第22章 血脈

「リエール卿、見てください。この子熟睡してるくせに、どうしてこんなに手指が突っ張ってるんでしょうね? まるで身体の力を抜く途中で力尽きてしまったみたいだ。可愛いなぁ……」

 子供のように好奇心に目を輝かせながら、ヴィーはしげしげとディルの寝姿を観察する。

 ディルはヴィーの私室の片隅に急遽しつらえられた寝床に寝かされていた。

 昏倒して運び込まれた直後はしばらく苦しげな様子で睡眠と覚醒を繰り返していたが、熱が上がりきったのか夕刻過ぎには呼吸が落ち着き、夜も更けた今は規則的な寝息を立てて静かに眠り続けている。

 ヴィーはディルが眠る寝床の傍らに、簡素な腰掛けを置いて陣取っていた。少し離れた位置で、椅子に身を預け酒杯を傾けていたリエール卿は、ディルの様子を覗こうという素振りもなく肩を竦める。

「ガキなんぞそんなものだろ」

「……貴方って、なぜそう、見飽きてるとでも言わんばかりの反応なんです?」

「甥も姪も山ほどいるんでな。今更だ」

 相手の言葉にヴィーは小首を傾げた。

「……ラングワートって、貴方に子守でもさせてるんですか?」

 大所帯の平民の家でもあるまいに、と不思議そうな顔のヴィーに、リエール卿は憮然として言う。

「父の入れ知恵か知らんが、顔を見れば誰も彼もやたらと私に子供の相手をさせたがる」

「……ああ」

 ヴィーは納得したように頷いた。

「貴方がいつまでも落ち着かないからですか。……本当に再婚する気は無いのですか?」

 伝え聞くところによると、彼は妻とは早くに死別したらしいが、貴族社会の常を思えばとうに後添えを迎えていてもおかしくない。しかしどう見てもそんな気配がないのだ。

「この仕事をしている間はな。独り身のほうが動きやすい」

「貴方って律儀ですよね」

 妻に義理立てしようものなら成り立たないであろう彼の『仕事』の数々を思い浮かべ、ヴィーは苦笑する。

「でもそれでは、下手をすると先に老人になってしまいますよ?」

「構わんさ。四男に身を固めろとうるさい身内が少しおかしいだけだ」

「そうは言っても貴方の兄上、あとおひとりしか残ってませんよね?」

「その兄に息子が三人いる。次兄の忘れ形見も二人。十分だ」

「……貴方の家が羨ましいな」

 ぽつりとヴィーは正直な感想を漏らす。

「うちじゃ、兄弟に我が子を近寄らせるなんて有り得ませんよ。父は当然のこと、私がソレルに会うのだってひと苦労だった」

 ディルの寝顔を見つめながら語るヴィーを見遣り、リエール卿はいささか険しい顔つきになった。

「……ヴィー。言いたくはないが、愛情を振り向ける相手が欲しいなら犬でも飼え」

 ヴィーは口を引き結んで彼を振り返る。その顔に向かって、リエール卿は続けた。

「人間の子供を軽々しくお前の人生に巻き込むな。そのガキをいったいどうする気だ? それともついに僧院で稚児趣味の味でも覚えたか」

「……殴りますよ。本気で」

「お前の拳が私に届くものか」

「一生そうやって油断しててください」

「ふん」

 一通り軽口の応酬が済むと、ふたりの間に沈黙が流れる。

「……結論は、まだ出ていません」

 ヴィーは視線をリエール卿からディルに戻して答えた。

「元々はエレカンペインに連れていって、その先でどうにか身を立てるたすけができれば……というくらいに考えていたんです。私の所領のどれかの城で、書記見習いとして置いてあげてもいい。無理に私の側に置こうとすれば、かえってこの子の負担になりますから」

「……だが気が変わった、と言うのか?」

 ヴィーは考え込むように、かすかに眉根を寄せる。

「そうですねぇ……と言うのもですよ? 偶然が過ぎるんです。たまたま捕まった野盗の許にこの子がいた。偽造された私の書簡を持って。しかも私とディルはそれが初対面ではなかった……アルテの命日に、知らずに会っていたんです」

「……姫が引き会わせたと?」

 リエール卿の言葉にヴィーは振り返り、複雑そうに笑ってみせた。

「はっきり言って私は、そういうことに対して懐疑的な人間ですから、その一言で済ませてしまうのは抵抗があるのですが……」

「お前とて、世の事象の全てを見通せるわけでも説明をつけられるわけでもあるまい。もし可能だと思っているなら傲慢だ」

 ヴィーは感心したような顔つきになる。

「貴方って、時折賢者のようなもの言いをしますよね」

 相手はつまらなそうに片眉を上げた。

 ヴィーは再び視線を落としてディルに手を伸ばし、傷に触れないよう慎重な手つきで、額に貼りついた前髪をそっとく。

「……貴方の言うことは……分かります。それに、この子が生前のアルテと直接言葉を交わしていたとあっては……」

 あの森の小屋の中、その邂逅がいかに驚くべきものであったのか。あのときの自分は知りようもなかった。

「ですから私も悩むのです。本来であれば書記として歩ませるのが正解でしょう。恐らくそこには何の問題もないはず。けれど……ほんとうに手放してよいのか、この子の背景が明らかになるにつれ、迷いが大きくなります。それに……」

 ヴィーの言葉が途切れた。説明が難しい、というような顔つきで口籠る。

 リエール卿は酒杯を傍らの卓子に置き、そこに頬杖をついた。無言でヴィーにその先を促す。

「ディルは……『何か』を持っているような気がするのです。グネモン卿も、同じくこの子の中に見いだすものがあったのでしょう。そうでなければ、平穏な暮らししか知らない子供にあの御仁が興味を示すはずがありません」

「確かに……歳の割には聡いように見えるが、それだけであの老人がわざわざ動くとも思えん。姫の意志が介在したかもしれんお前はともかく、グネモン卿は何を考えてこのガキに目を付けたのか。よほど突出した才でもあるのか?」

 リエール卿の問いに、ヴィーは目だけを動かして天井を見上げ、考え込む。

「んん……私が見る限り、物凄く何かに秀でている、というような目立った点があるわけではないですね。でもかえってそれが……重要なのかもしれません。この子の見るべき点は、恐らく何かの才や特技といった分かりやすいものではなくて、性質のほうなんです」

「性質?」

「とてもしっかりした自己があって、常に自分の頭で物事を考えている。思考が先に立つせいか、過酷な状況下でも感情が行き過ぎることがないんです。それって、目立たないけれどいざという場面ではとても大事な特質だと思うんですよね。その証拠に、訳も分からずグネモン侯の狐に襲われ、殺されかけたというのに自力で逃げおおせたのですから」

「あの老人が着目したのもそこか」

「恐らくは……。その上この子はたったひとりで、私との約束だけを頼りにグネモン卿と対峙したのです。私が何者かも知らなかったのに」

 未だ何があったかは詳しく聞いていないが、貴族屋敷に仕えていた身であれだけ聡明な彼が、高位貴族の恐ろしさを理解していないわけがない。それでもなおグネモン卿に正面から立ち向かうなど、並大抵のことではなかったはずだ。

「とんでもない胆力だと思いませんか?」

 しかしリエール卿は鼻を鳴らした。

「とんでもない馬鹿にしか聞こえん」

「また貴方は!」

 口の悪い相手にヴィーは憤慨したが、卿は動じない。

「違いあるまい? お前の懸念が分かったぞ。元からの気質なのか、孤児となってから開花したのか知らんが、その子供の意識構造は一介の平民の域に当てまらない。安易に元来の境遇に戻せば不適合を起こしかねん。しかもそれが起きるとしたら、十中八九お前の目の届かぬところでだ。――手放すか迷っているというのはそういうことだろう?」

 的確に自分の気掛かりを言い当てられ、ヴィーはリエール卿の顔をまじまじと見つめた。

「……かないませんね、貴方には。大方その通りです」

 肯定したのち、ヴィーはディルを見下ろす。

「私自身は、この子のことだから書記見習いに戻してもうまくやっていけるとは思っています。でも……少し、それでは勿体無い気がするのですよね」

「だが生まれをくつがえすのは才気だけで成せることではないぞ。お前という後ろ盾があったとしても、自身に相当強い意志が必要だ。このガキはそれだけの覚悟が決められるのか」

「それは……やはり、この子自身に選んでもらうしかありません。覚悟もそうですが、そもそも、ディルが自分の視界に私の姿が入る場所で生きたいと望むかどうか……」

 ヴィーは心なしか寂しげな表情で、呟くように言った。

「この子がリリー家を追い出されることになったきっかけは、間違いなく私なのですから」



 リエール卿は悄然と語るヴィーにため息をついた。

「……お前の花押かおうが偽造されたというのは本当なのか」

 ヴィーはリエール卿の方を見ずに肯く。

「ええ」

「王族とはいえお前は蟄居を命じられて長い。そんなものが必要な書簡など出す機会があったように思えんが……」

 相手の疑問にヴィーは一度口を噤み、それから憚るような口調で答えた。

「……ソレルへの手紙」

 リエール卿はますます怪訝な表情になる。

「殿下に正式書簡を?」

 ヴィーは首を振った。

「違うんです。いつも私が書いているもの……」

「私信にメリアなんぞ付けていたのか!?」

 非難めいたリエール卿の口調に、ヴィーはがっくりと項垂れる。

「……だって、聞くところによるとあのとき以来、彼は一度も私の手紙を開封していないんです。だとしたらもう、筆跡だって分からないでしょう。それで……万が一、ソレルが気が変わって読んだとき、本当に私が書いたものだと信じてもらえるように……」

 力無く弁明するヴィーに、リエール卿は何も言えなくなった。しばし凝然と彼を見つめていたが、ふと眉根を寄せて尋ねる。

「……ひとつ気になったんだが。お前にとっては大事な従弟かもしれんが、殿下は端的に言えばお前の敵側の立場とも言える。そんな相手に頻繁に、いったい何を書いていたんだ」

 ヴィーは気まずそうに答えた。

「……もちろん、当たり障りのないことしか書けませんよ。僧院の林檎りんごの木に花が咲いた、とか……」

「牧歌的すぎて腹が立つ」

「……言われると思った……」

 ヴィーの頭の位置が肩よりも下がる。

 しかしリエール卿は憐憫の情など欠片も見せずに畳みかけた。

「付き合わされている身としては言いたくもなるわ。その著しく能天気な文面を睨みながら密約だの軍事介入だのと、物々しい内容の書簡を偽造させられた憐れな書記がいるということか」

「……そうなのでしょうね……」

 ヴィーは頭を抱える。

「まったく……馬鹿馬鹿しい」

 呆れ果てた顔で卿は吐き捨てた。

「――しかしリリーも懲りない。一度滅んでみたほうがいいんじゃないのか、あの一門は」

「……そんなの」

 ヴィーは俯いたまま弱々しく言う。

「アルテが死んだときに、百回は本気で考えましたよ」

「物騒だな」

 他人事のような感想に、ヴィーはむっとして顔を上げた。

「今貴方が言ったんでしょう?」

「私が言えばただの冗談だが、お前の場合は洒落にならん」

「それはどうだか」

 ヴィーは肩を竦める。

「――まあ、リリーを滅ぼしてしまうとですね、結局私が面倒なことにしかならなそうなので」

「面倒?」

「リリーという押さえが無くなれば、当然カンファー宮廷はカーラントの一人勝ちです。しかしあの一門の台頭をカレンデュラが見過ごすとは思えません。彼らはカンファーの人間が考える以上にエフェドラの動きに神経を尖らせていますから。……となれば、手頃な駒として私が駆り出されるに決まっています」

 リエール卿は半眼になり、胡乱うろんげにヴィーを見た。

「……今と何か違うのか」

「違いますよ! 今のところ私はリリーの宗主をやっているだけで、国政までは口出ししていませんから」

「いっそのこと今から牛耳ってしまえ」

「何を言ってるんですか……」

 ヴィーは呆れた目で相手を見遣った。しかしリエール卿は構わず続ける。

「お前がどんなに慎ましく振舞ったところで反感は消えん。散々犠牲を払い、カレンデュラからも庇ってやったところで、それを恩に感じるどころかかえって陥れようとしてくるような連中だぞ? お前が身を挺してまで守ってやる価値が本当にあると思うのか」

 その言葉にヴィーはつと口を噤み、表情を消した。そして凪いだ目であらためてリエール卿の顔を見据える。

「……あおっても無駄ですよ?」

「ふん?」

「貴方のその言葉の向こうに何があるかはまあ、いちいち詮索しませんが……。私はアルテの死を無駄にはしたくないので」

 そこまで言って、ヴィーは穏やかに微笑んだ。

「――ですから、私はリリーを滅ぼしはしません。……ローゼルのことも、何をしでかそうと生かしておきますよ。少なくとも、彼が後継を残すまではね」

 表情とは裏腹の不穏な物言いに、リエール卿は彼の内心を探るような顔つきで押し黙る。

 それを見たヴィーは一転して困ったような笑みを浮かべ、天井を振り仰いだ。

「あーあ。私って、間違いなく伯父上と血が繋がってますね。……これ、完全に同じ思考ですよ。厭になってしまうなぁ」

 そう言う彼の姿は、先程見せたある種の凄絶さなど嘘のように長閑のどかだった。

 しかし暢気な口調の裏に隠された言い知れぬ暗然とした気配に、リエール卿は、このどちらかと言うと陽気な若者にも間違いなく、大国エレカンペインを五百年にわたって支配し続ける一族の血が流れているのだということを痛感した。



 暗い。怖い。

 ……誰か助けて。

 でも、誰かに会うのも怖い。夜更けにこんなところで出くわす相手など、ろくでもない人間に決まっている。

(こんなことになるならおれも……あのとき父さんと一緒に死んじゃえばよかった)

 そうしたら今頃、父と共に天の門をくぐり、母と再会できていたに違いないのに。

(そのほうがよっぽどましだったよ……!)

 心の中で泣き叫ぶ。

 現実には、ディルの小さな身体は夜闇の中をがむしゃらにもがいていた。すぐそこに迫る死から逃れようと、ひたすら突き進む。――どこに向かっているのかも分からぬまま。

 はるか後方から数人の追手の気配を感じた。明確に自分をとらえて追いかけてきているのか、あるいは偶然こちらの方角を探しに来ているのか、それを振り返って確かめる余裕などない。

 死んでしまえばよかったと思いつつ、その死が怖くて逃げ惑う。

(あいつらに捕まるのはやだ……!)

 だらしない笑みを浮かべてこちらを見下ろす下卑げびた目。あんな目をする人間がいるなんて知らなかった。どうして自分がそんな目で見られなければならないのかも分からなかった。

 べっとりと頰に何かが貼りついている。乾きつつあるあの男の血だ。

 その臭いがこれまで嗅いだことのない濃密さで鼻に纏わりつく。それゆえか、あの恐ろしい光景が頭から離れない。

 狙ったつもりなどなく――そもそも近寄られたくなかっただけなのだが――しかしあの目が嫌でナイフを振り回したのも事実だ。それがあのような結果を招いたのかもしれない。

 灯りも無く彷徨さまよう夜の森。突き出た木の根や石に足を取られ、雪解け後の湿気でぬめる落ち葉に体勢を崩し、いったい何度転んだだろう。

 きっと泥だらけで、服なんかもう真っ黒に違いない。


 ――ディル!! また服を汚して! 今すぐ脱いで洗ってきなさい。まったくもう、そんな恰好かっこうじゃお屋敷の仕事ができないでしょ!?


 せわしない自分の息遣いが耳にうるさく入ってくるなか、ディルの脳裏にそんな声が響く。

(屋敷のみんなと遊んだあとはよく母さんに叱られたな。ひどいときなんか、服が乾くまで食堂に行かせないって言われたっけ。雨の日だったのに)

 よもや一日絶食か、と空腹を抱えつつ母の剣幕におののき、もう二度とこんなに汚すまい、と固く心に誓ったものだ。

 けれど今や叱られることもなければ、そもそも抜かれる食事も無い。

 この先逃げたところで、いったい自分はどうなるのだ?

(父さんと母さんの所に行きたい。でもあいつらに捕まって死ぬのもやだ)

 ひとりどこかで、人知れず死んでしまえれば。

 もはやそれが唯一の、ディルの切実な望みとなりつつあった。

「! ……うぁっ」

 突然、踏み出した足が宙を泳ぐ。あると思った足場が無かった。

 がくんと身体が落下し、為す術もなくディルは急斜面を転げ落ちる。

(まずい……!)

 咄嗟にそう思った彼は何かにつかまろうと急角度の地面に向かって必死に手を伸ばした。

 身体は容赦なく回転し、斜面にあちこちを打ち付ける。無我夢中で足掻あがき続けた末、ようやくその手が何かに引っ掛かった。身体の回転が止まり、突然生じた落下への抵抗で肩に衝撃が走る。

 掴んだのは木質化した植物の蔓のようだった。それは勢い付いたディルの身体の重みに突如引っ張られ、ぶちぶちと何かがちぎれる音を立てながら、彼をぶら下げたまま急斜面から引き剝がされていく。

 それにより落下の勢いはいくらかがれたが転落を止めるには至らず、蔓を掴んだままずるずると身体は落ち続ける。片方の手に全体重がかかり、掌の皮膚が植物の固い表皮との摩擦で灼けた。あまりの痛みと熱にディルは堪らず手を離す。

 彼の身体はもんどりうって更に転がり、そしてようやく止まった。

「う……あ……」

 唐突な出来事にあとから恐怖が追いついてきて、ディルは崖の底に横たわったまま呻く。震えながらぼろぼろに傷ついた自分の手を見つめた。

 しばらくして思考が戻り、どうにか助かった……と思ったのも束の間、ディルは自らの犯した重大な失策に気付き、涙が溢れてきた。

 なんてことだ。落ちたときの勢いのまま崖下に身体を打ち付けていれば、望んだとおりの死が得られたかもしれなかったのに。

 ここで生き延びたとて、その先に何が待ち受けているというのか。

(おれ、ばかだ……)

 滑落の名残なごりか、上から土や小石がディルの身体の上に降り注ぐ。

 しかしディルは流れ落ちる涙を拭いもせず、降り掛かる土砂を払うこともせず、すべての気力を失ったようにそのまま横たわり続けた。

 瞬きすら忘れた虚ろな目は闇のほかに何も映さず、ディルの意識は暗夜に静かに飲み込まれていった。



愚図ぐずが! 早くしろ!」

 怒声と共に飛んできた拳に殴り倒され、ディルの身体は地面に叩きつけられる。

 痛みと衝撃で意識が一瞬遠くなるが、すぐに立ち上がらなければ今度は蹴りを入れられるということは、もう分かりきっていた。

 苦痛を堪えて身を起こす。その頭に今度は飛んできた木桶が直撃し、視界に星が散った。

 こんなことをされたらますます遅くなるのに、などという理屈が通る相手ではない。ディルはよろける両脚をどうにか踏ん張り、おぼつかない足取りで、自分に当たって転がっていった木桶を追う。把手とってを両手で掴み、引きずるように持ち上げて小屋の外に出た。

 水汲み用の空の木桶などさして重い物のはずがない。けれどろくに食べられず、連日あちこちを殴られ続けた身体は弱る一方で、近くの沢まで運ぶのすら一苦労だ。

 旅人や商人は酒を携えて裏街道を通るのをやめてほしい。切実にディルは思った。

 野盗の彼らに奪われるだけだし、それをあるだけ呑んで泥酔され、片言の罵声と共にひどい仕打ちを受けるのはこちらなのだ。おまけに、ディルの腹は微塵も膨らまないときている。

 汲んだ水の重みによろめきながら、ディルは空を見上げた。

(……お腹空いた……)

 空腹に、自分はあらためて孤児なのだと思い知らされる。

 一緒にいる大人たちは保護者などではなく、都合よく自分を使役するだけだ。

 それでも自分が逃げてきた、あの赤夜狐とやらの頭目のような気色悪い目をしないだけ、ましだと思って逃げずにいるが……。それも、死に損ねて仕方なく、ということでしかない。

 崖下で空虚に転がっていたディルを偶然見つけ、引きずり出した彼らは、しばらく移動した末この小屋に辿り着き、勝手に居着いて寝ぐらとした。

 彼らはディルの知らない言葉を話す。この小集団の首領とおぼしきひとりだけが多少のエルム語を解するが、ディルから見てもつたない。

 言葉で思うように意思を表現できない人間は、その不自由さを腕力で埋めようとするらしいと、ディルは彼らを見て理解した。そういえば、屋敷で働いていた頃も、口の回らない子供ほどよく殴りかかってきたな、と今になって納得する。

 これまで意識したことがなかったが、言葉、そして文字はディルにとってとても重要なものだった。それを生業なりわいとすべく育てられていたのだから当然とも言える。

 単調な言葉――それもこちらを罵るだけの単語ばかり浴びせられることは、ディルにはひどい苦痛だった。

 心が、情緒が死んでいく。自分まで言葉を忘れてしまいそうだ。

 いずれ、美しいものを見ても綺麗という形容が浮かんでこなくなるのかもしれない。

 漠然とそんな不安に駆られ、無性に文字を書きたくなって木の枝を拾い、地面に何か書こうとした。

 しかしそれを見た男たちは、ディルが誰かに自分たち無法者の存在を知らせようとしているのかと疑い、彼が意識を失うまで殴りつけた。

 ――以来、聖堂で教典を懸命に書き写していた書記見習いの少年は、ディルの中で無期限の眠りに就かされた。彼が自ら葬ったのである。

 ディルは考えて動くことをやめた。言われたことだけをやり、それ以外はできるだけ存在を消して過ごす。どうかなるべく長い時間、彼らが自分のことを思い出さずにいてくれるようにと祈りながら。

 誰とも話せず、言葉を忘れてしまおうと、それは致し方ない。自分はもう、書記の卵ではないのだから。


「――そう言われても、ただの騎士見習いです……」


 それほど多くの日数を野盗の許で過ごしたわけではなかった。けれど、ディルにはすでに永遠の業苦のように感じられていた時の流れのなか、ある日、そんな声が耳に届いた。

 いつものように小屋の片隅で膝を抱え、小さくうずくまっていたディルは、はっとして顔を上げる。

(……綺麗なエルム語……)

 そう思った。続く会話につい、耳をそばだてる。

(喋り方、司祭さまにちょっと似てる)

 懐かしさに涙が出そうになった。



 前方をヴィーが歩いている。その背を追って必死に足を動かすが、距離がちっとも縮まらない。

(ヴィー、待って……)

 声に出したつもりなのに、どこにも響かない。

 辺りには何もなく、ただ、光をまぶしたようなヴィーの後姿だけが闇の中に浮かんでいた。

 追い縋ろうと手を伸ばす。指先が彼の青い外套に届きそうになった瞬間、足元がガラガラと瓦礫のような音を立てて崩れた。

「……ヴィーっ!」

 ――落ちる。驚いたディルは叫んだ。今度はちゃんと声になり、気付いたのかヴィーが振り返った。その間にもディルの身体はどんどん奈落に吸い込まれていく。

 はるか上方から、彼は落ちゆくディルを見下ろした。何も言わず、穏やかな表情で。

 けれど彼は手を差し伸べてはくれない。

 いつしかヴィーは質素な騎士の旅装から、豪奢な貴族の装いに変わっていた。錦の衣を纏い、金や銀、色とりどりの絢爛たる宝飾に飾られてなお、自身の輝きが勝る美貌と、粛然とした眼差し。

 教会で見る聖人画のよう。初めて彼をまともに見たときそう思った。

 それはあながち的外れな感想ではなかった。

 エレカンペインの王族ということは、ヴィーは聖者バルサムの直系の子孫なのだ。彼の身体には間違いなく、バルサムから受け継がれた血が流れているのである。

 ……自分などの、手の届く相手ではない。

 今のこの状況はまさにそれを象徴していた。はるか高みにるべきヴィーと、何も持たぬ孤児の自分。

(……だけど。……だけど!)

 分かっていても、ディルはヴィーに手を伸ばさずにはいられなかった。

 あの森の中の崖とは違い他に縋るものなどなく、こちらをただ見下ろすヴィーの姿はどんどん遠く、小さくなる。

(もう、独りは嫌だ……!)

 お願いだから、この手を取って。



「……ディル!」

 思わぬ近くから名を呼ばれ、ディルは驚いて目を覚ました。

 辺りは相変わらず真っ暗で、しかしすぐそばに、夜着姿のヴィーがいた。

「……あ……」

 ディルはか細い声を出す。

(……夢?)

 彼は無意識にヴィーに向かって手を伸ばした。しかしはっとして、その手を引っ込める。

 そんなディルの様子にヴィーはひとつ苦笑すると、ごく自然に彼の手を取った。

「大丈夫ですか? 怖い夢を見た?」

 これまでと変わらない、優しい声。

 ディルは安堵にぼろぼろと涙を溢し、身を起こすなりヴィーにしがみついた。

「……ヴィー……っ」

 彼の正体を知ってしまった今、果たしてそう呼んでよいのか分からない。けれどヴィーは、そっとディルの頭を撫でてくれた。

 ディルはようやく、初めて心の底から、あのときただ落ちるに任せて死んでしまわなくてよかった、と思った。

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