」

 彼女の言葉にヴィーも頷きを返した。

 それから二、三、当たり障りのない会話をしたのち、彼はあらためて王妃に向き直る。

「――それでは、本日はこれにて……」

「ヴァーヴェインさま」

 辞去の挨拶を述べようとしたヴィーは、相手の呼び掛けに言葉を止める。それを待って、王妃は続けた。

「東の大主塔の中庭がちょうど見頃ですの。貴方はご覧になられたことはおありでしたかしら?」

 問われたヴィーはしばし考え、記憶を探りながら答える。

「……どうでしたか……。これまで、あまりこの時期にこちらに参ったことがありませんでしたので」

 春を迎えたばかりのこの国に対し、エレカンペインの中央部はようやく雪解けが本格的になりつつある時期だ。

 冬をどうにか凌いだ獣や賊が飢えて山野を徘徊する季節でもあり、それどころか前年の作柄によってはただの農民が飢餓に耐えかね、農具を手に襲い掛かってくることすらある。

 ゆえに本来、貴人の旅程を組むには不向きな時節なのだ。

(まあ、そのわりに最近は春にばかりこちらに来ているけれど)

 とは言え、成人をこの地で迎えた二年前のおとないでは、王宮には挨拶程度にしか顔を出していない。伯父の命で、アルテミジアを愛人に迎えることこそが本題であったので、滞在中はほとんどをフレーズ邸で過ごしたからだ。

 その約一年後、あの事件の際に至っては、それこそ夜更けに王の居室に押し掛けただけに終わっている。

 ……そこまで考えて、自身の生まれた季節だというのにろくな思い出が無いことに思い至り、ヴィーは内心でため息をついた。

 そんな彼の密かな悲嘆を知ってか知らずか、王妃は優しい眼差しをヴィーに向ける。

「お国ほどとは申しませんが、我が国の春もみじこうございます。せっかくのお越し、よろしければご案内いたしますわ。いかがでしょう?」

 彼女の申し出にヴィーは少しばかり驚いた様子を見せた。

「妃殿下直々に? お忙しいのでは……」

 遠慮を仄めかす彼に、王妃はにっこりと笑う。

「元々、陛下とお話をしていただくはずの時間でしたし、わたくしにできる此度のお詫びはこれくらいのものですので。ヴァーヴェインさまもご多忙でしょうから、長くはお引き留めいたしません。ただ……」

 彼女は一度言葉を切り、微苦笑を浮かべた。これまでの社交的な面持ちとは異なり、その心内こころうちが微かに滲む飾り気の無い表情は、格段に彼女を親しく感じさせるものだった。

「近頃、王子たちも政務を学ぶために外遊やら視察やらと、何かと忙しくしておりますの。成長は喜ばしいことながら顔を合わせる機会も減ってしまって、母としては少々淋しいと申しましょうか……。これはわたくしの我儘ですが、少しでもヴァーヴェインさまが相手をしてくださったら嬉しゅうございますわ」

 王妃にこのように言われては、断るなど無粋極まりない。

 ヴィーは屈託のない笑顔で優雅に一礼し、彼女に向かって手を差し伸べる。

「そういうことでしたら。喜んでお相手つかまつりましょう」

 晴れ空を思わせる彼の表情と明るい声音に、王妃も控えめながら顔をほころばせると、こちらに踏み出しその手を取った。

 彼女を伴い回廊に向かいながら、ヴィーは内心密かに息をつく。

(普段宮廷から遠ざかり過ぎていていけない。どうしても迂遠うえんに感じてしまうなぁ)

 王妃は彼の目的に気付いて乗ってくれたのか、それとも彼女なりの意図もあるのか。

 そこはどちらであっても構わない。だがここまでの王妃との会談で細心に導いたこの先こそ、ヴィーがこの日の伺候で目指していた舞台なのであった。



 昨夜のこともあったのだろう。今朝ディルが目を覚ましたときには、夜明けをとうに過ぎていた。目醒めたと言うより、ものものしい数の使用人がヴィーの許にやってきて、その気配に驚いて飛び起きたというのが実際のところだ。

 彼らがヴィーを取り囲み、粛々とその身支度を整えていくなか、当のヴィーがちらりとこちらに視線を寄越す。目が合うと、彼はいちどディルに向けて微笑んでみせ、それから視線を戻して家令と思しき人物に話しかけた。

 家令もこちらを見遣り、ディルが身を起こして戸惑った顔をしているのを認めると、背後に従っていた侍女のひとりに何やら囁く。その相手は心得たように家令に頷きを返し、すぐにディルの方に歩いてきた。

 ディルは寝床から降りると、直立して相手がすぐ傍までやってくるのを黙って待つ。初対面の侍女に平民のこちらから話しかけるのは、無礼とされかねないのだ。

 まだ歳若いように見える侍女は彼の正面に立つと、あらたまった面持ちで口を開く。

「あなたがディルね?」

「はい」

 ヴィー以外の口から自分の名を聞くのはずいぶんと久しぶりだった。

「気分はどうかしら?」

「ええと……悪くないです」

 昨日熱を出して倒れたことから来た質問だろうと思い、ディルは自分の身体に異常がないか、頭の中で確認して答える。

「そう。ではついていらっしゃい」

 恐らく働きたいと言った自分の意志がヴィーから伝えられているのだろう。ディルはすぐに侍女の後に続く。

 歩き出しながらヴィーの方をそっと見ると、既に礼装用の長衣と肩帯を着付けられていた彼もこちらを見つめていた。その目がやけに気遣わしげというか不安げで、そんなに心配しなくていいのに、とディルのほうが思ってしまった。

 これほど自分を気に掛けてくれる彼があるじだという屋敷の中で、そこまで酷い目に遭うことはさすがに考え難かったのだ。勿論、ヴィーの目が末端の使用人にまで行き届いているなどとは思っていないが、少なくとも、野盗たちよりはましな扱いをしてくれるだろう。

 ディルはヴィーを安心させるように笑ってみせ、その私室を後にした。

 自分を連れ出した侍女の、品良くぴしりと伸びた背筋を何とはなしに見上げながら、ディルは黙ってついて歩く。

 上級貴族の屋敷や城において、主人の居室に出入りするような従者や侍女は、ディルが普段接する平民の使用人とはいささか立場が異なる。大抵が下級貴族の傍流や騎士の家の出で、つまりディルとは身分が違った。

 リリー卿の屋敷ではそういった階層の使用人は少なかったが、国内きっての大貴族であるソーン伯の屋敷ともなれば、そのような人々も大勢仕えているものだろう。

 ヴィーは本来、日常で平民と直接言葉を交わすことなど有り得ない立場なのだ。

(今度はいつヴィーと話せるんだろう……)

 それどころか、次はいつ彼の姿を目にすることができるのか、次第に不安になる。

 徐々に表情が曇っていくディルを、そうとは特に気付かぬ様子で侍女は厨房に連れていった。そこには料理番と思しき者たちが立ち働いていたが、侍女とディルの姿を認めてひとりが手を止め、近付いてくる。

「その子ですか?」

 背は低いが身体つきはがっしりとした中年の女は、一度ディルを見遣ってから、侍女に向かって尋ねた。

 侍女は肯く。

「ええ。あとは頼みます」

「お任せくださいまし」

 料理番の女が応えると、侍女はそのままディルを置いて去っていった。

 殊更に彼女の対応が冷たいわけではない。ヴィーや家令直々の指示だから彼女はここまでディルを連れてきてくれたが、本来ならわざわざ平民の子供の面倒を見る立場ではないのだ。

 最初に嫌な顔もせずに話しかけてくれただけでも幸いと言えた。

 厨房という場所は基本的にどこも似ているようだが、やはり男爵家とは規模が違う。火に掛けられている大鍋がいくつもあり、それぞれに料理番がついて中身をかき混ぜたり切った食材を放り込んだりしている。

 それとは別に、石造りの壁から張り出した作業台の上でパンの生地を捏ねている者もいた。

 かまどの火や食材、香草の匂いがディルの鼻腔を刺激する。

(そういえば、おれ……ここに来てから何も食べてなかった)

 病み上がりだからかと思っていたが、動いてみるとなんだか身体に力が入らないのは、そのせいもあるのかもしれない。

 明確に空腹だと自覚できていなかったのは、この屋敷が自身の新たな居場所かと思う緊張と、ヴィーとこれからどうなっていくのか分からないという不安に、意識せず神経を使っていたからだろう。

「……さて。昨日から食べてないんだって?」

 侍女から自分を託された女に問われ、ディルはちょっと考えてから肯いた。正確には侯爵家で朝食を出された気がするが、あのときはそれどころではなくて、何を食べたのかも記憶があやふやだ。

 料理番の女はくるりとディルに背を向けると、手近に置かれた木の器を取って鍋から汁物をよそった。

 籠に積まれたパンをひとつ取り、器とそれをディルに渡す。

「その辺でお食べ。ほら、特別に肉を入れてやったよ」

 汁物はともかく、渡されたパンまで温かいことにディルは驚く。使用人に焼きたてのパンが出されることなど滅多にない。

 野菜に混じって汁物に浮かぶ塩漬け肉といい、彼の身分から考えたらちょっとしたご馳走もいいところだ。

「ありがとう」

 真っ直ぐ相手の顔を見て素直に礼を言うディルに、女は微かに目を細めた。

「あんたの名前は?」

「ディル」

 答えながらディルはふと、そういえば侯爵家で食事を運んでくれていたあの女の人には、結局名前を言えずに終わったな、と思う。

(あのおばさん、どうしてるかな……)

 詳しい話が彼女に知らされることはないだろう。もしかしたら、自分のことは殺されてしまったと思っているかもしれない。

 しかし侯爵家に近付くことなどもってのほかであり、となると、気に掛けてくれた彼女に無事を伝える術は、残念ながら今のディルには無かった。

「あたしはホリー。ほら、ぼうっとしてたら冷めちまうよ」

「うん」

 つい物思いにふけってしまったディルは顔を上げ、頷いてから片隅の木箱の上に座って食べ始めた。



「ディルは今頃食事してますかね……。あーあ、王都に着いたら外郭で一緒に買い食いしようと思っていたのに!」

 王宮へ伺候すべく、待機している馬車に向かいながらヴィーはぼやく。

 彫金の施された額輪と、この家伝来の大粒の碧玉が嵌め込まれた指輪を身に着け、襟ぐりと袖口、そして裾に金糸銀糸で縫い取りをされた貝紫の長衣に、深紅の絹布を絡めた紫紺のマントを纏い、繊細な金細工がその上を飾る。豪奢な装いの彼は、どこからどう見ても隙無く高貴な姿だ。

 しかしその口から零れた科白のあまりの落差に、傍らを歩くリエール卿は嘆かわしげな顔つきになった。

「文無しだったくせに何を言う。かっぱらいでも働く気だったのか」

「貴方という財布がいるじゃないですか」

 リエール卿は呆れた顔でヴィーを見下ろす。

「お前はいつから私をあてにしてたんだ」

「どうせ現れると思って」

「くそ、助けに行くんじゃなかった……」

 苦々しい表情の卿に、ヴィーは口許を人の悪い笑みに歪める。

「目付け役も楽ではないですねぇ」

「お前が大人しくしてさえいれば、私の仕事の半分は減るんだ」

「おや、ずいぶん暇なんですね。そんなに仕事が少ないなんて大丈夫なんですか? 主君に見放されかけてません?」

 リエール卿は額に青筋を浮き上がらせつつ、怒気混じりのため息をひとつついた。

「……お前な、虫の居所が悪いからといって私に当たるんじゃない」

「他の誰に当たるよりもましでしょう?」

 否定するどころか悪びれもせずに言われ、リエール卿は押し黙る。

 憮然とした卿にヴィーは典雅な笑みを向け、馬車に乗り込んだ。

「――さ、日中は解放して差し上げますから――別に私が束縛してるわけではありませんけどね――、せいぜい羽を伸ばすなり骨を休めるなりしてください」

 馬車から見下ろされながら言われた科白に、リエール卿は鼻を鳴らす。

「ふん。お前こそ誰彼構わず喧嘩を売ってくるんじゃないぞ」

「何を言うんです。私は貴方より人間ができているつもりですよ」

「どうだか」

 最後まで憎まれ口を叩きながら、ヴィーは自身の従者を伴って王宮に向かったのだった。



 別棟でそんな会話が交わされていたことなどつゆ知らず、ディルは黙々とパンを千切るとそれで汁物の具をすくい、一緒に口に運ぶ。

 その彼の仕草を見て、ホリーは少し首を傾げた。

「旦那様に拾われた孤児だって聞いたけど、なんだかそうは見えないねぇ」

 ディルは顔を上げて、口の中のものを飲み込んでから答える。

「おれが孤児になったの、冬の終わりなんだ。母さんが流行り病で死んじゃって、そのあと父さんが事故で……」

「ずいぶん最近のことじゃないの」

 ホリーは目を丸くする。

「うん。それまで他のお屋敷で働いてた。……追い出されちゃったけど……」

 最後の言葉にホリーはじっとディルを見つめたが、やがて小さく肩を竦めた。

「ふうん? ……なんだか知らないけど大変だったようだね。ま、それでちょっとは納得したよ。あの旦那様がただの孤児をわざわざ拾っておいでになるなんて、信じられなかったからね」

「……そうなの?」

 孤児を拾うことが信じられないと言われるほど、ヴィーは使用人に酷薄な人柄だと思われているのだろうか。だとすれば自身の印象とかなりかけ離れていることになり、ディルは心配になる。

 しかしホリーは彼の内心など知るはずもなく、少し大仰に両腕を広げ、目を見開いて言った。

「そりゃあそうでしょ。あんた旦那様が何者か分かってる? 国王陛下だって敬意を払うソーン伯、この国の貴族で一番偉いお方だよ? そのうえ今の旦那様はエレカンペインの国王陛下の甥御様でもあるんだ。あたしらからしたら雲の上のそのまた上のお方もいいところなんだから!」

「あ……うん。おれもそれ、びっくりした……」

 ヴィー個人がどうこうという話ではなかったことに安堵しつつも、あらためて自身に近い立場の相手から彼の身分について聞かされると、そのとんでもなさに眩暈めまいがする。

 あの出会い方、その後の旅路、屈託のない笑顔や些細なことで落ち込む姿……どれもがヴィーの素性と結びつけようとすると、ディルの中の常識が拒否反応を示す。あまり考えるとまた熱が出そうな気さえした。

(そういえば、あの大きなメリア署名……あれ、ヴィーが書いたってことなのか……)

 自分が持ち歩いていたのはベネットが模写したものだったが、だとしてもディルはその元となった本物の署名も見ている。

 幼少期に偶然目にして以来、魅了されていた華麗な書体を実際に操る人物が、自身の庇護者だという事実はディルの心を高揚させた。

 しかしその一方で、ベネットのような腹立たしい人間がそれを無遠慮に穢したことへの不快感も覚え、ディルは知らず眉根を寄せる。

 険しい顔のまま、再びパンを千切って汁物に浸し、具を乗せて口の中に放り込む。無意識の動作で何を掬ったか認識していなかったが、口に入ってきたのは塩漬け肉の欠片だった。

 クローブに聞かされた話と、あの署名の主がヴィーだった点を考え合わせると、リリーとカーラントが、ソーン伯であるヴィーに対して良からぬはかりごとを企てていたことになる。

(どうして……)

 貴族の考えることなど分からない。分からないが、これだけは確かだ。

 自分は、ヴィーを陥れるために『封蝋』とやらにされたのだ。

「……っ」

 そこまで考えた途端、ディルの咀嚼そしゃくが止まった。反射的に飲み下すと、十分に歯で擦り潰されていない肉の塊がぎこちなく喉から胃の腑へと落ちていく。

 それを追うように、ディルは喉元から身体の奥底に向かって冷たいものが広がるような感覚を覚えた。実際に冷えたのは身体ではなく心なのかもしれないが、そこは判然としない。

 ……と、突然背を叩かれ、ディルはびっくりして顔を上げる。

 そこには、いつのまにか間近にやってきたホリーの姿があった。

「あんた、なに百面相してんの?」

「……え?」

 きょとんとして見上げると、彼女はまなじりを吊り上げる。

「ぼっとしたままこの私の作ったもん食べるんじゃないの! 考えごとはあと!」

「は、はい……!」

 ホリーの言うことは実にもっともで、その剣幕に気圧けおされディルは、自身の胸中を侵す名状し難い厭な気分を慌てて追い払った。

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