第14章 揺動
「あーー――……」
狭い部屋の中を、意味を成さない謎の声が一巡りする。
ディルは寝転がっていた。いつも闊達な光を宿していた大きな緑の瞳は、すっかりその輝きを鈍らせ、力を失いつつある。
何も無い、ということがこれほど苦痛だと、彼はこれまで知らなかった。
使用人時代、雑用が立て込んだときにはどうにかして仕事を抜け出し、大人の目を盗んで外でごろ寝でもしたい、などと思った自分が、今はあまりにも愚かしく感じる。
やることがある、やれることがある、というのは幸せなことだったのだ。
ディルは鍵のかかった小部屋に延々閉じ込められていた。
食事は時間のたびに過不足なく出され、部屋は小綺麗で特に不快な点はない。小さいが明かり取りの窓もあり、噂に聞く地下牢のようなじめついたおどろおどろしさもなく、総じて居心地は悪くなかった。悪くないどころか、元いた屋敷よりも贅沢なくらいだ。本来はもっと身分のある人間を監禁するための部屋なのかもしれない。
しかし快適な分、時の流れがひどく遅い。気を取られるものが無く、そして身体が弱ることもない。
残酷な平穏の中で、ディルはただただ時間と体力を持て余した。
あれ以来クローブも訪れては来ず、最初に水浴を手伝ってくれた洗濯婦の女が食事を運んでくるのみだ。彼女はあのときのクローブの眼光がよほど恐ろしかったのか、部屋にやってきてもほとんど目を合わせず、口もきかない。
はじめこそ、窓から飛び込んできた羽虫を追いかけてみたり、うろうろと狭い部屋の中を歩き回ったり、寝床に敷かれた寝藁を掘り返して散らかしてみたりしたが、それくらいでは大した時間が潰せない。次第次第に虚しくなり、やがて目覚めても立ち上がることさえ億劫になる。
そして今や、気付けば寝床に横たわったまま、ただ濁った視線を部屋のどこかに投げかけているだけになっていた。
あまりにも誰とも喋らないので、不安になって時折声を出す。それも、独り言を言う癖のなかった彼は何を呟いたらいいか分からず、結果、言葉にもならない謎の発声をするに留まっていた。
やがて、起きているのか眠っているのかも分からない時間が増えてくる。
その眼差し同様、ディルの意識も徐々に澱んでいった。
(おれ、何してるんだろう……)
なぜここにいるのか分からない。これからどうなるのかも分からない。
殴られた頬は順調に癒えていき、腫れは引いたのか違和感は減っていた。痣がまだ残っているのかは、自分では分からない。
外から聞き慣れた金属音がし、また食事が運ばれてくる。ディルはそれをぼんやりと認識したが、身を起こすのも面倒だった。
いつも運んできた女に「ありがとう」と言うのだが、向こうからはろくな反応が返ってこない。きっと今回もそうだろう。そう思うと、もはやディルは唇を動かすのも億劫になってしまった。
(行儀が悪いって言われそう)
意識の片隅でそう思ったが、しかしいったい誰が、自分にそんなことを言うというのだ。
(誰もいない……)
自分を叱ってくれるひとなど、もういない。何をしようが誰も咎めない。ただ蔑みの目で見られるだけだ。
ちょうど今、ぴくりとも動かない自分を見下ろす女のように。
と思ったが、そういえば彼女がまともに自分を見ることなどついぞ無かったのに、どうしてこちらに顔を向けているのだろうと不思議になる。ディルは目だけを動かして相手を見上げた。
その反応に、女は気まずそうに、でも何やら安堵した様子で視線を外す。
……別に見下げられていたわけではなかったらしい。あまりに動かないディルに、彼女は心配になって覗き込んできたようだ。
気遣われては、いるのか。
女は食事をテーブルの上に置くと、そのままディルに背を向けた。扉の外に別の気配がする。部屋に入ってくるのはいつも彼女ひとりだが、毎度鍵を開け、廊下で待っている者が他にいるらしいことは気付いていた。監視のためなのかもしれない。
「……あんた、しゃんとしなさい」
聞こえるか聞こえないかという小さな声で、女は背中越しに言った。その口調は最初にこの屋敷に来た時と変わらず、そのことにディルはなんだか安心してしまう。
彼が若干の気力を取り戻し、身を起こしたときにはすでに、女は扉の向こうに消えていた。
ありがとう、を言いそびれた。
そのことにひどい罪悪感を感じる。
(……ちょっと、ダメだったなぁ……)
相手がどんな態度であろうと、言うべきことを言わないと自分が後悔するらしい。それを、ディルは初めて知った。
何日経ったのか。日数はそれほどではないだろうが、後半はほとんど意識が混濁していたディルには正確なところが分からなくなっていた。
しかしある日、ついにクローブが現れる。
彼は相変わらず鋭い視線で、どうにか身を起こしたディルを検分するように見下ろし、それからぐいと顎を掴んで顔を上向かせる。痛みは無かった。
ディルは言葉もなく彼を見上げる。
「監禁がだいぶ堪えたようだな」
濁ったディルの視線を受けて、クローブは言った。
ディルの反応は薄い。のろのろと視線を外すのみだった。
「お前の連れの件だが……」
しかし、顎から手を離したクローブがそう切り出すと、びくんとディルの身体が跳ねる。
そうだ、ヴィー。彼はどうなったのか。
「驚くべきことにいまだリリーが仕留められずにいるらしい」
ディルは思わず腰を浮かせた。
「じゃあ……!」
「だが」
身を乗り出すディルを、しかしクローブは冷たい声で遮る。
「それらしき人物が西に向かっているのをリリーが追っている。つまり書簡を持ったまま自国に向かった可能性が高い」
「え……?」
ディルの顔が歪む。しばし、何を言われたのか理解するのに時間がかかった。
ヴィーが……帰ってしまった?
自分を置いて。
「そんな……」
声が震える。
「だって、約束するって……言って……」
「その約を守ったところで、連れに何の益がある?」
クローブの問いに、ディルは愕然と顔を上げた。
「お前が書簡を託したせいで国内有数の権門に狙われ、それでもなお元凶のお前をわざわざ王都まで迎えに来る意味が、その者にあるのか?」
ディルは答えられなかった。
ヴィーからすれば、ディルには賊の拘束を解いてもらった、という恩があるだけである。彼のこれからに、ディルを連れていく意味や必要性があるわけではない。ただの信義の問題と言えた。
「……もう、ヴィーは来ないってこと……?」
ディルの顔からはすっかり血の気が引いている。
「西に向かっている以上、ここに現れる気があるとは思えんな」
正直、それは予想していなかった。ヴィーが殺されてしまうことは、認めたくない可能性のひとつとして頭にちらついていたが、まさか、自分を捨て置いて帰ってしまうなどということは、ディルはまったく考えていなかったのである。
それだけに、クローブの言葉は彼を打ちのめした。
ディルはヴィーの言葉を心底信じていた。世の中はそんなに優しくないと思い知らされた今でも、彼のことだけは信じていたのだ。まだ、草に殺されてしまった、と言われたほうが納得がいっただろう。
「そういえば仲間がいたらしい。お前からは何も聞かなかったが、知っていたのか?」
「……仲間?」
ディルは眉根を寄せる。
「共に逃走中だそうだぞ」
「知らない……」
初耳だ。共にいた三日間、そんな話は一度も出なかった。
「見たことも……聞いたこともないです……」
「連れは、本当にお前が思う通りの人物なのか?」
その問いに、ディルは息を呑む。
「お前に多くを隠していたのではないか?」
畳み掛けられ、不審と不安に身体が揺れる。
数日をかけ、知らず知らずのうちに弱められていた心に、クローブの言葉は鋭く深く突き刺さった。
ひとりではなく仲間がいて、そして自分を置いて、王都とは逆の西に向かっている。それはいったい、誰だ?
ディルの中のヴィーの像が揺らいだ。
「……で、でも……そんな……」
「例えばはじめからお前の持つ書簡が狙いだった可能性もある。何らかの情報を得て、わざとお前と共にいた野盗に捕まってみせたか……」
ディルの身体が凍りつく。裏腹に、心臓が早鐘を打ち始める。
そんなことが可能だったのだろうか、と疑問に思うも、否定できるだけの知見もない。
あれがすべて演技で? 孤高に見えたのはヴィーのほんとうの姿ではなくて?
自分が信じていたヴィーという人物は虚像に過ぎず、もともとこの世にはいなかったのだろうか。
「いずれにせよ、お前は罪人の子だ。どのみちここを出たとて、大手を振って王都を歩ける身ではない」
その言葉に、項垂れていたディルは目を見開く。呆然とクローブを見上げた。
まさか、自分を賊ではないと認めているらしい相手から、そんなことを言われるとは思わなかった。その衝撃に、ディルは反射的に叫ぶ。
「違う!!」
怒りに燃える目でクローブを見据えた。
「やったのは父さんじゃありません! あれを書いたのはベネットで……っ」
しかしディルの言葉は唐突に途切れる。
ディルはまったく口を動かせなくなった。いつ抜かれたのか分からない短剣がクローブの手に握られ、その切っ先が彼の口に突っ込まれたのだ。
「あ……がっ……」
舌も動かせず、ディルの顎が震える。
クローブはぴたりと短剣を彼の口内に据えたまま静かに言った。
「黙るがいい。書いたのはお前の死んだ父親だ。でなければとうに代わりの書簡が用意されたはず。
「……っ」
ディルの喉がひくつく。唾液が口の端から溢れるが、飲み込むことも拭うこともできない。
つまりクローブも、ディルの父があの書簡を書いたとは、本当は思っていない。しかし真実はどうであれ、リリー卿がそういうことにしたのであれば、そうであらねばならない。そこについて異論は許されず、甘んじて父の冤罪を受け容れろと言われているのだ。
そんな不条理があるだろうか、と言いたいが、そういうものだ、とも言えた。
世の中は、貴族が言ったことが「正しい」のだ。
ディルの思考を読み取ったのかどうか、クローブはようやく短剣を退いた。
「かはっ……」
ディルは唐突に解放され、溜まった唾液に噎せて咳き込む。
「メリアの偽造はリリー発案の企てではない。彼らはさる筋からの圧力に屈したに過ぎぬ。関わった者――特に偽造そのものの実行者が生きていれば依頼者にいずれ消される恐れがある。お前が迂闊に何かを口走れば、それが真実か否かも構わず死者が増えるぞ」
別に構わないじゃないか、と苦しい息の中、半ば怒りに任せてディルは思った。
(あんなやつ……!)
どうして大嫌いなベネットがのうのうと生きていて、自分たち親子がこんな目に遭わなくてはならないのか。あの家で新参だったというだけで、ここまでいいように扱われるなんて。
「お前の父は生前、荘園帳簿の改竄と横領に手を染めていたことになっている。まあメリア云々など口が裂けても言うわけがない、罪状などなんでもよかったのだろう。一般に分かりやすく、身内――つまりお前が同情を得にくいものならなお良いといったところか。それを理由にお前の手形もリリー家に正式に破棄された。……これは執政府の記録証明だ。読めるな?」
そう言って、短剣を収めたクローブは外衣の脇の
激しい咳に滲んだ涙で視界が霞む。そこにぼんやりと映ったそれを、ディルは否応なしに読み取った。確かに、執政府の印が捺されたその書面には、父の名と自分の名、手形破棄の理由――これは言葉が難しく、全て理解できたとは言えなかったが――が書かれている。
「お前が生きたままこちらに捕らわれたと聞いて、念のため手を打ったというところか。主家に身の証を破棄された今、天涯孤独、しかも身内が罪状付きのお前の身元など誰も保証できぬ。つまりお前に内郭の手形が発行されることは二度とないということだ。手形の無い身で内郭をうろつけば、侵入者とみなされ投獄されよう」
言うだけ言うと、呼吸が整わないまま悄然と俯くディルを捨て置き、クローブは去っていった。
「う……」
両手をつき、ディルは嗚咽を漏らす。涙が溢れて零れ落ち、手の甲を濡らした。
自分は殺されるはずだった。でもどうにか生き延びた。さらには野盗に捕まり、堕ち行くばかりと思われた身は、それでも再び掬い上げられた……と思っていたのに。
王都で正式に罪人の子とされてしまえば、もはやディルの言葉になど誰も耳を傾けてはくれない。
もう、どうにもならないのか。ヴィーについていくことも、父に着せられた罪を晴らすことも。
――貴方は、強運です。
ヴィーの言葉が頭に浮かぶ。ディルは首を振った。何が強運なものか。希望を持たされては、それを無残に打ち砕かれて。
それに、ヴィーって誰だろう? 自分が心の拠り所にしていた彼は、幻だったのだろうか。
(頑張ろうって、思ってたのに……)
彼自身の意志で、自分が見捨てられたのだと思うと何よりも辛い。
信じていたものを見失い、信じたくない現実を力ずくで飲み込まされ、ディルはやり場のない怒りと失意が渦巻く胸を押さえ、しゃくり上げながら
鳥の声が聴こえる。忙しなく、一日の始まりを方々に告げて回っている。
森の中にいたあのときもそうだった。
「お腹空きましたね……」
澄んだ冷気の中、ヴィーがそう呟いたのはいつだったか。
あれは、別れが来た日の朝だ。
「ウサギもシカもクマも無視ですか……」
前夜仕掛けた時から全く様子が変わっていない、植物の蔓と木立ちの幹を利用した手製の罠を虚しく撤去しつつ、彼は拗ねたように愚痴をこぼした。
クマなど捕まったらかえって困るんじゃないか、とディルは思ったが、同じく深刻な空腹を抱えた身では、いちいち指摘する気力も湧かない。
ヴィーとはひたすら魚を分け合った。食料調達においてディルはまったく役に立たず、ヴィーが手掴みで捕まえる小ぶりの川魚だけが頼みの綱という有様で、それも川や沢が見つかったときだけだ。旅は厳しかった。
ヴィーは必ず半分をディルに食べさせてくれた。魚を四尾捕まえたら二尾、三尾なら一尾と
「ヴィーのほうが大きいんだから、もっと食べていいのに」
さすがに心苦しくなってそう言ったが、ヴィーは優しく笑って首を振った。
「大丈夫ですよ。私は捕まる前までちゃんと食べてましたからね。それより貴方のほうが心配です。そんなに骨の浮いた頬をして」
痛ましげに見られるが、実際、身寄りのない子供なんてどこでだってこんな感じだ。よほど育ちがいいのかな、と子供心に思ってしまう。
「王都に着いたらたくさん食べさせてあげますから。もう少しの辛抱です。貴方は何が好きなんでしょうね?」
なんだか楽しげに、ヴィーは言った。
「べつになんだって食べるよ。食べ物なら……」
「じゃあトカゲ……」
「なんでそんなに!?」
「冗談です。貴方が慌てるのが面白くて」
くすくすと笑いながらこちらを見下ろすヴィーの薄青の瞳は、伏せた金の睫毛と
体力的に厳しくても、心はヴィーの向ける柔らかい眼差しに感化されたのか、驚くほど穏やかだった。
冗談なのか本気なのか、今ひとつ分からない彼の言葉を首を傾げながら聞き、思ったままを返す。ヴィーはいつも興味深そうにディルの発言に耳を傾け、笑ったり考え込んだり何かを教えてくれたりした。
他愛もない彼との会話は、ディルを孤独と悲嘆から救ってくれた。
散々に負った心の傷が、少しずつ癒えていくような。べつにヴィーは、ことさらにディルを慰めたり励ましたりなどしなかった。ただ、いつもきちんと向き合ってくれただけだ。
だからこそ、そこに嘘があるようには見えなかった。彼は不可思議ではあっても、不自然ではなかったのだ。
(ほんとに、ヴィーはおれを置いてったのかな……)
ひと晩、枯れるまで涙を流し続けたあと、ディルは考え直す。
どうにも信じられない。クローブに言われたときは激しく動揺し疑念でいっぱいになったが、よくよく考えてみれば、鵜吞みにしてよい話だったのだろうか。
最近、クローブとしか言葉を交わしていない。だからどうしても彼の言うことがすべてになってしまいがちだが、そもそも彼はディルの味方ではないのだ。
手形のことは嘘ではないだろう。でも、ヴィーについては――。
一夜明けたその日、再びクローブが現れた。
ディルは、またどんな凶報をもたらされるのかと身構える。
しかし相手は自分に何事かを話しに来たわけではなかった。
ディルは縄を掛けられ上半身を拘束される。両手も後ろ手に縛られ、目隠しをされた。
まるで刑場に引っ立てられる罪人のような姿にされてから、その身体を肩に担がれ、部屋から運び出される。
どこへ? という疑問が浮かんだが、恐らく、ついに自分がここに連れてこられた理由を明かされるときが来たのだ。
しばらく運ばれた後、ディルはクローブの肩から降ろされ、そのまま床の上に立つ。目隠しを外されると、そこは広い部屋だった。
上半身に巻かれた縄の端をクローブが持っている。他には誰もいない。
自分の周りには調度の類は置かれていなかったが、少し離れた真正面に、大きな椅子がこちらを向いて置かれている。
その背面の壁には何かが掛けられていた。それがふたつの大陸を描いた地図であるとは、ディルには知りようもない。
椅子の右手には彫刻の施された重厚な木の扉があった。同じ壁面のもっと手前、ディルに近い位置にももうひとつ同じような扉がある。
貴族の使う部屋であろうことは、一目瞭然だった。
やがて奥の扉が重々しく開き、家令と思しき中年の男を伴い、ひとりの老人が入ってくる。
華美ではないが、上質な生地の長衣に身を包み、右肩から掛けた肩帯には高位貴族にしか許されない金糸の縫い取りが施されていた。老人とは言ってもその背筋はぴしりと伸び、白髪混じりだが頭髪も豊かで、足取りも危うげなところなどひとつもない。
問うまでもなく、彼こそが、カーラント一族の宗主にしてグネモン侯爵家の当主、ヘムロック・カーラントだろう。
彼は椅子に腰を下ろすと、付き従っていた家令に手で合図する。
家令は一礼して部屋を去っていった。
「――さて」
グネモン卿は王のごとき威厳と共にこちらを睥睨し、そして口を開く。
さすがは国王の岳父に当たる人物と言うべきか。その眼光は鋭く、ディルは射竦められたように身体を硬直させた。
「ようやく
ほんの少ししわがれているものの、力強く、よく通る声だった。
「……ディル」
こんな身分の人間と言葉を交わしたことのないディルは、かすれ気味の声でようやく、それだけ答える。
「確かに平民にしては珍しく胆の据わった面構えよな。そのくせかわゆい顔立ちをしておる。狐めがうっかり手を出そうとしたのもまあ、分からなくはないのう」
くつくつとひとり笑う老人に、ディルはどう反応したらよいのか分からず、ただただ沈黙するほかなかった。
「武術の心得は?」
問われ、ディルは首を振る。
「ありません」
「ほう。ではどうやって狐の目を潰したのだ」
ディルはほんの少し考えた。狐、というのは赤夜狐の頭目のことか。言うなればあの男はこの目の前の老人の手下だったのだと気付き、責められているのかと冷や汗を掻く。
「おれは……厭で逃げたくて、ナイフを振り回したんです。目に当たるなんて思わなかった……」
声が震える。
大体なぜ、侯爵ともあろう人物が自分ごときに直答を許しているのか。ディルのかつての主人とは、同じ貴族とはいえ身代がまったく違う相手である。
「ふむ。……つまり運がお前に味方したというのだな」
グネモン卿はひとり納得したように幾度か頷き、そう結論づけた。
「――運はな、ひとつの才よ。ひとは運とは無作為にもたらされるものと思うておるようだが、そうとも言い切れぬ。大抵の場合、そのきっかけは当人が作っておるものだ」
頭目を傷つけたことを厳しく追及されるのかとディルは身を固くしたが、悠然と語る老人には特にそんな素振りはない。
「恐怖に負けて手足が動かねば、そんな幸運はそもそも訪れなかったのだからな。――儂が欲しているのは、そのお前の運、もっと言えば、運を引き寄せる才だ」
相手の言葉の意味が分からず、ディルは首を傾げる。構わず、グネモン卿は昂然と言った。
「我がカーラントに仕えよ」
「……え」
唐突な言葉に、ディルは思わずそう口に出してしまった。
途端に斜め後ろに立っていたクローブに乱暴に縄を引かれ、ディルはよろめく。
「無礼者。どなたの言葉と心得ている」
「よい。儂もこの者が何を考えるのか知りたい」
グネモン卿は鷹揚にクローブを制した。
「許す。思ったままを話してよいぞ」
「……っ、あの」
両足を踏ん張り、辛うじて体勢を立て直したディルは、震えながらどうにか疑問を口にする。
「おれ、ただの……書記見習いです。どうして……」
「ああ、書記として使いたいわけではない。いや、読み書きは必要だがそういった表向きの仕事にお前を使うつもりはない」
老人はあっさりと言った。
「これまでのお前は消えてもらう。新たな名と、新たな素性を与えてやろうほどに」
相手の言葉の端々に不穏なものを感じ、ディルは警戒も露わに眉を
「新しい……?」
「そこにおる騎士クローブが指揮を執り、赤夜狐を殲滅したことは知っておろう」
ディルは慎重に頷いた。彼自身は頭目と手下のひとりが殺されたところしか見ていなかったが、どうやら全員が殺されたらしいことは、ここに来てからなんとなく知っている。
「狐どもがあまりに役立たずゆえかような仕儀となったが、さりとて我らも使い勝手の良い手足は必要だ。お前も遭遇したという、リリーの草のような……、な」
その話と自分がどう関係するのか分からず、ディルは固唾を飲んで相手の言葉を待つ。
そんな彼に、グネモン卿はゆっくりと言った。
「お前をエフェドラに送る」
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