第25章 胎動

 一心にこちらに向けられる、慕わしさを隠そうともしない真っ直ぐな瞳。

 かつても、自分はそんな目を向けられていた。

(……ソレル)

 ディルと同じ歳の姿のまま、記憶の中に留まっている従弟の顔が浮かぶ。彼は自分とは二歳違い。実際にはとうに成長してすっかり変わっているはずだ。

 けれど、その姿を自分が目にすることは叶わない。そんな日は生涯来ないのかもしれない。



 夜着にガウンを羽織って自室を出たヴィーは、灯火の掛かった無人の通路の壁にもたれかかり、ため息をついた。用事があったわけではない。いっとき、ディルの視界から消えたかったのだ。

「……喋り過ぎた。……何をやっているんだ、私は……」

 独りちて項垂うなだれる。

(弟みたい、なんて……いまあの子に言うべきではなかったのに)

 たとえそれが本当のことだとしても。

 自分の想いは否が応にも、寄る辺なくこちらにすがるしかない、ディルの幼い心を縛ってしまう。彼が主家を失い、多くの災難に見舞われたのは他ならぬ自分のせいだというのに。


 ――愛情を振り向ける相手が欲しいなら犬でも飼え。人間の子供を軽々しくお前の人生に巻き込むな。


(まったく、あのひとの言うことはいつも的確で正論で、ほんとうに腹が立つ)

 頭をよぎったリエール卿の言葉に、ヴィーは八つ当たりとも言える感情を抱いた。彼がこちらの味方だというなら分かる。あるいはいまも自分の師なのであれば。だが決してそうではないのに耳に痛い指摘をされると、得難いこととは分かっていても理不尽に感じるのであった。

 思考の向き先を戻し、先ほどまで語り合っていた少年のことを考える。

 あの偽造された署名が自分のものであったことを、ディルはどう感じているのだろうか。いや、まだそこまで深く考えられる状況ではなかったに違いない。明日あたりには、自身に降りかかった災いとヴィーとの繋がりに思い至るのだろうか。

 もし、いますぐには分からなくても、聡明な彼のことだ。遠からず、気付くときが必ず来るだろう。ならば、ヴィーは自らその事実を告げるつもりでいた。

 そのうえで、どう歩むか決断させなければならないと考えていたのだ。

 わずかでもディルがこちらに対してわだかまりを抱えるようであれば、それがこの先、自分と関わり続けることでどんな毒に育つか分からない。その場合はなるべく距離を取ることを考える必要も出てくるのだ。

 だからせめてその判断がつくまでは、こちらの心を明かすのは待つべきだったのに。

 自身の災難とヴィーとの関係をディルが認識したとき、彼の心がこちらに傾いていればいるほど、事実との間で板挟みにして苦しめてしまう可能性があるのだ。

(……そう考えていたくせに、いざあの子の前では真逆のことしかしていないな……)

 迷いを見せつつも、あくまでこちらをヴィーと呼び続けたディル。身分を明かそうと、彼にとって自分は、変わらず共に旅したときの庇護者であり続けた――つまりディルにとっての自分の価値とは、野盗の寝ぐらで出会った、ただの「ヴィー」であることなのだ。それを思うと胸が締めつけられる。

 そんな彼が一度こちらに伸ばしかけ、けれど互いの身分の違いに思い至り引っ込めた小さな手を、捨ておくことなどできなかった。

 どうしても突き放せない。自分の立場で、これは問題だというのに。

(つい、情が勝る。……こういうところ、父上に似たのだろうな……。皆が心配するわけだ)

 伯父も、後見の大主教も、自分が父と同じ末路を辿りはしないかと警戒している。ヴィーとしては杞憂だ、と主張したかったが、確かに自身のこういう面に向き合うと、そう思われても仕方がない気もした。

 あんな風に、自分個人を必要とされることなど、ついぞなかった。

 というのも身分を伏せたまま、特定の人間に手を差し伸べたのは恐らく初めてのことだったから、当然である。ディルに対して隠すつもりがあったわけではないが、何の肩書きも付随しない状態の自分が、彼とどう交われるのか――そんな興味や、冒険心のようなものがあったことも否めない。

 しかし、こちらの背景など全く無関係に出会ったはずのディルが、自身を巡る謀略に巻き込まれていたと知ったとき、ヴィーは運命の皮肉に愕然とした。

 油断すると、他者に必要以上に情を傾けてしまう自分を、天に嘲笑われているようにすら感じた。

 ディルは、ヴィーが個人的な心を向けるべきではない相手だったと言えるだろう。

 だがもはやどうしようもない。他の誰かに保護を引き継がせ、二度と彼の前に姿を現さないことも考えた。しかしそれはそれで、ディルに対して勝手が過ぎるようで自分に納得がいかない。

 結局、ありのままの事実を伝えたうえで、ディルが自身の心を偽らずに生きていける道を保証してやろうと考えた。どんな結果も受け容れるつもりで。

(そう……思っていたのに、結局上手くできていない)

 あの真っ直ぐな目があまりにかつての従弟に似ていたからか。それが負の感情に塗り潰され、こちらを拒絶するさまを再び目にすることを、自分は無意識に恐れているのだろうか。

(だとしたら、もしかして私は……。色々な問題を、目を逸らしたまま解決できずに自分のなかに抱えているのかもしれない。……アルテのことだけでなく)

 そう思い至ったところで、どうしたらよいのか分からなかったが。

 ヴィーは大きく息をつき、暗然とした気持ちを振り払うように頭を振った。

(……なんにしても、口にしてしまった言葉は戻らない。どうするかを考えなくては)

 最終的に、ディルがヴィーを己の不運の元凶として憎むことになるのか、それとも慕い続けるのか。

 いずれであっても彼をこの国に留め置くことはできない。当初の話の通り、ヴィーはディルをエレカンペインに連れていくと決めていた。

 なぜなら、カンファー国内では彼の身の安全を保証できないからだ。ヴィーのいないエキナセアになど残したら、早々にグネモン卿に消されてしまうだろう。リリーも放っておくとは思えない。

(相手が悪すぎる)

 二大権門のはかりごとに巻き込まれたディルに、カンファーで平穏に生きる道など残されてはいないのだ。状況は、恐らく本人が考えている以上に厳しいというのが現実である。

 無論、ヴィーの命で彼を誰かに護らせることは可能だ。しかしヴィー以外の人間にとって、ディルがそうされるだけの存在と言えるかというと、残念ながらいなである。

 何よりディル自身がそれをよくわきまえている子供だった。大抵の人間は、己の庇護者の身分が高いと知れば多少なりともおごるような様子を見せるものだが、ディルはむしろ、ヴィーの素性を知るなり真っ先に自身との身分の隔たりに消沈していた。

 彼は貴族屋敷で育っているだけに、出自というものが簡単に超えられる壁ではないことを体験的に理解している。となるとヴィーが個人的感情に任せて分不相応な扱いをすれば、本人が居心地の悪い思いをするのは間違いない。さらには、彼の周囲との関係性まで歪めてしまうだろう。

 そんな不健全な環境に追いやって、あの聡い少年の澄んだ心を濁らせてしまうなど、ヴィーの望むところではなかった。

 そういった様々な状況をかんがみても、ほんとうは一刻も早くディルをこの王都から連れ出したい。しかし、宮廷をこのままにもできなかった。

(ソレルに届けられた私信がローゼルの手に渡ったなんて。……何度考えても、耳を疑いたくなる話だ……)

 仮にもエレカンペイン王太子の許から書簡を盗み出して国外に流すなど、大それた行いであることは間違いない。

 そしてそれを受け取ってしまうほうもどうかしている。そんなものを手にしたことが万一、おおやけにでもなったら、確実に身の破滅だというのに。

(私なら持って現れた使者ごと消している)

 盗まれた書簡を手にすることの厄介さに比べれば、使者の送り主にしらを切り通すほうがよほど世話が無い。手を汚そうと、可能な限り危険な事柄を遠ざけることも、領主たる者の当然の務めだ。

(そういうときのための草だというのに)

 何のために、ヴィーの次点の優先順位とはいえ、ローゼルに草の指揮権を残してやったと思っているのか。決して、平民の子供を追わせるためなどではない。

 ヴィーはあの宿場町で捕らえた草に翌朝自らの正体を明かすと、あらためて彼らに命を下した。宗主であるヴィーの指令がローゼルのそれより優先されるため、結果的にローゼルの命令は本人も知らぬところで撤回されたことになる。ほんとうは上層の混乱を露呈するようで、そのような真似はしたくなかったが、そんなことも言っていられない。そうしてローゼルとカーラントの目をあざむくために、彼らを西に向かわせたのだ。

(私が一年離れていただけでこの有様。ローゼルは隙がありすぎる。でも私が言って認めるはずもないし……)

 こちらも正直、顔を見たら平静でいられるか自信が無かった。アルテミジアを死に追いやった元凶は誰かと問われれば、ヴィーは迷うことなくローゼルである、と答えるだろう。グネモン卿はきっかけにはなったにせよ、ローゼルが素直に妹の言葉に耳を傾けるか、そもそもリリーの宗主として、安易にカーラントに迎合しなければ、あんなことにはならなかったのである。

 何より腹立たしいのは、彼があの一件でこたえたのはあくまで宗主の座をヴィーに奪われたことであって、アルテミジアの死ではないという事実だった。分かりきっていたことではあったが、それだけになおさらやるせない。

 内気で、それでいて自身をげないアルテミジアの理解者は少なかった。肉親で彼女に愛情を示したのは父の先代フレーズ卿だけであり、実母も兄も、彼女が幼いうちに、扱いにくい変わり者という烙印をしたきり、後々もその聡明さや一族への献身の心など知ろうともしなかった。

 ディルが旧主の屋敷で、アルテミジアと言葉を交わしたということからもその背景は窺い知れる。母と共に叔父の屋敷を訪問していても、アルテミジアはそこで放っておかれたのだろう。だから使用人の子供とじかに話すなどということができたのだ。

 フレーズ伯爵家の遺族には思うところの多いヴィーだったが、しかし怒りや恨みに任せてローゼルを廃することはできなかった。なぜなら現状、彼の跡を継ぐ者がいないからだ。

 その場合かつてのように、ソーン伯であるヴィーがフレーズを継承することになる可能性は高いが、それでは国内でのリリーの勢力が削がれるばかりである。

 リリーが弱体化しカーラントに呑まれるだけならともかく、それを見た大陸首脳カレンデュラからカンファーという国そのものが見切りを付けられては、この国の存続を命題としてソーン伯を継承し、これまで奔走してきたヴィーとしては目も当てられない。

(となるとやっぱり、ローゼルに手綱を付けるしかない、か……)

 無論本人には、それと分からぬように。



 都を睥睨へいげいする王宮、エキナセア宮殿。その奥まった棟のひとつをゆく一行に、居合わせた人々の目が吸い寄せられるように集まる。

 一団の中で一際目を惹くのが、先導の女官に続いて歩く鮮やかな装いの歳若い貴婦人と、そして彼女に付き従う、いかめしく目つきの鋭い中年の騎士のふたりであった。

 集まる視線には一様に、好奇の色と、そしてわずかな羨望が含まれていたが、それらを浴びせられる当人たち――ことに貴婦人のほう――はまるで意に介さぬ様子で歩を進める。その表情は、険しいと言うべきか、不機嫌そうと言うべきか、……平たく言えばむくれていた。物見高い目が集まる原因は主にそれである。

「……姫。王宮内でそのようなお顔はおめください」

 クローブは極力小声で、斜め前を歩く小柄な少女に耳打ちした。

「あら、そんなに不細工に見えるかしら?」

 振り返りもせずオリスは応える。その声音にはあからさまな棘があった。しかしクローブは動じない。

「論点をすり替えようとなさっても無駄です。――いえ……ある意味不細工に見えます」

「あなた、度胸あるわね……」

 オリスはかえって毒気を抜かれ、呆れた顔でクローブを振り返った。

「表情を改めていただくことの方が先決ですゆえ」

 生真面目に返される。

 自分が水を向けたにせよ、先ほどの発言が、職務完遂のためには憎まれ役もいとわないことで定評のあるクローブのものだからこそ腹立たしく感じないが、これが例えば従弟のリードや父のデーツ伯など別の人間から言われたのであれば、身内であっても許す気にはなれなかっただろう。

 オリスは不満に膨らませていた頬を引っ込める。

「……仕方ないわね。あなたの忠義心に免じて、言われたとおりにするわ」

「お聞き入れくださり何よりです」

 にこりともせずに言われ、オリスは小さく笑った。

「あなたを連れていると性根のじ曲がった宮廷婦人たちの悪口も耳に入ってこないし、気分がいいわ」

「……左様で?」

 要領を得ない様子のクローブに、オリスはちらりと周囲に視線を巡らせ、そして続ける。

「みな、あなたには睨まれたくないのよ。あからさまに良い顔をしてくる厚顔ぶりったら、笑えてしまうほどだわ。これならいつもあなたについてきて欲しいところだけれど、そんなことをしたら、叔母上をはじめとした一族の女性陣から文句が出てしまうわね」

 クローブはカーラント家においては宗主グネモン卿の第一の腹心であるが、王宮では国王の陪臣であり一介の騎士に過ぎない。

 しかしそんな彼のもとに、主家の姫、ひいては王の義妹にあたる姫が自ら望んで嫁したのである。元から如才ない人物であったならともかく、誰も笑った顔を見たことがないような堅物が主人の姫を射止めた――本人に射止める気は皆無であったにせよ――のだから、なおさら人々の興味を引いた。

 その時点で話題騒然であったことは言うまでもないが、その後、彼はどれほど叙爵を持ち掛けられようと固辞し、主人あるじの忠実な騎士であることを貫き通していた。そして周囲に対しても何ら謹厳な態度を変えることなく現在に至っている。

 吟遊詩人が語り聞かせる物語に登場する、理想とされる忠節の騎士――宮廷の貴婦人たちの目に、クローブはそれを地でゆく存在に映った。実際、そこはその通りと言える。

 そして、たとえば彼がグネモン卿の騎士に徹するあまり、身分違いの妻が格下の暮らしに不満を抱いて家庭が紛糾するなどという事態にでもなっていれば、それはそれで別の方向性の話題を提供したであろう。しかしそのような気配はまるで無く、むしろ妻が夫のそんな生き様を熱烈に支持しているらしいとあっては……もはやどこかの恋愛譚かと疑いたくなる話だ。

 そのようなわけで貴婦人たちは密かに、憧憬に満ちた目をクローブに向けていた。自身が彼を振り向かせたい、というたぐいのものではなく、物語の登場人物をでるような感覚で。

 ある意味、権勢誇るカーラントの貴公子たちよりよほど人気が高い、とオリスは見ていた。本人が知ったら憤死しそうな話であるが。

 さて、当のクローブはよほど注意深く観察していなければ気付かないほどわずかに、眉間のしわを深くした。

「……仰っていることの意味が欠片かけらも分かりませぬ」

「世の中は、あなたに嫌われたくない女とあなたを独占されたくない女で満ちている、と言ったの」

 クローブはしばし沈黙する。

「……やはり仰るところの意図を理解しかねます。あるいはお言葉通りに受け取るなら、貴女の世間があまりに狭小きょうしょうかと」

 その歯にきぬ着せぬ物言いに、オリスは足取りも軽くくるりと身体ごと彼の方へ向いた。

「そういう言い方をしても恨まれることのないご自分が、稀有な存在だという自覚はおありかしら。?」

 彼女の呼び掛けにクローブは微かに顔をしかめる。

「前をお向きください。――その呼び方はなりませんと申し上げたはずです」

 身体の向きだけは素直に戻しながら、オリスはまるでこたえる様子も見せず悪戯っぽく笑った。

「ふふ、やっぱりあなたを動揺させるにはこれが一番ね」

「姫に何の益が?」

「面白いの」

 悪びれもせずに答えられ、クローブは寸刻押し黙る。

「……。貴女は実に、祖父ぎみによく似ておいでです」

 その顔には、げんなりとした雰囲気がそこはかとなく漂っていた。この一族がどうしてこうも自分を構い立ててくるのかが、クローブには未だに分からない。

「誉め言葉と受け取っておくわ」

「誉めておりません……」

 ここが王宮の、それも宮廷人たちの目のある場でなければ、クローブは額に手を当ててため息をついていたことだろう。

 実際にはその姿勢も歩調も乱れることはなく、辛うじて表情と声音に変化が見えるだけだ。それとて、長年の付き合いであるオリスのような、カーラントの身内でもなければ読み取ることは難しい。

 この岩のごとき彼の態度をいかに崩すかが、一族において一種の娯楽となっていることを、オリスは本人に黙っていた。

 ほどなく、大勢の貴族たちがたむろしている通路を兼ねた表の間をれ、グネモン侯爵家にあてがわれた控えの間に入ると、先導の女官たちが一礼して去っていく。

 部屋にはオリスとその侍女、そしてクローブと彼の配下の従者という、侯爵家の家中の人間だけになった。クローブは従者に屋敷へ戻るための馬車の用意を命じつつ、オリスを長椅子に座らせる。

「……ご気分が良いと仰るわりに、先ほどまでのご様子はいかがなさったのです?」

 クローブは話題を戻した。

 この主家の一族との会話は大抵、彼からすると意味不明に終わるのだが、それによってこれまで何らかの弊害が生じたこともない。ゆえにクローブは、早々に自身に関わるオリスの発言への疑問を飲み込んだ。追及してもどうせ、理解できないに違いないのである。

「ああ、そのこと……」

 思い出したためか、オリスの表情が再び険しくなった。

「まさか妃殿下と何事か?」

 オリスが登城したのは伯母である王妃パースレインのご機嫌伺いのためである。冬の終わりに病が流行り始めて以来の久々の伺候であったが、王妃の許を辞してから、彼女の様子がおかしい。行きは浮かれていると言っても過言ではないほど上機嫌であったのに。

 クローブの問いにオリスはかぶりを振る。

「いいえ、そうではないわ。わたくしが腹を立てているのはお祖父さまのほうなの」

 彼女の言葉にクローブは軽く安堵の息を吐いた。万一、伯母とはいえ王妃に無礼を働いてきたなどということであったら、このまま謝罪も無しに彼女を王宮から退出させるわけにはいかないからである。

「左様ですか。では、戻られたら存分におふたりで議論なさいませ」

「クローブったら、関わり合いになりたくないっていう態度が見え透いているのだけれど……」

 実のところ、クローブは顔面の表情こそ乏しいが、自分たち一族に対してはかもす空気が饒舌じょうぜつだとオリスは思う。そして、伯母の王妃や、クローブの妻も含めた叔母たちに訊いてもそこは総じて同じ意見であった。

 だからこそ動揺させて楽しむという戯れも成立するのであるが。

「無論、関わりたくはありません。その必要もないと存じますが」

「何があったかくらい、尋ねてくれてもよくはなくて?」

 拗ねたようにオリスは言い、上目遣いにクローブの顔を覗き込むが、彼の態度は揺るがなかった。

「おふたりの問題に私が首を突っ込む道理がありません。それに、おそらく姫への助力は出来かねます」

「そのようなこと、お祖父さまの腹心のあなたに期待するはずがないでしょう。でも少しくらい、気に掛けるというか、心配するような素振りは見せてくれてもよいのではないかしら?」

「貴女とヘムロック様の間のことを?」

 どうせ大した内容ではあるまい、とでも言いたげなクローブの切り返しに、オリスは目いっぱい頬を膨らませた。

「姫。そのお顔、ご油断が過ぎます」

「だって……!」

 反駁しようとしたオリスに、クローブは真顔で――元から真顔ではあったが――口を閉じるようにという仕草をした。同時に思わせぶりに、部屋の入口に視線を巡らせる。

 はっとして、オリスも口を噤み、表情を戻した。

 宮殿内の表向きの部屋には基本的に扉が無い。それは控えの間であっても同様で、その前を通行する人間から部屋の中は容易に見渡せる。無論、あからさまに覗き込んでくる不作法者は少ないが、それも無いとは言えないことだ。

 ほどなく、オリスはなぜクローブが自分に黙るよう指示したのかを悟った。確かに、人がやってくる気配を感じる。

 終始こちらのくだらない会話に付き合わせていても、彼は決して本来の職務をおろそかにしないのだから、そういう意味では自分たちはもう少しこの騎士を大事に扱うべきかもしれない……と、ほんの少しだけオリスは反省した。ほんとうに、ほんのわずかに。

 それとなく部屋の外の気配に耳をそばだてていると、やがて伺候してきたと見られる貴族と、その供連れの一団が通りかかる。

 高位貴族の証である紫紺のマントが視界の隅に入った。誰か? とオリスはそれを纏った人物を何気なく見遣る。そして見慣れない淡い金髪の、恐ろしく整った容貌の若者の横顔に、微かに息を呑んだ。

 目をみはったオリスの視線に気付いたのか、彼は悠然と歩を進めつつ、軽くこちらに顔を向けた。透き通るような薄青の瞳が、やけに鮮やかな印象を与える。彼はオリスの姿を認めると、穏やかな微笑と共に礼儀正しく目を伏せ、目礼した。

 オリスは咄嗟に顎を引き、辛うじてそれに答礼する。若者はそのまま通り過ぎていった。

 クローブが先に注意してくれていなければ、とんだ醜態を晒すところだった――とオリスが彼の的確な対応に内心感謝していると、頭上から、そのクローブの呟きが降ってきた。

「ソーン卿――……」

 自分と同じく部屋の外を窺っていた彼の言葉に、オリスはなるほど、と思った。

 金の髪に青い瞳。まるで生粋のエレカンペイン人のような外見のかの若者こそ、目下、祖父の最大の政敵と言われるソーン伯か。

 自分とあまり変わらないように見える歳若さに驚いた。

「あの方が……。陛下にご挨拶にいらしたのかしら」

「かもしれませぬが……。畏れながら、妃殿下がまたご苦労をこうむりかねませぬな」

 クローブの相槌に、オリスは思わず立ち上がった。

「その話! そう、その件よ。わたくしが腹を立てているのは!」

 その剣幕にクローブは怪訝な顔つきで彼女を見返す。

「いかがされたのです?」

「お祖父さまったら! 伯母上に口止めなさっていたのですって。わたくし、一年前の出来事をお尋ねしようと思って伺ったのに。そのつもりだということも、出立のときにお祖父さまにお話ししたのよ。でもお祖父さまは黙ってらして! ひどいと思わないこと?」

「そういうことでしたか。……まあ、確かに仰せの通りかと」

 クローブは、主人がなぜ彼女にその場で話せないと言わなかったのか、すぐに察した。そこで押し問答するより、オリスがなついている王妃に押し付けたほうが、彼女も大人しく引き下がるだろうと考えたのだろう。分かりはするが、確かに誠意には欠ける。

「もう! いまさらわたくしがお祖父さまの悪行に驚いたりするはずもないというのに、いったい何を隠してらっしゃるのかしら」

「悪行という表現はいかがなものかと……」

 実の孫に悪役扱いされる主人を思い、クローブは複雑な気持ちで指摘する。

 ……ただ、グネモン卿と王妃が何を彼女に秘そうとしているのかは、なんとなくクローブには分かってしまった。あの一件には、どうにもオリスの耳に入れたくない行いの人物が登場するのだ――。

 やがて従者が戻り、馬車の用意が整った旨を伝えてくる。クローブはオリスに向き直り、手を差し出した。

「姫。お怒りはごもっともなれど、本日はお父上も戻られます。そろそろ退出いたしましょう」

「……ええ、そうね」

 まだ言い足りない様子を見せつつも、オリスは素直に頷き、彼の手を取る。

 オリスを伴って部屋を出る直前、クローブは自身の従者に耳打ちした。

「マスティック卿が宮殿内にいらしていたな。あの方の従者に連絡を。ソーン卿の王宮内での動向をそれとなく探っていただきたいと」

「は」

 従者はただちに一礼して足早に別の間へ向かう。

 マスティック伯はグネモン卿の実弟の息子――つまり甥にあたる人物であり、カーラント一門の貴族だ。グネモン卿の生家ということもあり、何かと緊密に連携し合う間柄だった。

「昨日の今日だから、ということかしら?」

 クローブの指示に、オリスが小首を傾げて問う。

「ええ……」

 彼は肯いたが、その声はどこか歯切れが悪かった。



 ソーン卿がオリスに寄越した一べつ。それは何ら不審なものではない。

 ゆえにクローブも、明確な理由は説明できなかった。長年の勘とでも言うべきか。あるいは思い過ごしかもしれないし、そうであってほしいとは思う。

 しかしとにかくクローブは、あの一瞬の邂逅に――そしてソーン卿の静かな眼差しに、とてつもなく嫌な予感がした。

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