第9章 宿場町の夜

「さて、リリーとカーラント、どちらの仕業か」

 哀れな遺骸を後にして街に戻りながら、リエール卿は声を潜めて呟く。罪状は単に盗賊行為としか示されてはいなかった。

「私はカーラントだと」

「子飼を自ら始末したのか?」

「ええ……グネモン侯は前々から機会を狙っていたようだったので」

「……王家の外戚が賊の黒幕とあっては外聞が悪すぎる、か」

 ヴィーは肯く。

「だが今頃か? もう何年経つ」

「カーラントは草を持っていない……。非合法な仕事を請け負わせる、信頼のおける代わりの組織などそう簡単には手に入りませんからね。ただ、今この国は豊かで、身を落とす貧困層自体が急速に減っている。賊の質を保てなくなっているのです。どうしても権力にしがみついて裏社会で頭角を現そうという者がいなければ、カーラントも手綱を握るのが難しい。それで遂に、切り捨てることにしたのでしょう」

「野盗ならまたぞろ増えてきているんじゃないのか。最近その噂でもちきりだぞ」

 ヴィーはうーん、と難しい顔をした。

「それがジヌラの元兵士がほとんどのようで……。カーラントはエフェドラと結びつきが強いですから」

「国から逃げてきた連中が祖国に義理立てするかね? ……ああ、信教の違いか」

「そう、ジヌラは独自の宗教国家ですからね。さらにいまカンファーに流れてきている者たちは、どうやら元正規軍のようなのです。……となると、徴兵された雑兵などより信仰心が強い。エフェドラにくみするカーラントとは、なかなか相容れないでしょう」

「なぜ正規軍だと?」

「それは……」

 ヴィーは少し言い澱んだ。

「彼らのディルの扱いです。あの子、王都の内郭育ちだけあって、毛並みがいいんです。にもかかわらず、本人はすぐ殴られたと辟易してましたが、それ以上のひどい目には遭わされていなかった」

「……品のいい連中だな。戒律とやらのお陰か」

「おそらくは。あの子は、いずれ自分がどれほど強運だったかを知ることでしょう。エルム人の無法者には、そんな行動規範など無いですから。……それと、もうひとつ」

「もうひとつ?」

「彼ら、私の剣を奪らなかったのです。錆が浮いて刃もボロボロな剣しか持っていなかったのに」

 リエール卿は驚いた顔をした。

「あれか。敵の武器に触れるのを忌むとか言う……。本当だったとはな」

「そのようです。戦地で自分の剣が折れようと、そこに転がってる敵の剣も槍も決して拾わないとか。……そんなことだから新興のエフェドラに勝てないのだと思いますけどね」

「……最後のは聞かなかったことにしよう。……ま、お前も運が良かったということか」

「ええ……。とはいえ、かなり逡巡してましたよ。私の剣を一旦は回収してましたからね。この地では自国の武器などまず手に入らないのだし……。でも結局、剣は置いて小銭しか入っていない財布だけ握って去りました」

 ヴィーは少し痛ましげな表情になる。

「彼らは、国を捨てたんじゃない。信仰を捨てられなくて逃げてきたんです。もう、ジヌラの中枢は瓦解していると見るべきですね」

「そうか……。しかしお前、ニゲラの事情に異様に詳しいな」

 情報通とされるリエール卿だからこそ多少の知識があるが、ヴィーがここまですらすらとニゲラについて語るのは、一般的なエルム人からは異常に見えるだろう。そのくらい、ニゲラとエルムは交流がない。

「いまニゲラの情勢を無視してこの国を正確に捉えることはできませんから」

 ヴィーはため息をついた。

「……エレカンペインもカンファーも、私がケンプフェリアの僧院で本ばかり読み耽っていると信じて疑わないようですけれど、こう見えてきちんと仕事してるんですよ? ……特にこの一年は」

 最後に付け加えられたひと言に、リエール卿は知らず表情が険しくなる。しかし敢えてそこには触れず、別のことを指摘した。

「……お前、野盗にわざと捕まったな?」

 実情を探るために、と言外に続ける。

「まさか」

 ヴィーは平然と否定した。リエール卿はあからさまに疑わしげな顔になる。

「いっときでもこの私に剣を習ったお前が、野盗風情におくれを取るわけがなかろう」

「ジヌラの剣なんて初めてだったんですよ? それに野盗とはいえ、元が本職の兵士です。剣技は訓練されたものでした」

「ふん。お前の剣筋は頼むから私の弟子を名乗ってくれるな、と言いたくなるほど精確さと優美さに欠けるが、戦闘で深追いせずに逃げを打つことにかけては一流だ。そのお前があっさり捕まるなどありえん」

「何気なくひどいこと言いましたね」

「褒めたろう? お前の剣は正真正銘、護身の剣だ。敵の撃破に主眼を置いてはいない。だが敵を躱すことにかけてはお前は十分腕利きだ。だからわざとだろうと言うんだ」

 ヴィーは特段に表情を変えることもなく、ただ静かに口を閉ざす。その様子にリエール卿は半眼になった。

「この嘘吐きめ」

 じろりと睨まれたヴィーはふふ、と笑って言う。

「政治の基本ですよ」

 リエール卿は呆れ顔で肩を竦めた。

「……はっ、お前を聖者の再来だのなんだのと言って無意味に有難がってる教会の連中の気が知れん。どこに目を付けているのやら」

「付けてる位置の問題ではありませんよ。単に節穴なんです」

 さらりと返された辛辣な物言いに、卿は一瞬絶句する。

「……お前、僧院で何かされたの?」

 思わずそう訊いてしまう。

 ヴィーは苦笑して首を振った。

「いいえ、私は何も。でも、聖職に就くでもなく六年もあそこにいますからね。まあ、はたから見たら、世間知らずな権威の亡者と、法の目を掻い潜って己の欲を満たすことに生き甲斐を感じる小悪党の集団です」

「お前の教会を見る目がひどすぎる」

「貴方だって大主教座のアガヴェ家に連なる血筋ですし、教会の内情には詳しいのでは?」

 問われ、リエール卿は片眉を上げて肩を竦める。

「さて。坊主には興味が無いんでな」

「表向きは清貧と貞潔を謳う彼らの、陰に籠った不毛な権力闘争や、人目を欺きながらの目を覆いたくなる放蕩ぶりなどを散々見てしまうと……。世俗諸侯の多少えげつない策謀も、目的や利害がはっきりしているぶん、清々しく感じますね」

 リエール卿は頭痛を堪えるように顳顬を押さえる。

「……前にもお前と話していて思ったが、つくづく教会というか、あそこの僧院はお前の精神を穢すな。あらゆる意味で」

「それ自体は別に悪いことではありませんよ。それこそ私が聖人のように育ったら先々問題になったでしょうから。まあ、愉快なものではありませんが……」

「だからと言って、そんなことを理由にかつてお前が突き付けられた要求を正当化することはできんぞ」

 鋭い口調で言われた言葉に、ヴィーは一旦口を噤む。

「……それはそうかもしれませんが――」

 彼は天を仰ぎ見た。澄んだ蒼穹に眩しそうに眼を眇める。

「でも、教会内の無意味な醜怪さに比べたら、私にとってあれは……本当に大したことではなかったんです」

「……」

「娶ることもできないアルテとの間に、庶子を儲けろと命じられたことなんて。……もちろん、彼女にとってはそうではなかったと思いますけど。でも、あれはいくつかの問題を解決できるはずだった。きちんと意味があったのです。……それを政略と言うのでしょうけどね」

 青空からリエール卿に視線を戻し、ヴィーは微笑む。その姿は確かに、聖者や聖人を思わせた。どこか謎めいた凪いだ笑みは、わけもなく見る者の胸をつく。

「――だから、なんてことなかったんです。私には」

 卿はそんな彼を苦々しく見遣って、もう一度言った。

「……嘘吐きめ」


 ――アルテ。貴女を置いてエレカンペインに帰ったあと、私は急に背が伸びたんだ。

 今度会ったら、並んで立ったまま貴女の顔を見下ろせるのだろうか、その亜麻色の綺麗な髪の流れを天辺から眺めることができるのだろうか、そんなことを思って楽しみにしていたんだ。

 ……馬鹿馬鹿しいよね? あまりに他愛もないことを考えてる自分が、ほんとうにおかしくて仕方がなかったよ――。


「……百歩譲ってそのときのお前が大したことではないと思っていたとして、だ。今同じことを要求されたら、お前は黙って呑むのか」

「……っ」

 ヴィーの顔に初めて動揺が走る。咄嗟に言葉を失った彼は、唇を噛み締め、痛いところを突いてきたリエール卿から表情を隠すように俯いた。そしてどうにか声を絞り出す。

「……その質問は卑怯です……」

「卑怯? 心外だな。だがまあいい。客観的に見て卑怯なのかどうかが重要なわけじゃない。問題なのはお前がそう感じるという点だ」

 何か言いたげに顔を上げたヴィーに、卿はゆっくりと続けた。

「さっきのお前を見ていて分かった。お前は、自分はもう克服したと思いたがっているようだが、それはまやかしだ。実際にはまるで消化できていない」

 断定的な言葉に、ヴィーは食い下がるように反論した。

「……ですが、もう一年も経つし、散々心に任せて愚かなこともしました。そのせいで一度は死にかけたくらいで……」

「なら、まだ足りんのだろ」

 あっさりと言われてヴィーは絶句する。

「でなければやり方が間違っているかだ。こういったことに定石などない。これをしたから必ず解決するはず、というものでもないだろう」

「じゃあどうすれば……!」

 他人に訊くことではないと頭では理解していながら、ヴィーは半ば自棄になって言った。そんな彼にリエール卿は少しばかり表情を和らげる。

「ひとつ言えるとしたら、お前は一度、きちんとアルテミジア姫と向き合うべきだ」

 弾かれたようにヴィーは目を見開いた。

「でも彼女は……」

、だ。もう無意味だと勝手に切り捨てていただろう。だから前に進めないんだ」

 指摘され、ヴィーは言葉もなく視線を微かに彷徨わせる。

「……本当はな、無理に急いで心の決着をつけろと言いたくはない。だがお前には敵が多い。不意に動きが止まるような隙は命取りになりかねん」

 リエール卿の言葉に、ヴィーは観念したように大きく息を吐いた。

 卿の言葉は至極もっともで、実際、ヴィーは自分の痛みから逃げたかったわけではない。ただ、解決できていないことに気付いていなかっただけだ。

「――分かりました。忠言、痛み入ります」

「……他人行儀」

 殊勝にも全面的にリエール卿の言葉を受け入れた矢先、他ならぬ卿から混ぜっ返されて、ヴィーは思わず声を荒げる。

「言っておきますけど、貴方だって、私を打ちのめしたひとりなんですからね!」

「へえ?」

 初めて聞いた、とでもいうような顔でおどけてみせるリエール卿に、ヴィーは苛立った声で言った。

「味方みたいな顔をして!」

「弟子だった時期からほんとうは知ってたんだろ?」

「気付いてはいましたけど。……でも信じたくはなかった。貴方の顔を見るたびに、私を殺しに来たのか疑わなくてはならなくなるなんて」

「そうさなぁ……」

 のんびりした口調で卿は同意し、まるで慰めるかのように言う。

「まあ、安心しろ。それは可能性のひとつでしかない。それに万一そのときが来たら、お前に視認される前に斬ってやるさ」

 ヴィーは肩を落とした。

「……なんです? それ。私は四六時中背後に警戒しなきゃならないんですか……」

「その必要はない。私に狙われて生き延びられると思ってるのか。潔く諦めろ」

 相手の勝手な物言いに、ヴィーは口を引き結ぶ。

「心配しても無駄だ。だから、気にするな」

「……なんで私、こんなにひどい目に遭わなきゃならないんですかね……」

 ヴィーは泣きそうな顔で、リエール卿とは反対の方向に視線をやる。

「両親でも恨んだら?」

「はぁ……」

 存外に卿の言葉は核心を突いていて、ヴィーにはその無責任すぎる言動が腹立たしくもあり――逆に救いにも感じた。



「……で、私は夜になったら行くが、お前はいいんだな?」

 街まで戻った辺りで、リエール卿があらためて訊いてきた。

「ええ。私は黒酸塊くろすぐりのご機嫌でも取って、夜はやすみます」

「おお、そうしろ。人間の女が嫌なら、黒酸塊に癒してもらえ」

 言われてヴィーは複雑な顔になる。

「それは……ちょっと難しいですね。私、彼女に噛みつかれないようにするのが精一杯なので」

「お前って、黒酸塊と相性悪いよな」

「黒酸塊というか、牝馬ひんば全般と相性がいまいち……」

「大雑把すぎるからだろ」

「そんなにぞんざいに扱ってるつもりはないのですが……」

「もうその発言が駄目だ。目の前の淑女に全霊を傾ける気がまったくない」

 貴方は牝馬相手のときだけそんな全力で世話するんですか、とヴィーは言いそうになったが、それこそお前はそうじゃないのか、とあらぬ非難の目で返されかねないと気付き、口を噤んだ。

「しかし、なぜお前は徒歩かちなんだ……。帰ってくるのが遅すぎる。ひと月後に本国で何があるか、分かっているはずだな?」

「分かっていますけど、でも私にはきっと関係ないですよ。……どうせなら歩きたかったんです。馬上からでは見えない景色を見たかったから」

「その時期に蟄居先に不在、というのが問題になりかねんと言ってるんだが」

「ご心配なく。一応それまでには戻るつもりでいますよ。これ以上足止めされなければ、ですけどね」

 そう言って、ヴィーはすたすたと宿の厩舎のほうに歩き始めた。

 嫌味と共に去っていった彼に、リエール卿は小声で呟く。

「生意気なやつだな……! 黒酸塊に髪でもむしられてしまえ!」

「聞こえてますよ」

 すかさず離れた向こうから返されて、卿はヴィーの地獄耳に肩を竦めた。



 流星が鼻梁びりょうに流れる美しい青鹿毛あおかげの淑女、黒酸塊のブラシがけは困難を極め、ヴィーは疲労困憊して夕食を摂り、早々に寝床に潜り込んだ。

 もっとも、日中かつての師から散々に自分の傷を暴かれ突きつけられた彼にとって、黒酸塊との紙一重の攻防はかえって良い気分転換になった。

 驚くほどに柔軟な彼女の首を躱し、どうにか髪の一本たりともその剥き出された歯の犠牲にならずに済んだことに、ヴィーは小気味良い達成感すら覚え、結果、この部屋に最初にやってきた朝よりもいくらか気分は浮上していて、何も考えずに眠りに就くことができたのである。

「……ヴァーヴェイン様」

 夜半、熟睡している彼に呼び掛ける声があった。

 囁き声ほどの声量で幾度か名を呼ばれ、ヴィーははっとして目を覚まし、むくりと上体を起こす。

 声は壁の向こう、リエール卿にあてがわれたはずの部屋から聞こえてきていた。

「……だれ?」

 ヴィーは姿の見えない相手に抑え気味の声で問う。

「ウォード様――リエール卿に仕える者です。お部屋に伺ってもよろしいでしょうか?」

「……分かりました」

 ヴィーは暫し考えたが、承諾して寝台を降りた。物音を立てぬよう静かに剣を取り、油断なく構えながら入口の閂を外し、薄く扉を開ける。

 暗闇の中、兵士のような質素な身なりの、大きな袋を背に負った男が立っていた。彼はヴィーの前にうやうやしく片腕を掲げ、その袖口から覗く皮膚にされた小さな焼印を見せる。

 リエール卿の生家、ラングワート家の紋だった。

「何事です?」

 ヴィーが問うと、その男はやや早口に言う。

「不審な者どもがこの街に入り込みました。おそらく貴方さまのお命を狙っているものと……。ひいては主人より言付けがございます。入室をお許しください」

 男が請うままに、ヴィーは扉をもう少し開けて身を引いた。相手が滑り込むように部屋に入ると、扉をきっちりと閉めてかんぬきを掛ける。

「私の命を狙っている……と言いましたがどこの手の者か見当が?」

「リリー家の草です」

 ヴィーは口を真一文字に引き結んだ。

「……またか」

(追ってくるのはリリーばかり。カーラントはなぜ動かない?)

「こちら主人より、かような事態となった際にはお渡しするようにと預かっておりました」

 男はそう言って、一枚の小さな羊皮紙を差し出す。

 ヴィーは厭な予感がしつつ、受け取ったそれを目を凝らして読む。


 ひとり貸してやる。

 お前は昨夜黒酸塊の背で寝ただろう? だが私はあれから一睡もしていない。

 今夜こそは朝まで寝る。自力でなんとかしろ。


 ヴィーは無言で羊皮紙をぐしゃりと握り締めた。

「……そんなに断固として眠りたいなら、手形を返せっていうんですよ。黒酸塊を奪ってエキナセアに向かってやるのに」

「お察しいたします……が、それはお薦めしません。たとえ貴方さまといえど黒酸塊に蹴り殺されるか、さもなければ主人によって吊るし斬りにされるでしょう」

 大真面目に返され、ヴィーは男のいかつい顔を見る。

「……もしかしてあのひとと付き合いが長い?」

「ご幼少のみぎりより仕えております」

「……お気の毒さま、って言ったら失礼になりますか?」

「いえ、お気遣い痛み入ります……」

 控えめに目を伏せながらも、主人の名誉のために形だけでも否定する、という素振りすらなく答える男に、ヴィーは少々興味を持った。

「貴方、名前は?」

「フラクスと申します」

「ではフラクス、今晩は頼みます」

「は」

 応えると、フラクスはおもむろに背の袋を床に下ろして中身を出し始める。

「なんです? それ」

「貴方さまは草を殺すことも傷つけることも避けたいお考えと承りました。ですのでこちらを使って捕えましょう」

 出てきたのは大量の粗縄だった。

「……縄術なんて心得がないですよ?」

「昏倒させてくだされば結構です。拘束しますので」

「彼らの主要武器は飛び道具なんですけど……」

「どうにか誘い込んでください。街中に出て応戦すると住民に被害が及ぶ可能性があります。ここを動かず迎え撃つのが上策かと」

「厳しい戦いになりそうですね……」

「部屋に籠城すれば勝算はあります。つぶてもお持ちしました。お使いください」

 縄に続き、袋からごろごろと石がまろび出てくる。用意の良さにヴィーは感心するより先に呆れてしまった。

「最初からこうなると分かっていたとしか思えないのですが……」

「日中からおふたりを窺う者どもが見えましたので」

「知っててアルニカのところに行ったんですね、あのひと」

「ご存知と思いますが、そういう方です」

 ヴィーは肩を竦める。

「敵は何人か分かりますか?」

「八人は確認しました」

 フラクスの答えに、ヴィーはがっくりと項垂れた。

「増えてる……。こんなことにそんな人数を駆り出すなんて」

「一度取り逃したとあっては、致し方ございますまい」

「それはそうですけど。……まったく、子供を拾った人間が何者か調べもせずに殺そうなんて、仕事が粗い。万一相手が忍びで行動してるどこかの国主や王子だったらどうする気なんでしょうね。外交問題になるのに」

 ため息混じりにヴィーがこぼすと、フラクスが何か言いたげにこちらを振り向いた。

「……なんです?」

「いえ……」

 何かを意識して発言したわけではないらしいヴィーの様子に、フラクスは彼から視線を外す。

「でも、昨夜の流れからするとリエール卿も狙われていると思うのですが」

「そのためにわたくしが代わりに隣室におりました」

「……そういうことですか」

 言われてみれば、顔立ちは全く異なるものの、背格好だけならフラクスとその主人は似ていなくもない。どんな化かし合いの結果なのかは知らないが、うまく彼らは敵の目を欺いたのだろう。

「……お気を付けください、気配が」

 ふたりは特に打ち合わせるでもなく、ヴィーが窓側の壁、フラクスが扉側の壁を背にして立ち、身構える。

「外からか廊下からか……」

「まあ、その人数なら両側から同時に仕掛けるでしょうな」

 フラクスが言い終わるか否かのうちに、窓の木戸が開き、そして反対側では扉が壊され、ほぼ同時にそれぞれから暗器が鋭く空を切る。

「ですよね……」

 飛んできた凶刃を剣で払い落としながら、ヴィーは力無く呟いた。



「リリーの書簡?」

 女の丸い肩を抱きながら、リエール卿は訊き返した。

「ええ……。その殺されてしまった子供が持っていたそうですわ」

 彼の胸に縋るように身を預けながら、アルニカは囁くような声で答える。

「子供を殺したと言われる例の盗賊をグネモン侯爵さまの手勢が成敗なさって、そのときに見つかったとか」

「……」

「なにやら良からぬ企みが書かれていたと、もっぱらの噂ですわ。リリー一族の醜聞とあって、王都はその噂でもちきりだとか」

「リリーか……その子供はどの家の使用人だったんだ?」

 アルニカはゆっくりと首を振った。

「さあ……はっきりとは。ただ、リリー家と聞けば、誰もが思い浮かべるのがソーン伯爵さま。王都でもそれは変わらないと聞きますわ」

「ふん? ……なるほどな」

 リエール卿は唇の端を吊り上げ、アルニカに両腕を回して抱き竦めた。

 噂話で問題なのは事実ではない。その話を聞いた者たちが、どう受け取るのか、それが何より重要だ。

 そのことをアルニカはよく理解している。リエール卿は満足げに微笑むと、彼女の肌に顔を埋め、その柔らかい感触を味わい始めた。

「……っ」

 アルニカが息を呑みながら、両腕を彼の背に絡める。

 あえかな彼女の喘ぎと息遣いを耳に愉しみながら、卿は内心で呟いた。

(リリーといえばソーン伯……結局のところそうなるのか。……根強いものだ)



 総じて小柄ながら屈強な肉体の持ち主である草の、意識を失った身体を部屋に積み重ねたヴィーとフラクスは、黙々と彼らを縛す作業に取り掛かっていた。

 衣服に刃物を隠している可能性が高い、というフラクスの指摘によって、まずは彼らの帯や上衣を剥いでから粗縄で厳重に縛り上げていく。

 長かった戦闘に激しく息を切らしたままのヴィーは、しかし黙っていられなくなり口を開いた。

「……あのひとは今頃、女性の衣を愉しく脱がしてるっていうのに、なぜ私たちはこんな……」

「ヴァーヴェイン様」

 すかさずフラクスが遮る。

「そこを考えるのはおよしになったほうが。……不毛です」

 もっともな彼の言葉に、ヴィーは唇を引き結んだ。

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