第24章 涙 ―― ディル
――どうか。どうか今走るこの先が、おれの
あのとき抱いた祈りが脳裏を
果たして、ヴィーとの再会は自分にどのような未来をもたらすのだろうか。
ようやく落ち着いてきたディルは、ヴィーに抱き締められたままそんなことを考える。
涙も止まり、ゆっくりと顔を上げた。気付いたヴィーが腕の力を緩めると、ディルはしがみついていた彼の胸から身を起こす。
部屋の灯りはすべて落とされていて、そのことから今が夜中なのだろうということが窺えた。窓からかすかに差し込むのは星明かりか。
暗闇の中に浮かび上がる、寝床のすぐ脇に置かれた椅子に腰掛けているヴィーの姿は確かに、『天上の光を
「落ち着きましたか?」
静かな声でヴィーは尋ねた。
ディルはこくりと頷く。
ヴィーは優しく微笑んで、もう一度ディルの頭を撫でた。
(なんでヴィーはこんなにおれに優しくしてくれるんだろう?)
それは素朴な疑問だった。
野盗の縄を切ったくらいで、このエルムでも限りなく頂点に近い身分の若者が、こうまで自分を気に掛けてくれるものだろうか? その地位を考えれば、むしろそれくらいの奉仕は当然と捉えていてもおかしくない。
下手をすると、こんな軽輩の手を借りたなどとは身の恥とばかり、自由を取り戻した途端斬って捨てられる可能性さえあった。貴族――ましてや高位貴族など、もはや自分たちとは異なる論理で行動する予測不能な存在であり、だから普段、平民は迂闊に近づいたりはしないのだ。
ひもじさとエルム語の懐かしさに負け、ディルはうっかりヴィーに交渉を持ち掛けてしまったが、彼の本当の身分を知っていたら決してあのような真似はしなかっただろう。
だというのにヴィーはあくまでディルのことを恩人と言い、約束通り彼に食べ物を与えることに尽力し、それだけではなく自ら剣を取ってこの身を守ってくれた。
さらには正式な手形を作らせてディルの身分を保証したうえで、政敵である侯爵家へ正面から迎えに来てくれたのである。いくらなんでも身に余る扱いが過ぎはしないか。
(だいたい、なんでエレカンペインの王族なんてひとが野盗に捕まってたの?)
誰が想像できただろうか。あの野盗たちだって、知ったら腰を抜かすに違いなかった。
そんなことを思いながら、黙っているわけにもいかず口を開く。
「ええと……おれ……」
しかし迷いが先に立ち、すぐに口籠ってしまう。
これからどんな態度でヴィーに接すればよいのか。それを本人に訊くのが正しいのかどうかも分からない。
普通なら、問うまでもないことだ。本来、今すぐこの寝床を降りて床に
けれど、何の迷いもなく抱き寄せて頭を撫でてくれるヴィーにそんなことをしたら、果たして彼はどう感じるのだろうか。想像もつかない。
「貴方は高熱を出して倒れたのですよ。でもだいぶ熱は引いたようですね。よかった」
ディルの頬や耳に触れながら、彼の戸惑いを別の理由に捉えたらしいヴィーは状況を説明する。
「――それと、貴方の手形は家令に渡してありますからね」
「あ……ありがとう……」
考え事に忙しくてディルはそこまで意識が回っていなかったが、確かに短衣の隠しに入れておいたはずの、羊皮紙の気配が無かった。
元々、使用人の手形は個々で管理するものではない。何しろ自身の手形の記載も読めない者がほとんどなのである。通常、家令や家宰といった決められた者が預かっていて、外郭と行き来する際など必要に応じて返されるのだ。
自身の手許から手形が離れたことに、ディルはひとまずの安堵を覚える。
「……急に頭がガンガンして、息が苦しくなっちゃったんだ。……でも、もう大丈夫みたい」
自らの驚くべき素性を明かした今も、ヴィーが以前とまったく口調を変えないので、逡巡していたディルもようやくまともに話し出せた。
「無理をしてはいけませんよ。貴方が掻い潜ってきた苦難を思えば、三日やそこら
「三日も寝てられないよ……」
寝床に縛り付けられる自分を想像し、ディルはつい、これまでの調子で返してしまう。
だめだ、どうにも裏街道を旅していたときと態度を切り替えられない。
「あの……あのね、ヴィー」
意を決して、ディルは正面から彼に問うことにした。
「なんです?」
ごく自然に応じてくれるヴィーに胸が痛む。自分から線を引いてしまうようで。
けれどディルはいみじくもクローブが言ったように、平民とはいえ内郭で育った知識層の端くれだ。なんのけじめもなくこのままヴィーに気安く接し続けることなど、他者の目もある以上、不可能なことだと分かりきっていた。
「……おれ、ヴィーのこと、『旦那様』って呼ぶべきだよね?」
仮にも自分の手形に主人として彼の名が記されているのである。
しかし、と言うか、案の定と言うべきか、その問いにヴィーは変な物でも飲み込んだような顔をして固まった。
この状況は覚えがある。つい昼間もディルは彼を唖然とさせてしまったばかりだ。ただ、昼のときとは違い、今回の発言は至極真っ当な内容のはずだった。
それはヴィーも分かっているのだろう。ぎこちなく首を傾げながら、眉根を寄せて呟く。
「……おかしいですね。呼ばれ慣れてる言葉なのに、どうして貴方に言われると……なんだろう、絶望を感じるんでしょう……」
「絶望!?」
大仰な表現にディルのほうが驚く。
頓狂な声をあげた彼にヴィーは微かな笑みを溢し、そして何かに気付いたように眉を上げた。
「……ああ、なぜなのか分かりました。私は、貴方くらいの年頃の子と長く一緒に過ごしたことがないのです。ずっと大人に囲まれていましたから」
言葉を切り、しばらく穏やかな顔でディルを見つめた後、彼は表情をあらためて続ける。
「私には兄弟がいなくて。――ひとり、弟が生まれたのですけれどね。でも名前が決まるより先に亡くなってしまって……。病弱だった母はこれ以上子供は望めないと考えたのか、ほどなく私にすべての家督を譲りました。私がラヴィッジとソーンの爵位を継いだのは、六歳のときです」
「六歳……」
ヴィーがソーン伯を名乗ったのが今の自分よりさらに幼い頃だったと知り、ディルは自分の想像の及びもつかない彼の運命の重さに身震いする。
「もちろん、領事は母や家臣に補佐してもらいましたよ。けれどまあ、そのようなわけで、同じ年頃の子供と遊んだ記憶は大して無いし、成長してからはなおさら小さい子とは関わりが無くなってしまって。……ですから、貴方との旅は新鮮で、純粋に楽しかったんです」
そこまで言って、ヴィーはつと口を噤み、物思いに
――世の中にはね、私がいくら仲良くしたいと思っても、それが叶わない相手がいるのです。
そうだ。親戚と会えない、と彼が語ったときだ。
あのときは、ヴィーに不仲な相手がいるなんて信じられない、と思ったのに。けれど今となっては、彼を取り巻く状況がいかに殺伐としているのか、再会してわずか数刻のうちにディルは思い知らされた。
ディルが記憶を辿りながら彼の顔を見上げるなか、ヴィーは再び語り出す。
「世の書記見習いがみなそうなのか、私は他に関わりがないので分かりませんが……貴方は私が取り留めのない話をしても耳を傾けてくれるし、知らないことには興味を持って、それが何なのか尋ねてくれた。あまりに住む世界が違う相手とは、齢が近くてもそうはいきません。ものの見方が違い過ぎて、相手の言葉を理解しようという気さえ起こらないようなのです。普段、民と話をするときは、よほど慎重に言葉と話題を選ばないと、
ディルは少しの間天井を見上げて考える。言うことが難しい、分からない、とは彼も同じ年頃の使用人仲間に言われたことがあった。
「ええと……たぶんそれ、司祭さまのせいかなぁ。リリーのお屋敷、おれしか教わる子供いなかったんだ。だからおれ、司祭さまにいろんな話をしてもらってた。教会司祭って、貴族の家の生まれのひとがなるんでしょ?」
「ほとんどの場合そうですね。……なるほど、貴方はちょっと特殊なのですね」
「……よく分からないけど、平民が司祭さまにあんなに相手してもらえることって、普通はないって父さんも言ってた」
「そう」
ヴィーは慈しむような眼差しをディルに向けた。
「……貴方に対しては、生きていく手助けはできても責任は負えない、なんて突き放したことを言っておいて……。そのくせ私自身は……何のことはない、弟でもできたような、そんな気分になって浮かれていたのですね」
自嘲めいた口調と共に、彼は力無く笑う。
思いがけず明かされたその心中に、ディルは言葉を失い、凝然とヴィーを見つめた。
脳裏に、ふたりで歩いた旅路の光景が甦る。
凛と冴えた空気、芽吹き始めて間もない木々。連なる枝々を掻い潜ってまばらに届く陽光が、道を頼りなく照らしていた。
手を伸ばせばすぐ届く距離に、青い外套を纏った背。先を行きつつも常にこちらを気遣い、幾度となく振り返っては向けられた、穏やかな薄青の瞳。
力の入らない身体に鞭打って、どうにか踏みしめる一歩一歩は辛かったが、それでも歩みを止めはしなかった。どうしても、彼についていきたくて。
「……ディル?」
ヴィーの声に驚きが滲む。
ディルの両の瞳から、再び大粒の涙が溢れ出してきたからだ。
頬を伝う感触にディルは我に返り、慌てて拳で拭ったが、後から後から流れ出る涙は止まる気配を見せない。
「……っ、ヴィー、も……だったの……?」
あの旅の間、相手を家族のように感じていたのは。
ヴィーはディルの問いにわずかに目を見開き、それから少しばかり困ったような笑みを浮かべて肯いた。
自分だけだろうと、ずっとディルは思っていた。そもそも何も持たず、
けれど、彼も同じように自分に心を向けてくれていたのか。
その事実は、知らず凍えたまま閉ざしていたディルの意識の一番深い場所に、小さな温もりを灯した。それはじわりと広がり、主家を追い出されて以来、無意識に心の奥底を
しかし、そう自覚するとなおさら胸が痛むことに、ディルは困惑した。
(どうしてかな……。嬉しいって思うのに……やっぱり……つらい)
とめどなく何かが込み上げ、涙となって零れ続ける。
喪われた安寧。降り掛かった理不尽。搔き消された将来と、飲み込んだ絶望。
それでも思いがけず出会った希望に、直後訪れた別離。敵地で抱いた孤独と猜疑、窮地で向き合った葛藤と恐怖――。
多くを乗り越えようやく得たヴィーという光は、しかしその正体を知れば知るほどあまりに遠い。
ヴィーの言葉を聞いて、ディルは確かに、心のどこかが満たされ、救われたように感じた。
その一方で、この先、ヴィーから伝えられた形のない想いというものだけを支えに、身分の隔たりから彼の傍にいられず独り歩んでいかなければならないであろう現実は、年端もゆかないディルにとってはあまりに寂しいことなのだった。
「おれ……っ、なんで……こんなに、弱虫、なのかな……」
いい加減、泣いてばかりな自分を嫌だと思っているのに。
鼻を
「貴方が弱いなんて、誰がそんなことを言うと思うのです?」
「……おれ……と、ヴィー……」
弱々しい声で返された、妙に素直な回答に、ヴィーは小さく吹き出した。
「泣くこと
――大丈夫。泣いたからって、君は壊れはしない。
(司祭さまと同じようなこと言ってる)
かつての師であったリリー家の司祭も、今目の前にいるヴィーも、ディルがここで
「……だって……だって、おれ……っ」
死に別れた両親、放逐された屋敷の司祭、……そしてヴィー。深く心に根差した彼らのひとりとして、自分の傍で生きてはくれないのだ。
けれど何もかも失ったはずの自分が今、こうして無防備に泣けること自体、本当はどれほどの幸運の上に成り立っていることか。
それを考えるとディルは続く想いを口にできなくなってしまった。
寂しいとか、離れるのが嫌だ、などという理由で泣くなんて贅沢なことで、そんな本心をヴィーに吐露することなど、自分がひどく我儘な人間に思えてしまって、とてもできない。
「……ね、ねえ。……ヴィー、も、泣いたの? 父さんや、母、さん……姫様、が……死んじゃったとき」
ディルの問いに、涙の向こうでヴィーが一瞬、揺らいだように見えた。
「……。母が亡くなったときは泣きましたよ。父のときは……涙を零した気はしますが……私自身の状況がそれどころではなくて、きちんと向き合って泣いてはいないかもしれません。……アルテのときも同じく。――もう、今さらですけれど」
その答に、ディルは更に情けない顔つきになる。やはり自分ばかりが泣いているように思えてしまったのだ。
……と、不意に頭に重みを感じた。ヴィーが手を伸ばし、ディルの髪を掻き混ぜるように撫でている。
「ディル。貴方が何をそんなに気にしているのか分からないけれど、たったひとりでグネモン卿に逆らうなんて真似、大抵のひとはできませんよ?」
「……でも、それはヴィーが……」
約束してくれていたから、と言おうとしたが、しゃくりあげながらではなかなか声にできない。しかしヴィーはディルの途切れた言葉の先を察してくれたらしい。頭上で苦笑する気配を感じた。
「貴方、私が何者か知らなかったでしょう?」
ディルは無言で肯く。
「そんな相手を信じて、グネモン卿直々の命を
ヴィーはディルの頭から手を離し、膝の上で掛布を握りしめている彼の手に重ねると、俯いたままの泣き顔を身を屈めて覗き込んだ。
「貴方には申し訳ないことだったけれど、卿
真っ向から目を合わせて言われ、ディルは再度鼻を啜りながら、ようやく口を開いた。
「侯爵様にも……クローブって騎士のひとにも……言われた。愚かだって」
ヴィーはいささか気まずそうに、ディルから目を逸らす。
「……まあ……言われるでしょうね……」
「おれもそう思う」
顔を上げないまま、ディルはヴィーが小声で漏らした言葉を素直に認めた。
彼が自身で同意したことが意外だったらしく、ヴィーは視線を戻す。
「では、どうして?」
「……約束、忘れないでって言われたから。ヴィーは……できないこと、できるって言わないでしょ?」
ヴィーは一旦口を開きかけ、しかし何かを言いあぐねたように噤む。その顔は半ば唖然としていて、ディルの発言が彼にとって予想外のものであったことが見てとれた。
「……アルテが……貴方と話をしたというの、少し……分かる気がします」
「……え?」
ヴィーの口から零れた独白に、ディルは小首を傾げた。しかしヴィーはどこか愁いを滲ませた不思議な微笑を浮かべたまま、そのことについてはもう触れず、再度ディルの頭をくしゃりと撫でる。
「――もう、寝ましょう。明日起きられるようなら食事を摂って、少しのんびりして心身を休めてください。残念だけど、この屋敷の敷地から出てはいけません。グネモン卿は私の傍にいる貴方のことは狙わないでしょうけれど、私から離れてしまえば口封じに消そうとする可能性があります」
「……消す……」
ディルはぼんやりと呟く。ヴィーの穏やかな口調がそうさせたのか、いつしか涙は止まっていた。
「グネモン邸で貴方は多少なりともあの家のことを見聞きしたはずです。あるいは、何かを言われるなど」
「うん。……おれを、エフェドラに送って、草にするって」
聞くなりヴィーは、ディルの座る寝床に額を
唐突な仕草にディルが身を固くしたまま見つめていると、彼はやがて、しばし詰めていたらしい息を大きく吐き出す。
「……ほんとうに……貴方を正面から迎えに行ってよかった。もし私の名を出さず、裏からこっそり助け出したりなどしたら、グネモン卿は間違いなく貴方に刺客を差し向けたことでしょう」
ディルは目を瞠り、息を呑む。
ヴィーは身を起こすと、真剣な表情でディルに向き合った。
「その話、無闇にひとに話さないでくださいね。――というより、私以外の人間には決して言ってはいけません」
思わずディルは背筋を伸ばす。緊張の面持ちでヴィーの瞳を見返した。
「きちんと理由を伝えておいたほうがいいですね。貴方が今私に話してくれた内容は、侯爵家にとっては
「あ……」
ディルは思わず声をあげた。心当たりがあったのだ。
――だがそれを蹴るというのであれば、お前はただの知りすぎた子供よ。早々に始末し、切り刻んだその身を山野にでもばら撒いてくれよう――。
グネモン卿の科白を鮮明に思い出し、彼は蒼白になる。
「……どうしよう……侯爵様にも言われた……。知りすぎた子供は、切り刻んで捨てるって……」
ヴィーはため息をつく。
「子供相手に悪趣味な。……まあ、本気でそうするつもりだったのでしょうけれどね」
あっさりと肯定されてしまったディルは涙目になった。
そんな彼にヴィーはふっと表情を緩め、安心させるように彼の頭頂を軽く叩く。
「大丈夫です。私が正式に身柄を保護した以上、そのようなことにはなりません。グネモン卿はいまさら貴方を消そうとはしないでしょう」
「どうして?」
「相手が私だからです。カーラントがエフェドラの草を使い始めたという話は確かに機密ですが、ある程度の諜報力を持つ貴族なら把握していることですし、それをグネモン卿も認識しています。ですから私に話が漏れたとて、さして大勢に影響はありません。あのご老体は私が貴方に口止めするであろうことも予測しているでしょうからね」
ディルは目を
「……口止め……って、さっき誰にも言っちゃいけないってヴィーが言ったことだよね? ヴィーと侯爵様は敵同士なのに、どうして侯爵様にそんなことが分かるの?」
なぜ敵であるヴィーがカーラントの秘密を言いふらさないよう指示すると、グネモン卿に予測できるのか。
ディルにはそこがよく分からない。
「それはね、私に侯爵家とことを構えるつもりがないからです。この国にとって、カーラントの存在は大きい。迂闊に手を出せばカンファーという国自体が揺れます。そして私がそれを望んでいないことを、グネモン卿はよく知っているのです。分かっていて昼間、私を挑発しましたからね。あれ、どう見ても貴方を私に取られた腹いせですよ」
「ええ……っ!?」
自分が原因でヴィーがあんなにも腹を立てることになったと聞き、ディルは顔を強張らせる。
「貴方が責任を感じることではないですからね。――まあ、そのようなわけで、グネモン卿としてもわざわざ私の領域を侵してまで貴方を消すことに益は無いのです。逆に言うと、貴方を救出し、庇護したのが私以外の人間だった場合、もろともに消されていたでしょう」
「そんな……」
「仕方がありません。一番厄介なのは、ことの重大さも分からない相手に情報が漏れ、中途半端に引っ掻き回されることですから」
ディルは知らず、自分の両手を握りしめた。これがヴィーでなかったら。ヴィーがソーン伯でなかったら……そんな綱渡りのような運を自分は掴んだのか。その強運を喜ぶより先に恐ろしさを感じてしまう。
「――とにかく。貴方は当面、屋敷の中で過ごすか、外に出るときは私の傍を離れてはいけません。せっかく故郷に戻れたというのに窮屈でしょうけれど、殺されてしまっては元も子もありませんからね」
「うん」
神妙な面持ちでディルは頷く。何であれ、今しばしヴィーの近くにいられるというのであれば、それだけでディルにとっては願ってもないことだ。
「……その、ヴィー。昼間、『仕返ししてやる』って言ってたけど……あれ冗談だよね?」
侯爵家と争うつもりが無いというのがヴィーの本音であるなら、あの言葉を実践したりはしないはずである。できればもう、ヴィーに危ない目に遭ってほしくないディルは、そんな期待を込めて尋ねた。
しかし、予想に反してヴィーは平然と言う。
「仕返しはしますよ。表立ってグネモン卿と対立するつもりはありませんが、この私を陥れようという
「何かするの……!?」
ディルの声は悲鳴に近かった。
「家の名を背負っている以上、侮りを受けたまま引き下がることは許されません。それに、私がことを荒立てたくないということに付け入って、好き放題されては
その言葉にディルはこの世の終わりのような顔になるが、対照的にヴィーは花が綻ぶがごとく典雅な笑みを見せる。
「人死にを出すつもりはありませんから、安心なさい。嫌がらせをするだけですよ」
「嫌がらせ……」
「地味なほど効くそうです」
「地味なの?」
「さて……」
ヴィーは肩を竦めた。
「ほんとうはあの老体に拳を一発見舞ってそれで手打ちにできれば、私としてはいちばん簡単にすっきりするのですけどねぇ。さすがにあの側近の騎士クローブがさせてくれるわけもないですし、それでグネモン卿が懲りるとも思えないし、面倒なことです」
「ヴィーってほんとうに貴族なの……?」
貴族について論じられるほど身近に見てきたつもりもないが、それにしても彼の発言内容はおよそ高貴さの欠片もなく、ディルは首を傾げてしまう。
「そこを疑われたのは初めてですね」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「貴方が貴族にどのような印象を抱いているのか分かりませんが、そもそも王侯というのは勢力争いで領土を勝ち取った武人とその末裔ですよ? 腕っ節や武力がものを言う世界での勝者を指しているわけです。そう考えれば私が相手を殴りたいと思ってもなんら不思議ではないでしょう?」
「そう、なの……かな……」
そんな何百年も昔の理屈を持ち出して自身の思考の妥当性を主張するヴィーが、そもそも変わっているのではないだろうか。そう感じてしまってディルはいまいち納得できない。
「まあ、屁理屈を捏ねていても始まりません。その件もあって明日私は王宮に行くので、その間はここで休んでらっしゃい」
「おれ、働くよ。……だって、捕まってる間も何もしてなかったんだもん」
もう、することの無い時間を過ごすのは苦痛でしかない。
ディルの言葉に、ヴィーは少し思案する素振りを見せ、それから頷いた。
「……分かりました。家令に話しておきます」
ヴィーは立ち上がり、ディルの両肩を支えながらその身体を寝床にそっと横たえる。
「さあ、もう
ディルは掛布を引き上げて被りながら頷く。そして、肝心の問題が解決していないことに気付いた。
「そうだ、ヴィー……」
「なんです?」
「『旦那様』って呼ぶのでいいのかな……? 他のひとがいるときとか」
途端に、ヴィーは捨てられた犬のような表情でうち
「……せめて……名前で呼んでください……」
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