第19章 一矢の行方

 謝罪も、自責も、悔恨も……赦しも。

 貴女は要らないと言うのだろう。

 こちらの気も知らないで。……いや、知っていたとしてもなお。



 びしり、とどこからも聞こえるはずのない音が、ヴィーの脳裏に響いた。……ような、気がした。

 なぜか隣のディルの身体も大きく揺れたが、そのとき、そのことにヴィーは気付かなかった。

「無礼な!」

 リエール卿の厳しい声が辺りを震わせる。彼は右手を剣の柄に添え、今にも抜き放たんばかりの気迫でグネモン卿を睨みつけた。

 すかさずクローブも主人を守るようにこちらに踏み出す。

 一瞬のうちに緊迫した空気の中、唸るような声でリエール卿は言った。

「こちらがどなたかお忘れか。グネモン殿と言えどお口が過ぎますぞ」

 はっとして、ヴィーは咄嗟に彼を手で制す。

 ヴィーの体面を考えれば、リエール卿の糾弾は当然と言えた。グネモン卿の発言は、ヴィーの随身として到底看過できるものではなかったからである。

 一方、そのリエール卿をヴィーはこの場の主として制止しなければならない。さもないとリエール卿は、否が応でも振り上げた拳を相手に振り下ろさざるを得なくなるのだ。

 実際の心情がどうであれ、ここで自分が対応を誤るわけにはいかなかった。

 止められたリエール卿は不承不承という顔つきで剣から手を離す。

 一瞬でも自我を手放しかけた自分を叱咤して、ヴィーは嫣然と微笑んだ。

「……随分と貴方も、宮廷に集うご婦人がたに好まれそうな物言いをされる……。時期からして、病死という話を疑われるお気持ちは理解できなくもありません。……ですが、彼女の亡骸を目にしてもいない私に問われたとて、詮無いこと。どうしても真実を得たいとお望みならば、それこそフレーズ卿に詰問なされるがよろしいでしょう。ただ――仮に彼女が意図してその生を閉じたのだとして、貴方が手に入れ損ねたものの大きさを考えれば、おのずとその真意は明らかとなるのではありませんか?」

 グネモン卿は面白そうに口許を歪める。彼は、なおも一触即発の空気の中であることなどまるで気に掛けていない様子で問い返した。

「ほう? 私が何を手に入れ損ねたとお考えですかな?」

 ヴィーも負けじとにこりと笑ってみせる。

「さて、それは……。私も、最低限の良識はわきまえているつもりですからね。敢えて何、とまでは口にいたしませんよ」

 彼の痛烈な皮肉に、グネモン卿は一瞬、眉を上げて口を噤む。そして次の瞬間、小さく吹き出した。

「……っ、ははは……!」

 そのまま声をあげて笑い出す。

「失礼――まったく、貴方は大したお方であらせられる。そのご気性、御身を僧院の一室に押し込めてしまわれた御方おんかたのお気持ちも分かるような気がしてしまいますな」

 相手の言葉に、ヴィーは軽く肩を竦める。

「そこを分かられても嬉しくありませんけれどね。――では、これにて」

 再び礼儀正しくヴィーは一礼し、老人の前から辞去した。



 ヴィーは家令が開いた扉をくぐり、再びその先導で通路を進む。

 少し行くと、騎士見習いと見られる少年が、使用人を従えて佇んでいた。ヴィーの姿を認め、一歩脇に寄ると付き人と共に一礼する。

 その人品卑しからぬ様子に、ヴィーは歩を止めて家令に尋ねた。

「……あちらは?」

「は、我が主人の外孫にあたる、バーレイ家のリード様にございます。当家の惣領、デーツ卿の従者を務めておいでです」

「ああ」

 ヴィーは何かに思い当たったように頷くと、少年に向き直った。

 少年はヴィーの意図を察したらしく、即座に目を伏せて右手を胸に当て、礼を取る。

「お目にかかれて光栄です、ソーン卿。リード・バーレイと申します。どうぞお見知りおきを」

 闊達で物怖じしない相手の様子にヴィーは目を細め、答礼した。

「ヴァーヴェイン・アイブライトです。ご成人の暁には叙爵される予定の方ですね」

 ヴィーの言葉に、少年は驚いたように顔を上げる。

「ご存知でしたか」

「ええ、もちろん。貴方はなかなかに有名ですから」

「……は」

 少年には思いも寄らない言葉であったらしく、きょとんとした表情をしたのち、慌てて視線を外して顔を伏せた。

「貴方のご主人――伯父君のデーツ殿はご健勝でいらっしゃいますか? 先日まではご領地においでと伺っていましたが……貴方がここにいらっしゃるということは、間もなくお戻りなのですか?」

「はい。明日にも王都に帰参いたします」

「そうですか。此度は直接ご挨拶ができず残念です。デーツ殿には……一度お会いして話をしなければと思っているのですが……なかなか儘ならないものですね。貴方にも、いずれ宮廷でお会いできる日を楽しみにしています」

 そう言ってヴィーは微笑んで、再び歩き出した。



 その後自分の役目を果たしたリードは早速、オリスの許を訪れ、そのときのことを彼女に話した。

「有名って……そうなの?」

 戸惑ったように訊いてくるリードに、オリスは苦笑する。

「まあ、あなたの叙爵によってカーラント派の貴族家が新たにひとつ増えることになるのだし、その経緯いきさつも何かと話題になったと聞くから、注目はされているでしょうね。……ただ、そうでなくてもきっと、ソーン卿はカーラントの血縁のことなんてみな把握してらっしゃるのではないかしら」

「それは……つまるところ政敵だから?」

「ええ」

 さも当然のように言うオリスに、リードは深いため息をついた。

「政敵か……」

「なんだかずいぶん沈んでいるわね。ソーン卿ってどんな方だったの? わざわざあなたに目を留めて声をかけてらっしゃるなんて、気さくな方なのかしら?」

「私に話しかけてこられたのは……伯父上のことをお尋ねになるためだったのかもしれないけど……とても丁寧な方だったよ。話し方も穏やかで。ただ……」

 そこまで言って、リードは眉根を寄せる。いつになく歯切れと顔色が悪い従弟に、オリスは怪訝な表情で小首を傾げた。

「ただ?」

「……なんだか物凄く――怖かった……」

「……?」



 ヴィーと共に屋外に出たディルは、久方ぶりにまともに浴びる陽光に目を眇めた。

(眩しい……)

 建物の入口から程近いところに、四輪の馬車と、他に数頭の馬が待機している。

 ヴィーとリエール卿は馬車に向かった。馬は従者たちのものだろう。

 ヴィーはここまでディルの身体から手を離さず、結果ディルは馬車のところまで来てしまったが、このまま乗り込んでいいのだろうか、と戸惑い周囲を見回す。が、元々ヴィーの意向でもあるのか、誰も制止しなかった。

 高い位置に床のある馬車にどうにか乗り込むと、続いてヴィーとリエール卿が上がってくる。どうやら、ディルが乗り込むときに落ちないよう、ヴィーは先に彼を乗せたようだ。

 荷車は別として、人を乗せるための馬車はあまり一般的なものではない。道の整備の行き届いた内郭くらいでしかほとんど見ない代物だ。貴族と言えど女性か、盛装でもしていない限りは馬に乗るのが常であり、当然ディルも初めてだった。

 お前がそんな格好でここに来るから……とリエール卿は乗り込みながらぶつくさ言い、その様子から馬車にはあまり良い印象を抱いていないのであろうことが、ディルにも窺い知れた。

 その間に他の従者も馬に跨り、リエール卿が馭者に合図をすると、一行は屋敷の敷地の外に向かって進み始める。

 馬車が動き出して即、ディルはリエール卿がなぜあんなにも文句たらたらだったのか、そのわけを理解した。

 振動がひどい。荷車と違って座面の位置が高く、油断しているとディルの小さな身体などうっかり床に投げ出されてしまいそうだ。彼は座面の縁を両手で掴み、必死に身体を支える。

 なぜわざわざこんなものに乗るのか、と思ったが、ヴィーの纏う礼装の長衣が乗馬に向かないからだろう。さりとて威信というものもあるので平民のように徒歩での移動など以ての外……恐らく、たったそれだけの理由で使われている乗り物なのだ。

(貴族って、大変かも……)

 わずかな時間馬車に乗っただけで、ディルは思った。

 幸い、移動はそれほど長くはなかった。

 この都で育ったディルもこれまで近寄ったことがない、王宮に近接する地区にある厳めしい屋敷の門を潜ると、リエール卿が早々に馬車を停めさせる。まだ広大な庭がその眼前に広がってはいたが、そこを延々乗り続ける気は無いらしい。

 馬車は馭者に任せ、三人は庭に続く屋敷の建物までの道を歩き始める。従者たちも下馬し、馬を引きながら少し離れて彼らの後ろに続いた。

 手入れの行き届いた木立ちや、花々が咲き誇る花壇が不規則に配された美しい庭を進みながら、ディルはなんとも言えない居心地の悪さを感じる。理由は明白だった。

 先ほどから、ヴィーが一言も喋らないのだ。

 グネモン卿の屋敷の棟を出て以来、ずっと無言だった。馬車の上ではとうてい会話などできないというのも分かる。しかし、降りていくらか時間が経ちつつある今も、ずっとヴィーの口は引き結ばれたままなのだ。

 ディルはヴィーに訊きたいことがたくさんあった。しかし、特段機嫌の悪そうな表情でもないのに沈黙を続ける彼に、話しかけてよいのか分からない。

 やがてヴィーは、庭を貫く道から逸れ、両脇に草花が植えられた脇道に入っていく。ディルと、そしてリエール卿もそれに続いたが、そこでリエール卿は背後の従者たちにそのまま進むよう手で指示した。従者たちは一礼し、彼らと別れる。

 三人だけになると、おもむろにリエール卿がヴィーに呼び掛けた。

「……おい」

 ヴィーは振り返らない。構わず、卿は続けた。

「ガキが困惑してるぞ」

 いったい、このリエール卿とヴィーの関係はどのようなものなのだろうか、と思いながら、ディルはふたりを見上げる。

 先を歩くヴィーはそれから数歩進み、そしてぴたりと止まった。彼は相変わらず無言で前を向いたまま、少し後ろをついて歩いていたディルの頭に手を伸ばし、その髪を一度だけ掻き回す。

「……師匠」

 ディルの頭から手を離し、ようやく、ヴィーは背中越しにぼそりと言った。

「師匠じゃない」

 すかさずリエール卿が否定する。

師匠」

「なんだ」

「……殴っていいですか」

 ヴィーの唐突な発言にディルは仰天したが、リエール卿は動じず、ただ苦笑した。

「あの頑強な老体も、お前に本気で殴られたらあの世行きだろうが」

 老体というのはグネモン卿のことだろう。

 しかし、ヴィーは初めてこちらを向いて、静かな眼差しのまま首を左右に振った。

「違いますよ。貴方をです」

「はあ!? なぜだ!」

 さすがにリエール卿も驚愕の声をあげる。

くだんの老体の代わりにです」

「馬鹿を言うな、断る!! 大体お前が早々に止めたくせに」

 ヴィーは少し泣きそうな様子で顔を歪めた。

「貴方が真っ先に剣なんか持ち出すから!」

「当たり前だろうが! お前はここではソーン伯に徹するつもりかもしれんが、私からすればお前はあくまで我がだ。他国の貴族なんぞに愚弄されて黙ってられるか!」

「……」

 リエール卿の言葉にヴィーは数瞬、気の抜けた表情で彼の顔を見つめ、それから俯いて言った。

「……貴方に言われると……どうしてこんなに納得いかない気持ちになるのだろう……」

「知るか」

 まったく悪びれずに返された言葉に、ヴィーは半眼になる。

「そういうところですよ……」

 げんなりと彼は呟き、それから身体の両脇で拳を握りしめた。俯いたまま唇を噛む。

 ディルは恐る恐るヴィーを見上げた。リエール卿の口からとんでもない言葉が飛び出したようにも思ったが、色々な情報を矢継ぎ早に浴びせられ、ディルの頭は既に許容量を超えていた。

 それになんだか、今はそれどころではない気がする。いつも凪いでいたヴィーの魂が、ひどくさざなみ立っているように見えたのだ。

「アルテを侮辱した……」

 ヴィーは、これまでディルが聞いたことのないような低い声を絞り出す。

 苦鳴に似た彼の呟きに、リエール卿は困り顔で大きなため息をついた。

「お前をどうにか逆上させたかったんだろう?」

「分かってますよ! だから余計に腹立たしい」

 ヴィーはきつく眉根を寄せる。

「貴方は反対しましたけど、礼装この姿で行って正解でした。騎士服でいたらうっかり短剣でも投げつけていたかもしれない」

 ディルが心配そうに見つめるなか、ヴィーは悲痛な面持ちで自分の足下を睨みつける。

「……グネモン卿と言い、ローゼルと言い、なんなんでしょうね、この国の人間は。そんなに私を怒らせたいんですか」

 独り言のような呟きだった。

 リエール卿もそれについては何も言わず、黙然と彼を見守る。

 沈黙のなかを一陣の風が吹き過ぎ、ヴィーの髪を揺らしていった。一頻り金の髪を嬲らせたあと、やがて彼は擦れる声で、ぽつりと言った。

「……仕返し、してやる」

 そのどこか幼い口調に彼の本気を感じたらしく、リエール卿は額に手をやり、あーあ、と嘆息した。



「なんということを仰ったのです」

 会見を終えた室内で、クローブは厳しい口調で主人をなじる。

「んん?」

 まるで心当たりなどない、とでも言いそうな顔つきの老人に、クローブは今度こそ本当に頭痛がした。

「貴方は、本当に大人げない。まだお若いソーン卿に……」

「ふん、逆鱗に触れたと思うたに、即座に立て直してきよって。まったく可愛げのない若造よ。取り乱しでもしてくれれば大いに溜飲が下がったであろうにのう」

 そういう問題ではない、とクローブは首を振った。

「言動に注意なさるように、と申し上げたはずです。リエール卿に斬り伏せられたいのですか」

「お前がそうはさせぬであろう?」

「仮にもあちらは名うての剣豪ですぞ? 見縊みくびってよい相手ではありません」

「お前の腕が見劣りするとも思えんのう」

「ですからそういう問題ではなく」

 いったい何の対抗心だ、と思いながらクローブは根気よく言葉を重ねる。

「直接エレカンペインに喧嘩を売るような真似は避けたいご意向ではなかったのですか?」

「避けておるわ。くく、儂が何を言い、たとえリエール卿がどれほど激昂して国許に注進しようとしたとて、他ならぬソーン卿が止めに入るであろうよ。いかに内心煮え滾っておろうとな」

「ソーン卿が?」

「あの若造は、この国がエレカンペイン――ひいてはエルム全体と事を構えるような事態は避けたいのだ。ゆえに儂への怒りのままに行動したりはせぬ。まったく、守る側というのは哀れと言うか、健気なことよ。どうせなら行き場のない怒りを獅子身中の虫たるフレーズ卿に向けてくれれば都合が良いのだがのう」

「それが貴方の狙いですか」

 クローブは少々ソーン卿に同情した。こうも意図的に心中を掻き回されるなど、まだ十代という多感な年齢の若者には堪ったものではないだろう。

 しかしグネモン卿は肩を竦める。

「さて、そうなれば良いとは思うが、どうかの。ソーン卿はそう簡単にこちらの思惑通りには動いてくれぬゆえな」

「であればなおさら、わざわざお怒りを買うような真似をなさることはなかったのでは」

 若者の、凛然とこちらに向けた双眸をクローブは思い返し、指摘する。彼の両の眼の奥には確かに、会見のはじめには見えなかった怒りの炎が立ち揺らいでいたのだ。

 しかしグネモン卿は口角を押し下げ、不服げな顔をした。

「ふん。言うておくが、儂を怒らせたのは向こうも同じぞ? ソーン卿にせよアルテミジア姫にせよ、儂の邪魔をしおってからに。――ううむ、思い返せばますます腹立たしい。大体、だ! あの姫のせいで儂は今、草の編成に難儀しておるのだぞ!? 大人しく息子の後添えに収まってくれていれば、いずれフレーズもリリーの草もこの家が手にできたものを。お陰で地道な苦労を強いられておるというのに、今度はようやく見出みいだした子供をソーン卿が横から掻っ攫いおって……!」

 そもそもソーン卿からアルテミジア姫を奪おうとしたのが発端なのだが、とクローブは思い、さりとてそれを口にするわけにもいかず押し黙る。

「……まあ、よい。いずれにせよ、先代フレーズ卿や大陸中央の連中が目論んだような、『アイブライトの血とリリーの名を持つ』ソーン伯の誕生は防げたのだからな。あれだけ傷が深い様子なれば、ソーン卿も二度と同じ手には同意すまいて」

 一頻り文句を言って気が済んだのか、老人は再び飄々とした笑みを浮かべた。

 クローブは呆れたようにため息をつく。

「ソーン卿の傷の度合いを測るために敢えて抉ってみたと仰るのですか?」

「八割ほどは腹いせだが残りはそうと言えような。結局あの姫がソーン卿にとってどれほどの存在であったかは知る者が少ない。となれば当人に確かめるほかないであろう」

「まったく貴方は……危ない手を使われる。ようも懲りませぬな」

「懲りねばならぬほど痛い目など見ておらぬぞ。ソーン卿も言うていたであろう、儂は負けぬ戦が得意と」

「火の粉を浴びるのは主に貴方の周囲ゆえ、貴方ご自身は確かに無傷であらせられる」

 表情ひとつ変えずに言われ、グネモン卿はクローブの顔をまじまじと見返した。

「……クローブよ。困っておることがあるなら遠慮なく儂に申すがよい」

「困りごとの元凶にお気遣いいただくことほど不毛なことはありませぬな。して、やめる気など毛ほども無い方に……。ソーン卿はいたくご立腹の様子でしたぞ。貴方はかの方の理性に絶対の信頼を置いておいでのようですが、『冷静に』反撃される可能性はくれぐれもお忘れなきよう」

「ふん、あの若造は王都エキナセアには長居できぬ。しかもばら撒いてやった噂で宮廷にも議会にも逆風しか吹いておらん。いくら陛下の首根っこを押さえておろうと、これ以上の強権は振るえぬわ」

「……であればよいのですが」

 クローブはどうにも主人の楽観視に同調できない。――というより、そんな主人の許で用心深く懐疑的に物事に当たることこそが、自身の役割であると心得ていた。

「まあ、動向には目を光らせておくのだぞ」

「無論のことです」

 クローブが頷いたとき、遠慮がちに入口の扉が開かれ、家令が顔を覗かせた。

「……旦那様。先ほどからリード様がお目通りをとお待ちですが……」

「おお!」

 グネモン卿は家令が口にした名に、一転して顔を輝かせた。

「ようやく参ったか。早う通せ」

 老人の言葉に早速、家令は少年を伴って戻ってくる。

「リード! 久方ぶりよの、息災であったか。また背が伸びたのではないか?」

 少年は一礼して、いささか性急に言葉を浴びせてくる老人にあらたまった口調で挨拶した。

「ただ今戻りました。お祖父様もお元気そうで何よりです。伯父上は明日の午後内郭に到着されるよし、ご報告に上がりました」

「うむ。大儀であったな。さあ、そのようなところにおらずもっと近う。この爺によう顔を見せよ」

 クローブは、今にも両手を伸ばして孫の頭を撫でくりまわしそうな勢いの主人を無言で見守る。彼の、情というものが見事に身内にのみ向けられるその徹底ぶりは、いつ見ても感心するほどだった。他の一門など使うか潰すか――あの発言はあながち誇張ではない。

 リードは素直に祖父の言葉に従いつつ、しかし少々遠慮がちに口を開いた。

「……あの、お祖父様」

「なんだ?」

「先ほどすぐそこでソーン卿にお会いして、ご挨拶したのですが……」

「ふむ」

 上機嫌で相槌を打つ祖父を上目遣いに見上げ、リードはわずかに声を落とす。

「……お祖父様、あの方に何かなさいました?」

「ん? 何ゆえそう思うのだ?」

 何の心当たりも無いとでもいうように問い返され、リードは口籠った。

「その……なんとなく、目が笑ってらっしゃらなかった……ような」

 その途端、にこやかだったグネモン卿の顔がはっきりと険しくなる。

「なんじゃ、まさかソーン卿め、八つ当たりでそなたに意地悪な態度でも取りおったのか? なんと大人げない!」

 慌てて全力で首を振る少年と勝手に憤慨する老人を眺めながら、貴方ではあるまいし……という言葉を、クローブはすんでのところで飲み込んだ。



「……すみません、ディル」

 あれからさらに庭の小道を進み、現れた大木の木陰に設えられたベンチに腰掛けると、ヴィーは隣にディルを座らせ、詫びの言葉を口にした。

「あまりにも腹が立っていて、なかなか口が利けませんでした。怖がらせてしまいましたね」

「ううん。大丈夫……」

 ディルは首を振る。よほど自分はヴィーを信頼しきっているのか、不思議と彼自身に恐れは感じなかった。ただ、怒りというより苦痛に耐えているとでも言ったほうが当てはまりそうな様子が、子供心にも痛々しく感じられた。

 リエール卿は腰を下ろしたふたりの背後で、大木の幹に寄り掛かっている。ヴィーは彼を振り返り、そうだ、とディルに向かって言った。

「ディル、紹介しますね。このひとはエレカンペインのリエール都市伯。私の剣の師です。途中で放り出されましたけど」

「あまりに才が無さ過ぎてな」

「教えるほうのですよね?」

 即座に切り返すヴィーをじろりと一瞥してから、リエール卿はディルに視線をやった。

 ディルは慌てて立ち上がり、緊張気味に口を開く。

「え、と……は、はじめまして。ディル……です」

 なぜ、自分の旧主より身分の高い相手がこうも次から次に現れるのか、とディルは目が回りそうになる。書記見習いだけに、他の使用人の子供たちに比べたら丁寧に言葉を教えられていたほうではあるが、所詮屋敷の雑用係でしかなかった自分が、身分ある相手にこんなあらたまった紹介などされたらどう振舞えばよいのか分からない。

「ウォード・ラングワートだ」

 驚いたことにリエール卿はまともにディルに名乗って返した。貴族どころか騎士ですら、平民の挨拶に頷きを返すだけでも丁寧な部類に入るのだが。

 侯爵家の屋敷で初めて彼を見たときは、クローブにも似た峻嶮さを感じたが、リエール卿には、ぞんざいな口調の中にもどこか鷹揚な雰囲気がある。当初抱いたほどの恐ろしさを、ディルはもう感じなくなっていた。

(もしかしてヴィーに、暗くなる前に逃げ道を探しとけって教えたひとなのかな?)

 あの夜、赤夜狐から走って逃げたときの話だ。

 だとしたら、なんだかんだと言いながらも、ヴィーが信頼しているひとなのだろう。

「座れ。こいつも積もる話があるようだからな」

 リエール卿はこちらを見上げたまま固まっているディルに顎でベンチを示した。

「さて……何から話しましょうかね」

 再び腰を下ろした彼に、ヴィーはそう言って考え込む。ディルはごくりと唾を飲み込み、そして言い難そうに口を挟んだ。

「ね、ねえ、ヴィー。あの……おれ、どうしても訊きたいことがあって。……いい?」

「ええ。なんでしょう?」

「……え、と……」

 ヴィーがあまりにもあっさり承諾するので、かえってディルは口籠ってしまった。

 もしかしたら、この質問はまたヴィーの怒りや悲しみを蒸し返してしまうかもしれない。そう思うと気が引ける。しかし、これを知らずにこの先彼と話すことも危険に思うし、何より、ディル自身の気持ちが、真実を確かめずにはいられなかった。

「さっき……話してた、アルテミジア様って……フレーズ伯爵家の姫様、なんだよね? その姫様って、静かな感じで、亜麻色の髪だった?」

「――……」

 ヴィーの動きが止まる。同時に背後で、リエール卿が驚いてこちらを振り向く気配がした。

 ディルは真剣に、ヴィーの心の動きを見逃すまいと凝視する。

 だが、探るまでもない。このふたりの反応がすべてを物語っていた。

(……やっぱり……)

 ディルの心に、落胆が広がる。

 囚われていた間、幾度も心に届いた声。あれは、もしかしたら本当に夢ではなかったのかもしれない。

(……姫様は、もう……)

 この世には、いないのだ。

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