第33章 逃走路

 山査子サンザシの茂みの向こうから追い払われた子供たちは、そのまま屋敷の建物に向かってぞろぞろと歩いていた。皆どことなく足取りが重い。隠れて遊んでいたのが大人に見つかった気まずさも手伝い、全員が無言だ。

 厨房の入口が見えるところまでやってきた彼らは、そこにせわしない様子で何かを探して回る人影を目にした。

「あれ、ホリーおばさんだよな。どうしたんだろ?」

 首領格の少年が首を傾げる。その声に、彼のすぐ後ろを歩いていた小柄な少年が駆け出した。ディルから花を取り上げ、しかし最後には返した子供である。

「母さん」

 駆け寄ってきた少年から声を掛けられたホリーは、こちらを振り向いて眉を上げた。

「あんたたち、今までどこ行ってたの! ――ああ、それどころじゃない。ケイル、あんた新入りの男の子見なかったかい?」

「え……」

 ケイルと呼ばれた少年だけでなく、その場の全員がぎくりと身を固くした。もちろんホリーがそれを見逃すはずもない。

 彼女は彼らを見下ろし、ぐっと眉根を寄せた。

「まさか――あんたたち。寄ってたかって苛めてきたなんて言うんじゃないだろうね?」

 彼らは気まずそうに互いの顔を見合わせ、ケイルがぎこちない口調で答える。

「……だ、だって、あいつルバーブさんの花持ってたんだもん! だから……」

 ホリーの顔がみるみる怒りに染まっていった。ケイルと、その後ろに立つ子供たちまで身を縮こませる。

「訳も訊かずに意地悪したんだね!? 相手の話もちゃんと聞きなさいってあれほど言ってんのにあんたって子は! 情けない、まったくなんて性根なんだか。あんたたちは仕事をサボった分も含めてあとできっちりお仕置きするからね。それで、あの子はどこなの!?」

「え、ええと……」

 ケイルは言葉に詰まって背後の仲間たちを振り返るが、その様子にホリーのまなじりが更に吊り上がった。

「早くお言い!」

「お、おばさん、あいつ連れてかれちゃった」

 首領格の少年が助け舟を出すように答える。ホリーの顔はすぐさま彼の方に向いた。

「誰に!?」

 そこで、再び少年たちは顔を見合わせる。誰の口からも、あの割って入ってきた男の名が出てこない。

 じりじりとしたホリーの怒気を間近に浴びながら、ケイルが困ったように口を開いた。

「……あのおじさんの名前……聞いたことある?」

 ケイルの問いかけにほとんどの少年が首を振る。その様子にホリーはひっと息を呑んだが、直後、一番後ろにいた子供がおどおどと言った。

「お、おれ、名前知らないけど……この冬の前に来たひとだよ……しょうかいじょうってのを持って他の家から来たって、父さんが言ってた」

「なにそれ」

 ケイルが即座に口を出すと、ホリーが答えた。

「あんたたちみたいに親の代からいるならともかく、外からこのお屋敷に働きに入るにはね、元いた家の紹介状ってのがいるんだよ。身元の知れない人間なんて、おっかなくて雇えないからね」

「じゃあ、怪しいひとじゃないのか」

 子供たちは一様に安堵の表情を浮かべたが、ホリーは相変わらず難しい顔をしたままだった。

「母さん? どうしたの?」

 ケイルが気遣わしげに尋ねたが、ホリーは黙って首を横に振った。そして気を取り直したように子供たちを見回す。

「……さぁ、さっさと戻って中を手伝うんだよ。これ以上サボったら食事抜きだからね!」

「はーい」

 大して懲りた様子もない口調で子供たちは返事をし、ホリーに促されるまま厨房に入っていった。

 彼らの後ろ姿を呆れた顔で見送ると、ホリーはくるりと身体の向きを変え、早足で歩き出す。

(冬の前に来た男だって? 南門の下働きじゃないか。なんでこんな正反対の場所に現れて、あの子を連れていったりするんだい!?)

 どう考えても不自然だった。



 ――それを抜けると白い印のついた木戸がありますから、そこから向こう側に出て。


 実のところ、ディルは山査子サンザシの茂みを潜った先の景色をろくに見ていなかった。何しろ、すぐにこの場で遊んでいた子供たちに取り囲まれてしまったのだ。

 彼らが追い払われてようやく、植え込みと並行して走る小径こみちの向こう、草地を経た先に石積みの塀がずっと続いているのを認識したが、木戸を確認する隙も無く、どうしてか謎の男に追われている。

(白い印……どれだろう、ほんとにあるのかな)

 ヴィーの言葉を疑うわけではないが、恐怖と焦燥に駆られた頭には良くない想像しか浮かばない。

 山査子の茂みに突き飛ばされ、訳も分からず見上げた男は、ディルの襟元を掴んでその身体を引き起こし、こう言った。

「お前がディルってガキか」

 どう見ても友好的な態度ではない相手に名を言い当てられ、ディルは動揺した。

 ここは安全なはずのヴィーの屋敷内。しかしこれほど大規模な館であることを考えれば、全員が全員を見知っているかは疑問である。思えばひとりでウロウロするな、とあの園丁にも忠告されたではないか。

 大人たちの目を盗んで単独行動しているも同然の今、到底身の安全が保証される状況とは言い難い。

 ディルの沈黙を肯定と確信したらしい男は、彼の顔に恐怖が広がるのを愉快げに眺め、伸び放題のひげに半分隠れた口の端を吊り上げる。その無頼者を思わせる表情は、ディルにかつて自分をなぶろうと襲い掛かってきた赤夜狐の頭目を思い起こさせた。

(逃げなきゃ!)

 その瞬間、明確な思考が脳裏に閃き、ディルは浮きかけた自身の脚を振り上げ、男の腹に蹴りを喰らわせる。

「なっ……!」

 それ自体は大した衝撃ではなかっただろう。だが怯えた子供とあなどっていた相手は、思わぬ反撃に僅かに体勢を崩す。

 その隙を逃さず、ディルは身をよじって男の手から逃れ、塀に向かって駆け出した。

 男の怒声を背に、必死に視線を巡らせ木戸を探す。ヴィーの言った通り、よくよく見ると古びた石組みの連なりに紛れるように、目立たない小さな扉が幾つか並んでいた。

 一見してどれも目に付く違いが無く、ディルは焦る。印が小さいのか、他に見落とした扉があるのか。

 間違えないで、と念を押されたことを考えても、ここで選択を誤るわけにはいかなかった。

 迫る男の足音にディルは思わず振り返る。その拍子に、視界の中をちらりと何かがよぎった。咄嗟に目線を上げると、塀の向こうに王宮の塔の先端が見える。

 厨房からあちらの方に向かったはずだ。しかし自分が今いる位置がその線上から外れていることに気付く。他の目印を探したり茂みを潜ったりしているうちに、いつしか王宮の存在が念頭から消え、進む方角がずれてしまったのだろう。

 大慌てで体の向きを変え、再び走り出す。

「おう、どこへ行く」

 背後からあざけるような男の声が聞こえた。なぜか彼は走るのを止め、ディルの後を一定の間隔を保ったまま追ってくる。実際、大人と子供の足では、ディルがどんなに必死になろうと逃げきれるものではない――そう、相手も思っているのか。

 しかし追っ手が何を考えているかなど推理している場合ではない。捕まらないのを幸いに、疲労でもつれる足を叱咤して、ディルは目標の位置まで走り続ける。

 そちらにも先ほどと同じような小さな木戸がいくつか並んでいた。ディルは祈るような気持ちでその扉に目を凝らす。

(印……なにかある!)

 ディルの心に希望の火が灯った。

 紋章のような複雑なものではない。しかし明らかに何らかの意図を持って塗料で描かれたと思しきものが、今度の木戸の並びには存在した。それぞれ赤、青、黄……と色が異なっている。近づくにつれ、それが文字であることに気付いた。

(白……白! ここだ!)

 ディルは体当たり同然の勢いでその木戸に突っ込む。扉は若干きしむような音を立てつつも、あっさりと左側から向こうに開いた。思いのほか抵抗が無かったため、ディルの身体は勢い余って地面に倒れ込む。

(しまった……!)

 体勢を崩したことに慌て、急いで身体を反転させて上体を起こそうとしたが、案の定、入口に薄ら笑いを浮かべた男が立っていた。

 ディルの顔が恐怖で引きる。

 ここは分厚い石壁の中に作られた、未使用の小さな物置きのようだ。踏み固められた地面は冷たく、わずかな湿気を帯びている。がらんとしており、壁伝いに棚があったが、何も置かれてはいない。

 男がこちらに一歩踏み出す。追い詰められたディルは地面に腰を落とした姿勢のまま、両手で後ろに這いずって相手から離れようとした。

 男が後ろ手に扉を閉めると、中は真っ暗になる。空気の動きも感じられず、他にどこにも出口など無いようだった。

(ヴィーは向こう側に出て、って言ってたのに……)

 どういうことなのか。まさかここは正解の木戸ではなかったのだろうか。心臓の鼓動の音が一段と騒がしくなった。

 男が近付く気配を感じる。夜目が利くのか、聞こえてくる足音にはこの暗闇を苦にしている様子もない。

「や……っ」

 首元に男の手と思しきものが触り、ディルは思わず小さな悲鳴をあげ、更に後退あとずさった。

 すると後ろに手をついた箇所の感触が、土の地面から木の床板のようなものに変わる。

 ディルがそう気付いた瞬間だった。真上から何かが複数、空を切って落ちてきた。彼の顔の脇を掠め、ガカッと鋭い音を立てて次々と手元近くに突き刺さる。

 ぎょっとする間もなく、ディルの手が置かれていた床板が、その衝撃を合図に音もなく中心から左右に分かれて下に開いた。

「……えっ!?」

 体重を支えていた手ががくりと落下し、ディルの口から驚愕の声が漏れる。そして彼の身体の下の地面までもがばっくりと口を開け、ディルの身体はその突然出現した穴に為す術も無く吸い込まれた。



 地面と思っていたものは床板の上に盛り固められていた土だったらしい。その土塊つちくれも共にばらばらと落ちてくる。

「誰だ!?」

 男にも予想外の展開だったらしい。その声を頭上遠くに聞きながら、ディルの身体は真闇の穴を落ちていく。

 もはやあまりの事態の急転に、悲鳴も出てこない。

(誰かがいた……の?)

 男が発した言葉からすると、何者かが潜んでいてあの床板を開いたのだろうか。しかしあんな暗闇に気配も無く潜んでいたのだとしたら、いったい何者なのか。

 この穴は垂直ではなく、急ではあるが傾斜しているようだ。落ちた直後、背や腰が土で固められた壁に幾度か打ち付けられ、落下の勢いががれたように感じたのち、周囲の感触が土から変わって冷たく滑らかになった。それと同時に身体が一定方向に滑り出す。丹念に磨かれた石でも敷き詰められているようで、どこかに引っ掛かるでもなく、ディルの身体は下へ下へと飛ぶように進んでいく。

 暗闇の中、行き先も知れぬ穴に呑まれて勢いよく滑落していくなど、恐怖以外の何物でもない。ディルはこみ上げる悲鳴を必死に飲み込んだ。声をあげたが最後、怖さに塗り潰されて心がどうにかなってしまいそうだったのである。

 風の流れを額や頬に受けつつ、現実から意識を逸らそうとするかのように、ディルの頭は別の部分がにわかに思考を始めた。

(……花!!)

 どちらの手も、あの黄色い花を握っていないことに今更ながら気付き、ディルは蒼くなる。どこで落としたのか。この状況では仕方がないとはいえ、これでは何のために厨房からひとり離れて歩き回ったのか分からない。

(おれのばか……!)

 あの花が、何かを指し示してくれそうに思ったのに。自分の進む道が、ヴィーから離れてしまわないよう導いてくれそうな気がしたのに。

(ヴィー……)

 自己嫌悪に陥りながら彼の顔を思い浮かべて、ディルはふと思った。

 この仕掛けのために、ヴィーはあの木戸を指定したのだろうか。

(これが『向こう側に出る』ってことなのかな?)

 だとしたら、行く先に恐らく命の危険は無いはずだ。少なくとも、この穴から落ちたことが原因で、死んでしまうようなことはないだろう。

 その考えに至り、ディルの心はわずかながら落ち着きを取り戻した。どう考えても今自分にできることは何もなく、ディルは半分仕方なしに、この状況を受け入れることにする。

 冷静になりつつある思考を自覚し、ディルはリリー卿の屋敷を追われて以来、自分がすっかり非常事態に慣れてしまったように感じた。

(……旦那様は、おれが生きてるって知ってるのかな……?)

 ふと、そんな疑問が頭を過ったが、急に傾斜が緩やかになり、ディルの身体はやや乱暴に穴の底にぶつかって止まった。



「いたた……」

 心臓は未だ早鐘を打っているが、どうにか危機を乗り越えたらしいという安堵にディルは息をつく。

 かすかに周囲が見えることに気付き、光源を追ってその先を見遣ると、少し離れた向こうから光が差していた。ここからは、そこまで穴が水平に続いているらしい。

(出口かな? 良かった……)

 どこに出るかはともかく、何も見えない暗闇に留まるのも怖ろしい。ほっとしてそちらに這い出したディルは、しかしすぐに動きを止めた。

 後ろ……いや穴の上方から、何かが擦れる音が聞こえる。反射的に耳を澄ませると、徐々にその音は大きくなってきた。

(うそ!?)

 ディルは内心で飛び上がった。あの男が自分を追って穴に飛び込んだのだ。

 逃げられていなかったという事実と、そこまでして自分を追ってきた相手の執念にディルはぞっとし、大慌てで出口に向かって両手足を動かす。こんな穴の中で捕まったら一巻の終わりである。

(狭いよ……!)

 立って走り出したいが、そうもいかない。赤子のように四つん這いで狭い穴を進む。一度は落ち着きかけた呼吸がまた一気に苦しくなった。

 あえぎつつどうにか光の漏れる元まで辿たどり着き、穴の出口を塞いでいる戸板を押す。向こう側に土が盛られているのか、今度はなかなか動かない。難しい体勢のまま、扉に何度か拳を力いっぱい打ち付けて、ようやく隙間が空いた。

 背後でどさりと音がして、男が穴の底まで到達したことが分かる。ディルは慌ててそのまま小さな隙間に自身の身体をじ込んだ。

「んんっ」

 うめきをあげながら片腕、頭、もう一方の腕、胴体……と順繰りに隙間を通していき、ようやく身体全体が外に出る。

 急に明るくなった視界に、丈の短い草の緑色が飛び込んでくる。ディルはよろめきながら立ち上がり、首を巡らせて辺りの景色を見回した。

 自分が立つのは大人の背丈の数倍の高さはあろう土手の中腹で、背後を見上げると斜面の上に石壁の上部が見える。あれが自分が落ちてきた塀なのだろう。

 土手の下には馬車も通れそうな整地された道があり、その向こうにまた石組みの壁が立ちはだかっている。こちらは王宮の城壁か。

 人気ひとけは無く、陽光も土手に遮られていささか薄暗い。

(おれ、屋敷の外に出ちゃったの……?)

 そこまでがヴィーの意図の通りなのかが分からず、不安になる。

 しかしそんなことを考えている場合ではなかったことを、ディルは次の瞬間に思い知らされた。

 バキッと何かが壊れる音がして、驚いて振り向くと男が出口の板を破壊して出てくるところだった。

 慌ててディルは走り出したが、これまでの逃走劇の疲労でえかけていた足が、斜面にもつれて転ぶ。そうする間に追いついた男に後ろから髪を鷲掴みにされて引き起こされ、ディルは驚きと痛みに身を竦ませた。

「痛いっ……!」

「ちっ、落ちる前にりたかったのによ。余計な邪魔が入ったぜ」

 男の手にはいつの間にか縄が握られていた。

 その口ぶりからすると、この男はあの穴の存在自体は知っていたということだろうか。だからあの木戸に向かう自分を無理に捕まえようとしなかったのか。

 男はぐいとディルの頭を引き寄せ、もう一方の手で素早く縄を彼の首に巻く。

「まあいい。せっかく逃げおおせたと思ったろうが、こんな誰もいねぇ場所で生憎あいにくだったな。……まったく、死体をわざわざ持ってこいたぁ、面倒な仕事だぜ。刃物も使えやしねぇ」

(苦……し……っ、誰か……たすけて……)

 縄を締め上げられ、ディルは両手で宙を掻きながら本能的に助けを求めるが、当然声にはならない。

 視界が真っ白になるまでにさして時間はかからなかった。

 まさかこんなところで、訳も分からないまま自分は死んでしまうのか。そんな馬鹿な、と頭のどこかが、これまでの得難い幸運の数々に縋って否定するが、そんな過去の経緯など、今自分に襲い掛かっている現実の前には何の意味も為さない。

 大人の忠告も聞かずに一人で行動した。そのたったひとつの過ちが、今の危機を招いている。

 迂闊うかつにベネットにメリアの指摘をしてしまったときと同じだ。またもや、感情を優先して軽はずみな真似をしてしまった……今さら悔いたところでどうにもならないが。

(ヴィー、ごめ……)

 別れ際の彼の顔が浮かぶ。そのどこか哀しげな微笑に向けて、謝罪の言葉を内心で呟く間にも、意識が苦しみの闇に呑み込まれていく。

 しかし、夢かうつつかもはや判然としない視界の、最後の一点までもが暗転するかに見えたその寸前、ディルは喉を締め上げていた圧迫から突然解放された。

 予期せず空気のかたまりを呑み込む形になったディルは、その唐突な変化に肺が悲鳴をあげ、奇妙に潰れた声を発して倒れ伏す。

「生きてるか!?」

 少し離れた場所と思しき辺りから、切迫した声が掛けられる。続いて耳に伝わったのは、下草を踏みしだいて駆け寄ってくる力強い足音。

 男が握っていた縄が断ち切られたらしい。ディルはそのまま地面に転がり、激しく咳込む。視界のあちこちで光が弾け、ひどい頭痛がした。

「な……っ、騎士様、邪魔なさらんでくだせぇ! こいつは主人の大事なものを盗んだとんでもねぇ性悪なんでさぁ」

 男の抗議の声が聞こえる。その内容はまったくもって事実無根であったが、たった今生死の境に立たされていたディルに反論などできようはずもない。

 しかしこの場に現れた相手は、男の主張については何の反応も示さなかった。

「お前の事情は私に関わりのないことだ」

 凛とした張りのある声は、冷徹とも言える物言いに反して若い。そのことにディルは驚き、地面に伏せたまま肩で息をしながら、どうにか顔を起こして声の主の姿を見ようとした。

 すぐ鼻先で、暗紅色のマントがひるがえっている。ディルに背を向け、男との間に立ちはだかっている人物は、抜き身の剣を握り、切っ先を男の喉元に突き付けていた。

 その背丈は大人よりも幾分低く、体格からしても、ヴィーより更に歳若いのではないかと思われた。

「それより両名に問う。『扉』に書かれた白い文字を答えよ!」

 ディルはぎょっとして目を見開く。若者が男と自分、どちらにも等しく問い掛けたこと、またその内容にも驚いたのだ。

「はあ?」

 意表を突かれたのは男も同じだったのだろう。しかし、こちらは真実訳が分からない、という声音であることに、ディルはひとつの確信を持って、苦しい息のなか懸命に言葉を絞り出した。

ソーンThorn……の……"T"……」

 ディルの掠れた声が耳に届いたらしい若者は、剣は男に向けたまま、顔だけでこちらを振り返る。

 想像した通りその顔立ちはかなり若く、少年と言ってもよいくらいだ。少し暗めの茶色の髪に、灰色がかった緑色の瞳。その眼は生気に溢れており、重々しい口調とは裏腹に溌溂はつらつとした雰囲気を感じさせた。

「その序列は?」

 ディルの回答を受けて、彼は続けて尋ねる。

 更なる問いが来るとは思っていなかったディルは慌てて考えた。

「え、ええと……十九……?」

 戸惑い気味に返した答に、若者は「んん?」と軽く眉根を寄せ、いぶかしげな顔になる。

 その反応にディルははっとして、急いで数え直した。

「あっ違っ……に、二十です」

(司祭さまに聞かれたら大変なことになってた!)

 気さくな口調に反して誤答には厳しい、かつての師の笑顔が脳裏を掠め、ディルは必要もないのに肝を冷やす。

 それは明らかに、書記見習いであったディルのために用意された質問だった。ヴィーが示したのは色だったが、その色で書かれた印が図形ではなく文字であると認識でき、更には文字が教典内で与えられた順序を持つと知っている――つまり聞きかじりではなく教会関係者から正式に教育されたであろう――者は、貴族を除けばごく少数に絞られるのだ。

「よし」

 ディルの答に相手は納得したように頷くと、空いている片手を上げて誰かに合図する。

 これまで周囲に注意を払う余裕など皆無だったディルは初めて気付いたが、遠巻きに数人の兵士たちがこちらを囲んでいた。そのうちの一人が若者に応じて駆け寄ってくる。

「この者だ。馬車に連れていけ」

 彼の指示に、やってきた壮年の兵がわずかに首を傾げた。

「よろしいので?」

 問われた若者は肩を竦める。

の望みだ。仕方がない。まあ、目は離すなよ」

「は」

 いったい何の会話か分からぬまま、ディルはやってきた兵に小脇に抱え上げられ、そのまま土手の下の道へと運ばれていった。

「ちょっ……お待ちを! いったい何なんです!?」

 標的を横取りされた形の男が、自分に向けられた剣にも構わず再度抗議する。

「お前の事情は私の知ったことではない、と言っただろう? 汚れ仕事に手を染めずに済んで良かったではないか。――ま、先ほどのお前の言葉が本当ならば、の話だが」

 若者はそう言って、わずかに幼さの残る面立ちに悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。そのどこまで本気か判然としない言動に、男は呆気あっけに取られる。

 若者はそんな男の眼前から剣を下ろすとそのまま踵を返し、ディルを抱えた兵の後を追って歩き出す。男は我に返って叫んだ。

「……ご冗談を! 主人になんて言い訳すりゃいいんです!? 後生ですから……!」

 あくまで主命を果たせないことに怯えるあわれな下男といったていで追い縋る男に、若者は振り返って指摘した。

「主人? このような真似、ソーン卿に命じられたわけではないだろうに」

「っ、この……!」

 男の行動が後ろ暗いものである、とあっさり言い当てた相手に、男はついにこの屋敷の使用人という仮面をかなぐり捨て、醜悪な形相で隠し持っていた短剣を繰り出した。

 しかし若者は動じず、落ち着いた剣さばきで男の短剣を払い落とし、続く一閃でその手に斬りつける。

「ぎゃっ……」

 利き手の指を切り落とされ、男は悲鳴をあげて地面に転がった。

「お前にもお前の雇い主にも興味は無いが、邪魔立てするというなら話は別だ」

 若者は先ほどとは打って変わって真面目な表情で言い放つ。

 痛みと自身の身体が欠損した衝撃にひいひいと泣き声をあげる男を捨て置き、若者は他の兵士を従えてこの場を去っていった。



 どうして近付いてきたことに気付かなかったのか、とディルが思うほどに、目的の馬車はすぐそばの土手下に停まっていた。

 瀟洒な屋根付きの馬車は、周囲を護衛と見られる兵が固めており、明らかに高位貴族のものだろう。それがこのような裏手の道にいること自体、奇妙なことと言わざるを得ない。

 その違和感に、抱えられたままここまでやってきたディルは不安で一杯になったが、中に乗っているのが二人の婦人であるのを見て目をみはる。

 貴婦人然とした身なりの少女と、その侍女と見られる年配の女性が向かい合わせに座っていた。

「姫……本当にお預けしてよろしいのでしょうか」

 ディルを連れてきた兵士は彼女らに一礼してからディルを降ろし、いささか困惑を含んだ声音で尋ねる。

「構わなくてよ。さあ、こちらに乗せて。早く参りましょう」

 少女は涼やかな声で答えると、好奇心に満ちた目でディルを見つめた。

 王都の中でこれだけの数の兵がまとまって行動し、その彼らから姫と呼ばれているところを見ると、相当に高貴な身分であろうと思われる。しかし深窓の貴婦人にしては、平民のこちらを見るその眼差しはやけに真っ直ぐで、いとわしそうな気配も遠慮もなかった。

「乗れ。良いか、こちらの御方に無礼など働いたら命は無いものと思え」

 兵士は威圧的に言ってディルの身体を持ち上げ、馬車の中に立たせる。

 恐らく姫と呼ばれた少女以外、ディルを同乗させることに賛成している者はいないのだろう。侍女の方はわずかに険しい視線をディルに向けたまま、無言で自分の隣の席に座るよう示した。

 ディルは戸惑いながら、覚束ない足取りで座面に腰を下ろし、縮こまる。

 馬車の脇で先ほどの兵士が馭者に指示を出し、馬車はゆっくりと動き始めた。

 いったいこの一行は何者なのか。ディルは困惑の表情で斜め向かいの少女をちらと盗み見る。

 目敏くそれに気付いた少女はディルに顔を向け、にっこりと微笑んだ。

「あら、よく見ると可愛らしい子ね」

「姫様、このような者に軽々しくお声を掛けられるのは……」

 侍女がたしなめたが、少女はまったく聞く気がないとばかりに片手を上げて彼女を制し、さらにディルに向かって身を乗り出す。

「いったい何が起きたのかという顔ね?」

「……はい……」

 ディルは上目遣いに少女を見上げたまま、小さく頷く。彼女の言葉はまったくその通りだった。

 少女はふふ、と悪戯っぽく笑ったのち、こちらを覗き込んでいた上体を起こすと、あらたまった表情で口を開く。

「わたくしはオリス・カーラント。デーツ伯の三女です」

 彼女の名乗りに、ディルは耳を疑った。

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