第21章 追憶 ―― 侮りへの痛撃

 道に張り出した枝々からぽたり、ぽたりとしずくが落ちる。雨粒よりひとまわり大きな水滴は、銘々がその身に映した月明かりをしろく煌めかせつつ、この道を通る者に独特の間合いで降りかかり、重く冷たく濡らしていった。

 雪解けの季節、ぬかるんだ道に馬の蹄が取られること数知れず。突然歩を乱すその背から何度投げ出されそうになったか分からない。

 人気ひとけのない夜の道を、水音混じりの鈍い馬蹄の音を響かせ駆け抜ける。道のりはあまりに長かった。

 気付けば雪解け水に濡れそぼった自分の顔から着衣から、馬具も馬も泥に塗れて真っ黒で、どこを向いても湿った土の匂いしかしない。その不快さに馬も神経質ないななきをあげる。自分がはじめに引いてきた駒は疲労で動けなくなり、やむなく途中の宿場で乗り換えた。既に同じことを数度、繰り返している。急く心のままに鞭を当て、つい長時間の速歩はやあしを強いてしまうのだから無理もない。

 こんなことが師に……かつての師の耳に入ったらなんとそしられることか。だが生憎、自分は騎士道や常人が掲げる良識などに則してのみ生きられる身でもない。場合によってはそれらを汚泥の中にうち捨て、踏み越えていくことさえ必要になる立場だと心得てもいる。そして残念ながら、今がまさにそのときと言えた。

 ようやく辿り着いた王都。彼女がいるはずの屋敷の門前で馬を降り、開門を要求する。しかし単騎、外套から泥水を滴らせ、暗闇の中現れたこちらの名乗りを、門番たちは容易には信用しなかった。

「ヴァーヴェイン様!?」

 らちの明かない押し問答に苛立ち、力ずくで押し通ろうかと思い始めた矢先、注進を受けたのかひとりの騎士が現れる。

 しかしこちらを認めたはずの騎士は、その先に通すどころか、辺りを憚るような様子で自分を門の外に連れ出した。

「よもや、おひとりでいらしたのですか?」

 小声で問われ、肯く。騎士は厳しい顔つきで言った。

「お危のうございます。主人あるじ――ローゼル様は今、何をなさるか分からぬご様子です。特に貴方に対しては……」

 騎士の言葉を意識の片隅に聞きながら、視界の端に揺らめく何かを捉える。あれは……炎が夜闇を照らす光か? すすけた臭いが鼻腔に届き、確信する。眼前の敷地の奥で、何かが燃えていた。

「マダー。ここで何が……何が起きているのです? あの炎は何です」

 壮年の騎士はこちらの問いに沈黙した。

「マダー、答えてください」

 強い口調で重ねて問うと、騎士は至極重苦しい表情でようやく口を開く。

「ヴァーヴェイン様……。どうか、お心を鎮めてお聞きください。……一昨日、アルテミジア様が……亡くなられました。ご遺体は既に埋葬を」

 告げられた言葉に、全身が時を忘れたかのように動きを止める。反対に、心臓は激しく動悸し、血が逆流しそうな感覚に襲われた。視界が赤黒く滲む。

 ……それは、予測していたことではあった。

 十中八九、間に合わないであろうことは分かっていた。

 にも拘らず、いざその事実に直面すると驚くほどに心身が受け容れない。

 もしかしたら、などという希望をわずかにでも抱いていた自分の、その思考の甘さに吐き気がした。



 ヴィーが凍りついたまま立ち尽くしていると、マダーは辺りを気遣わしげに見回し、そして彼に言った。

「ヴァーヴェイン様。どうか、今はここからお離れください。貴方が単身動いてらっしゃると知れば、ローゼル様が草に何を命じられるか分かりません。ご覧になられたあの炎……あれはあの方の命で、姫の部屋のものが全て燃やされているのです。持ち物からお使いになられていた調度に至るまでの全てを、です。とても冷静な判断ができるとは……」

「陛下が」

 マダーの話を遮り、ヴィーは唐突に言葉を発した。

「……陛下が、彼女とデーツ伯との縁組を正式に認められたというのは本当なのですか」

 その問いに、マダーは一旦口を噤み、そして躊躇いがちに肯く。

「……まことです。ローゼル様とグネモン卿の連日の訴えで、恐れながら陛下は押し切られたものと……」

「馬鹿な!」

 ヴィーは鋭く吐き捨てた。

「それがどれほどこの国を危うくするか、陛下もローゼルも認識していないと?」

「ローゼル様は……グネモン卿に傾倒しておいでです。なぜそうなられたのかはわたくしにも……」

「……はっ」

 ヴィーの口から乾いた笑いが零れた。

「傾倒? 自分の父親を殺したのかもしれない相手に? それとも不仲な先代を排除してもらえたとでも思っているのですか。どこまで彼は暢気のんきなんです。アルテがデーツ伯に嫁げば、次に消されるのは自分だというのに」

 現フレーズ卿ローゼルには後継が無い。唯一の妹であるアルテミジアがグネモン侯爵家の惣領であるデーツ伯に嫁いだのち、ローゼルが命を落としでもすればアルテミジアがフレーズ伯爵家の女子継承人となる。――つまりカーラントはアルテミジアさえ手に入れれば、いとも容易くフレーズ伯爵家をその手中にできるのだ。ソーンに続きフレーズまで失えば、リリーはもはや権門と言えるだけの勢力を保つことは不可能になる。

「アルテがそれに気付かなかったはずがない。彼女は警告したのでは?」

「……仰る通りです……」

 マダーは苦渋に満ちた声を絞り出す。

「ですがローゼル様は――」

「どうせアルテの声に耳を傾けなかったのでしょう? 亡くなった先代を除いて、彼女の言葉に価値があるとはこの家の誰もが思っていない。――だから再三、アルテには伝えたのに……ソーン邸に移るようにと」

「姫は……悲嘆に暮れたお母上を置いて出てゆくことはできない、と仰って……」

「あれほどアルテを疎んじて、ずっと彼女を無視してきた方だというのに?」

「それは……」

 口籠る相手にヴィーは冷たい一瞥を投げ、踵を返した。

「……もう、結構。マダー、貴方の忠告には感謝します。彼女が既に亡いとなれば、私がここにいる理由もありません」

 ヴィーは馬の手綱を取り、夜道を歩き出す。

 マダーはその背に何か言いかけたが、しかし思い直したように口を噤み、無言で一礼した。



 ヴィーはフレーズ邸を後に、黙々と歩き続ける。疲労に軋み今にも崩れ落ちそうになる身体を、どうにか気力だけで支えていた。

 王都の内郭は夜更けといえどなかなか人通りは絶えない。主に他家の饗応に出向き、そこから自邸に戻る貴族の一行などが明々と松明で辺りを照らしつつ、方々から方々へと行き交っていた。しかしそんななか、単身旅装を引き被って陰々と歩くヴィーを、まさかソーン伯だなどと気付く人間はいない。

 やがて通行者が途切れると、先ほどまで駆け抜けてきた裏寂れた山道と異なり、整備された通りには、彼が手綱を引く馬の乾いた蹄の音が響く。

 しかしヴィーの耳には入らなかった。がんがんと耳障りな音が脳裏に反響し、視界は相変わらずぼんやりと赤味が差しているように感じられる。

 怒りなのか悲しみなのか分からない感情が胸中に渦巻いていた。いや、どちらもあるのは間違いない。ない交ぜで整理がつかないだけだ。

 ぎり、と唇を噛む。そのまま皮膚を食い破ってしまいたい衝動に駆られたが、今そのような、他者にも明白な感情の発露の痕跡は残すべきでない、と心のどこかが警告を発し、思い留まる。

 そのことに、ヴィーは自分で意外に思った。

(……ずいぶん、私は冷静なのだな。アルテを喪ったというのに)

 自分はこんなに乾いた人間だっただろうか。……いや恐らく、これは混乱しているだけだ。事実を受け止めきれていない心から目を背けるために、理性で表面を取り繕おうとしている。思考を止めて感情の入り込む隙が出来てしまうのが怖いのだ。

(――なんでもいい。それならそれで、好都合だ)

 彼は煮え滾りつつもどこか凍てついていく心を、一旦この場に置き去りにすることにした。それにより、あとでどれほど悲惨な感傷の帳尻合わせに苦しむか分かったものではなかったが、『敵』の裏を掻くには今しかない。そのためにこうして無茶を重ねてやってきたのだから。

 この強行軍の主目的はアルテミジアを止めることではなかった。それは事態の報告を受けた時点で、ほとんど望みはないと分かっていた。彼のいるエレカンペインのケンプフェリアと、ここエキナセアはあまりに遠い。早馬であれ何であれ、行き来の間に物事は進んでしまう。

 考えなくては。

 自分が今何をすべきなのか。

 貴族の戦いは負けてはならない。勝つ必要はないが、完敗は許されない。それがその地位にある者の責務だ。

 グネモン卿がどこから関与しているかは分からない。だが先代フレーズ卿の死をきっかけに、これまでの全てが瓦解した。

 元からこちらに良い印象が無いらしいローゼルは、ヴィーとアルテミジアの子にフレーズを奪われるのではないかと恐れた。

 なぜなら、ソーンとフレーズはかつてどちらもソーン伯が支配していた歴史があるからだ。アイブライトはソーンを継承する際、カンファーにおけるリリーの過度な影響力低下を避けるため、フレーズを最も近いソーンの傍系に譲り独立させた。宗主であるにも拘らず、リリー一門のなかでもフレーズ伯爵家の知名度が今ひとつ低いのはそのためだ。

 厳密な意味でかつての『ソーン伯』を復活させるのであれば、確かにフレーズは再びソーン伯のものとなる必要があるだろう。だが、現時点でそのような話は無い。単にヴィーが持つものをリリーの名に戻したいというだけのことだ。

 しかしグネモン卿に何を吹き込まれたのか、ローゼルはひたすらそれを恐れているようだった。

 つまり生まれる子にアルテミジアを介してフレーズを継がせるために、自分が消されるのでは、という危惧だ。

 だがそれは、アルテミジアがデーツ伯に嫁いだ場合に起こりうることと全く同じである。だというのにそちらの可能性は露ほども考えない。そんなことがあるだろうか? ヴィーには理解不能だった。

 ローゼルの行動は矛盾に満ちており、その衝動的で支離滅裂な動きを読み切れず、結果ヴィーは完全に後手に回ってしまった。

 よもや、グネモン卿の意のままに王まで動かすとは。人生をなげうってでもその未来を切り拓こうとした一門を破滅に至らしめる婚姻に、王が許可を下したと知ったアルテミジアの失意と焦燥はいかばかりであったか――。

 ここまではこちらの惨敗である。しかしこのまま幕引きなどさせるものか。

 負けることが罪であると学んだのは十歳のとき。どちらが元凶かなどは関係ない。権力闘争に法も仁義も無いのだから。

 視界の先、月明りに王宮の姿が浮かび上がる。ヴィーは重い身体を引き摺りながら目線を上げ、外套の奥から壮麗な建造物をじっと見据えた。

「旦那様!?」

 ソーンの屋敷に辿り着くと、単身現れた当主とその有様に家人たちは仰天する。

「湯の用意を!」

 家令が他の者たちに指示を出しながら飛び出してきて、ヴィーを彼の私室に連れていった。

 幾人もの使用人たちによって慌ただしく湯浴みの用意が進められ、その間、ヴィーは火を入れた暖炉のそばでされるがままに泥をぬぐわれ、旅装を解かれる。

 フレーズ伯爵家の訃報は、当然屋敷の者たちの耳にも届いていた。

 いずれ波乱は避けられないであろうと囁かれてはいたが、自国で自由にならない身のはずの主人がこうも早く現れたことで、屋敷内に緊迫した空気が流れる。

 これまで誰も目にしたことのない厳しい顔つきで、ずっと黙したまま全身を湯に浸けた歳若い主人を、この場の全員が固唾を吞んで見守った。

 やがて彼はどこか遠くを見つめるような目つきのまま、静かな口調で命じる。

「……王宮へ行く。支度を」

 これから一体何が起こるのか。戦々恐々としつつも誰も口を挟めず、みな粛々と主人の命に従うほかなかった。



 カンファー国王ジンセング・コロンバインは難しい顔つきで酒杯を傾ける。

 寝酒に運ばせた葡萄酒だが、いくら口に含んだところで酔える気もしなければ、眠気が訪れる気配も無い。美味くも感じないならやめてしまおう、と杯を傍らの卓子に置いたところで、侍従が遠慮がちに姿を現した。

「陛下。……ソーン卿がお見えです。今すぐ陛下にお目通りを、と」

 その言葉にジンセング王は全身をびくりと震わせ、思わず身を預けていた椅子から立ち上がる。

「ソーン卿!?」

「左様でございます」

「……馬鹿な……いつこちらに来たというのだ」

 王は顔を強張らせしばらく唇をわななかせていたが、やがて観念したように再び椅子に身を沈め、侍従に命じた。

「……通せ」

「は」

 ほどなくひとりの若者が侍従の先導で現れる。

 一分の隙もなく整えられた身なりの若者は、ゆったりとした所作でこちらの正面まで進み出ると、侍従に退がるよう身振りで示した。

 血の気の引いた主君の顔色に侍従は気掛かりそうな顔つきになったが、しかしこの王宮でソーン伯に抗える者はいない。

 若者はその端麗な顔に一片の笑みも浮かべぬまま、侍従が退出するのを待って泰然と口を開いた。

「お久しゅうございます、陛下。かような夜分、おくつろぎのところまかり越しました無礼、どうぞお許しを」

 その口調は穏やかながら、傍らに置かれた酒杯に敢えて目を遣りつつの言葉に、それが嫌味であることを王は気付かされる。

 かつてアイブライト家に嫁いだソーン伯爵家の女子継承人フォーシシア、その妹であるカーリン姫を母に持つジンセング王からすると、この成人したばかりのソーン伯ヴァーヴェインは従姉の子に当たる。年齢差で言っても自身の息子と大して変わらない。

 にも拘らず、初手から王はこのソーン伯に気圧されていた。何用か、と問う言葉すら喉から出てこない。

「い……つこちらに?」

 辛うじて出てきたのがはじめに抱いた疑問だった。

 しかしその問いに、ソーン伯は伏せた睫毛の内から薄青の瞳をゆっくりと巡らし、含みのある眼差しでこちらを見遣る。

「……さて? いつでしたか……。陛下には関わりのないことかと存じますが」

 仮にも国王に対し、それも若輩の身でこれほど不遜な態度もない。だが、それを非難する勇気を王は持てなかった。

「――それとも、来られるはずがないと高を括っておいででしたか?」

 ソーン伯には怒気を取り繕う気すら無いのだと悟った王は、小皺の刻まれた目元を見開き、まじまじと相手の顔を見つめる。

 この、エレカンペインにおいても宮廷一の美姫と謳われていたという母によく似た面差しの若者のことは、彼が子供の頃から知っていた。幼少のうちに母方の家督を譲られ、初めてまみえたときには既にラヴィッジとソーンの主であった彼は、しかし高慢なところの欠片もない、闊達さを見せながらも驚くほどに穏やかな気性の少年だった。

 長じたのちも、たおやかとすら形容できそうな典雅な外見と相俟って、およそ気分を害することなど無いのではないか、とまで思えてしまう印象を持っていたが、王は今、その認識を否応なしに改めさせられる。

「……フレーズの姫のことは……突然のこととて、余も驚いておる……」

 その言葉に、相手は顔をまっすぐこちらに向け、まるで憐れむような表情で微笑んだ。

「ああ、陛下。どうか誤解なきよう。私が今ここにこうしている理由は、決して彼女の死について恨み言を申し上げるためではありません」

 優し気な面立ちに浮かぶ、一見すると慈愛すら感じられるような柔和な笑み。しかしなぜか王は、天敵に見据えられた無力な獲物の気分でごくりと唾を飲み込む。

「私はどうしても陛下に伺いたいことがあって参ったのです」

 ソーン伯はそう言って、一歩こちらに踏み出した。彼のマントを留めている繊細な金細工が涼やかな音を立てる。それが何かの警鐘にも聴こえて、反射的に王は仰け反るように上体を引き、後ろに倒れそうな錯覚を覚えて椅子の肘掛けを掴んだ。

「陛下は、次代ソーン伯に関するカレンデュラの意向に敢えて背かれた。もとはと言えばこの国の要請に端を発した決定であったのに。それも、一度は受け容れた上での翻意――当然、お考えあってのことと存じます。……ですが陛下、私は若輩にして不明の身にて、貴方の深慮を測りかねております。いかなる勝算あってのご決断か。仮にカレンデュラに召喚されるような事態となった暁には、どのような申し開きをなさるおつもりなのか」

 淡々と語りつつ、さらに一歩、こちらに迫る。

 この場には燭台の心許ない灯しか無いというのに、仄かな光に照らされた若者は、夜闇に浮かぶ月のように冴え冴えとその姿をこちらの視界に映し出した。彼は見る者の目を確実に釘付けにするであろう艶冶な笑みと共に、王の顔を覗き込む。

「――説明してくださいますか? 陛下」



 カレンデュラとはエルム大陸最大の国、リツェア帝国の首都の名である。と同時に、その地で発足したある会議を指す言葉でもあった。

 これは大陸の四つの主要国――リツェア、エレカンペイン、タラゴン、ランタナ――の国主に加え、ケンプフェリア、アンテミス、ファーンという三つのバルサム教会大主教座の七名によって構成される。

 無論、エルムの各国は基本的に主権を保持しており、会議は内政不干渉の原則を侵害するものではない。とはいえ、国家間の懸案や大陸全土に関わる事案について下された裁定や示された方針は、各国に対して一定の強制力を有していた。

 そもそも、エルムでも列強と称される大国の君主と、精神的支柱たる教会の権威が雁首揃えるこの会議に、正面から異を唱えられる者など大陸には存在し得ない。ゆえに、カレンデュラは各国の君主たちにとって、大陸の最高意思決定機関と位置付けられるものなのであった。



 口許を震わせるばかりで一向に言葉を発さない相手に痺れを切らし、ヴィーはわずかに身を引いた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、凍てついた目で王を見下ろす。

「……お答えいただけぬとあれば、陛下。私は今この場でソーンを返上いたします」

「な……」

 驚愕で絶句するジンセング王に、ヴィーは静かな口調のまま続けた。

「この状況では、私は貴方を――ひいてはこの国をカレンデュラから擁護できません。――陛下にはご不要なのでしょう? 断りもなく約定を反故にし、フレーズの姫をカーラントにお許しになられたのですから」

「ち……違う、そうではないのだソーン卿!」

 慌てて王はヴィーに手を伸ばす。

「分かってくれ……そなたにも話は通すつもりで使者を送ったのだ。殊更にカレンデュラに背く意志はない。ただ姫の身柄についての決定権はリリーの宗主たるフレーズ卿にある。そのフレーズ卿がどうあっても受け容れぬとあっては、ことの実現は難しい。……仮に首尾良く姫がそなたの子を産んだとて、フレーズが認めぬソーン伯では本末転倒であろう?」

「決定権?」

 ヴィーは冷笑した。

「異なことを仰る。陛下は、そのフレーズ卿に君臨するこの国の王であらせられるのでは?」

「アイブライトとコロンバインを同じように捉えてもらっては困る! 有力貴族の言を抑えつける力など、我がコロンバインには……」

「ですから陛下。なぜ貴方は『私』をお使いになろうともなさらなかったのです? 王権の維持のためのソーン伯でありましょう。それを無いものとして動かれるからこのようなことになるのでは?」

「……そなたは……エレカンペインで容易に動けぬ身……」

 言い難そうに反駁され、ヴィーは一度唇を引き結んだ。寸刻、王の顔を見つめ、小さく息をつく。

「……かようにお考えならなおさら、私はソーンを返上いたしましょう。今後一切、私は臣として陛下に力添えできませんが、そもそも陛下がそれを私に期待しておいででないのですから、何ら問題はありますまい。貴方の岳父殿とフレーズ卿が手を携え、共にお支え申し上げることでしょう」

 それだけ言って、ヴィーはついと踵を返した。そのまま退出しようとする彼に、王は狼狽も露わに叫ぶ。

「そ……それはならぬ! かつてアイブライトがソーンを継いだのも、カレンデュラの決定であったはずであろう!?」

 ヴィーは歩を止め、振り返らずに言った。

「歪みにしかならぬ施策に何の意味がありましょう。私はそう、カレンデュラに奏上しますよ」

 再び歩き出そうとするヴィーに、ついに王は腰を浮かせ、追い縋る。

「待て……待ってくれ! アイブライトの庇護は失えぬ。……勝手を申していることは重々承知だ。――そなたには、思いがけず非道な仕打ちとなってしまった。余は……フレーズの同意が得られぬこととなった今、そなたにもかの姫にも、これ以上名誉を汚す道を歩ませずに済むならばと……」

 ヴィーは王に背を向けたまま、強く眉根を寄せた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに表情を消して後ろを振り向く。

「この件に中途半端に情を持ち込むなど論外です。そんなものを差し挟む余地など、私たちにははじめから無かったのですから」

 それは断罪の言葉だった。王は一言いちごんもなく項垂れる。

 ヴィーは少しの間、そんな相手の様子を静かに見つめた。頃合いを見計らい、やがてゆっくりと口を開く。

「……陛下。貴方が未だに私を必要とされるなら、ひとつ、提案をいたしましょう」

 王は弾かれたように顔を上げる。

「提案?」

「ええ。これを叶えてくださるのであれば、此度のことはすべて水に流します。これ以上この件について陛下を糾弾することもいたしますまい。カレンデュラにも私から執り成しいたしましょう」

「……いったい……?」

 突然示されたヴィーの温情に、王はかえって不安な面持ちになった。

「フレーズ卿ローゼルから、リリーの宗主権を剥奪してください。今後、私が宗主としての権限を行使します」

 王は唖然とする。あまりに思いも寄らぬ提案だったからだ。

「そ……それは無理だ。いかにそなたがソーン伯であり、リリーの血を引いていようと、アイブライトである以上リリーの宗主を名乗る資格は……」

「無論、そのようなことは百も承知です。ですからこうして陛下にお願いしているのです。貴方のお力でどうにかなさいませ。宮廷でも議会でも動かし、特例を認めさせるなり何なりなさればよろしい」

「そのような簡単なことでは……!」

「当然です。生半可なことで此度の埋め合わせに足るはずがない。それでもアイブライトの後ろ盾が必要であるとお考えなら、この程度の誠意は見せていただかねば」

 王は顔面蒼白になり、その場に膝をついて愕然とヴィーを見上げる。しかしヴィーの表情は動かなかった。

「……先代フレーズ卿は上手くやっておいででした。アイブライトとの協調姿勢を崩さず、こちらの干渉を最低限に抑えられていた。その点、当代は真っ向から対立しようなどとするから、私としても締めつけをきつくせざるを得ない。リリーの勝手を許せばそれこそ私がソーン伯である意味が無くなります。このままエフェドラに通じるカーラントにも対抗できず、良いように取り込まれ……。やがてカレンデュラからは、この国そのものがニゲラに対する盾にも成り得ぬ国、と判断されるでしょう。有事にも中央から手を差し伸べられることはなくなります。――まあ、私はどちらでもよろしいですが?」

 泣き言など聞く耳持たぬとばかり、ヴィーは長靴の音を響かせて王に背を向ける。

「猶予は明日より三日。それ以上は待ちません」

 一方的に通告し、彼はこの場から立ち去った。



 その後の細かい記憶が殆どない。王から届けられた宗主権移行の勅令を手に、リリー各家の当主たちの間を奔走した。

 フレーズ卿の反発は凄まじかったが、それも一門の他家から外堀を埋めていくことでどうにか封じる。

 そうして、最低限の片をつけて王都を後にし――。

「……はは」

 容赦なく陽光照りつける荒野で、体感したことのない熱に灼かれ、渇いた口の端から乾いた笑いが溢れ落ちる。

 王都にいる間、殆ど何も喉を通らなかった。屋敷の者たちに懇願されて何かを流し込むのが限界だった。そんな身体で過酷な土地に踏み込んだものだから、あっという間に身動き取れなくなった。

 必要な措置とは言え、散々にあの国を恫喝し引っ掻き回してやった自分が、直後にこんなくだらない死に方をしたら、連中はどんな顔をしてわらうのだろう。

 そう思ったら可笑しさが込み上げてきたのだ。

(――お腹、空いたなぁ……)

 それはもはや、欲求というより食べなければ死ぬという危機感か。

 傍らを通りかかった、両手で掴めるほどの大きさのトカゲを、奇跡的に捕まえる。食料としては未知のそれを苦心しておこした火にくべ、肉と思しき部位に齧りつきながら、どうして自分は、まだ生きることも守ることも捨てられないのだろう? とぼんやり思った。

 ――たとえそれが、彼女の狙いなのだと頭では理解していても。

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