第18章 ソーン伯

「オリス!」

 春先の明るい庭の向こうから、溌溂とした少年の声が響く。

 呼び掛けられた少女は顔を上げ、部屋の中から外を見遣った。ちょうど、声の主が窓の下まで駆け寄ってくる。

 少女はほんの少し身を乗り出し、侍女に注意されない程度に控えめに、二階の窓から顔を覗かせた。

 そのすぐ下から灰緑色の大きな瞳を輝かせてこちらを見上げるのは、濃い髪色をした十三、四歳くらいの騎士見習いの少年。少女がこのわずかに歳下の彼の顔を見たのは、数ヶ月ぶりのことだった。

「まあ、リディ。もう王都に着いたのね。――あら、でも父上は?」

「もう少しでいらっしゃるよ。私は先触れとしてひと足早く来たんだ。……でも急な来客だとかで、まだお祖父様にお目にかかれていないのだけど」

「お客様……? どなたかしら」

 好奇心の強そうな目をしばたかせ、少女は首を傾げる。

「ソーン卿だっていう話だよ」

 少年の言葉に、少女は目を丸くした。

「ソーン卿!? ずいぶんと珍しいお客様だこと。急なご来訪なんて穏やかではないわね。どうせまたお祖父さまが何かなさったのでしょうけど」

「姫様、またそのようなことを仰って」

 傍に控えながらふたりの会話を聞いていた年配の侍女が、困ったような顔つきで少女をたしなめる。

 少女は振り返って反論した。

「だって滅多にカンファーにおいでにならない方よ。逆は考えにくいわ」

「そういうことではございません……」

「何もなくてソーン卿ほどの方がわざわざいらっしゃるはずないでしょう? それともわたくしの知らないうちに、お祖父さまとお友達になったとでも?」

 黙してしまった侍女に、少女はにこりと微笑む。

「何かとリリー家にちょっかいを出すのは我が一族の殿方の趣味みたいなものよ? いまさらわたくしの言葉を咎めたところで何になるの」

「う……ん。男全員って言われるとなんともだけど……まあ少なくともお祖父様はそうだよね」

 少年がそう口を挟み、ふたりは顔を見合わせて悪戯っぽく笑い合う。

 その様子に侍女は嘆息した。

「オリス様、リード様。おふたかたとも、お巫山戯ふざけの悪口はたいがいになさいませ。旦那様はご一門の繁栄のために日々、お心を砕いておいでなのですよ」

「そんなことは分かっているわ」

 オリスと呼ばれた少女は唇を尖らせる。

「ただ悪だくみをなさっているときのお顔があんまり楽しそうだからいけないのよ」

「お祖父様ってオリーの前でそんなことをなさってるの?」

「近頃はもうないけれど……小さい頃はわたくしをお膝に乗せたままいろいろ聞かせてくださったわ。何の権益が欲しいから誰と誰を不仲にさせるべきか、どこに道を通せば隣の領地から富を奪えるか……それはもう、活き活きと」

 背後で侍女が顳顬こめかみを抑えた。黙っていれば愛らしい姫なのに、これでは行く末が心配でならない。しかし元凶が他ならぬこの屋敷の主人あるじとあっては、何を諫めても説得力に欠けてしまうのだった。

 結果、この姫の利発そうな明るい緑の瞳は常に悪戯っぽい光を浮かべ、健康的に色付いた形の良い唇は侍女が毎度やり込められて勝てたことがないほど達者によく動く。

 お元気なのはよいけれど、こんな調子では他家に嫁がれてから苦労なさるのでは……と、長年仕えてきた身としてはあまりに気掛かりでならない。

「……リード様、いくらご来客中とはいえ、いつまでもこちらで油を売ってらしてよろしいのですか? デーツ卿が先にお着きになられたら、先触れのご使者として恰好がつきませんよ?」

「あっ、そうだった」

 言われたリードははたと我に返り、軽やかに身を翻す。

「オリー、じゃあ、ちょっと戻るね。お祖父様にご挨拶とご報告ができたらまた来るよ」

「ええ。でもきちんとお仕事してね」

「分かってるよ! じゃあね」

 にこやかに手を振って、来たときと同じように駆け去っていく。

「リード様はいつもお元気ですこと」

 少年の後ろ姿が庭の木々の向こうに消えるまで見送った後、侍女はにこにこと言った。

「相変わらず、姫様によく懐いておいでですわね」

「懐く……」

「お役目の合間を見つけるや否や、本棟からこちらまでわざわざいらっしゃるなんて」

 オリスはリードが駆けていった方角をぼんやりと見遣り、小さくため息をついた。

「幼馴染の気安さなのかしら。あの子はもう、わたくしが気に掛けてあげる必要なんてすっかりなくなってしまったのに」

「そのような問題ではないのでしょう。きっとリード様にとって、姫様はいつまでも、何かと構ってくださる優しい従姉君あねぎみなのですわ」

「……昔のリディは立場も微妙で、そのくせやたらと純朴だったんだもの。放っておけなかったわ」

 寂しげに言いながら、オリスはつまらなそうに窓辺に頬杖をつく。……が、すかさず侍女から「お行儀が悪い」と目線で非難され、仕方なく肘を降ろした。

「聞いてるかしら? あの子、父上の従者の中では剣も馬術もいちばんの腕前なのですって。父上に差し向けられた刺客を退けたこともあるそうよ。そのくせわたくしに向ける顔は昔のまま……大した食わせ者になったのね。もうわたくしの出る幕なんてないわ」

「……姫様はいったい何をなさりたいのです……」

「わたくしはね! 頼りない誰かをそっと支えて差し上げるのが好きなの。だからリディがすっかりわたくしの助けなんていらない子に育ってしまったことが――良いことなのだけれど――でも、少しつまらないの」

 まるで息子を持つ母親のような彼女の嘆きに、侍女はどこから何を指摘したものか、と黙り込んでしまった。そしてはたと、あることに思い至って恐る恐る口を開く。

「……姫様……まさか……これまで旦那様や、お父上様がよくよく吟味なさって引き合わせてくださった殿方を片端から袖にしてらっしゃるのは……」

「そうよ」

 オリスは平然と肯定した。

「わたくし、そつのない殿方には興味が無いの。せめて一族にとってとても益のある相手だというなら我慢するわ。でもどなたもカーラント派のなかでも無難な方々で、わたくしが厭と言ったらお祖父さまも父上もすんなり引き下がる程度の相手ばかり。そんなところに嫁ぐより、よほどわたくしが役に立つ道があるはずよ。……なのにお祖父さまったら、ちっとも聞き入れてくださらない……」

「姫様のことがご心配なのですよ」

「そうね……。ただでさえ未だに宮廷人の半分は、下賤な成り上がり一族め、という目で見てくるものね。――でも、それに負けずに戦ってきたからカーラントの今の地位があるのでしょう? わたくしだって一族のために役立ちたい。王妃に立たれた伯母上のように、とまではいかないにしても……」

 そこまで言って、オリスは再び盛大なため息をついた。

「ああ、でも……! わたくし、伯母上が羨ましいわ。だって陛下はまさにわたくしの理想の殿方なのだもの……!」

「ひ、姫様……!?」

 何やらとんでもない発言が飛び出した気がして、侍女は慌てる。しかしその先に続くオリスの言葉に、別の意味で血の気を失った。

「あの頼りなげな風情、うっかり押しの強い諸卿に流され誤った判断ばかりなさってしまわれる危うさ。伯母上が常に軌道修正、いえお支え申し上げているからこそのご治世……。伯母上も、さぞや嫁ぎ甲斐があったことでしょうね」

「姫様……! いくらなんでも、国王陛下に対してご無礼が過ぎます!」

 青くなって諫める侍女に構わず、オリスは外に視線を投げかける。本棟の方角を見ながら小さく息をつくと、自身の問題発言などまるで省みる様子もなく話題を変えた。

「ソーン卿ですって……。詳しいことは分からないけれど、昨年、陛下やお祖父さまと、何事かあった方でしょう? 陛下に泣きつかれた伯母上がお祖父さまに怒鳴り込んでいらしたわね……。お祖父さまは大丈夫かしら。クローブはお側についているのでしょうね?」

「クローブ様がそのような場面で旦那様から離れるなど、有り得ませんわ」

「だと良いのだけれど。いったいなんのご用件なのか気掛かりだわ。殴り込みではないでしょうね……」

「殴り……」

 そのような言葉をいったいどちらでお覚えになったのやら、と侍女は再び困惑顔になった。



 血相を変えて戻ってきた、逃げた子供を追って出ていったはずの使用人からもたらされた報告に、グネモン卿と騎士クローブは揃って口を真一文字に引き結んだ。

「……あい分かった。退がってよいぞ」

 それ以上には表情を変えず、グネモン卿は報告を終えた彼を退がらせる。

 使用人が部屋から退出すると、老人は背後から自分に礼装用のマントを着せ掛けているクローブを振り返った。

「……今の報告からすると、ソーン伯が単身裏街道をほっつき歩いていて野盗に捕まったということになるのか?」

「そうなりますな……信じ難いことですが」

 クローブの同意に、グネモン卿はいささか荒っぽく鼻を鳴らした。

「ついでに命もられてしまえばよかったものを!」

「そのような本音はしばらくお仕舞いください」

「そうは言うたとて、どう考えてもいちばんつまらぬ展開になっておるのだぞ?」

 主人あるじの子供のように拗ねた口調に、クローブは一抹の不安を覚える。

「お気持ちは分かりますが……リエール卿を伴っておいでとなるとよくよく言動に留意なさらねば。直接エレカンペインに喧嘩を売ることになりかねません」

「その役回りはリリーのはずであろう。まったく気に入らん!」

 憤然とグネモン卿がそこまで言ったとき、家令がゆっくりと扉を開けてうやうやしく入室してきた。卿は仕方なく口を噤む。

 家令に続いてこの国では稀な淡い金髪の、柔らかい微笑を浮かべた若者が、ゆったりとした足取りで姿を現した。

 途端、室内の空気ががらりと変わる。

 グネモン卿が彼の姿を直接目にしたことは、まだ数えるほどしかない。卿が、と言うより、カンファー宮廷の貴族の殆どがそうであろう。

 遠目でしかその姿を見掛けたことのない多くの者は、一見して彼について、外見こそ目を惹くものの御しやすく無害な若輩者、と多少の侮りを含んだ印象を抱く。

 それは、彼がその地位や血統を考えれば驚くほどに控えめで丁寧な態度を崩さず、相手を威圧するような尊大さや傲岸さとは無縁に見えること、そして彼自身を取り巻く本国での特殊な事情に依拠している。

 しかしグネモン卿をはじめとする、この若者と直に対峙したことのある人間になると、その評は一変した。

 グネモン卿は細心の注意を払って、この客人の一挙手一投足を観察する。

 人間の挙措はその内面を映す鏡だ。心のどこかに乱れや癖があると、それは大なり小なり必ず動作に表れる。それを読み取り、どこから相手を揺さぶり突き崩すかを探るのが、グネモン卿のやり方であった。

 しかしこの若者については、その手が通用したことがない。

 いまだ成人をわずかに越えたばかりの年齢であるにも拘らず、その流麗な物腰からは若さゆえの浮つきやあらのようなものが欠片かけらも見出せない。

 優雅ではあるが柔弱さはなく、すっと無理なく伸びた背筋に顔のわずかな角度や手指の動き、足先の運びに至るまでの全ての所作、浮かべる表情のひとひらから視線の動きの流れひとすじまでもが、無意識のうちにも完璧に制御されている。

 つまり、彼にはグネモン卿が狙うような精神的な隙が無いのだ。

 磨かれた珠のようだ、と卿は彼を見るたびに思う。

 生まれ持った外見も抜きん出てはいたが、それだけではこの若者の纏う特異な空気は説明がつかない。その練り上げられた気品は、徹底的に手をかけ、ひとつのきず、ひとつの歪みも無く磨き上げられた水晶玉を思わせる。それでいてどこまでも自然なのは、その品格がお仕着せではなく、自身が何者であるかという強烈な自覚によって築き上げられたものだからだろう。

 長らく宮廷に身を置くグネモン卿ですら、彼ほどの者は他に見たことがない。

(……こんな人間を生み出すのだから、やはりアイブライトは底が知れん)

 表面上は友好的な笑みを浮かべながら、卿は内心で舌打ちする。彼にとって、この眼前の人物ほど不可解で厄介な存在はなかったからだ。

 若者は、先ほどまでこの場で散々に恫喝されていた子供を傍らに伴っていた。子供はひどく表情を強張らせ、半ば縋るように若者に身を寄せている。

 彼の庇護者がこの客人だったと報告を受けても俄かには信じられなかったが、この様子を見る限り、事実であるらしい。それにしても、その組合せはまさに珍妙としか言いようがなかった。

 さらにそのすぐ背後に黒ずくめの長身の騎士が付き従っている。剣豪と名高く、公の場では決まって黒い装束に身を固めて現れることから、『黒衣の騎士』と異名を取る人物だ。

 微笑を絶やさぬ手前の若者とは対照的に、引き締まった面持ちで油断なく周囲と若者に目を配っている。

 若者よりはこちらの騎士のほうが、よほどグネモン卿にとってなじみのある顔だったが、宮廷に現れる彼は社交的で如才ない人物だった。

 しかし今は厳格な面持ちを崩さず、宮廷人ではなく武人としての振る舞いを前面に押し出している。その立ち位置からして会見の主導者は若者であり、自身は随行に徹するつもりの様子と見えた。

「これはソーン卿、御自らのお運びとは、珍しいこともあるものです」

 グネモン卿は客人にそう、声を掛ける。

 一行を率いる若者は正面に進み出ると、けぶる金の睫毛をかすかに上げ、その奥に潜む双眸をこちらに向けて静かに口を開いた。

「陛下の岳父殿におかれましてはお変わりなく壮健のご様子にて、大慶の至り――」

 淀みない口上と共に、蒼穹を映した湖面を思わせる、透き通るような薄青の瞳がこちらを覗く。

 一見、奥底まで見通せるのではないかと錯覚させる眼差しは、その実まさに深淵を抱く湖水のごとく、あらゆる真意が透明な揺らめきの向こうに撹乱され、余人には垣間見ることすら叶わない。

「貴方もご健勝で何より……久方ぶりですな。急なお越しと聞いて驚きましたぞ」

 まったくこんな若造が、こうも難解な目をするものかと内心で半ば呆れながら、グネモン卿は努めて朗らかに応える。

 若者はこちらに礼を取るように、凪いだ瞳を軽く伏せた。

「先触れも出さず失礼いたしました。突然の訪問にも拘らず快く迎え入れてくださいましたこと、感謝いたします。――少々、急いでおりましたので」



 社交辞令もそこそこに、ヴィーは言葉の調子を変えた。それは、遠回しな腹の探り合いをするつもりはなく、単刀直入に話をしたいという意思表示であった。

 ヴィーはふと、グネモン卿の背後の壁面に目をやる。そこには、ふたつの大陸が描かれた大きな地図が架けられていた。

(……ああ、そうか)

 多くの者がただの美術品と捉えるであろうそれを見て、ヴィーは何かが心の中で腑に落ちたような感覚を得る。……が、それについてはひとまず横に置き、再び視線をグネモン卿に戻した。

 卿はヴィーの後ろのリエール卿と目礼を交わしたところだった。そして何かを思いついたように口を開く。

「――お話の前にソーン殿。リエール卿と共においでということは、此度は貴方のことをラヴィッジ伯……あるいはウォータークレス公とお呼びすべきなのですかな?」

 その問いに、ヴィーはふわりと微笑んだ。

「ソーンで構いませんよ。リエール殿とは成り行きで合流いたしまして。貴方の屋敷に赴くと話したら、ついていくと言って聞かないものですから、ならばと随身をお願いしたのです」

「それは心強い限りのことですな。しかし我らの関係を思えば、リエール殿のご心配ももっともなことと申せましょう」

 グネモン卿の言葉に、ヴィーは意外そうな顔つきになって小首を傾げた。

「おや、そうでしょうか? 貴方ほどの御仁にお会いするのに、護衛など無用と思っておりましたが……私の思い違いでしたか。これでは、リエール殿から若輩の蛮勇、とそしりを受けても一言いちごんもありませんね」

 ヴィーはいささか芝居がかった様子で、悄然としてみせる。

「それはリエール殿も手厳しい。しかしソーン殿、そのようにこの老いぼれを苛めてくださいますな。無論、我が屋敷の内で貴方に危害が及ぶことなどあろうはずがありませぬ。今申したのはあくまで一般論――実態はどうであれ、という話ですよ」

 こちらも大仰な身振りと共に返された相手の言葉に、ヴィーは一転して晴れやかに笑った。

「ああ、ならば安堵いたしました」

「ですが、貴方はいくら用心を重ねても足りることはない身、リエール殿の忠言をれられたのは賢明なことと存じますぞ」

「長上のお言葉、千鈞せんきんの重みと感じ入りました。仰る通り、軽率な真似は控えなくてはなりませんね」

 殊勝な様子でヴィーは相手の言葉に頷いた。

 背後のリエール卿から、どうせ聞く気もないくせに……とでも言いたげな不穏な気配を感じるが、予想済みなので放っておく。

「さて、いかなるご用件か――などと伺うのもいまさら白々しいことでありましょうな? 貴方が、その子供が言う『連れ』であられるのであれば」

 ヴィーの意を汲んでというのでもないだろうが、一通りの茶番を終え、グネモン卿は自ら本題に切り込んだ。

 ヴィーは肯き、早々に話題に出されてびくりと身体を硬直させたディルの頭に手を置くと、安心させるようにゆっくりとその髪を撫でながら答えた。

「そうですね――。まあ、首謀はあちらですし、むしろ貴方にはご迷惑をお掛けしてしまったとすら思っているのですよ」

「ほう? それは意外なお言葉ですな」

「この子から託された書簡を見ましたが……なかなかよくできているとは思いましたよ。署名は細部まで再現されていましたし、ジヌラとの援軍の密約――という内容もまあ、今の情勢をかんがみれば僅かながら真実味が含まれ、なおかつ世間からすれば寝耳に水という突飛さもある。ジヌラからの流れ者の被害に悩む諸卿も多い昨今、宮廷や議会の反感を煽るに足るものと言えましょう」

 聞いていたディルは驚いてヴィーを見上げる。目が合った彼は、ディルに向かってほんの少し悪戯っぽく微笑んでみせた。ディルの目が真ん丸に見開かれる。

(あの署名、ヴィーのだったの……!?)

 いったいどういう偶然か。先日、クローブがわざと野盗に捕まってきたのでは、と言った言葉がいまさらながら現実味を帯びてくる。

(でも……)

 しかし、ディルはその考えにも内心で首を傾げた。

 メリア署名の偽造が行われた、と聞いたとき、確かにヴィーは驚いていたからだ。

「……ですが、いくら署名メリア付きとは言え、貴方があれを陛下のお目に掛けたとて、恐らく陛下は動かれない……」

 そこまで言って、ヴィーはディルの頭から視線を外して顔を向け、問うようにグネモン卿の目を覗く。見つめられた老人は肩を竦めた。

「それについては同感ですな。昨年、どなたかに散々な脅迫と共に無理難題を課されてしまわれたせいで、陛下はすっかり慎重になられておいでのご様子。到底、真正面から貴方を糾弾し、排除しようなどとは考えられますまい」

 ヴィーは少々大袈裟に、困ったような顔をした。

「脅迫だなどと……人聞きの悪いことを仰る。最悪の事態を回避するための助言をした上で、よくよくご忠告申し上げただけですよ? 下手をすればあの方は……ひいてはこの国は、エルムで孤立するところだったのですから」

 ヴィーはディルの頭から手を放し、彼の肩に戻す。それと同時に、さも気遣わしげな顔つきで言葉を継いだ。

「貴方としても、此度のフレーズ卿からの要請は頭の痛いものだったことでしょう」

(フレーズ!?)

 ヴィーから思いもよらぬ名を耳にして、ディルは咄嗟に彼を見上げた。

 フレーズと言えば、あの亜麻色の姫の家ではなかったか。まさかその名をこの場で聞くことになるなんて。

 しかし落ち着いて考えてみれば、あの家はリリー一門の重鎮だ。となれば当然、ヴィーとも関わりがあることになるのだろう。

(……あれ、もしかして……ヴィーと姫様って、知り合い……?)

 思わぬ繋がりの可能性を見出し、ディルの胸は知らず高鳴った。

 しかしそんな彼の心境などお構いなしに、貴人たちの会話は進んでいく。

「――仮に首尾よく書簡を手に入れ世間に開示した場合、貴方は世論と陛下の板挟みになる可能性すらあった。一年前、陛下のご様子を見かねた妃殿下に直接苦情を言われた貴方と違い、フレーズ卿にはとにかく私をどうにかしたいという思いがあるだけで、陛下のご心境まで考慮できはしないでしょうからね。……まあ、それがどなたのせいとは申しませんが」

「おやおや、この老いぼれはすっかり悪者のようですな」

 苦笑交じりの老人の言葉に、ヴィーは穏やかに首を振った。

「いいえ、そのようには思っておりません。貴方はカーラントの宗主として、為すべきことを為されているだけ――私はそう捉えています。貴方の真意を見抜けぬフレーズ卿に隙があったことは否めませんし、貴方がそこに付け入るのを防げなかった私の責任とも言えます。……その件については結果的に事無きを得たのですから、これ以上、なにと言う気はありませんよ」

「はてさて、宗主の座を貴方に強奪されたフレーズ卿はとうてい、『事無きを得た』などと捉えておいでではありますまいな」

「それも含めて……です。貴方の可愛い操り人形の手足を、私は縛り上げることができたわけですからね」

 繰り出される言葉の剣呑さとは裏腹に、ヴィーの表情はあくまで柔らかい。その対比にグネモン卿は呵々と笑い出した。

「いやはやまったく、貴方はお気が強くていらっしゃる! 私を含め、見誤った人間はことごとく手痛い目に遭わされたというわけですな」

「さあ、私は私の仕事をしたまでですが……。貴方は負けない戦が上手な方。目指すところから遠ざかりはしても、さしたる痛手など被っておいでではないでしょう。――此度のことも、なぜ貴方の手の者が追手として現れなかったのか不思議でしたが……いまさらそこを追求するのは無粋というものですね。フレーズ卿の身勝手に貴方を付き合わせるような事態を未然に防げたこと、リリーの宗主として喜ばしく思います」

 グネモン卿に最後まで陰謀に付き合う気が無かったことについては気付かぬふりをする代わりに、もし卿がはかりごとの筋書き通りに行動した場合に立たされたであろう苦境から救ってやったという体を装い、ヴィーは言葉を結んだ。

「これはご心配痛み入ります。貴方のご厚情に私は感謝すべきなのでしょうな」

 ヴィーの恩着せがましい言い草に腹が立たないわけもないであろうに、そこはグネモン卿も満面の笑みで返してきた。

「まさか、礼を言われる筋合いなどありません。どうぞお気になさらず。――では、これにておいとまいたします」

 相手が不本意さを匂わせながら表してきた謝意を辞すと、ヴィーは一礼し、傍らのディルをそっと促して踵を返す。

 ディルは唐突に終わりを迎えた会談に戸惑いつつ、慌てて彼について歩き出した。

 リエール卿をはじめ、随行の者たちもそれに従い、礼を取って立ち去り始めたとき、思い出したかのようにグネモン卿がヴィーの背に呼び掛けた。

「ソーン殿。――ひとつ、伺ってもよろしいか?」

 ヴィーは立ち止まって、身体ごと振り返る。

「何でしょうか?」

 グネモン卿は、ヴィーの静謐をかたどったような瞳を真っ直ぐに見据えたまま、よく通る声で言った。

「昨年身罷られたフレーズ卿の妹君……アルテミジア姫。貴方にみさお立てして毒を呑まれたという噂は、まことですかな?」

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