第20章 春下の蒼穹

 およそ、いかな権勢誇る王侯であれ、武名轟く英傑であれ、その身に確かな技術と自負を持つ職人の機嫌を損ねることなど愚の骨頂――と常々考えていたのに、このときばかりは失敗した。

「この春先に白百合シロユリですかい!? 旦那さま、あっしは魔法使いじゃあねえんでございますよ」

 深く考えずに尋ねた内容がよほど気に障ったらしく、壮年の園丁はいたくご立腹だった。

 この無礼者! と憤る従者を押し留めつつ、どうしたものかと思案しながら口を開く。

「すみません、時期の花でないことをすっかり失念していました……。ここに無いなら、どこに行っても手に入らないでしょうね……」

「ま、そう思いますよ。このお屋敷にはそりゃあ、代々のご当主さまや奥方さまが、方々から集められた珍しい花もたくさんございますがね。それとこれとは話が別です。季節が違うんですから」

 ふんと鼻を鳴らしながら彼はそう答えた。

「ああ……しまったな……」

 思わず自嘲めいた呟きが口から零れ、項垂れる。

 こちらがあまりに肩を落としたものだから、園丁は少しばかり表情を和らげて訊いてきた。

「なんです? 百合好きのご婦人に求愛でもなさるおつもりだったんで?」

「そういうことなら良かったのですけどね……」

 不覚にも、思った以上に情けない口調になった。

 相手がやや驚いた目でこちらを見る。


 ――アルテ。貴女がこんな季節に逝ってしまったものだから、私は貴女が好きだった白百合を手向けてあげられない。


 園丁は少し考えるような素振りで一度庭をぐるりと見渡すと、口を開いた。

「……百合じゃあありませんが、あちらの白の鬱金香チューリップはいかがです? ピレスラムの向こうから持ち込まれた花でしてね。王都じゃ、このお屋敷にしかないかもしれません。咲き始めですが昼も開ききらない今がいっとう綺麗な時期なんです。お探しの白百合よりは小ぶりで地味でしょうけど、この季節の花の中だったら大きさも色も、いちばん近いんじゃありませんかね」

 さすがに長年、貴族の庭を預かっている園丁は察しが良く、こちらの様子から花をどうするつもりなのかすぐに思い当たったようだった。

 ありったけの花茎を切って、彼は渡してくれた。

「夏のはじめにまたおいでなされば、白百合もたくさん咲きますよ。特別な日じゃあなくたって、贈られたお相手も悪い気はなさらんでしょう」

「そうですね……。夏、また来られればよいのだけど」

 歯切れの悪いこちらの受け答えに、園丁は苦笑する。

「お国から遠いってのは分かりますがね、も少し来てくださらんと、あっしらも張り合いがねぇってもんですよ」

「……すみません……」

 家人に煙たがられていないことは重畳だが、しかしその件については細かい事情を知らない相手に何も言えず、ただ曖昧に謝ることしかできなかった。

 ともすれば何年という単位で現れない当主。主人あるじ不在ではおとなう客人もなく、屋敷も庭も、精魂込めて手入れをしたとて、虚しく時が過ぎゆくだけ。

(それをどうにかするためだったのに……。その結果がこれだなんて)

 両手いっぱいに抱えた花を見下ろす。

 やるせなさからか、鼻と目の奥に微かな痛みが滲んだ。



 高空から小鳥のさえずりが響く。穏やかな風に揺れる木の葉の合間を縫って、時折陽光がヴィーの髪を照らした。

 しばしの沈黙のあと、ヴィーは視線をディルから外して地面に落とし、静かに尋ねる。

「……ディル。少し前の話になりますけど……貴方、外郭の墓地で花を渡されませんでした?」

 固唾を呑んで彼を見つめていたディルは、その問いに思わず身を乗り出す。

「あ! あのひと……やっぱりヴィーだったの?」

 ディルの反応に、今度はヴィーが目を見開いて彼の顔を覗き込んだ。

「気付いていたのですか?」

「ううん、一緒にいるときは全然……。でも捕まったあとにあのときのこと思い出して、もしかして? って思ってたんだ」

「……そう。私は、先ほど貴方に手形を渡して思い当たったばかりですけどね。あのときと同じ顔をしてた」

 それで、手形を渡してくれたときのヴィーの様子が変だったのか、とディルはようやく得心がいった。

「……父さんの、葬儀だったんだ。……花……ありがとう。その、ぶつかっちゃって……ごめんね……」

 申し訳なさそうなディルの様子にヴィーは小さく微笑んで、ディルの頭を撫でる。

「あのときも謝ってくれたでしょう? 貴方は、そういうところがとてもきちんとしてますね。父上を亡くしてそれどころではなかったでしょうに」

「司祭さまも親もそういうの、厳しかったから……」

 ヴィーは目を細めた。

「貴方は大事に育てられていたのですね」

「そう……なの、かな?」

「ええ、そう思います」

 ディルが照れ臭そうに俯くと、ヴィーは再び笑う。それから空を見上げ、静かな口調で語り始めた。

「……あの日はアルテ――アルテミジアが亡くなって、ちょうど一年になる日でした」

「一年……?」

「そう。貴方が知っているかは分からないけれど、教典では自ら命を絶った者の魂が、地中から解放されると言われる日です」

「……知らなかった」

 あらゆるエルム人の魂が、亡くなればすぐに天に昇ろうとするのだと思っていたディルは、ヴィーの言葉に少しばかり驚いた顔をする。

「これは外典に記されていることですし、まだ貴方が知らなくても無理はありません。与えられた命数を自ら断った魂は、肉体に縛られすぐには飛び立てず、地中に囚われてしまうのだそうです。そうして一年後、ようやく骸が神々に正しく死を認められ、魂も解放されて天に向かうとか」

 グネモン卿に対してはああ言ったヴィーが、しかし姫の自害に確信を持っているかのように語るので、ディルは信じられないという気持ちでいっぱいになる。

「姫様は……自分で、死んじゃったの?」

 それはディルにとってあまりに衝撃的なことで、自分で口にしながら声が震えた。

 だって、話をしたのだ。ほんの短い時間だったが、隣に座って、課題や教典の話をして、そのなかで彼女は微笑みを向けてくれたりもした。……確かに、何か思いつめた様子ではあったけれど。

 ディルの問いに、ヴィーのこちらに向ける瞳が微かに揺らいだ。

「……その可能性が高い、と思っています。グネモン卿と同じくね。アルテの身の回りのものは彼女の兄のローゼルがすべて燃やしてしまっていて、ほとんど何も遺っていなくて……。アルテは死の少し前から監禁――つまり閉じ込められていたので、その時期の彼女の様子を知る者も少ないのです」

 語られる内容のすべてが不穏で、ディルはかすかに蒼褪めた。

「ただ墓地の墓穴掘りが、彼女の棺は通常に比べてとても厳重に封がされていたと話していました。しばしの間、地中に留まらざるを得ない魂をニームから守るための特別な措置と見られます」

 淡々としたヴィーの口調に、ディルはかえって胸が痛くなる。

「……ヴィーはあのとき……姫様を迎えに行ったの?」

 あの花は、亜麻色の姫に捧げるものだったのか。そんなこと、夢にも思わなかった。

 ディルの目に涙が滲む。

 ヴィーはしばし彼を見つめ、それから口を開いた。

「……そう、ですね。……私は、死者の魂が本当に地下に囚われるのか、本当に一年後に天とやらに向かうのかなど知りません。……ですから、どちらかと言うと自分の心に区切りをつけるために行ったようなものです。……普段大して信じてもいないくせに、こんなときだけ教典の語る通り、彼女の魂を見送れはしないかなどと思ってしまうのですから、ずいぶんと勝手な話ですよね」

 言いながら、ヴィーは苦笑した。

 自嘲気味に語るその表情が、ディルの中で亜麻色の姫と重なる。そして、何も知らないときから、妙にふたりは似通っている気がしていたのを思い出した。

 きっとヴィーと姫は、同じ世界に生きて同じものを見ていたのだ。だからふたりに接したときだけ、本来窺い知ることもないはずのその遠い世界の気配を、ディルも感じたのだろう。

(姫様が言ってたひとって、きっとヴィーのことなんだ……)

 ディルは小さく鼻を啜り、目尻の涙を拳で拭った。

(姫様に話したかった。ヴィーに会ったこと)

 きっと姫は驚いたに違いないのに。

 傍らで唇を噛んで嗚咽を堪えるディルの顔を、ヴィーは不思議そうに覗き込んだ。

「……ディル。今度は私から質問してもいいですか? どうして貴方がアルテを知ってるんです? もちろん、貴方が仕えていたアブラス殿はアルテの叔父君ですから、彼女を見知っていても不思議はありません。……でも、貴方のその様子……それだけではないですよね?」

 あらためて問われたディルは、姫に会ったときのことを鮮明に思い出し、ついに涙が溢れ出した。

「……っ、いちどだけ、会ったことが……」

 しゃくりあげながら、ディルは答える。

「フレーズの姫様だ、ってことしか知らなかった……名前はさっき、初めて聞いた。ずっと前……リリーのお屋敷の庭で、おれ、書き取りの練習してて……そしたら、綴りが違ってるって、教えてくれたんだ……」

 自分が書き直した綴りに、そう、と頷きながら向けられた柔らかい笑みを思い出す。あの優しい眼差しが、もう永遠に喪われてしまったなんてやはり信じられない。――信じたく、なかった。

「それで、ちょっとだけ、教典のこと話して……。それだけ、なんだけど……」

 そこまで言って、更に鼻を啜る。……と、ディルは何やら異様な気配を感じて隣を見上げた。

(……え?)

 ヴィーが、こちらを見つめたまま凍りついている。

 その愕然とした表情にディルのほうがびっくりし、彼は自分が泣いているのも忘れて口を噤んだ。

(おれ、何か変なこと言った?)

 不安になって、ディルが戸惑ったように濡れたままの瞳で視線を彷徨わせていると、ようやく、ヴィーの口が覚束おぼつかない様子で動き出した。

「……アルテが……貴方と話を?」

「……う、うん」

「彼女のほうから話しかけてきたと言うのですか?」

「そう、だけど……?」

 いったい何にそんなに驚かれているのか分からず、ディルは困惑しながら肯く。

 ヴィーはあんぐりと口を開けたまま、しばしディルを凝視した。

「……信じられない……」

 そんな呟きがヴィーの口から漏れる。

「え?」

「私だって……数えるほどしか記憶にない……というか最初なんてなかなか口きいてくれなかったのに……」

 ディルは首を傾げた。

「……嫌われてたの?」

 子供らしい、率直かつ容赦ないディルの問いに、ヴィーはいたく衝撃を受けた顔になる。

 彼らの背後で、これまで黙ってふたりのやりとりを聞いていたリエール卿が思わず吹き出した。

 まずった、と思ったディルは慌てて謝る。

「ご、ごめん、ヴィー。変なこと言っちゃった……そんなわけ……ないもんね?」

 当然、肯定が返ってくるものとばかり思ってディルは言ったのだが、予想に反してヴィーは黙り込んでしまった。ディルが心配になるほどの沈黙ののち、悄然とした声が返される。

「……どうなんでしょう……?」

 そのあまりに弱気な科白に、先刻、あのグネモン卿相手に超然と渡り合っていたヴィーはどこへ消えてしまったのだろうか、とディルは思った。



 そういえば、誰かと話しているのを見たことがない、と司祭さまも言っていたなとディルは思い出す。

 ヴィーの様子を見る限り、姫に話しかけられるというのはディルが思っている以上に珍しいことだったようだ。

 自分の失言ですっかり悄気しょげてしまったヴィーを前に、彼は状況を打開すべく必死に頭を働かせる。そして大事なことに思い至った。

(そうだ)

 ディルは肩を落としたままのヴィーの顔を見上げ、少々勢い込んで言った。

「で、でもヴィー。姫様、ヴィーのこと話してたよ」

 その言葉に、ヴィーは目を見開く。のろのろとディルの方を向き、どういうことかと首を傾げた。

「……私のこと?」

「そりゃ、そのときは誰のことか分からなかったけど。でもあれ、きっとヴィーのことだと思う」

「……いったい何を? 教典の話をしたのでしょう?」

「うん。ええと……その姿、天上の光を縒り集め、編み上げられたかの如し――っていうところ。おれがね、それってどんな姿なのか分からないって話したら、姫様が、そういうひとを知ってるって言ったんだ。……たぶん、ヴィーのことなんじゃないかなって……」

 ヴィーは眉根を寄せ、難しい顔で考え込む。

「……そう言われても……私には何とも」

「そ……それはそうなんだけど……」

 確かに、聖者のような姿と言われて、自分のことだと確信する人間はあまりいないだろう。思うようにヴィーを浮上させられず、ディルは己の浅慮を呪った。

 話の続きに窮してしまったディルを見かねたのか、リエール卿が呆れたように口を挟む。

「この馬鹿。姫の知己でお前以外にそんな人間がいるものか」

 突然の助け舟にディルが驚いて振り返ると、リエール卿が険しい顔で腕組みをしたまま、ヴィーの背中に叱責を飛ばす。

「さっきから鬱陶しいぞ、ヴィー。こんな子供に気を遣わせてどうする。ガキみたいに拗ねてる場合か。まったく情けない」

「……うう。その、通りなんですけど」

 正論でさとされ、ヴィーは頭を抱えた。

「……すみません、ディル。続けてください……」

「……あ、うん……」

 言われてディルはヴィーの方へ向き直り、慎重に話を戻す。

「――それでね、姫様はそのひとのことを思い出すから、あの一節が好きなんだって言ってた。おれ、そこの綴りを間違えてたから……それで姫様、教えてくれたんじゃないかって思うんだ」

 ヴィーは変わらず情けない顔のまま、こちらを見つめていた。ディルはどう言ったら伝わるかと悩みつつ、言葉を紡ぐ。

「ええと、だからね? 姫様はヴィーのことが大事で、それで……おれがそこを間違えてるの、どうしても気になっちゃったのかな? って。……つまり、姫様がおれに話しかけてきたのって、ヴィーのせいなんじゃないかって思うんだけど」

 辿々しく語られるディルの結論に、ヴィーはなんとも言えない表情で口を引き結んだ。傍目にはそれは沈黙、というよりも、込み上げる感情をどうにか堪えようとしているかに見えた。ただ、彼が必死に抑えようとしているものが、喜びなのか、悲しみなのかはディルにはよく分からなかった。

 ヴィーは気持ちを切り替えるためか、深く長いため息をひとつつき、天を仰ぐ。

「……まさか貴方に、アルテとそんな関わりがあったなんてね……。とんだ不意討ちですよ」

「姫様って……ヴィーの恋人?」

 ただならぬ間柄であろうことはもう十分に伝わっているものの、結局のところ何なのかが分からず、ディルは尋ねる。

 ヴィーは幾分落ち着きを取り戻した顔で、静かに首を振った。

「恋人では……ないです」

「違うの?」

 意外そうなディルに、ヴィーは苦笑する。

「こんな大騒ぎしてますからね。そう思われても無理はありませんが、私と彼女の関係は決してそんな甘いものではなかったんです。……ただ、彼女は私の子供を産むよう要求されていて、だから……夫婦に近い関係ではありました。結婚はしていませんが」

「……ええと?」

 理解が追いつかず、ディルは顔を顰めて小首を傾げる。その様子にヴィーはそっと笑った。

「まあ、そこを今の歳の貴方に詳しく説明する気はありませんけれどね。恋人ではないけれど……でも幼馴染で、大切なひとだったのは間違いありません。それだけ分かっていてくれればいいです」

「……おれが納得いかないんだけど」

 不満げにディルは言ったが、困ったように微笑むヴィーを見て、先程彼に迂闊なことを言ってしまった負い目もあり、仕方なくそれ以上の追及を諦める。

 ただ、要求される、という言葉が、姫が別れ際に語った話とどこか符合するような気がした。

(姫様の大事な『使命』って、それだったのかな……)

 思いながら、ディルは浮かんだ疑問をヴィーに問う。

「なんで姫様がヴィーの……子供を?」

「その子を次代のソーン伯にするためです。リリーの姫であるアルテが婚姻することなく私の子を産めば、その子は私の血を引きながらリリーを名乗ることになります。……簡単に言うと、この国の多くの人は筆頭貴族たるソーン伯爵位を、アイブライトからリリーに戻したがっているのです」

「……カンファーじゃなくてエレカンペインの家だから?」

 ヴィーは曖昧に肯く。

「それもありますが……。問題は、アイブライトがただのエレカンペインの一貴族ではないという点です。そもそも、カーラントの攻勢で弱体化したリリーが、後ろ盾を求めてソーン伯の女子継承人を委ねた相手ですから」

 ただの貴族家ではない。

 ヴィーのその言葉に、ディルは嫌な予感がした。変に心臓が早鐘を打ち、なんだか視界がぐらぐらする。さっき、リエール卿は何と言っていた?


 ――私からすれば、お前はあくまで我がエレカンペインの――。


「王家……」

 胸苦しさを覚えながら、ディルは言葉を絞り出す。

 ヴィーはそんなディルの様子に気遣わしげな顔を向けながら、静かに肯いた。

「……そうです。私の祖母が嫁いだ相手は、先代エレカンペイン王の実弟であるラヴィッジ伯でした。……ただ、この祖父母の間に生まれた男児は早くに亡くなってしまい、その姉が女子継承人となります。それが私の母、シスリーでした。私は母からソーン伯を継承したのです」

 つまりソーン伯は二代続けて女子継承人によってその血を繋がれたことになる。

「私はアイブライトで、名実共にソーン伯となった最初の人間ということになります。ただ、それだけなら、そこまで問題にはならなかったのですが……」

 ヴィーはそこで一度言葉を切り、少し考えてから続けた。

「私はこの国ではソーン伯と呼ばれますが、エレカンペインで私をそう呼ぶ人はいません。ラヴィッジ伯、あるいはウォータークレス公と呼ばれます」

「ウォータークレス公?」

 ラヴィッジ伯というのはヴィーが母から継承した爵位であるというのが分かる。しかしもうひとつは? 順当に考えれば彼の父方の爵位ということになるのだろうか。

 首を傾げるディルに、リエール卿が補足する。

「……ウォータークレス公というのはな、基本的に、エレカンペインの第二位王位継承者が叙される称号だ」

 ディルはその説明に文字通り飛び上がった。

「第二位……!? って、え……? ヴィーって王子様なの……?」

 ヴィーは首を振った。

「いいえ。私は王の実子ではなく甥なので、王子の称号はありません。私の父は現王の弟で、父亡き後、私は従弟の王太子ソレルに次ぐ継承権を持つ身となりました。つまり私の両親はどちらもアイブライト家の人間なのです。グネモン邸で、少し複雑と言ったのはそういうことです」

「そ、う……」

 ディルは眉根を寄せ、必死に情報を整理する。……整理しようとした。しかし、どうしたわけかなかなかヴィーの説明が頭の中に入ってこない。

(変だ……なんだか……頭がズキズキする)

 ディルは片手を顳顬こめかみに当てた。深く息が吸えず、浅い呼吸を繰り返す。

「え……と……それで……問題って、なんなの……?」

 エレカンペインの王族と明確に知ってしまった今、いつまでこんな口調でヴィーと話していていいのだろうか、という迷いがディルの中で生じるが、しかしなぜか思考が纏まらない。問いを続けるので精一杯だった。

「私の王位継承順位が高すぎることです。考えたくないことですが、今、陛下かソレルに何かあったら、私は即エレカンペインの王太子となります。そんな人間が、カンファーで国王陛下すらその意向を無視することができないと言われるソーン伯でもあったら? この国の人々はどう感じると思いますか?」

「……隣の国の……言いなり?」

 ディルの答に、ヴィーは頷いた。

「そう。こちらにその意図はなくても、たとえ私がカンファー貴族としての立場で陛下に何か意見をしたとしても、誰もそうは思いません。――私に、弟がいたらよかったのですけれどね。そうしたら、母もそちらにソーン伯を譲って、少なくとも今よりはエレカンペイン王とソーン伯との距離を保てたでしょう。あるいは、今の陛下に第二王子が生まれるか、王太子のソレルに跡継ぎが生まれるかするまで父が存命していれば、私がウォータークレス公になることもなかった。でも色々なことが重なって、結局全部私のところに来てしまったのです。……それでこの歪みを正すために、当時リリーの宗主であったアルテの父上の先代フレーズ卿や、私の伯父のエレカンペイン王、そして大陸の首脳たちが協議して、私とアルテで庶子を設け、ソーン伯を継がせようということ、に……」

 ヴィーの言葉が途切れた。ディルが小さな呻きをあげてその場にうずくまったのだ。

「……ディル!?」

 咄嗟に、ヴィーは傾いだ彼の身体を支える。

「ディル、どうしたんです!?」

 ヴィーは自分の腕の中で、頭を抱え苦悶に顔を歪めるディルに呼び掛けた。

「……ヴィー……おれ……あたま、が……痛い……」

 途切れ途切れの声でそれだけ言うと、ディルはくずおれる。

 ヴィーは彼を抱き止め、その額や耳に手を当てた。そして異変にこちらを覗き込んできたリエール卿に緊迫した声で伝える。

「熱い。ひどい熱です」

 リエール卿は顎に手を当て、ディルの様子を眺めた。そしてしばらくしてから口を開く。

「……ようやく敵地から救い出されたと思ったら驚愕の連続だぞ? 子供の身だ。熱のひとつも出すだろう」

 落ち着き払った卿の言葉に、ヴィーは表情を幾分和らげ、ほっと息を吐いた。

 彼は意識を失ったディルを抱え、ベンチから立ち上がる。

 その拍子に、ディルの懐から丸められた羊皮紙が零れ落ちた。広がり、風に攫われそうになるそれを見て、ヴィーは慌てた様子で言う。

「あっ、リエール卿、その手形拾ってください! 私もう一度役人脅すの厭なので……」

「……脅す?」

 一応ヴィーの言葉に従いながら、リエール卿が怪訝な顔で訊き返した。

「この子の父上の罪状揉み消したり、発行を急かしたり結構大変だったんです。役人たちからすると滅多に王都に現れない大貴族より、議会のリリー卿のほうが怖いんですよ」

 無事手形を拾い上げたリエール卿は、憐みと呆れを込めた目でヴィーを見遣る。

「……相変わらず力技ちからわざを……。お前の評判、ガタ落ちだな」

 言われたヴィーは困り果てた顔で、悄然と呟いた。

「……し、仕方ないでしょう……」

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