第12章 尋問

 待望の食事を前に、ディルは涙をこらえていた。

 感動のあまり落涙しそうになったのではない。頬が、口の中が、痛いのだ。飛び上がるほどに。

 初めのひと口、歓喜と共に食らいついたパンが容赦なく口内の切り傷に貼りつき、ディルは電撃のような痛みに思わず椅子を蹴って立ち上がってしまった。

 慌てて座って汁物を口に流し込み、貼りついたパンを傷から離そうとしたが、液体がまた沁みる。

 たったひと口目を飲み込んだだけで、ディルは息が切れた。

(やっと……やっとちゃんと食べられると思ったのに!)

 期待していた分、余計に悲しい。

 咀嚼がまたひどい苦痛だった。噛むごとに頬の外から内から響いてくる痛みのせいで、味などほとんど分からない。ただただ消耗する。

 けれど残したら、次から量を減らされてしまうかもしれない。そう思って必死に口に運び、痛みに心臓を跳ねさせながらどうにか飲み下していく。

(うう、でもこれがもし、ヴィーが焼いた魚だったら……)

 あの表面が黒焦げの、炭化したひれや尾、はたまた中の小骨が突き刺さりでもしたら。

 想像するだけでディルの背筋は粟立った。

 怪我というものはくもひとを苛むのか。これまでろくに大怪我などしたことのなかったディルは、その不自由さや苦痛の片鱗を初めて味わった。

(ヴィーは怪我なんてしてないかな)

 自分のせいだということに関してはどうにか割り切ったが、それでも心配なものは心配である。

 彼のことを思い出せば、どうしても不安に心は暗くなった。こんなに食事が辛く、楽しくないことがあっただろうか。

(ひとりで食べるってこともあんまりなかったな……)

 これまで、食事の際には大抵、誰かがいた。場合によってはそれは自分を捕らえた野盗だったりもしたので、必ずしも心安いものとは限らなかったが、こんな、小さな部屋の中でひとりで食べるという経験は、殆ど記憶にない。

 と、部屋の外から鍵を開ける音がし、扉が開く。手を止めてそちらを見ると、入ってきたのはクローブだった。

「……まだ食べていたのか」

「痛くて……」

 ディルは手に持っていた食べかけのパンを置いて言う。

 クローブは彼を見遣り、その顔が食事前だった先程よりよほど憔悴しているのを認めて、わずかに口の端を下げた。

「続けていい」

「……はい」

 涙目で食べる姿をあまり見られたくなかったが、そんなことも言っていられない。ディルは数歩離れた横からクローブに見下ろされる状態で、黙然と食事を再開する。

 クローブは扉の近くで壁に寄りかかり、腕組みをしてしばらく痛々しく食事を続けるディルを眺めていたが、やがて口を開いた。

「着ていた衣類をあらためたが……。お前が託されていた書簡は確かに連れに渡したのか」

 ディルは顔を上げる。相手の言葉の意味をしばし考え、なるほど、それもあって着替えさせられたのか、と納得した。

「渡しました」

「失くしたわけではなかろうな?」

「失くしてません」

 ディルは首を振って即答する。

 クローブは少しの間沈黙し、ディルが何口か食べ進めるのを待って、また続けた。

「……お前はあの書簡が何か、どこまで知っている?」

「それは……」

 その問いに、ディルは口ごもる。このわけの分からない状況のなか、馬鹿正直に話してよいのか、と思う心があったからだ。

 しかしちらりと横目で見遣ったクローブは厳しい顔をしてこちらを凝視していた。

 ディルはその視線に、昨夜のことを思い出してぞっとする。また彼に力任せに顎を掴まれでもしたら、あのときの比ではなく頬が腫れあがっている自分は、今度こそ痛みに絶叫するかもしれない。

(そうか、ヴィーが言ってた拷問って、きっとそういうことをするんだ)

 唐突にディルは悟った。ヴィーがわざわざ心配してくれた事態に自ら陥ることはない。そう考え、彼は正直に答えることにする。

「……メリア書体の署名がありました。文は難しかったし普通の署名も無かったから、何が書いてあったかは分かりません」

 ディルの回答に、クローブはわずかに目を見開く。

「お前はメリア書体が分かるのか」

 ディルは慌てて付け加えた。

「読めないけど、でもおれ、小さい頃にいちどだけ見たことがあって、だから同じ種類の文字だって分かったんです」

「……お前の一家はさきの外務卿に仕えていたそうだな。目にしたというのはその家でのことか」

 クローブの言葉に、ディルはぎょっとする。なぜ、自分たち家族の経歴まで調べられているのか。驚きのあまり、ディルは肯くことしかできなかった。

「……ふん。なぜリリーが書記の息子などを封蝋にして寄越したのか、ようやく合点がいったわ。お前自身の口を封じたいがためか」

「封蝋?」

「あの書簡をリリーからカーラントに運ぶ役目の者のことだ」

「……おれが? でも……」

 そんな指示を受けた覚えはない。自分はただ、屋敷から追い出されただけではなかったのか。

「無論、お前は何も聞かされておらぬだろうよ。メリア署名は余人の目に触れたら厄介なものだ。文字も解さぬ下賤な者ならともかく、意味を知る者に迂闊に見られれば写しを取られないとも限らぬ。現にリリーがやったようにな。それを防ぐために使うから封蝋と言った。お前は知らず書簡と共にカーラントの手に落ち、始末される予定だったのだ」

 平然と語られる内容に、ディルは暗澹たる気分になる。昨夜から散々言われているが、自分を殺すつもりだった、という言葉をなんの感慨もなく浴びせられることをどう受け止めたらよいのか。

 しかし、人ひとりを犠牲にしてまで人目を憚るものだというのなら、書いたベネットなどはどうなるのだろう? そう思った。――が、だからこそ、すでに亡い自分の父が書いたことにされているのだ、とディルは悟る。

 ……だからといって、到底納得などできないが。

「おれが外郭でいきなり殴られて拐われたのは、そのせいなんですか?」

「そうだ。お前はさる家に仕える不心得な使用人で、主人の書きかけの書簡を盗み出した。しかしその後賊に襲われ行方知れずとなる。王都近辺を脅かす賊は放置できぬとしてカーラントが討伐の任を負い、掃討の際に殺害されたお前を発見した。遺骸は身元の確認のために指揮者であるグネモン卿の許に運ばれ、そして検分の結果、所持品の中から問題の書簡が見つかる……という筋書きだ」

 クローブの言葉は難しく、途中からディルはわけが分からなくなる。ただ、これまでの自分の身に起きたことと照らし合わせることで、どうにか大筋を飲み込んだ。

(だからおれの手形、取られたんだ)

 ディル個人の身元が分かるものを持たせておくわけにはいかなかったのだろう。

 なぜそこまで周りくどい方法を取るのか、と彼は思う。しかし、リリーとカーラントは元来、政敵同士だ。まともに使者を行き来させるわけにはいかなかったということか。

(本当にリリー家がカーラント家と手を組んだなんて)

 子供のディルにすら、それは驚きの事実だった。

 そこまでして彼らが為したいこととは何なのか。メリア書体などというものが絡んでいる以上、ディルの想像の及びもつかない重大なはかりごとに違いない。

 それを、自分が赤夜狐の頭目に偶然見舞った一撃が狂わせたのかと考えると……身震いする思いだ。

(いったい誰の署名だったんだろう)

 こんなことなら、あのときメリア文字にばかり気を取られていないで、元の書簡の通常署名を見ておけばよかった。

 それにしても、たかが手紙一枚受け渡すだけで、どれほどの血が流れたことか。

「……赤夜狐はカーラント家に言われておれを襲ったのに、最初からみんな殺しちゃうつもりだったんですか?」

「その通り。あの者らはもはや飼っていても何の益もない。これを機に殲滅した」

 こともなげに言うクローブに、ディルは俯く。

「おれのことも……旦那様……リリー卿が、殺せって……?」

「明確にそう言って寄越したわけではないが、封蝋の任を負わせる以上、そういうことだ」

 ディルは唇を噛む。リリーもカーラントも、同じだ。利用して、都合が悪くなれば消す。彼らにとって、自分も子飼いの盗賊団もその程度の存在なのだ。

(そんなこと、わかってたけど……)

 貴族にとって、自分たち平民の命など恐ろしく軽いのだということは。

 それでも、自分だってちゃんとした大人になるために、それなりに懸命に生きていたのに。リリー男爵家の書記になるために、日々学んで、働いていたのに。

 あの家にとって、そのことに価値など無かったのか。

 自分が育ってきた場所に自分のすべてを否定されたような気がして、ディルは肩を落とす。もう、残りの食事を口に運ぶ気力も湧かない。

「……お前は、本当に王都育ちのただの書記見習いか?」

 突然、クローブにそう問われた。

 不意の質問にディルは顔を上げて、きょとんと相手を見返す。

「そう、ですけど……」

 答えつつもクローブの真意を測りかね、怪訝な表情になる。

「よく平気で私と会話ができるものだ。昨夜私が賊を斬るのを見たはずだな。恐ろしくはないのか」

 恐ろしくないことなどない。むしろ、恐ろしいから隠しだてもできずに書簡のことを話したのに。

「恐いです」

「あまりそう見えん。お前は平気で睨み返してくる上に、躊躇いなく疑問をぶつけてくる。少なくともこの屋敷の使用人に、そんな者はいない」

 そりゃ、ここの使用人が、わざわざこの家で地位が高いと思われるクローブを相手に、そんな態度は取らないだろう、とディルは思う。

「おれだって、リリー家のお屋敷では騎士と話なんてしなかったし、きっとどんなことを言われても……質問なんてしなかったです」

「こちらは仕える相手ではないからか」

 ディルは首を振った。

「おれがもう、どこかのお屋敷の使用人じゃないからです。使用人のときだったら、怒られて追い出されるかも、って心配したけど……」

 既にそれをされた身だ。そしてなぜか、クローブの機嫌を取ろうという気が起きない。ここから出たら命は無い、とまで言われているのに。

「それに、どうしてこんな目に遭ってるのか、知りたいんです」

「……普通は恐れる相手に質問などせん。ただ身を竦ませて沈黙するのみだ。お前は恐れより知ることへの欲求の方が勝っている。その時点で、心底恐れているとは言い難い」

 ディルは再び口を噤む。クローブの言うことも分からないでもなかった。心の中に怯えしかなかったら、確かに言葉も出ないだろう。

(でも、おれは……)

 負けないと、決めたのだ。

 知らず、膝の上に置いた両の拳に力が籠る。

「おれはなんにもできないけど、でも……怖くても負けちゃいけないって、思うんです」

「そう思わせたのはお前の連れか」

 ディルはこくりと肯いた。正しくはそれだけではなかったが、そこまで説明する気はない。

 クローブはディルの覚悟を測るように、またしてもじっと彼の顔を見つめる。ディルは目を逸らさなかった。

「……エレカンペイン人と言ったな。なぜ王都に向かっていた」

「ほんとうはエレカンペインに帰る途中だって言ってました。でも野盗にお金を盗られて、おれのことも拾っちゃったから王都に戻ってもういちど準備するって……」

「わざわざ何日もかけてか?」

「ええと……そのほうが確実だって言ってました」

「……基本的なことを訊くが、連れの名は?」

「ヴィーって呼んでたけど、家の名前は知りません」

 本名は伏せて、とヴィーは言っていたが、そういえばディルは彼が最初に名乗ったヴァーヴェイン、という名以外、そもそも知らなかった。

「騎士か?」

「……たぶん」

 馬も従者も連れず、剣を持っているだけならただの兵士という可能性もある。しかし、彼らは今のディルと同じような、腰丈の短衣を着るのが常だ。

 ヴィーの着ていた外衣は膝まで丈があり、これは騎士階級以上の者が纏うものだった。

 装いはけっして華美ではなかったが、着こなしがとてもきっちりとしていて、そんなところからいかにも良家の子弟という雰囲気が感じ取れた。

 しかし彼の姿を見ておらず、限られた情報しか伝わっていないクローブは別の印象を抱いたらしい。

「……裏街道を単身徒歩で旅し、家の名も名乗らぬなど、まともな身上の者ではあるまい」

 そんな風に言われディルはむっとしたが、しかしでは何者と思うのか、と問われたところで答えられないのも事実だ。

 ディルにヴィーを疑う心はなかったが、実際、初めて出会ったときから彼には、自分の知る世界のどこにも属さないような不可思議さがあった。

 悔しいがクローブの言葉を真っ向から否定することもできず、ディルは力無く口を噤む。

「エレカンペインということは金髪か。瞳の色は?」

 訊かれたらヴィーの言った通りにしなければ、と気負っていたまさにその質問が来て、かえってディルは身構えてしまった。

「え、あ……の、緑……です」

 視線が泳ぐ。

 クローブが黙り込み、まずった、とディルは思ったが、もう遅い。

(ヴィー、ごめん……!)

 内心の動揺を隠せるほどの老獪ろうかいさや図太さが、年端もいかぬ彼に備わっているわけもなく、ただただ身を縮こませ気まずい沈黙に耐える。

「……もう一度訊く。瞳の色は?」

 クローブの声は数段低くなり、より凄味が増していた。

 こう訊かれた時点で、嘘を見抜かれているのは間違いない。外国人の出入りの多い王都育ちのディルでさえ、北方人で緑以外の瞳の色といったら青しか見たことがなかった。つまり既に正しい情報を与えてしまったようなものだ。

「……緑です……」

 それでも、彼は自分の口から本当の色を告げる気にはなれなかった。

「強情なことだ」

 呆れたようにクローブは言い、組んでいた腕をほどくと大股にこちらに歩み寄る。

 迫ってきた彼の姿にディルは慄いた。どうにか抑えていた相手への恐怖が、にわかに心の中に膨れ上がる。

 そして彼の大きな左手がこちらに伸びてきて、自分の顔に至りそうになるなりディルは、

「うあぁっ!」

思わず叫んで椅子から飛び退いた。

 すぐ向こうの寝台に膝裏が当たり、勢い余って寝床の上に尻をつく。

 脅えきった顔でこちらを見上げるディルの姿に、クローブは不審なものを見るような目つきで眉根を寄せた。

「……何を脅えている。傷の様子を見ようとしただけだが」

「あ……」

 ディルは気の抜けた声を出した。

(先にそう言ってよ……!)

 取り繕いようのない失態を重ねてしまったディルは、気まずさから腹立ち紛れに内心で文句を言う。

 寝台まで近寄ったクローブは大人しくなったディルの頭頂をぐいと掴み、左頬を自分に向けてしげしげと痣を検分すると、手を離した。

「……三日というところか」

 独り言のように言い、彼はくるりと踵を返す。

 その後ろ姿を呆然と見つめるディルに、クローブは顔も向けずに言った。

「小僧。お前が義理堅いのはよく分かった。だがもはやまみえることのない相手だということをよく考えるのだな」

「おれは……!」

 咄嗟に反論しかけたディルをちらと振り返り、クローブは冷たい一瞥をくれると扉に手を掛ける。

「そこまでお前を頑なにさせるとは随分口が上手い人間のようだ。……まあ、気の済むまで意地を張っていればよい。時間の無駄だと悟るまでな」

「……っ」

 ディルが何か言おうとして、しかしうまく言葉にできずにいると、クローブは扉を開けて外に出た。

「傷の治りが悪くなる。残さず食べろ」

 そう言い置いて、彼の姿は扉の向こうに消える。

 ディルはしばらくその扉を睨むように見つめていたが、やがてため息をつき、食事をしていた小さなテーブルに視線をやった。

(……傷、本当に見るだけだったんだ……)

 仕方なく、再び椅子に腰掛け、責め苦のような食事を再開する。

 あのときほんの少しでも、手当てをしてもらえるのかという期待が胸を掠めた自分が悔しかった。



「……なにをなさっておいでなのです」

 扉の鍵を掛け暗い廊下に向き直ったクローブは、すぐそこに立っていた人物に呆れ顔でそう尋ねた。

「お前が勿体ぶって儂の前に連れてこぬからではないか」

 答えつつ、相手は身を翻して歩き出す。老人だがその足取りは、現役の騎士と比べても見劣りしないほどに颯爽としていた。

 クローブは彼の後につき従いながら言う。

「……お聞きになったでしょう。今はまだ活きがいい。何を言ったところで聞く耳を持ちますまい」

「さっさと連れは死んだと言えばよかろう。お前は子供に甘い」

「人形としてお使いになるならそれもよろしいでしょう。ですが、貴方が求めているものは違うはずです。ならばそれ相応のやり方をせねば」

「まだるっこしいのう」

 相手の嘆息に、クローブはやや憮然とする。

「後々苦労するのは私ゆえ。――それで、いかが思われましたか?」

「どの件だ。子供か? 書簡の行方か?」

「どちらもです」

「お前は儂に対して横着だな!」

「どなたかが絶えず雑事を持ち込んでくださるので」

「ふん、お前とまともに会話が成り立つ子供というのは面白い。そのくせ怯えられよって……。お前がどのように立ち動いたか、見ずとも分かったわ」

 おかしくて仕方がない、と思い出し笑いをする相手を、クローブは無表情のまま受け流した。

「あれをどうするつもりなのだ?」

「所詮は平凡な生まれ育ちの子供。監禁しておけば数日のうちに弱り果て、音を上げるでしょう。そこですべての希望を断ち切ってやればよろしい。自ら首を縦に振らざるを得ない状況に追い込むことです」

 その答えに老人は苦笑する。

「陰険さが滲み出ておるの」

「先ほど子供に甘いと仰ったのはどなたです?」

「そこを根に持たれるとは思わなんだな」

「私は甘やかしているのではありません。あの者は子供と言えど、かなりしっかりした自我と意志がある。それを踏まえた上でどう扱うかを考えているに過ぎません」

「ならば儂は、あの子供がどれほどうちしおれて我が前に引っ立てられてくるか、楽しみに待っておればよいわけか」

「……先ほどのお言葉、そっくりお返しいたしましょう」

 言われた老人は呵々と笑った。

「物の数でもない子供ひとりに議論とは。まったく我らも人がくなったものよ。そうは思わぬか? かつては悪辣で鳴らした我が一門も、今やリリーの無情さに比べれば可愛いものだ」

「そのリリー、書簡はどうなさるおつもりです?」

「エレカンペインの手に渡ったそうだな」

「何者なのかが不明です」

「誰でもよいではないか」

「は……」

 あっさりと返された意外な言葉に、クローブは納得しかねる様子で老人を見る。

「フレーズの若造がアイブライトの内紛に巻き込まれ、いいように利用されているだけにすぎん。無論、計画通り書簡が我が手許にやってくるなら協力してやらぬでもないがな。草が仕留め損ねるほどの者となれば、王の密偵やも知れぬ。それならそれでよい。勝手に睨まれて潰されてくれればこちらの手間が省けよう」

「……」

「なんだ、不満か?」

「いえ……。ただここしばらくの大騒ぎは何だったのかと。こちらの失態、と威丈高に責めてかかってくるリリーの態度、ご覧になりましたか」

「よいわ、過ぎたことよ。なおさら、梯子を外されたときのあやつらの泣きっ面が見ものではないか。なんにせよ、ようやく狐を処理できたのだ。最後の最後まで余計な泥を塗ってくれたが、それとて我らの判断が正しかったことを証明しておる。ついでに拾い物がになるならなお良い。――おお、新しい我らの手足に名を付けてやらねばな。今度は何がよいか……狐の後釜となると……いや、狐のことは忘れるべきかの。お前はどう思う?」

 何やら楽しげに振り返られたクローブは、これ見よがしにため息をついた。

「……なんでも結構です」

「冷たいのう。お前が呼びにくくなるようなおかしな名を付けたくなるわ」

「ご随意に。最終的にお困りになるのがどなたなのかについては、熟慮をお勧めしますが」

「つまらん!」

 子供のようにむくれる老人の後頭部を半眼になって見下ろし、それからクローブは表情を引き締めて言った。

「書簡の件、そのようなおつもりならそれでよろしいですが、ひとつ気掛かりが」

「なんだ?」

「子供にわざわざ偽りを言うよう指示していたらしい点です。個を特定されるのを嫌ってのことならば、ただの密偵ではありますまい」

「ふむ」

 老人は顎に手を当てて何やら考える素振りを見せる。

「それなりに名のある者かもしれぬ、と言いたいのか」

「ひとつの可能性として考慮されたほうがよろしいかと」

「ならばなおのこと、リリーに追わせるのがよい。我らは知らぬ。万一、仕留めてはならぬ者をリリーが仕留めたとすれば、あやつらがエレカンペインに潰されるだけよ。そこに我らが巻き込まれるのは馬鹿馬鹿しい。――というよりあってはならぬ」

 彼の最後の言葉は、これまでのどこか事態を面白がっているような口調から打って変わり、ひどく重々しかった。

「あやつらの妄執と私怨に付き合う気は毛頭ない。我らは使えるものを使う、ただそれだけよ。よいか、くれぐれもそれを忘れるでないぞ」

 クローブは彼の言葉に直接応えず、しばしの間沈黙する。そしてあらためて口を開いた。

「――ヘムロック様……」

「なんだ?」

 不審そうにこちらを振り向く相手に、クローブはいたく生真面目な表情のまま言った。

「そろそろ、面倒におなりですか」

 老人は黙り込んだ。図星を指された、という顔で。

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