第23章 追憶 ―― 好敵手

 何年身を置いても、決して居心地の良い場所とはなり得ない。

 自分が目にするどの顔にも、媚びへつらいか侮蔑、あるいはそれらがない交ぜのまま貼りついている。他に浮かべる表情も抱く感情もないものだろうか。まったく個性に欠けるつまらぬ人種の集まりだ――。

 第三代グネモン侯ヘムロック・カーラントが抱く宮廷への印象は、そのようなものであった。

 ただでさえ新興のカーラントを疎み、隆盛を妬む者は多い。更にはその傍系の出であり、先代グネモン侯の女子継承人を妻としたことで現在の地位を得た彼の場合、向けられる宮廷貴族からの視線は、より一層侮りに満ちたものであった。

 カーラントは身内贔屓――とよく言われるものの、これではそうならざるを得ないではないか、とつくづく彼は思う。このような連中に囲まれながら、一門以外の相手にどのような価値や親愛の情を見出せと言うのだ? 土台無理な話だ。

 必要な用のみを済ませ、ヘムロックは貴族たちのひしめく広間を早々に辞す。

 礼装の長衣の裾をさばき、大股に歩を進める。高位貴族のみが纏う、床に届く丈の紫紺のマントが微風を孕んで後ろに流れた。広間の喧噪はあっという間に遠くなる。

 口さがない者たちは下賤の血筋だの薄汚れた策謀家だのと、ひとつ覚えのような陰口を叩くが、それはもはや、彼の立ち居振舞いに卑屈めいた気配を欠片かけらも見出せぬためのやっかみに他ならないだろう。

 護衛の騎士たちを従え確固とした足取りで王宮の回廊をゆく姿は、飄然ひょうぜんとしていながら、誰の目にもその権勢を疑わせない威風を焼きつける。

 出身がどうであれ、己の才覚で既に一門を掌握した彼は、名実共に、国内二大勢力の一翼となりつつあるカーラントの宗主であった。自身に流れる血の古さ以外、誇れるものを持たぬ輩がいくら見下そうとて、その事実は誰にも否定し得るものではない。

 彼は王宮を辞すべく、いくつもの部屋を通り過ぎ、各所で居合わせた者たちの黙礼を受けつつ進んでいく。

「ヘムロック殿」

 その背に、誰かが呼び掛けた。

 淑やかな響きの、よく通る女性の声。

 彼は歩を止め、ゆっくりと声の主の方を振り向いた。

 亜麻色の髪を結い上げた女性が、古参の女官をひとり伴い、人気ひとけの無い部屋の片隅に佇んでいる。

 小作りな顔に、首筋から肩、そして腕にかけてのほっそりとした線。総じて華奢な印象だが、その腹の膨らみで、身重であることがすぐに見て取れる。

 随行の騎士たちはその姿を目にするなり、即座にヘムロックの背後に控え、彼女に礼をとった。

「これは妃殿下」

 呼ばれた時点で相手が誰かはとうに分かっていたが、ヘムロックは少々芝居がかった口調で応えつつ、うやうやしく一礼する。

 王妃カーリン。ソーン伯爵家出身のリリーの姫だ。

 姉はソーンの継承権を携えてエレカンペインの王弟ラヴィッジ伯に嫁ぎ、代わってリリーの宗主となった傍流のフレーズ伯は未だその地位を確立できておらず、ゆえにリリー一門の庇護者としての役割も担う女性である。

 夫である現王との間には既に王太子ジンセング、続いて王女ロニセラを設けており、現在は三人目の子を宿していた。

 彼女は身重であることなどまるで感じさせない軽やかな足取りで、こちらに歩み寄る。

 二十歳を越えてなお、あどけなさを感じさせる愛らしい顔立ちには、親しみに満ちた笑みを浮かべていた。

 一方ヘムロックは愛想笑いのひとつも浮かべぬまま、彼女の手を取る。

「ご機嫌麗しゅう。ご健勝の様子とお見受けし、安堵いたしました」

 簡潔な挨拶と共に、儀礼的にその白い手に口付ける。

 王妃は彼が顔を上げるのを待って、口を開いた。

「貴方のご機嫌はいかがかしら?」

「ピレスラムの山腹よりは傾いておりますな」

「あら、まあ……」

 いささか困ったような顔つきでカーリン妃は頬に手を当てる。そんな彼女にヘムロックは若干、腹に力を込めて問うた。

「ご自身が何をなさったかご承知で?」

「勿論ですわ。ですからこうしてお声掛けいたしましたの」

「ほう、殊勝なことですな」

 ヘムロックは眉を上げ、小柄な王妃を冷たく見下ろす。しかし王妃はあまり堪えていない様子であっさりと返した。

「そうでもしないとわたくし、貴方に暗殺されるのではないかと思って」

「それは飛躍のしすぎでは……と申し上げたいところですが」

「検討はなさったのね」

「したくもなります」

 ヘムロックがいったい彼女の何にこうまで腹を立てているかと言うと、つい先達せんだって、彼はこの王妃に謀略のひとつを潰されたのだ。それもかなり強引な手段で。

「――だって、姉から警告を受けたのですもの」

 カーリン妃の口調が妙に幼くなる。そんなときは決まって、その様子とは真逆の背景が控えていることを、そろそろヘムロックも理解していた。

「姉君……? ソーン伯夫人がいったい何と?」

「カレンデュラは未だカーラントを注視している、と。そんななかで貴方が『ピレスラムの鍵』を手に入れてご覧なさいな。また何がしかの圧力を招きかねませんわ」

 ヘムロックは押し黙った。

 言いたいことは山ほどあったが、しかし、ようやくなぜ彼女が手段を選ばず自分を妨害するに至ったのかを悟る。

 彼は腹の底の怒りを押し出すように、大きくため息をついた。

「……中央の方々は実に心配性であらせられるようですな。関所の城代職ひとつで何が起きると言うのか」

「そうは仰っても、貴方が欲するくらいには意義のあるものでしょう? ――仕方がありませんわ。エフェドラはまたひとつ国を飲み込んで、その版図が西に迫ってきたと聞きますもの。……それで、事情はお分かりいただけましたかしら?」

「貴女のやり口が気に入らないことに変わりはありませぬが」

「まあ……。小娘のわる足掻あがき、と捨て置いてはくださいませんの?」

 ヘムロックは呆れた目で彼女を見遣る。

「小娘……? ご自分がおいくつかご存知で?」

「貴方はいつもそういう目でわたくしをご覧になるのですもの」

 誤解だ、とヘムロックは言いそうになり、いやしかし、初めて彼女を目にしたときには確かにそんな印象で、気付けばそのまま意識は変わっていないかもしれない、と思い直す。

 まあ、どうでもよい。

「それは失礼を」

 あからさまに反省していない口調で言ってやると、カーリン妃は小首を傾げた。

「貴方ってどうして、わたくしにばかりそんなにふてぶてしくていらっしゃるのかしら」

「それは貴女が私に対して図々しいからでは?」

 今回の件もそうだ。

 『ピレスラムの鍵』とは王家直轄領である都市アキレアの城代職を指す。アキレアはピレスラム山脈の麓にあり、山脈を貫きニゲラへと通じる唯一の大陸間通商路の起点だった。

 ニゲラからの交易品はアキレアで税を支払わなければその先への移動も取引も認められておらず、アキレアの徴税権はカンファー国王の特権のひとつであった。ただ、実際の徴税を司る『ピレスラムの鍵』は代々リリーの貴族が務めており、アキレアは実質、リリーの支配下と言える。

 交易品は概して裕福な層を対象とした高級品であり、客が金に糸目を付けないのをよいことに、代々の『鍵』は王家に申告した税率の三倍の税を課して、長年私腹を肥やしてきた。

 ヘムロックはその事実に目を付け、納めた税額分を商品価格に転嫁しなければならない交易商も、元凶である『鍵』も固く口を閉ざして秘匿していたニゲラ側の価格相場を、自身の情報網を駆使して割り出した。

 それを材料に『鍵』を失脚させ、更にはリリーの王家直轄領の私物化を糾弾し、城代職を奪い取ることを目論んだのであるが……。

 よりによって、この王妃がその情報を草を使って盗み出し、王と一門に開示すると共にリリー内で『鍵』の首をすげ替えてしまったのである。

 無論、これは謀略であり権力闘争であり、表立って抗議する話ではない。が、あまりに……そう、図々しい。

 しかしカーリン妃は子供のように頬を膨らませ、憤然と反論した。

「そのくらいしないと貴方を止められないのですもの!」

「止めていただかなくて結構なのですが?」

「そのようなわけには参りませんわ。放っておいたらあっという間にリリーが貴方に食い荒らされるか、それを危惧したカレンデュラの更なる介入を許すかですもの」

「カレンデュラとて、そこまで公然と主権侵害はできますまい。そのようなことになればエルム中の国家が警戒します」

 すでにソーン伯の継承問題で宮廷に激震が走った後だ。

 カーラントの隆盛に押され、ソーン伯の地位を失ったリリーというと一見、こちらの勝利に見える。

 しかし、他国の王家にソーン伯の地位を委ねよとは、カンファーからすれば永続的な内政干渉を受け入れろと突き付けられたに等しい。

 これはカレンデュラは、エフェドラと繋がりが深いと言われるカーラントの台頭を、エルム防衛の観点から問題視しているという明確な意思表示であり、リリーのこちらに対する警戒心を煽られたヘムロックからすれば、逆風以外の何者でもなかった。

 もし、リリーの分家の誰かが彼女の姉を娶り、何事もなくソーン伯がリリーの宗家であり続ければ、リリーの宗主はあくまでそちらであり、侮れぬ才覚を隠し持っていたこの眼前の王妃が、彼らの庇護者としてヘムロックの前に立ちはだかることもなかっただろう。

「……それを逆手に取ってということですの? だとしても、そのようなことを続ければ、いずれは鉄槌が下されてしまいますわ」

「貴女にとってはその方が都合がよろしいでしょう」

 カーリン妃は静かにかぶりを振った。

「カーラントはこの国に必要な存在ですもの。勝手をされすぎるのも困るけれど、潰されても困りますわ。貴方がた一門のおかげでこの国の風通しが良くなったのは事実。国としての寿命はかなり延びたのではないかと思っておりますの」

「それが貴女のご一門リリーの寿命と同義ではありますまい」

 ヘムロックの指摘に、彼女はわずかに苦笑する。

「この国で、リリーが生き延びるかはリリーの問題ですわ。けれどこの国無くしてリリーは存在し得ませんし、わたくしが第一に考えるべきは、国の存続です。……こう見えてもわたくし、王妃ですのよ?」

 そんなことは百も承知だ、とヘムロックは内心で呟いた。

 だからやりにくいのだ。

 ただ敵対してくるだけなら、いくらでも封じようはある。だが、彼女は決して自分たちカーラントを排除しようとしない。

 こちらがいくらリリーから権益を剥ぎ取り、あるいは一門の誰かの弱体化を図ろうと、それによって国として益があるなら黙認するか、場合によっては裏から密かに協力してくることさえあった。

 つまりこの、一見して天真爛漫で実際の年齢より幼い印象の王妃は、その外見とは裏腹に、堂々と――と言ってもその対象はヘムロック個人に限られていたが――こちらを利用することもはばからない、非常にしたたかな現実主義者なのである。

 そして物事に対する視点が高いがゆえに、すぐにこちらの動きを察知してしまう。厄介極まりなかった。

「そのようなことは分かっております」

「ほんとうに分かってらっしゃるのかしら。――まあ、よろしいですわ。それで、貴方の邪魔をしたことがわたくしの本意ではないこと、ご理解いただけましたかしら?」

「……貴女の大義名分は承りました」

 あくまで素直に首を縦に振らない彼に、カーリン妃は聞かん気の強い子供でも見るような目つきになる。――ヘムロックのほうが、十年近く年長であったが。

「――お詫びと申し上げては何ですけれど……。姉が、エレカンペインの良質な毛皮を扱う商人を紹介してくれましたの。よろしければ、貴方にもお引き合わせしようかと思うのだけれど、いかがかしら?」

 ヘムロックは片眉を上げた。その真意を測るように、こちらを見上げてくる彼女の目をしばし覗き込む。

「今、貴方にアキレアをお渡しすることはできませんけれど、未来永劫という話ではありませんわ。それまでに交易そのものがすたれてしまっては元も子もないでしょう? ニゲラの方が文化程度が高いことは、わたくしも承知しておりますの。であれば、エルムでしか手に入れられない質の高い品を押さえておくことは、貴方にとっても重要ではありませんこと?」

 アキレアの近隣に領地を構え、交易商を多く抱えるヘムロックに、優先的にエレカンペインの珍重な毛皮を回そうとカーリン妃は提案してきたのだ。

 ヘムロックはしばし考えたのち、観念したように再度ため息をつくと、おもむろに彼女の手を取った。

「……これ以上の立ち話は貴女のさわりとなりましょう」

 そうして壁際にしつらえられた長椅子に彼女を座らせる。

 カーリン妃は人懐っこい笑みを向け、気遣いに礼を述べたのち、心底嬉しそうにこちらを見上げた。

「ああ、良かったわ。話を聞いてくださいますのね」

「個人的心情としてははなはだ不本意ながら」

 憮然として答えるヘムロックに、彼女は口許に手を当てて小さく吹き出す。

「恩着せがましく仰せでしたが、そちらのご一門はニゲラにろくな伝手つてをお持ちでないですからな」

 彼の言葉に、カーリン妃は悪びれる素振りもなくあっさりと認めた。

「ええ。貴方にお願いするのが一番効率がよろしいかと思いましたの。――どうせ、貴方だってわたくしを利用なさるのでしょう?」

「無論のこと。お互い様です」

「ふふ、そうですわね」

 平然と答えるこちらに、カーリン妃は視線を外して笑いに肩を震わせながら頷いた。

(……お互い様ではあるが)

 黙したまま、ヘムロックはしばし彼女の笑う顔を見つめる。

(最後に望みを叶えるのは、果たしてどちらか――)

 そんな疑問が、不意に彼の脳裏をよぎった。



 傍らで、衣擦れの音がする。

 ふと目を開けると、真昼の光の中に佇む少女の姿がそこにあった。

「……オリス」

 椅子に身を預けたまま転寝うたたねをしていたらしい。彼女の名を呼びつつ、上体を起こす。

「ごめんなさい、お祖父さま。起こしてしまいましたわね」

「いや――構わぬ。出掛けるのか?」

 少女は、自分とよく似た濃い色の髪を凝った形に結い、先日あつらえてやった染めの美しい長衣と絹帯に身を包んでいた。

 彼女は微笑みながら頷く。

「ええ、王宮へ。久方ぶりに伯母上へご挨拶に参ろうかと。先日お手紙をいただきましたの」

「そうか」

「何かお言伝ことづてはありますかしら? それを伺おうと思ってお部屋に参りましたの」

「ふむ……」

 孫娘の気遣いは有り難いが、王妃である娘とは、よほど彼女より多く顔を合わせていた。ことさらに頼む伝言など無い気もするが……と考えた末、ひとつ思いつく。

「そなたに――」

「『縁談に同意するよう説得せよ』というお話でしたらおけできませんわ」

 一言目で断られた。

「なにゆえそこまで厭がるかの?」

 首を傾げて問うと、彼女は憤然と両手を腰に当てて見下ろしてくる。この孫姫はいささか、貴婦人らしからぬ挙動を見せることが多い。なぜこうなったのか。

「お祖父さまこそ! どうしてああもつまらない殿方ばかり見つけていらっしゃるの? もはや才能と申し上げたほうがよろしいのかしら」

「……悪いが。儂はそなたの趣味のほうが理解できぬ。誰が好き好んで、心許ない男を大事な孫の婿に選ぶものか」

「お言葉ですけれど、伯母上を陛下に嫁がせられたお祖父さまには、何を仰せられても説得力がありませんわ」

「これ、不敬ぞ」

 一応たしなめるが、彼女の口は勢いを失わない。

「優柔不断、意志薄弱、利に疎い、傀儡としては優秀、見た目だけ――陛下に関する評はほとんどお祖父さまから伺いましてよ?」

「……そうであったか?」

 とぼけてみせたが、心当たりは無くもない。

 しかし、誰が予想し得ただろうか。孫が、そんな現王への自分のけなしを聞いて、密かに心ときめかせていたなどとは。

「儂とて手放しであれの輿入れを喜んだわけではないぞ? 一門のためとはいえ、間違いなく苦労させることが目に見えておったゆえ、忸怩じくじたる想いであったのだ。そなたまで敢えて同じ道を行く必要はあるまい」

 こんな言葉で今更納得するはずもないと分かりきっているのだが、不思議と身内相手にはありきたりな理屈しか思い浮かばない。

 案の定、彼女は不満げにため息をついた。

「……もう、よろしいですわ。わたくし、伯母上にお願いすることにいたします」

「……何をだ?」

「わたくしを必要としてくださりそうな殿方を探していただこうかと。もちろん、一族のためにわたくしが役に立てるという条件付きにいたしますから、お祖父さまもご安心なさって」

「待て」

 いささか慌てて制止の言葉を口にするが、孫はにっこり笑って優雅に一礼してみせた。その気になれば姫らしく振舞えるものだ――などと心の片隅で感心している場合ではない。

「他にご伝言もないようですし、そろそろ参りますわね。いただいたこちらの衣装、いかがかしら?」

 彼女は愛嬌のある仕草で首を傾げ、長衣の裾を広げてみせる。明らかに都合の悪い話題を打ち切ろうとしていたが、それよりこちらのほうが重要な事案であることは確かだった。彼女もそれを承知で話を向けたのだろうが。

「儂の見立てに狂いはなかったようだ。そなたによう似合っておる。かように鮮やかに染まるなら、この国の羊毛も捨てたものではないの」

 頷きながら返す。世辞ではなかった。

「その絹はリンデンに今年一番に届いた品ぞ。伯母上によう見せてくるとよい」

「リンデン――ああ、どうりでまだ春が来たばかりですのに、もうあちらニゲラから荷が届いたのですね」

「そうだ。アキレアはあと半月は閑散としておろう」

 そう言うと彼女はいささか呆れ顔になる。

「お祖父さまったら、楽しそうですこと」

「そうか? ……まあ、リリーを出し抜くのは気分の悪いものではないのう」

 彼女はわずかに苦笑を浮かべる。

「お祖父さまはほんとうに……リリーがお嫌いですのね」

 嫌い。

 彼女の端的な表現に、あらためて考えてみる。だが、心の奥底を探るまでもなかった。

「……そうだな。儂はリリーは好かぬ。あまりに愚か者が多すぎる」

 図らずも本心を吐露することになった自分は、いったいどのような顔をしていたのか。

 こちらを見つめる孫娘は、妙に大人びた表情をしていた。



 彼女を喪ったリリーは、ヘムロックにとって本当につまらない存在になった。

 こちらの真意を読み解こうという気概のある者など皆無で、しばらくはヘムロックの謀略が阻まれることもなく、あまりに物事がすんなりと進んでしまうので、彼はかえって手加減すらする必要に迫られた。

 派手に動きすぎると、それこそニゲラの――特にエフェドラの動向に目を光らせているカレンデュラの介入を招きかねないからだ。

 ヘムロックの一番の障害であり、そのくせ彼の一番の理解者とも言えた王妃カーリンは、第三子となる第二王子を産み落としたその産褥のうちに、短い生を閉じた。

 結局、あのときが彼女とまみえた最後の日になった。

 よくあることだ。

 人の命など、実に簡単に消える。ただでさえ、何度目であろうと子を産み落とす行為は命懸けであり、そのことに疑いを持つ者などいない。

 王都から離れた自身の領地で報せを受けたヘムロックは、これはリリーにとって大きな損失だろう、と淡々と思うのみだった。

 だがその後、あのときカーリン妃が連れていた腹心の女官から密かに寄せられた書簡で、どうやら彼女が命を狙われていたらしいと知ったときは、胸のむかつきがしばらく治まらなかった。

 よりによって、彼女を害したかもしれない相手はリリー家の者だったのである。彼女によって、その地位を追われた前任の『ピレスラムの鍵』だ。

 果たして、その人物が彼女の死をよいことに『鍵』に返り咲いたと聞いたときは、ヘムロックは心底リリーを軽蔑した。

 馬鹿馬鹿しい。あの一族は、自らの首を絞め、その余命を縮めていることに誰も気付かないのか。

 そして死の間際の彼女の意向によって、この書簡が自分に対して発せられたという事実に、王妃として、そして宗家最後の娘として一族を守り続けた彼女が、そのリリーの中でどれほど孤独だったかを思い知らされた。

 肥え太り、腐りきった一族。誰によって生かされているかも意識できない哀れで醜悪な連中。

 別に、仇を討ってやる義理などない。彼女は政敵だった。彼女にとっての自分もそうだったはずだ。

 だがどうにも腹の虫が治まらず、あらゆる手を回してその男を失脚させた。何もかもを失い、路傍を彷徨うまでに落ちぶれた相手をヘムロックは密かに捕らえさせ、居城の奥深くに抱える拷問吏に存分に好きにするがよいと伝えて身柄を引き渡した。

 あらゆる苦痛にもてあそばれ、襤褸ぼろ切れのような身体になって命を落とすその瞬間まで、相手は自分がなぜこんな目に遭っているのか分からなかったことだろう。ヘムロックも教えてやる気などなかった。

 『ピレスラムの鍵』はそのまま奪わず、リリーの許に留め置いた。

 一方で、長い年月をかけ、ニゲラとの交易量を徐々に増やしていくことで、彼はついにアキレアとは別の税関を開き、支配下に置いた。それがより南方に位置するリンデンだ。

 アキレアを奪い損ね、最後にカーリン妃と言葉を交わしたときには、既にヘムロックの中に生まれていた構想だったが、果たして彼女は、そこまで見抜いていただろうか――。



「怖いお顔をなさっていましてよ、お祖父さま」

 つい、追憶に意識を沈ませてしまっていたが、少女に指摘されて顔を上げる。

「おお、いかぬな。もう行くか?」

「ええ」

「ソーン卿が王都に来ておる。よう気を付けよ。クローブを連れていくがよい」

 そう言うと、孫はなぜか呆れ顔になった。

「お祖父さま、ソーン卿に何かなさいましたの?」

「さて――」

「もう! リディが何やら怯えてましてよ。余計な喧嘩をお売りになりましたのね」

「どうであったかの? 元よりさして仲良うなどない相手ゆえ、今さら喧嘩と言われてもな」

 それこそ潰し合いをしている相手である。

 あの超然とした若者の姿を思い浮かべたとき、眼前の孫が怪訝な視線を寄越した。

「……なんだか、これまでになく楽しそうでいらっしゃいますこと。お祖父さまにそのようなお顔をさせるなんて、ソーン卿って、どのような方ですの?」

 思いも寄らぬことを言われ、知らず天井を見上げた。

 どのような? 答えようとして、何かが心の中で引っ掛かる。だが大したことでもない気がして、ひとまずそれは思考の脇に置いた。

「……底の知れぬ若者よ。人畜無害な聖人面で、そのくせあの陛下を脅してフレーズ卿からリリーの宗主の座を奪いよった」

 聞くなり彼女は顔を輝かせ、両手を胸の前で握りしめる。

「まあ! そのお話、もしかして伯母上がお祖父さまに抗議にいらしたときのことかしら? これはぜひ、伯母上に伺わなくては。楽しみがひとつ増えましたわ。それではお祖父さま、御前失礼いたします。クローブをお借りしますわね」

 孫は意気揚々と外で控えていた自分付きの侍女を呼び寄せると、弾む足取りで出ていった。

 急に静謐が訪れた室内で、先ほどソーン卿について何が心に引っ掛かったのかを再考する。

 ……目的のためなら、手段も外聞も気に掛けぬあの強引さ。

 誰かに似ていた。



(……そうか)

 ヘムロックはようやく納得する。

 カーリン妃の実の息子は、ほんとうに彼女の血を引いているのかと首を傾げたくなるくらい――というより実際何度も首を傾げたほどの惰弱者だが、彼女に似通った性質は、どうやらその姉の血筋に受け継がれていたらしい。

 彼女のいなくなった宮廷で、次に辛うじてリリーを支えたのは、ソーン伯から宗主を引き継いで二代目の先代フレーズ伯だった。だがヘムロックの目には、有能ではあるが堅実に過ぎ、面白味に欠ける男としか映らなかった。

 持てる力を尽くして渡り合うというほどでもないくせに、中途半端にこちらの動向を妨げてくる。それがなんとも目障りで、相手にするのは時間の無駄――とばかりに消してやった。

 残るはもはや、見識の偏った愚かな次代のみ……と思っていたところに、あのソーン伯の登場である。

 リリーをあと一歩というところまで追い詰めたはずが、一晩ですべてをひっくり返してのけた若者。

 若さゆえか、あるいは制約の多い彼個人の背景ゆえか、その行動は若干場当たり的ではある。だが、事態を俯瞰する目を持ち、核心を外さない。その特質だけで十分厄介だ。

 ご丁寧に、自陣営であるはずのリリーに牙を剥かれているところまでそっくりではないか。

「ふん……ほんとうに今さらよ」

 ヘムロックはつまらなそうに独り言ちた。

 彼女があえなくかかったリリーの毒牙。

 それをあの若造はどう制するのか。

(お手並み拝見とゆこうか)

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