第13章 呪縛

 騎士マダーは厳しい顔つきで、主人の部屋を訪れていた。

 朝陽が降り注ぐ中、彼の主人――ローゼルは、夜着にガウンを羽織った姿のまま気怠げに長椅子に身を預けている。配下の騎士からもたらされた報告に、その秀麗な眉目は憂いの色を深めていた。

「標的は取り逃がし、書簡は未だカーラントに届かず――か。惨憺さんたんたる有様だな。まるで呪われてでもいるようだ」

「申し訳ございませぬ」

 マダーは粛然と頭を垂れる。

「侯爵家はなんと言ってきた」

「は、書簡は子供が同行者に預けていたとのこと。しかしこちらの草の攻撃によってその同行者は逃走、追跡困難になったゆえ、捕縛あるいは抹殺は当家に一任する、と……」

 ローゼルは唖然とした。

「何が一任だ。放棄の間違いではないのか。……まったく、あの狸爺が目の前にいたら張り倒したくなっていたことだろうな」

 主人の言葉ももっともで、マダーは何も言えずに押し黙る。そんな彼の顔を、ローゼルは目だけ動かしてちらりと見遣った。

「……それだけか?」

「は、いえ……。すでに表向きは封蝋の子供も亡き者とし、書簡も侯爵家に渡ったものとして扱うゆえ新たな封蝋は不要、書簡のみを側近の騎士クローブ殿に渡されたし、とのことです」

「新たな封蝋……要するに所持者を仕留めたら書簡だけ寄越せということか。遺骸の始末まで押し付けおって。子飼いの失態を他所よそにどこまで都合の良いことを並べる気だ……」

 ローゼルは額に手を当てた。二日酔でもないのに頭痛がする。

 人を封蝋に見立てて運ばせる必要があったのは、書きかけで未封の書簡の内容をまったくの第三者であるグネモン卿が、正当と言える経緯で王や世間に開示する必要があるからだ。なおかつ余人の目に触れることは無かった、という保証付きで。

 書簡そのものを封印してグネモン卿に渡してしまえば、内容が他者の目に触れる、あるいは触れたであろうという疑いを持たれる心配はない。しかしそれではグネモン卿が他人宛ての書簡を無断で開封したことになり、内容を公表したとてその行為に対して批判を浴びるだけになるだろう。

 それゆえ、グネモン侯爵家が賊を討伐した際、書簡を持ち出した者がたまたま遺体で発見される、という筋書きを定めたのである。

 所持者が生存しておらず、かつ封印もされていない書面をグネモン卿があらためたとしても、非難の対象にはならない。ちょうど子飼いを始末したがっていた卿には渡りに船の話でもあった。

 しかしあろうことか、その封蝋が賊に反撃して逃走するなどという事態が発生したのである。これ以上封蝋に関わる面倒が起きるのを嫌ってか、カーラントは早々に本来の筋書きに沿った噂を市中に流し始め、既に下手人とされた賊の遺骸を街道に晒しているという。

「ふん、リリーと聞いて、みなソーン伯の名を囁いているらしいな。どうせ我がフレーズや、一門の他の家名など上がりもせぬのだろう。市井の頭の実に単純なことよ。……それはさておき――致し方ない。カーラントは目的が果たせずともさしたる被害はないが、我らはそうもいかぬ。業腹だが、探索は続けねばならぬな」

 ひとつ深いため息をつくと、ローゼルは気を取り直して続けた。

「……で、あちらは子飼いを始末したというわけか。書簡の追跡を放り出して」

「は、昨夜のうちに殲滅したようです。偵察に放った草の報告では、遂行者は騎士でも兵士でもない戦技集団であったとのこと」

「ついにカーラントが草を持ったか……」

 ローゼルは口許に皮肉めいた微笑の気配を漂わせ、長椅子の肘掛けに頬杖をついた。

「これはいよいよ、カーラントの障害とみなされた者は枕を高くして眠れぬな。いつ喉笛を掻き切られるか分からぬ」

「ですが、使われた技はエルムのものではなく、全員がエフェドラから供与された者らしいとの報告も入っております。もはやグネモン卿ご自身がかの国の走狗と成り果てておいでなのでは……」

 マダーが添えた見解に、ローゼルは気に障ったように眉を顰めた。

「言葉を慎め、マダー。あの老獪な仁がそうそう他者のために動くものか。そうであればとうの昔にエフェドラから草を貰い受け、賊などとは手を切っていたはず。それをしなかったのは、草どもが完璧に己の手足となるまで飼い馴らしていたからに違いあるまい」

「は……。となると、今後ますます油断はできませぬ」

 憂う騎士に、ローゼルは苦笑する。

「分かっている。――マダー、考え方を変えろ。もはやこのフレーズ伯家をはじめ、リリーのみでこの国を動かすことは現実的ではない。老人たちは目を背けたがるが、事実、我が一門からその力は失われているのだ。新興を嫌うあまりあのような宗主を仰ぎ、隣国エレカンペインの干渉に口実を与えるなど愚の骨頂ではないか。我々がカンファー貴族として誰と手を組むのが最良か、一刻も早く再考すべきなのだ」

「……」

「納得がいかぬという顔だな。――まあ、長年父の側近くに仕えてきたお前のことだ、致し方ないが」

「そのような……」

「よい」

 ローゼルは何か言おうとしたマダーを手で制す。そして頬杖を解いて身を起こし、騎士の顔を下から覗き込むように見上げた。

「だが考えてもみよ。お前も反対したこの企ての発端もまた、エレカンペインだ。違うか?」

「仰せの通りです」

「であろう。王ではなく、成り上がりの女から発せられたものとはいえ、我々にあの国の要求を撥ね付けることなどできるわけがない。腐ってもエルム第二の大国、どれほど屋台骨がぐらついていようと我らのごとき、ひと噛みで砕かれよう。私とてメリアの偽造などという詭道めいた手など使いたくはなかったが……此度ばかりは節をげて従うほかあるまい」

 そこまで言って、ローゼルは起こした上体を再び背もたれに投げ出す。

「――それもこれも、宗主があの男であるがゆえに引き起こされたことだ。……忌々しい。逆賊の子がどの面下げて我が国の玉座の隣に立ち、宮廷を睥睨へいげいするか。厚顔ぶりに虫唾が走る」

「ローゼル様……」

 マダーは次第に声音を嫌悪に染めていく主人へ、気遣わしげに呼びかけた。微かに皺の刻まれたその顔にも眼差しにも、深く静かな悲しみが滲んでいる。

 ローゼルは騎士のその表情を捉えると、興醒めしたように小さく鼻を鳴らし、長椅子から立ち上がった。

「マダー、もう私はお前の説教を聞く齢ではないぞ。お前の言いたいことは分かるが、いつまでも我らは自国でアイブライトの風下に立っているわけにもいかぬ。……さりとて、父のように未練がましい手段で宗主の座を取り戻したとて、所詮名ばかりのものになるだけだ。私はそんなものでは納得できぬ。この国をエルムの盾としか考えぬ者など、宮廷から完全に駆逐するべきなのだ。いっときエレカンペインの一派に使われようと、それで私の目的が果たせるのであれば構うまい。こちらも利用してやるだけだ」

 窓際に歩み寄り、差し込む陽光に目を眇めつつ、ローゼルは外を眺める。

「……なんと言ってもこの企てが成功すれば、今後エレカンペインは表立って国政に介入できなくなるのだからな」

 眼下に広がる庭園は、春を迎えて一斉に緑を芽吹かせ、色とりどりの花々が次第に蕾を綻ばせようとしていた。

 その只中に枝を張り出した春楡ハルニレの大木があり、根元に木製のベンチが据えられている。幾度か新しいものに替えられつつも、ローゼルが子供の頃からそこに置かれているものだ。

 今は無人のそれを、彼は沈んだ暗い眼差しで少しの間見つめ、それから室内に向き直って言った。

「人員を増やし、標的とその協力者の探索を続けよ。街道と、近隣の街や集落に散る手の者にも通達を出せ。なんとしても探し出し、書簡を奪還するのだ」

「は」

「それからもうひとつの追跡はどうなっている。子供が身を寄せていた流れ者の件だ」

「ご下命直後に指令を出しましたが、現地に届くのは本日の午後になりましょう。こちらは一団のほかに協力者がいるとも考えにくく、早々に捕捉可能と思われます」

「ならば、カーラントの流した噂にひとつ付け足しておけ。賊はジヌラの流れ者で、近頃そこかしこで掠奪が頻発しているらしい、とな。宮廷や王都のジヌラへの印象が悪くなるほど、今後のグネモン卿の仕事がやりやすくなるはずだ」

「は、ただちに」

 マダーは一礼すると、主人の前を辞した。



(……どうにも良くない予感がする。……いや、それははじめからだったが……)

 屋敷の裏棟に向かいつつ、マダーは内心で独り言ちた。

 なんと言っても、グネモン卿の動きが悪い。非協力的にすら感じる。

 元来、あちらの手落ちで書簡が行方不明になったのであり、リリー側に責任はない。なのに、まるでこちらが草を出したのが悪いかのような言い草で、書簡の追跡を丸投げされたのである。

(あちらも草を持ったというなら彼らを使えばよいものを)

 賊の殲滅など、そのあとでも良かったはずだ。

 しかしグネモン卿は、ローゼルの要請に損得勘定の結果応じることにしたに過ぎない。企てが失敗に終わった場合の被害はこちらのほうがはるかに大きかった。

 それだけにリリーとしては看過できず、ローゼルは保険のつもりで草を放ったわけであるが……事態は驚くほどに悪化の一途を辿っている。

(利と機にびんなカーラントのことだ。簡単に掌を返しかねぬ。だからお止めしたのだが)

 ローゼルは聞く耳持たなかった。

 もはや王家の外戚となったカーラントと、いつまでも国内でいがみ合っている場合ではない――という彼の主張は一見、正論に見える。実際、ニゲラとの交易など、著しくリリーが不利な状況に追いやられている事案があるのは確かだ。

 だからこそ、ローゼルの母方の叔父にあたるアブラス・リリー男爵を協力者に引き込めた。

 彼は元々さして宗主たるソーン伯と対立する立場にあるわけでもなかったが、ニゲラの美術品に目が無かった。ゆえに交易相手のジヌラが滅亡寸前という今、カーラントが握るエフェドラの交易権が非常に魅力的に感じられたのだ。

 リリーに名を連ねる男爵がカーラントとよしみを通じ、エフェドラとの交易で何らかの益を得る手段は現在のところ、ローゼルに協力する以外にない。

 王都の議会を主な活動の場とするリリー卿は、地方に拠点を置く大領主よりも腕の良い書記を抱えている。議会や宮廷などに向け、格式張った書面を作成する機会が格段に多いためだ。

 メリア署名の模写という、エルムの文化圏にあっては相当に大それた、且つ技術を要する依頼を、リリー卿は請け負った。この企てで最大の難問と思われた事項は、それにより意外にも容易く実現できたのである。

 ただしその先が、どうにもいただけない。

 そもそもどう贔屓目に見てもグネモン侯が盟友に相応しい相手だなどと、マダーには思えなかった。何世代にもわたり、一貫してリリーの勢力を削ぐことに注力してきた一族である。国内勢力の二分化ごときで満足するとは到底思えなかった。隙あらばこちらの弱体化を狙っているに違いないのだ。

(大旦那様がご存命であれば……)

 一昨年の秋口に急逝したかつての主人に、彼は思いを馳せる。ローゼルは折り合いの悪かった父である先代当主の方針をことごとく否定するが、少なくとも先代であれば、現ソーン伯の失脚を狙うエレカンペインの一派に目を付けられ、手足にされるような状況は招かなかったに違いない。そう、マダーは思うのだった。

(理想論だけでは現実は立ち行かぬ。それを、いつかローゼル様が理解してくださればよいのだが)

 一介の騎士の身では、諫言にも限界がある。

(……何より、あの方の根底にあるのは嫌悪だ)

 それがある限り、ローゼルは真に公平な目で物事を判断できないだろう。負の感情は本質を見極める目を曇らせる。表面を正論で取り繕っても、動機そのものに正当性が無ければどこかで理屈に破綻をきたすものだ。

 代が替わり、当主の方針が真逆に転換することは往々にしてある話である。だからそのこと自体をマダーは嘆いているわけではない。しかしどうしても、彼は新しい主人を根底から信じることができずにいた。

(だいたい、昔のあの方はあそこまでソーン伯に敵意を抱いてはいらっしゃらなかった。お気が合わないという程度だったはず……。ご遊学から帰国されてお人が変わられたかのようだ)

 ローゼルは数年前から国外に留学していた。父の突然の死により、家督を継ぐために急遽帰国してきたのであるが、なぜかその頃には、彼の思想は反ソーン伯で凝り固まっていたのである。

(いったい何があったのか)

 彼の足は、いつしか主人の居室のある主館を出て、屋外の通路に差し掛かっていた。

 庭園のほうを見遣り、ふと、足を止める。

 先ほどローゼルが部屋から眺めていた大木が、湖のごとく広がる草花の向こうに小さく見える。こんな明るい天気の日には、その根元のベンチにいつも人影があった。――一年前までは。

(あれほどのことがあったというのに、ローゼル様のカーラント贔屓は強まるばかりだ。もはや、リリーはカーラントに良いように喰われる運命なのかもしれぬ)

 マダーはひとつ首を左右に振ると、私情を押し殺すように眉間の皺を深くして、再び歩き出した。



「……そんなことだろうと思いました」

 クローブのあからさまに呆れたような声に、老人――グネモン卿は憤慨した様子で反論した。

「我らの目的はほぼ果たしておるのだ。この先リリーに付き合ったところでろくな旨味がないのだぞ?」

「最終的な目的がありましょう?」

 老人はかぶりを振る。

「あんなものは期待しておらん」

「……しかし言いたくはありませんが、書簡の受け渡しに問題が生じたのはリリー側の失態ではありません。突然手を引くのはさすがに如何なものかと」

「お前も向こうの抗議をまともに食らっとらんで、むしろ狐に反撃するような者を封蝋にした、くらいの難癖をつけてやればよかったのだ」

 すかさず返ってくる言葉に、クローブは半眼になった。

「……品の無い。子供の連れの探索を全面的に押しつけたのもどうかと思いましたが」

「軽々にメリアを偽造するような輩に何を遠慮することがある」

「……それはそうですが」

 なおも何か言いたげなクローブを老人は苦笑と共に見遣った。

「お前が心配せずともしばらくは表面上付き合ってやろうほどに。ゆえに既に書簡がこちらにあるかの如く噂をばら撒いてやったであろうが。目論見通りリリーの名を出すだけで都人はソーン伯に疑いの目を向けておる。その点に関してはフレーズ伯も文句はあるまい」

「とはいえ、書簡を陛下のお目にかけなければこの先事態が動きません」

 クローブの指摘に、老人は喉の奥でわらった。

「くく、ご覧に入れたところで、それだけでは陛下は動けぬわ。一年前までならいざ知らずな。ソーン伯にこっぴどく脅され、未だに時折うなされていると聞くぞ。まったく、小国の王になどなるものではないのう」

「……となるとリリー側に、貴方の陛下への影響力に対する疑念を抱かせることになりますまいか」

「そこよな……」

 グネモン卿は顎を撫でた。

「何も分かっておらぬフレーズの若造に役立たず呼ばわりされるのも癪よ。やはりこのまましらばくれて、書簡はエレカンペインにくれてやるのが我らとしては最も面倒がない気がするのう。結果ソーン伯とフレーズ伯、どちらがエレカンペイン王の逆鱗に触れるか見ものぞ」

 楽しげに笑う老人に、クローブは頭痛がしてくるような気がした。

 ふたりは暗い通路の突き当りに至り、その左手にある目立たない木の扉をクローブが押す。蝶番の手入れが行き届いているのか、扉は音もなく開いた。

 その先は螺旋を描く階段となっている。ふたりは扉をくぐり、鍵を掛けてから上り始めた。壁は石造りだが、階段は踏み固められた粘土質の土で覆われており、足音が響かない。

 しばし上った先に、再び木製の扉が現れた。こちらもクローブが手で押すと音もなく開く。

 扉の向こうは厚手の生地の緞帳どんちょうが垂れ下がっており、すぐには向こうが見えない。再び扉に鍵を掛けてから、幾重にも降りたその幕をクローブが片手で手繰たぐって掻き分けると、開いた幕の隙間から明るい光が差し込んだ。

 幕の向こうは豪奢な内装の、やや小ぢんまりとした部屋だった。紗幕を垂らした窓からは燦々と陽光が降り注ぎ、落ち着いた色合いながら凝った装飾の施された調度品が置かれている。書棚に文机、安楽椅子など、私的な空間であることは明らかだった。

「……つくづく思いますが、フレーズ卿がこうも重大なはかりごとに、何ゆえ貴方を引き入れようと考えられたのか謎です」

 クローブは手で支えた緞帳の合間に主人を通し、自身もその後に続きながら言った。

「ほう?」

「私なら真っ先に協力者の候補から外します」

 側近たる彼の目から見ても、この主人は共謀に不向きだ。自分なら決して手を組まないだろうと思うのである。たとえ王妃の実父という、国内に並ぶ者のない地位と権力を有しているとしても、この老人の場合、それ以前の問題だ。まったくもって信用ならない。

「ひどい言い草だな」

 グネモン卿は憮然として言い、安楽椅子に腰を下ろす。

 クローブは緞帳を元通りに整えながら、主人の方を見ずに言った。

「言われるだけのことをなさってきたのですから、致し方ありますまい」

「なぜ身内に言われねばならん!」

「その後始末をし続けてきたからです」

 淀みない相手の返しに、老人はしばし、口惜しげに押し黙った。

「……生意気を言いおる。こう見えてもお前を奔走させる事態はなるべく避けておるのだぞ。娘の抗議がうるさいからな」

 その言葉に、クローブは取り澄ました表情を一変させ、愕然と老人を振り返った。

「抗議……!?」

 そんな腹心の様子にグネモン卿は内心でしてやったりとほくそ笑む。

「『近頃旦那様が大変にお疲れで、また深く思い悩んでおいでのご様子です。わたくしには何も仰いませぬが、どうせまた父上に無理難題を押しつけられたのでしょう……』というような手紙がようよう届くわ。長文で」

「馬鹿な……」

「なんだ、儂の作り話と疑うておるのか? そこの文箱にも何通か入っておる。見てみよ」

「……結構です。――妻には厳重に注意を」

「何を言う。父と娘の交流を阻害する気か」

「抗議がうるさいと仰ったではありませんか」

「言うても時節の挨拶の一環ぞ。それにあれが書いてくる観察日記は面白い」

「観察……何のです」

 悪い予感しかしなかったが、クローブは訊かずにはいられなかった。

「お前のに決まっておろう」

 さも当然というように答えられ、彼は視界が暗転しそうになる。

「……お待ちください。そもそも私は観察されるほど妻の前で態度を変えた覚えはありません」

「ふん、甘いわ。自分のこともまともに把握しとらんお前など、娘にかかれば丸裸よ」

 黙してしまったクローブに、鮮やかな反撃を果たした老人はいたく留飲が下がったようで、満足げににやりと笑った。

 クローブは一度天を仰ぎ、そして深い深いため息をつく。

「……貴方は、大人げない」

 げんなりした顔で、彼はそれだけを言った。

 押しかけてきたとしか言いようのない主家の末姫を、ろくな抵抗をする間もなく娶らされた一介の騎士の身としては、言いたいことはいくらでもある。妻そのものに不満はなかったが、しかし彼女と自分の主人が実の親子であるという事実が、ただただ主人の忠実なる剣でろうとするクローブにはどうにも納得がいかないのだった。

 だが、いくらそこを説いたところで埒が明かないことも長年の経験から分かっている。彼は、頭に浮かんだ文句のほとんどを早々に飲み込んだ。

「話を戻しますが――、フレーズ卿が何かと貴方を頼ろうとなさるのは、貴方のの賜物ですか」

 切り札を出したと思ったのに、意外と簡単に立ち直られてしまった老人はいささか不満げな様子を見せたが、クローブの言葉に再び口許に笑みを形作る。

 しかしそれは、先ほど腹心を揶揄からかったときの笑いとは、まったく性質の異なる暗いものだった。

「で、あろうな。――くく、先代のフレーズ卿も迂闊なことよ。反りが合わぬとはいえ、大事な惣領息子を国外で野放しにするなど。どのような輩が息子に摺り寄るか分かったものではないというにな。そして何も気付かぬまま世を去ったというわけだ」

「……」

「あの若造はソーン伯を厭うておった。父親への対抗心がそうさせたのかは知らぬがな。そういう若者に耳ざわりの良い言葉を囁いて操作するのは実に容易い。嫌悪を憎悪に塗り替えることなど造作もなかったわ」

 何かに不満を持たない人間などいない。しかしそこをこの老人に付け入れられれば歳若いフレーズ卿などひとたまりもなかっただろう。そう、クローブは思った。

 一見、人好きのするこの人物は、身内にはとことん甘いが他人には至って酷薄だ。それはカーラント全体の気質とも言えたが、必要に応じて相手を篭絡し、心酔させ、そうしておいて平気で使い捨てにする。同じ人間とは思っていない節すらあった。――いや、対等とみなす相手に一定の基準があると言ったほうが正しい。すなわち、敵として対するに値する力を持っているか否か。

 それと気付かぬまま喰われるだけの相手はこの老人にとって、当然の帰結ながら、ただの獲物に過ぎないのである。

「リリーの次席たるフレーズ伯の魂の根は、儂が握っておる。周りが何を説こうと、儂が信じこませた偽りの理想からは離れられぬ。宗主があのソーン伯でさえなければ、リリーなどとうに我が手に堕ちていたであろうな」

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