第11章 呵責

 ――エルムの曙光、ニームのとばりを破りしバルサム。その姿、天上の光をり集め、編み上げられたかの如し。白銀しろがねよりまばゆく、黄金こがねよりさやかに、あまねくエルムの魂は、その最奥に残影を刻まん――


 蒼穹を、薄く引き伸ばした綿のような雲が流れる。秋も半ば、吹き過ぎる風がどこか憂いを含んだような侘しさを乗せて、頬を撫でていった。

 日一日と、太陽はその軌道を傾けていく。大木が地面に差しかける陰が少しずつ背を伸ばし、遂には日中の時間帯でも、ディルが屈めばその身体がすっぽりと木陰に覆われるようになった。

 彼は秋風が流れる木の根元に腰を下ろし、先を削って尖らせた細い棒で蝋板に文字を書いていた。

「てん……じょうの、ひか……り……を……」

「……そこ、綴りが違っているわ」

 不意に背後から声を掛けられ、驚いたディルは飛び上がりそうになった。

 咄嗟に声も出ず、ただ後ろを振り返ると、見たことのない綺麗な女のひとが立ったまま蝋板を覗き込んでいる。

 少女、というには少し大人びている彼女は身を屈め、蝋板の文字を指さした。

「ここ。ひかり、のところ。……分かるかしら?」

 そう言って、初めて彼女は目線をこちらに向ける。自分と同じ緑色の大きな瞳が、伏せがちな長い栗色の睫毛に縁取られていた。

 寸刻、間近に寄ったその顔をぽかんと見上げ、それからディルは慌てて蝋板に視線を戻す。

「あ……」

 間違いに気付き、彼はすぐ下にその単語を書き直した。

「そう」

 彼女は頷いて、小さく微笑む。

 明るい色の長い髪が、風に揺れて光を弾く。その頬にはいくらかそばかすが散っていたが、髪も指先も良く手入れされていて、その仕草や話し方からしても明らかに良家の子女であることが窺えた。

 そういえば、今日は屋敷に客人があった。主人であるリリー卿の姉、フレーズ伯夫人が令嬢を連れてこの屋敷をおとなっており、朝から使用人たちは何かと忙しくしていた。ディルもこの時間になってようやく雑用がひと息ついたところだったのだ。

 年の頃からして彼女は恐らく、リリー卿の姪にあたる、フレーズ伯爵家の姫なのだろう。

「あの、ありがとうございます」

 ディルが礼を言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それからふふ、とまた小さく笑った。

「まあ、礼儀正しいのね。――どういたしまして」

 抑え気味の声音といい、控えめな印象を受けるが、飾り気のない笑顔がとても優しそうだ。きっと身分違いだろうに、ディルは彼女に親しみを覚える。

「教典の書き取り? あなたは書記見習いなのかしら」

「そうです。司祭さまに課題を出されてて……」

「あら、お説教をすっぽかすか何かしたのかしら」

 即座にこれが罰として出された課題だと見抜かれ、ディルは気まずそうな顔になった。

「……このあいだ礼拝で、居眠りしちゃって……」

「まあ、大変」

 彼女はくすくすと笑って言った。

「わたくしもね、よく礼拝のお説教のあいだ、こっそり違う本を読んでいては、見つかって叱られたわ」

 なるほど、だからすぐにこれが罰だと分かったのか。

 しかし聖堂にわざわざ教典以外の本を持ち込んで読み耽るなんて、変わった姫様だ。大人しそうな外見とは裏腹に、のしっかりしたひとなのかもしれない。

「――書けた」

 課題の一節を書き終え、ディルは蝋板から顔を上げる。いつしか彼女はディルの隣に腰を下ろし、静かに見守っていた。

「……天上の光を縒り集め、編み上げられたかの如し……ええ、正しく書けているわ。司祭さまにお見せするのでしょう?」

「はい。あと三回やらなくちゃいけないんです」

「そう。終わる頃にはすっかり覚えられそうね」

 言われてディルは肯いたが、しかしどうにも引っ掛かっていることを口にする。

「でもこれ、意味が……あんまりよく分からないんです」

「聖者のお姿について語られているのでしょう?」

「それは分かるんだけど、その……それって、どんな風なのかな? って……」

 難しい顔になるディルを、彼女は少しの間見つめた。

「……そうね。言葉から想像するのは難しいかもしれないわ」

 そう言って、納得したように頷く。

「――でもね。わたくしはこの一節が、とても好きなの」

「……どうして? 聖者のことが好きだから?」

 小首を傾げて問うディルに、彼女は微笑みながら微かに首を振る。

「それは勿論エルムの民として、バルサムのことは敬愛し申し上げているわ。……でも、それとは違う理由があるの。この形容……って言って分かるかしら。つまりわたくしはね、本当に、この表現通りの姿のひとを知っているの」

「そんなひとがいるんですか?」

 ディルの問いに、彼女はこくりと肯く。そして視線を前方の遠くのどこかにやり、少し思いつめたような表情で言った。

「ええ、本当にいるわ。――だから、そのひとを思い出すこの文が好きなの」

 ディルはすぐには言葉が出なかった。「思い出す」という彼女の言い方がなんだか気に掛かる。たぶん、今彼女の傍に、そのひとはいないのだろう、とぼんやり思った。

 黙ってしまったディルに気付き、彼女はこちらを向いて、そっと苦笑する。

「少し、話が難しかったかしら」

 ディルは首を振った。

「いいえ。……でもなんだかあなたが寂しそうで……なんて言ったらいいのか分からなくなっちゃって」

 その言葉に、彼女は目を見開く。

「……あなたは、とても賢くて、それにとても優しいのね」

 見上げた顔をまじまじと覗き込まれてそう言われ、ディルは真っ赤になった。

「えっ、……そ、そんなこと……ない、と思います」

 しどろもどろな反応に、彼女は少々慌てた様子で口許に手を当てる。

「まあ、わたくしったら、困らせてしまったかしら。ごめんなさい」

 謝られてさらにディルは混乱した。

「い、いえ、困ってなんか……あれ、困ってるのかな。ええと……」

 ……不様だ。

 そう、ディルは自分で自分に思い、俄かに口を噤む。

 考えてみれば、こんな気品のある女性と話をしたことなどなかった。当たり前だ。自分は彼女と同じ階層に生きる貴族や騎士などではなく、ただの使用人なのだから。

 そのことが、少しだけ悲しい気がした。身分が欲しいというのではなく、そういった立ち居振る舞いを心得ていないがために、彼女が自分にくれた言葉をもっと……堂々と格好良く、受け止められなかったことが。

「……わたくしもね、だれかに褒められると――あまりそういうことはないのだけれど――どんな言葉をお返ししたらいいか分からなくなって、同じようになってしまうの。だからあなたの気持ち、分かるわ」

 訥々とつとつとした口調で言われ、ディルは顔を上げる。このひとが? 自分よりずっと大人で、落ち着いていて、なんでも心得ているように見えるのに。

 ディルが言葉もなく見つめてしまった相手は、自嘲気味に笑っていた。恐らく今話してくれたことは、本当のことなのだろう。――それなら、自分がうまくやれなくても無理ないのかな、とディルは思えてきて、少し気が楽になった。

 彼の狼狽が止んだのを見て、彼女はもう一度にっこり微笑むと、木の幹に片手をついて立ち上がる。

「課題の邪魔をしてしまってごめんなさい。話し相手になってくれてありがとう」

「いえ……、ええと、おれも……間違ってたのを教えてくれて……ありがとうございます」

 もう行ってしまうのか、とディルは少し残念な気持ちになりながら、重ねて礼を述べる。彼女はまた優しく微笑んで、ディルの言葉を受け取るように小さく頷いた。

「書き取り、頑張ってね。――ああ、そうだわ」

 彼女は一歩踏み出してから、思い出したように言った。ディルがきょとんと見上げたのを、わずかに顔を向けて見遣ったのち、空に視線を移して言葉を続ける。

「……礼拝のお祈りは、きちんとしたほうがいいわ。神様や聖者はやはり見ていらっしゃるの。あまり礼拝に不真面目だと……罰が下されるかもしれないわ。わたくしのように」

 静かな口調で、しかし穏やかならぬことを言われ、ディルはびっくりした。

「罰……って……?」

 彼は思わず訊いてしまった。しかし彼女は無言で歩き出す。

 さすがに話してはくれないか、とディルが思ったとき、彼女はつと歩を止めて、こちらを振り返った。そのことにまたもや驚いたディルが動きを止めるのを認めてから、俯いてぽつりと言う。

「……わたくしにはね、大切な使命があったの。そのために生きてきたようなものなの。……でも、それを果たせそうにない。……それはきっと、わたくしに下された罰なの」

「使命……?」

 聞き慣れない言葉にディルは首を傾げた。そんな彼に、顔を上げて悪戯っぽい笑みを返すと、今度こそ彼女はその場を立ち去っていく。

 長い髪が風に散らされ、そのたびに陽光を弾いて鈍く輝くのを、ディルは不思議な気持ちで見送った。



 そのあと、ディルは蝋板を持って聖堂に向かい、書いた教典の一節を司祭に見せた。

「おや、綴りの間違いに自分で気付いたのかい?」

 年若く気さくな司祭は書き直された単語を見て、笑顔でそう言った。思えば、礼拝での居眠りを指摘して課題を課してきたときも、彼は同じように笑顔だった。

 ディルは首を振る。

「いえ、教えてくれたひとがいて……」

 その言葉に、司祭は意外そうな顔になった。無理もない。この屋敷でそもそも字を読める人間などほんのひと握りだからだ。

「女のひとで……たぶん、貴族の」

「ああ、伯爵家のお客様か。……君に話しかけてくるとは……姫君かな?」

「たぶん、そうだと思います」

「ふうん、珍しい。何度かこの屋敷にいらしてるが、私はあの姫君が誰かと話しているところをほとんど見たことがないよ」

「そうなのですか」

 確かに物静かな印象で、あまりお喋りを好むようには見えなかった。なぜ自分に話しかけてきたのだろう、とちょっと思ったが、恐らくディルが書き間違えていた箇所が、彼女が好きだという一節の中だったからだろう。

 よほど見過ごせなかったのだな、とディルは少々申し訳ない気持ちになった。

「フレーズ家はご当主の伯爵様が突然亡くなられたばかりでね、夫人のお悲しみは深く、うちの奥方様が気晴らしとお慰めに、とお招きしたのだそうだ。……ディルも、もしまたお客様と話をすることがあったら、その辺りをよく心得て」

「……はい」

 そうだったのか。あの姫様は、父親を亡くしたばかりだったのだ。終始なんだか寂しそうに見えたのは、そのせいだったのだろうか。

(……違う、かな?)

 彼女はそんなことはひと言も言わなかったし、話に出てきたひとは、たぶん亡くなったという伯爵とは違う人物のことだろう。

 謎めいた言葉を残して去っていった、その後ろ姿を思い出す。

「なんだか、不思議な色の髪をした姫様だったなぁ……」

 独り言のように言うと、司祭が身を乗り出してきた。

「おやおや、ディル。もう女性の髪にそんなに興味があるのかい?」

 砕けた性格の司祭の混ぜっ返しを、しかしディルはいつものことなので気にしない。というか、彼は何を揶揄われているのか、まだよく分かっていなかったのだ。

「だって、あんまり見たことない色だったから……」

 大真面目に答えるディルの顔を、司祭は笑いを堪えて見下ろす。

「我が国の王侯貴族……特にリリーには割合、多い髪色だよ。うちの旦那様だって元は同じような色だったはず。……まあ、君がここに来た頃にはすっかり減って、褪せてしまわれていたけれど」

「……」

「あれはね、亜麻色っていうんだよ」



「亜麻色」

 空腹に耐えかね寝床に寝転がりながら、ぽつりとディルは呟いた。

 何もすることがない。何もできない。

 クローブは考える時間はたっぷりとある、と言ったが、ディルにはそれがさして有意義なものには思えなかった。

 分からないことが多すぎて、何を考えろというのか。それにまともに現状について考えようとすれば、未だリリーの草から執拗に命を狙われているであろう、ヴィーの安否が気になって居ても立ってもいられなくなる。

 仕方なく目を閉じ、疼く頬の痛みに耐えながら、過去の記憶の中を彷徨さまよってみたのだが。

 浮かんだのは一年以上前の、不思議な出会いの記憶だった。

(……あの教典の言葉、なんだかヴィーを思い出すな)

 今なら、ディルはそう思う。

 ヴィーと出会った今なら、真実はどうであれ、なんとなく教典が言い表そうとしていた聖者の想像がつく。

 そのことを、彼女に話したいと思った。あの屋敷を追い出されてしまった今、もはや会うこともないだろうけれど。

(罰……おれにも、罰が下ったのかな)

 彼女がわざわざ忠告してくれたこともあり、その後は心を入れ替えて、真面目に司祭の説法を聴くようにしていたのだが。

 正直、礼拝で居眠りしたくらいで、母を亡くし――百歩譲ってそこは関係がなかったとしても――、次いで父も事故で亡くし、しかも亡くなった父にあらぬ罪を着せられ自分も殺されかける、などというのは苛烈に過ぎる気がする。

 この考えをヴィーに伝えたら、彼はなんて言うのだろうか。

(まさか、って笑いそう)

 そう思うと、彼は無性にヴィーにこのことを話したくなった。話して、笑い飛ばしてほしかった。

 考えたくなくて心に蓋をしていたが、父の死だって、もしかしたら自分のせいかもしれない。自分がいなくて父ひとりだったならば避けられたのではないかという思いが、ディルの心の片隅でずっと消えずに燻っている。

 だから、せめてあの事故が起こったことについてはただの偶然で、天罰などではない、と誰かに否定してもらいたかった。――自分のせいで起きたことではない、と。

(きっとヴィーなら……)

 外見こそ浮世離れしているが、彼は至って現実的な思考の持ち主だった。

 中身はまったくもって聖者の印象とはかけ離れており、むしろ普通の人々よりも神や聖者をたのみとせず、目に映る物事だけを見据えて生きているような雰囲気がある。

 そして、何かを失敗したと言っては悄然とし、何かを嬉しいと言っては屈託なく笑う。冗談も言えば軽口も叩き、そんなごく普通の感性の若者でもあった。

 しかし豊かに見せる表情の、そのさらに奥は常に凪いでいて、敵に囲まれたときでさえ彼の根は乱れることがなく、そこが不思議だった。

 ヴィーは外見に加えてそんなところが、聖者という超越した存在を彷彿とさせるのだ。

 だからなのか、ディルはとにかく彼に縋りたくなった。

(……ああ、でも)

 そこで、ディルは残酷な事実に気が付く。

 そのヴィーは、自分を庇護したせいで命を狙われているのだ。これはもう、疑いようもない。

 彼は自分が連れていくと言い出したのだから、すべての責任は自分にある、と言ったが、こんなことまで想定していたとは到底思えない。

 ディルはぎゅっと目を瞑った。強く強く唇を噛む。歯が食い込んで血が滲みそうになるくらいに。

(おれのせいで、ヴィーは……)

 どうして、どうしてこんなことになったのだろう。――あのとき、せめてベネットに余計なことを言わなければよかったのか。

 ……結局、自分が招いた災いか。あのたったひと言が、父をおとしめ、自分の生きる道を奪い、ヴィーを窮地に立たせている。

 思い至ったディルは泣き叫びたくなった。

 彼は両手で頭を抱えてうずくまる。重すぎる事実を受け止められず、心が軋んだような悲鳴をあげた。

 もがく心はやはりヴィーに救いの手を求めそうになるが、自分には、そんな資格はない。

(助けて……)

 呻くように、心の中で誰にともなしに呼びかけた。自身の身柄のことではない。不安、後悔と自責、そして喪失への恐怖、それらにさいなまれる自分の心を、誰かに救ってほしかった。


 ――負けないで。


 どのくらいの時間、そうしていただろう。千々に引き裂かれそうな心を掻き抱き、身体を小さく丸めたディルの脳裏に、ふと、誰かの声が響く。

(だれ……)

 きつく目を閉じたまま、ディルは内心で誰何すいかした。

 女のひとの声だった。この声は、つい先ほどまで掘り起こしていた記憶の中の、亜麻色の姫のものか。

 ……なんだ。これはきっと、都合の良い夢だ。

 そう、ディルは思った。

 罰の話を自分にしたのは彼女だから、自分はその彼女にせめて、今日の事態がたった一、二度の礼拝での居眠りの代償などではない、と言ってもらいたいのかもしれない。

 けれど不思議と、ディルの頭の中に忽然と起こり、流れては消える彼女の声は、彼の望みとは裏腹にただただ、負けるな、と繰り返すばかりだった。

(何に?)

 ディルは心の中で首を傾げる。

 負ける……昨夜も聞いた言葉だ。


 ――そこで負けてどうします。貴方の敵はもっと大きいのですよ!


 まったく、ヴィーは無茶を言ってくれる。自分をなんだと思っているのだ。荒事とは縁のなかった書記見習いの子供なのに。

 けれど、その言葉でディルは立ち上がった。自分の足で走り、恐ろしい賊の頭目からどうにか身を守った。

 自分は、あのとき負けなかったのだ。

(姫様、あなたも同じようにおれに言うの……?)

 なぜこんなにも、まったく関係がないであろう、ヴィーとあの姫とが重なるのだろう。

 いや、自分が重ね合わせているだけか。

 そうは思うが、そんなことはどうでもいい。

 ディルは大切なことに気付いた。

 負けるか、負けないか。選ぶのは自分だ。

 いったい自分の敵とは何なのか、それすら本当には分かっていないが、まずは自分の心に負けてはいけないのだ。

 自分のせいかもしれない、というその気持ちが消えることはない。その事実も。

 けれどだとして、ここで申し訳なさに圧し潰されて、誰がそれを喜ぶというのだろう。そんなことでは償いにすらならない。

(おれは、生きなくちゃいけない)

 死の寸前、自分を助けてくれた父と、最期まで自分のことを案じつつ息を引き取った母のために。そして剣を取り、自分を守って戦ってくれたヴィーにも報いなくてはならない。

 それに必要なのは他でもない自分の、この命そのものと、暗い感情に支配されず自由でり続ける心で……。

「――エルムの民の魂は、その奥底に、決然とニームと戦った聖者の姿が刻まれています。ゆえに我らは肉体を失うと、魂の根に眠っていた聖者の記憶が蘇り、それをしるべに天へ向かうのです。なぜなら、エルムに戦う術を与えるという使命を果たしたバルサムは、ニームの神に虐げられていた神々に召還され、天にてニームの神を撃退します。そしてバルサムは今もなお、神々の国の入口である、天の門を守護しているのです。エルムの民は、死すれば彼を慕って天に昇り、その門を潜ります。ただ、天上の光をかたどったバルサムの輝きはあまりに清冽で、罪に染まった魂は耐えられず、焼き尽くされてしまうとか」

 母を亡くしたばかりのディルに、そう、司祭は語って聞かせてくれた。

 当時のリリー邸は、彼が初歩的な教育を担うべき幼い子息や、行儀見習いで奉公に来る他家の子弟などがたまたまいない時期だったため、書記の卵であるディルが唯一の教え子だった。そのため司祭はよく、彼の相手をしてくれた。

「だからディル、まったき魂のままバルサムに会い、天に迎えられたかったら、善き人生を歩みなさい。ときにそれは簡単なことではなく、君の頭を悩ますこともあるだろう。何が善で、何が悪か、いつも誰かが決めてくれるわけではない。いつか君は自分の頭で判断し、行動しなくてはならないときが来る。人生とは、そういうものだよ」

 何が善で、何が悪か。

(少なくとも、あんな書簡を作るなんて悪だ)

 それは至極単純明解な話で、他人を騙った書簡が正当化できることなどあるわけがない。

 書いたベネット。ヴィーの指摘が本当なら、それを指示したであろう主人のリリー卿。そしてこの謎の企ての一翼を担っていると思われる、カーラント家。

 別に彼らを糾弾し、正義を振りかざしたいわけではない。自分にそんな力はないし、貴族同士の陰謀劇など関わりたくもない。


 ――もう少しだけ頑張って、父上の名誉を取り戻しませんか?


 そう、それだけだ。

(ヴィーって、……なんだかずるいな)

 丸めていた身体を開き、ごろりと仰向けに転がって、ディルは思った。

 全力で戦えとか、勇気を振り絞って立ち向かえとか、そんな大仰で非現実的な鼓舞だったら、彼の心は折れていただろう。いや、そもそも奮い立つことすらなかったはずだ。

(あんな風に言われたら、できないって言えないよ)

 ヴィーは無茶なようで、厳しいようで、実のところディルが本当にできないであろう要求をしたことがない。彼は、ディルが平和な王都育ちで何ら戦う術など持ち合わせていない子供であることをきちんと理解していて、その上で、どうしたらこの状況を打開できるのかを考えてくれていた。

 だからそのヴィーが言うのなら、その「もう少しだけ」の分くらいは頑張ろう、とディルには思えるのだった。

 鬱々と腹に溜まった何かを、ディルは大きなため息とともに勢いよく吐き出す。

 何も状況は変わっていないけれど、気の持ちようでこんなにも、心は重くなったり軽くなったりするのだ。いざというとき、重い心に雁字搦がんじがらめにされていたら動けない。

 泣くことも、自分を責めることも、後悔に身を捩るのも、全て終わった後にやればいいのだ。

 ディルは、そう考えることに決めた。

(……考え事って、腹が減るんだ……)

 途端にやかましく鳴り出した腹をさすり、せめて食事が出たあとに考えればよかったか、とそこだけは今、後悔した。

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