第2部

第17章 新たな幕開け

 ねえ、ソレル。

 私は今、少しばかり腹を立てている。

 ――ああ、君が私の手紙をちっとも読んでくれないことについてではないからね。それは初めからのことだもの(それなのに私からの便りが途絶えると、君がずいぶん落ち着きを失くしてしまう、となぜか私がレティに文句を言われてしまった)。

 ……そんなことではないんだ。

 ただ君は、それならそれで、自分に寄せられたものにもう少し注意を払ったほうがいい。どこかに放っておいたりせずに。

 そうして引き起こされたこの事態については、私もちょっとどうかと思っているよ。

 もう、君だってあとひと月も経たずに十五になる――つまり成人だ。

 いつまでもレティや、周りの人々がすべてを助けてくれるわけじゃない。

 君には、私以上に向き合わなければならないものがたくさんある。どうあっても、それらから逃げることはできないんだ。

 きちんと向き合ってるつもりでいたって、取り零してしまうものもあるんだよ。

 ただでさえ、むしり取ろうと手を伸ばしてくる者の多さときたら、君は私の比ではない。

 だから敢えて言いたいんだ。

 私の手を拒むことが、君の選択ならそれでもいい。でもそれならせめて、きちんとその目を開けて、自分自身で世界を見て、と。

 なんと言っても、君は――。



「……って、手紙に書いたって、どうせ読んではくれないわけだけど」

 つい先日も、同じようなことを言ってため息をついたな、とヴィーは思う。

(だいいちこんなこと書けるわけがない。説教なんて、万一読まれでもしたら……)

 その先の空恐ろしい想像に、彼は小さく身震いする。

「何をブツブツ言っている」

 背後から呆れたような顔で、リエール卿が声を掛けてきた。

 これも最近言われたな、と思い出しヴィーは苦笑する。彼は卿を振り返り、微笑んだままかぶりを振った。

「……なんでもありません。――行きましょうか」



 その名を自分で口にしても、俄かには信じられなかった。

 ほんとうに、迎えに来てくれたのだろうか。――夢ではなく。

 ……だって相手の顔がよく見えない。

「やっと会えた。……もう、大丈夫ですよ」

 あの、穏やかな声。柔らかい口調。

 ディルは何度も目をしばたいて、どうにか邪魔な涙を払い落とす。

 ようやく取り戻した視界の中に佇むのは、やはりヴィーだった。

 しかし、共にいたときの埃や泥で汚れた質素な旅姿ではない。顔も髪もすっかり浄められ、上質な織の長衣に鮮やかな紫紺のマントを纏い、それを右肩の精巧な金細工の装飾で留めている。美しいひだが形作られたその合間からは、上体に斜めに掛けられた肩帯が覗いていた。

 貴族の略礼装の出で立ちだ。

 斜め後ろに黒ずくめだがこれまた上等な装いの金髪の騎士を伴い、他に従者と思しき者が数名つき従っている。

「ヴィー……?」

 ディルは戸惑いながら、再度彼の名を呼んだ。

 ヴィーはディルに微笑みかけたのち、彼の両肩に手を置いたまま、ことの成り行きに呆然としている家令に向かって言った。

「この子は私の連れです。なぜ縄を?」

「……貴方さまのお連れ……? 何かのお間違いでございましょう」

 ここまで追ってきていた初老の使用人と顔を見合わせながら、家令は当惑を隠せない様子で答える。

 ヴィーは首を振った。

「いいえ。私はこの子を迎えに来たのです。すぐに拘束を解いてください。彼が縛されなければならない理由などないはず」

「し、しかし……この者は手形も無く内郭に侵入した罪人と……」

 ヴィーの気迫に及び腰になりながらも、家令はどうにか反論を試みる。

 その言葉を聞き、ディルは俯いて眉根をぎゅっと寄せた。ああ、やはりそういう扱いをされるのか。

 しかし、ヴィーは家令の言にはまったく動じず、むしろにっこりと笑って言った。

「おや、捕らえて内密に運び込むことを、こちらでは侵入と表現するのですね。ひとつ勉強になりました。……それはさておき、この子の手形ならありますよ。――ここに」

「え?」

 家令より先に、ディルは声をあげてしまった。

 自分の手形は破棄されたのではなかったか。

「ディル、貴方の手形を持ってきました」

 そう言って、ヴィーは従者のひとりに目配せをし、一枚の羊皮紙を受け取るとディルの前に広げて見せる。

 それは真新しく、どう見ても自分が以前所持し、気付かぬうちに取り上げられてしまったものとは違う。しかしいくつもの印章が捺されたその書類の内容は、間違いなく内郭の手形の様式で、そこに確かに、ディルの名が記されていた。

 平民の手形――ことに通行だけではなく居住までをも認める手形の発行は、内郭に屋敷を構える貴族の主人と、その保証が要る。しかし今のディルには仕える主人がいないし、父が罪人とあってはどのみち執政府に拒否されてしまうはずだ。

 地続きで他大陸と境を接する国カンファー、その都であるエキナセアは、大陸一出入りと住人の管理が厳しい。そのせいで閉じた内郭と出入り自由な外郭という、他では見ない明確な二重構造になったと言われているほどだ。

 クローブが言ったように、ディルの身元を保証し手形を再発行させることはかなり難しく、どちらかと言うと不可能に近いはずだった。少なくとも、数日のうちにできることではない。

「ど、どうやって……?」

 ヴィーの顔と手形を交互に見つめながら、ディルは信じられない気持ちで問う。

 するとヴィーは、それはもう、澄み切った晴れ空のごとく底抜けに爽やかな笑顔をディルに向け、こともなげに言った。

「権力で」

 ディルは面食らう。

 ヴィーの背後から、黒ずくめの騎士の盛大なため息が聞こえた。



 よくよく見れば、ヴィーの装いは一見、仰々しくはないものの、どれほど染めを重ねたのか知れない深い色合いのマントや長衣、袖周りや裾に施された精緻な縫い取り、複雑な地模様が浮かぶ光沢のある飾り帯、大胆に金糸銀糸を使った肩帯……と、貴族屋敷に仕えていたディルでさえこれまで目にしたこともないような生地や、凝った意匠のものばかりだった。

 はっとして、慌てて彼の持つ手形をもう一度覗き込む。手形には保証人の貴族の名が記されているはずだ。

 そうしてディルは恐る恐る保証人の位置を目でなぞり、寸刻、頭の中が真っ白になった。


 ソーン卿 ヴァーヴェイン・リリー=アイブライト


 そう読めるのだが。

 ディルの目が何度も同じ場所を行き来する。しかし何度読んでも、同じ結果にしかならなかった。

 ソーンは地名であり、家名ではなく地名を冠する卿とはすなわち領主のこと。ソーン州の領主の称号といえば――。

(ソーン伯……)

 ソーンを含む、カンファー西部のいくつかの州を治める大領主。

 子供でも知らぬ者はない。国王以上の実権を握るとまで囁かれる筆頭貴族であり、第二の王家とも称されるリリー一門の宗主だ。

(……は?)

 混乱するディルの脳裏を、ある記憶の中の情景がよぎった。


 ――ディル、ディル! ほら見てください。捕れましたよ魚! あ、ちょっと小さいけど怒らないでくださいね――。


 腕捲りをして裸足で川に入り、顔も衣類もびしょ濡れにして、満面の笑みで初めて捕まえた魚を掲げてみせるヴィー……。

 知らず、ディルの眉根が寄せられる。

(……なんの冗談なの?)

 彼が声も出ないほどの困惑で棒立ちになっている間に、ヴィーは絶句している家令の方に顔を向けた。

「というわけで、彼は手形を持たない侵入者に該当しません。ただちに縄を……」

 しかしヴィーが言い終わらないうちに、ばらりとディルの縄が解ける。

 何が起こったのか理解できず、驚いたディルはきょろきょろと周りを見回した。そして、短剣を握った黒衣の騎士と目が合う。

 はるか上方から自分を見下ろすその顔は憮然としており、鋭い視線になんだかクローブを思い出して、ディルは怖くなった。

「――リエール卿、ひと様のうちで気軽に刃物を振り回さないでください」

 ヴィーが小声で抗議する。

 わざとなのか、澄んだ高い音を響かせて短剣を鞘に収めた騎士は、小さく鼻を鳴らした。

「埒が明かんだろうが」

 不機嫌そうな声音にディルはさらに怯んだが、黙っているわけにもいかないと思ってぎこちなく口を開く。

「あ、あの……ありがとうございます」

 律儀に礼を言われた騎士は意外そうな顔になり、そしてわずかに相好を崩した。

「ほう、意外と躾の行き届いたガキだな」

 ヴィーが卿と呼び掛けたところを見ると彼も貴族なのだろうが、それにしては砕けた物言いにディルは驚く。

「いい子でしょう?」

 なぜか身を乗り出し気味にそう言うヴィーに、リエール卿は胡乱うろんな目つきになった。

「なんでお前が得意げになる。親か」

「一応庇護者ですから」

「庇護者、ねぇ……」

 含みのある口調で言い、リエール卿は顎を撫でる。

「あ、今馬鹿にしましたね。……べつにいいですけど」

 拗ねたようにそっぽを向くヴィーを、ディルはただただ呆然と見つめた。

 ヴィーの口調も態度も、あの裏街道を旅していたときとまったく変わらない。それが逆に現実感がなかった。

 ヴィーは広げていた手形を慣れた手つきで綺麗に筒状に丸めると、そっと微笑んでディルに差し出す。

 身体の自由を取り戻したディルは反射的に受け取った。渡された手形を両手に持ち、ヴィーを見上げる。

「……っ」

 何か言おうとした途端、さまざまな感慨がいちどに押し寄せてきて、ディルは声が詰まってしまった。

 そして思い出す。

(……あのときと、同じだ)

 墓地で花を渡されたときと。

 あれがほんとうにヴィーだったのだとしたら、いつも彼は、思いもよらぬものを自分にもたらす。そのたびにディルは、咄嗟に何も言えずに立ち尽くしてしまうのだ。

 そんなディルを見て、ヴィーがふと、何かに気付いたように眉を上げる。微笑が消え、その表情がほんの少しだけ怪訝なものになった。

「……貴方……」

 何か信じがたいものでも見るような目つきになって、半ば呆然と、ヴィーは呟く。

「……どうしたの?」

 凝視されたディルは戸惑いながら尋ねる。ヴィーは我に返って視線を外し、すぐに首を振った。

「いえ……、あとで……話します。――さて、目的は果たせたので、あとはグネモン卿に挨拶して帰りましょうか」

 そう言ってヴィーが前方に向き直ると、家令ははっとして気を取り直し、再び先導を始める。ディルを追ってきた使用人は一礼して踵を返すと、足早にもと来た通路を戻っていった。恐らくことの顛末を主人に注進するのだろう。

 ヴィーはディルの肩を抱くように右手を彼の右肩に置いて歩き出す。

 よいのか悪いのか分からないままヴィーと並んで進み始めたディルは、ようやく、核心を問う呟きが口から零れた。

「ヴィーって……ソーン伯なの?」

 ヴィーはディルの顔を見下ろし、小さくうなずく。そして顔を前に戻して言った。

「私の祖母がこの国から嫁いできたと話したことがあったでしょう? 彼女は三代前のソーン伯の娘で、女子継承人でもありました。以来エレカンペインの私の一族、アイブライトがソーン伯を継承しているのです――実際にはもう少し複雑なのだけれど、それはおいおい説明しますね」

 女子継承人とはその家の継承権を持つ息女のことだ。後継の男子がいない場合、娘のひとりが継承人となり、その夫が次代を名乗る。夫自身は名目のみで、領地や財産はあくまで継承人である妻のものであるが、以降は生まれた子が継承していくため多くの場合、そこで継承者の家名が変わることになるのだった。

「私の名はヴァーヴェイン・アイブライトが正式ですが、この国だとどうにも通りがよくないので、リリー=アイブライトと表記することがほとんどなんです。国民の大半が、今もリリーと聞けばソーン伯を連想しますからね」

 確かに自分もそうだ、とディルは思った。まさか別の家がソーン伯を継いでいたなんて。しかもヴィーの祖母の世代ということは、間違いなく自分が生まれる前からのことではないか。

「……全然……知らなかった……」

 仮にも自分はリリーの屋敷にいたというのに。

「ああ、そこには色々事情があって、敢えて伏せているというか、あまりおおっぴらに話題にはしていないのです。現に、今貴方もとても驚いたでしょう?」

「……うん……」

 ディルは曖昧に肯く。正直、自分を拾ったこの若者がソーン伯だったという衝撃に比べれば、もはやどうでもいい些事にも感じるのだが。

(おれ……ソーン伯に魚捕りさせたの?)

 しかも魚ばかりだと文句まで言ったような。

 今頃になってじわじわと心の底から冷気が這い上がる。

 思い返せば、彼の祖母の話といい、これまでのヴィーの発言の中に嘘はまったく含まれていない。黙っていた事柄が多かっただけで。


 ――王都であれば、私はそうそう脅かされることはありません。


 あの言葉の意味、行く先がグネモン侯爵家かもしれないと予測しつつも、約束を絶対に忘れるな、とまで言ってのけたこと……今となってはすべてが符合する。

 よくよく考えてみれば大言癖があるのでもない限り、そう簡単には出ない科白ではないか。いや正直、こんな真正面から迎えに来るなんて思ってもいなかったのだが。

 そしてディルは、自分がどうしても、はっきりとヴィーの素性を問うことができなかった理由にようやく気付いた。

(おれ、怖かったんだ……)

 ヴィーが、ほんとうはとても遠い存在なのではないか、と。出会ったはじめから、心のどこかで危惧していたのだ。彼の物事を見る目が、あまりにも他の人々とは違っているように感じていたから。

 そしてその漠然とした不安は的中したのだ。

 共に旅し、ひとつの火を囲んで僅かな食料を分け合い、辛うじて飢えを凌ぎながら語り合うことなど、もう二度とないだろう。彼が自分ひとりに向き合って、相手をしてくれることも……。

 ヴィーは確かにディルを迎えに来てくれた。でも、ディルは家族にも等しく感じていた存在を、永遠に失ったような気持ちを拭えない。それがどんなに身勝手で我儘な想いだと分かってはいても。

「……ディル?」

 無意識のうちに俯いてしまっていると、上から気遣わしげな声が降ってきた。我に返ってヴィーを見上げると、彼はいつもの穏やかな眼差しをこちらに向けている。

「どうしました?」

 どうもこうもない、と言いたくなったが、それはただの八つ当たりだ。そう思い、ディルは目を逸らして短く答えた。

「……なんでもない」

 その様子に何かを感じ取ったのか、ヴィーはほんの少し苦笑して、ディルの頭の天辺に手をやり、その髪を少々荒っぽく掻き回す。

「――あとで、ちゃんと話をしましょう。私のことも、貴方のことも」

 そうしてヴィーは手をディルの頭から離し、再び彼の肩の上に置いた。

「……うん」

 ディルは驚きにほんの少し目を見開いて、乱された前髪を手で戻しながら頷く。なんだってヴィーは、自分の小さな不安や戸惑い、そして自分では名も付けられないような複雑な気持ちをきちんと掬い上げてくれるのだろうか。

 ……と、ヴィーの眉がひそめられる。彼は再びディルの頭に手をやった。前髪を掻き分け、その額をまじまじと見る。

「――貴方、額が割れてますよ? 痛くないんですか?」

「え?」

 言われてディルはびっくりし、自分の額を触ってみる。じわりとした痛みを感じ、手を顔の前まで持ってくると、その指にうっすらと血が付いていた。

「あ……。さっき扉にぶつかったから……」

 あまりに必死で負傷したことに気付かなかったのだろう。

「頭から突っ込んだんですか?」

 ディルはこくりと頷いた。ヴィーは苦笑いする。

「よくよく、顔に傷を作る子ですねぇ。せっかく痣が消えてきたのに」

「うん……。最後に殴られたやつ、すごい腫れたよ」

「でしょうね……回復具合から見るにきちんと食事も摂れていたようでよかった。この家ならそれほどひどい扱いはしないだろうと思っていたけど、でも心配でした」

「そうなの?」

「もし貴方を捕らえたのが名族に連なる旧家だったりしたら、そもそも人間扱いされていません。彼らは平民の孤児を人だなどと思っていませんから」

 ヴィーの言葉を極端だとは、ディルにも思えなかった。現に旧主のリリー家が自分に対して行った仕打ちを思えば、納得せざるを得ない。

「カーラント家は悪辣な成り上がりなどと言われてはいますが、実際には合理的なものの考え方をする有能な一門です。身分を理由に無用な虐待はしません」

「……でもおれ、これからひどい目に遭わされそうになってたんだけど」

 先ほどまでの恐怖を思い出し、ディルは身震いする。

「貴方、グネモン卿の誘いを突っぱねるか何かしました?」

「……うん……」

 ヴィーは天を仰ぎ、額に手を当てた。

「ほんとうに間に合って良かった……! 無意味なことはしないけれど、その代わり、逆らう者や邪魔する者には容赦がないのも事実です。……私のせいですよね。あんなことを言ったから」

 それは確かに間違いないだろう。だが、あの言葉が無ければ、ディルはすがるものもなく疑心暗鬼に陥り、最後まで自分の足で立っていられたかも分からない。

「……いいよ。来てくれたから……」

 結果的に、ヴィーの言葉は自分を救った。もう、それがディルにとっての全てだった。

 ディルの科白は短くぶっきらぼうですらあったが、だからこそそこから、彼がどれほどの孤独や不安、恐怖といったものを乗り越えてきたか、それをヴィーは読み取ったらしい。少し泣きそうにも見える顔つきでディルを見つめた。

「……まったく私は庇護者失格ですね。貴方にどれほどのことを強いてしまったのだろう……」

「ちゃんと来てくれたんだからいいって。――だけどもしかして、ヴィーはおれを捕まえようとしてたのがカーラント家だったからああしたの?」

「それはそうです。もし貴方を生きたまま捕らえようとしていたのがリリーのほうだったら、あの手は考えませんでした」

 ヴィーはそのリリーの宗主ではないのか、とディルは思ったが、彼自身の家名がリリーではないということを考えると、そんな簡単な話ではないのかもしれない。

「カーラントであれば、特にこれから登用しようという人材を不必要に痛めつけはしないでしょうから、そういう意味でも貴方の身柄の保障になるだろうと思ったのです」

「……ヴィーは……なんで侯爵様がおれを捕まえようとしたのか分かってたの?」

 まるですべての事情を把握しているかのように語るヴィーに、ディルは不思議に思って訊く。自分だって、グネモン卿の真意を聞いたのはつい昨日のことなのに。

 ヴィーはディルの顔を見て軽く肯いた。

「まあ、大体の見当はつきます。私はグネモン卿がどのような御仁か、多少なりとも知っていますからね。――貴方がもともとリリー家の使用人で、そこでメリアに関わる事件に巻き込まれた、と聞いたときから、大まかに何が起こっているのかは想像がつきました。……グネモン卿がこの件にどのように関わっているのかも含めて、ね」

 一行の歩みが止まる。

 そこは先ほどディルが飛び出してきた扉の少し手前だった。

 まさかやっとの思いで突破したこの扉に、こんなに早く戻ってくるとは、とディルは思う。

 行く手に控えていた使用人がうやうやしく扉を開き、家令が一行を中へと導く。

 本音を言えば、ディルはこの部屋に入りたくなかった。中に先ほどまで自分を嬲り殺せと指示していたグネモン卿と、それを実行しようとしていたクローブがいるのである。そうと分かっていて、再度彼らの視界に飛び込みたいと思えるはずもない。

 本来、自分などが入るべき部屋でもないだろう。加えてソーン伯とグネモン侯の対面などという、大仰なことがこれからなされようとしているのだ。どう考えても場違いである。

 明らかに足取りが重くなったディルに気付き、ヴィーは一段と声を落として言った。

「大丈夫、私がついています。山の中ではあんなでしたけど、ここは王都で、言うなれば私の領分です。……貴方はここまで必死に頑張ってきたのでしょう? それなら、すべてをきちんと見届けたいと思いませんか?」

 ディルははっとして顔を上げる。

 ことの展開にすっかり翻弄され、何が何やら分からなくなりつつあったが、そうか、これは自分の戦いの続きでもあるのか。

 ヴィーと再会できてそれで終わりではないのだ。思えば自身に何が起きたのか、いまだディルには分かっていない。

 それを知り得る日が来ると、あまり本気で思ったこともなかった。ある意味、平民にとっての貴族の世界とはそんなものだからだ。

(でも、ヴィーなら見せてくれるんだ)

 すべてを見届ける。それは本来、言うほど簡単なことではない。彼だからこそ可能なのだろう。

「うん……っ」

 ディルは決然と顔を上げ、緊張に表情を強張らせながらもヴィーに頷いてみせた。

 ヴィーは微笑み、あの夜、ディルが単身カーラントに捕らわれる決意をしたときに見せたような、優しい眼差しを向ける。

 ……ただ、あのときと違い、その薄青の瞳はわずかな憂いのかげりをはらんでいた。

「では、行きましょう。――すべてを知った貴方が、私に何を思うかは分からないけれど」

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