第8章 透明な傷

 光を纏う亜麻色の髪。

 そのすべらかで柔らかい感触が好きだった。

 波打つ長い髪の先端を手に取り口付けるとき、自分の中に灯るのは、その存在そのものへの敬意と思慕。

 何人にも、いかなるものにも侵されることなくり続けてほしい。切にそう願わずにはいられない相手。もしかしたら、この気持ちは信仰に似ているのかもしれない、そう思った。およそ、心底から神に祈るなどしたことのない自分に、そんな感覚があったなんて。

 何ひとつ約束してやれない身で、それでもひとつだけ確かに言えるのは、触れるときにこんな気持ちを抱く相手は、彼女だけだということだった。

 微睡まどろみながら、腕のなかの温もりを幾度確かめたことだろう。そのたびに柔らかく笑みを形作る彼女の唇に、すり寄せられる頬に、自分が相手に与えられるものの少なさを思って泣きたくなった。

 自分にとって、生まれたときから世界はひどく不公平で、対等な存在は数えるほどに少なくて、でもそれが普通だった。

 求めるより求められることのほうが遥かに多く、許すより許されることのほうが遥かに少ない。

 そうして、今ここでもまた、ふたりの関係は公平ではなかった。

 この手を取ったことで、自分はこの先一方的に彼女に犠牲を強いることになる。場合によってはその次の世代にまで、この呪縛は及ぶ。いや、むしろそれが目的ですらあった。

 そのことが自分にとっても苦痛だったが、そんなのは相手からすればただの弱さだ。だから生涯口にする気はない。

 言わなくても、聡明な彼女は見抜いている。全てを承知の上で、受け入れることを選ぶと言ったそのひとが、自分の弁解がましい姿を見たいと望むはずもないのだ。

 これから自分は幾度となく、彼女を苦しみの淵に突き落とすだろう。それを躊躇うことさえ許されない。

 自分がしてやれることといったら、彼女がその先の人生をなげうつに足る人間でいること、それだけだ。その価値もない相手に身を捧げてしまった、そう思わせることだけは、したくない。

 きっと彼女を想う心ある人からは、自分はなじられ、非難の目で見られるだろう。不誠実で身勝手な人間だと罵られるに違いない。

 でも構わない。他者になんとそしられようと、自分たちふたりが覚悟の上で臨んだ道なのだから。

 決してお互い、心に流す血を相手に見せないこと。それは口には出さずに結んだふたりの盟約だった。この約定の前でだけは、彼女と自分は対等で――。

 だからお互い孤独ではない。それが彼女の示す愛情であり、自分が捧げる誠意だった。


 ――それなのに。



(……あんなことになるなんて)

 瞼を開けると、見慣れぬ薄暗い天井が目に入る。

 しばしの間眠っていたらしい。左手には、握りしめたままの羊皮紙。

(これのせいで、あんな夢を見たのかな……)

 中途半端に眠ったためか重怠い身体を起こし、左手を見つめる。もはやこの紙を敢えて開く気にはなれなかった。

(……アルテ。私はもうどうすればいいのか分からなくなってしまったよ。それとも……これが今私の手にあることは、貴女が望んだことなのだろうか)

 だとしたら、ますます自分はどうすべきなのか分からない。

「――だめだ」

 ヴィーは考えを振り払うように首を振った。

(迷っているからといって、感傷につられて彼女を引き合いに出すなどどうかしてる)

 あれは自分の中の幻影だ。現実には、いくら問うたところで決して返答など得られない相手なのだから。そんなものに縋っていたら、まともな判断などできようはずもない。

(貴女がどう思うか気にするなんて、これほど無意味なことはないのにね……)

 自嘲気味に笑うと、ヴィーは羊皮紙を丁寧に丸め、注意深く懐の奥に仕舞い込んだ。

 寝台から降り、明かり取りの小さな窓の外を覗く。もう日は高く、外の通りは旅行者や街の住人で賑わい始めていた。

 しかししばらくその様子を眺めていたヴィーは、わずかに眉根を寄せる。

(なんだろう、少し様子がおかしい)

 街を行く人々からわずかな緊張を感じた。そこここに、何か憚るような表情で言葉を交わす者たちがある。

 どうしたのか? とヴィーが身を乗り出しかけたとき、部屋の扉が叩かれた。

「ヴィー、起きてるか?」

 リエール卿の声だった。

 ヴィーは足早に入口に向かい、扉を開ける。

「起きてます……何かあったのですか? 街の様子が……」

 卿は部屋の中に踏み入れると、扉を閉めながら答えた。

「気付いたか。『ニームの餌』が街道沿いにぶら下がってるとさ」

 さすがに耳が早い、とヴィーは感心する。

「行くのですか?」

 彼の問いに、リエール卿は頷いた。

「ああ。……お前、昨夜狐がどうのと言っていたな」

「ええ……。彼らが?」

「分からんからお前も来い」

「はい」

 ヴィーは急いで外套を被り、剣を取るとリエール卿と共に部屋を出た。

「少しは寝たのか?」

 宿を出、街の通りを大股に歩きながら、リエール卿は訊く。

転寝うたたね程度ですね……。今夜ちますか?」

「いや、今夜はだめだ」

「ええ……?」

 明らかに不満そうな声を出すヴィーだったが、リエール卿は取り合わなかった。

「ここでやることがある。お前も今日は精のつくものでも食べて、一晩休め」

「……」

 押し黙ったヴィーをリエール卿は横目で見る。

「従者、返事」

「……はい、ご主人様」

 素直に応じたヴィーに、なぜだかリエール卿のほうが気色悪そうな顔をした。



 街の外を通る大陸の北部大街道。東のエキナセアから発し、カンファーからエレカンペインに入り、聖都ケンプフェリア、そのすぐ西隣の王都ラウウォルフィアを経てさらにその国境を越え、大陸西端のタラゴン王国まで続く。

 街を囲む申し訳程度の高さの市壁をくぐると、すぐにその大街道に出た。平地に整備された路面を行き交うのは巡礼者や隊商、修行で諸国を巡る騎士とその従者、はたまた王都に伺候する貴族の一行など、身分も国籍もさまざまである。

「最初からこっちの道を通ってりゃ面倒ごとのほとんどを避けられただろうに、いったいなんのつもりで裏道なんぞ使ったんだ?」

 街道の端を歩きながら、リエール卿は横を一歩遅れて付き従うように歩くヴィーに尋ねた。

「今回は全くの私の都合で抜け出しましたから。万一誰かに見つかったら面倒だなと思って。行きはそれほど問題なかったですし」

「……今回は、と言ったが、前回もだよな?」

 指摘されると、ヴィーの顔から表情が消えた。

「……前回の道中の記憶、あんまりないんですよね……」

 その言葉に、リエール卿の表情も険しくなる。

「うっかり荒野に踏み入れるくらいには、か」

「ええ……」

 力なく肯くヴィーの様子に、卿はため息をついた。

「後から聞かされた話にあんなに肝を冷やしたことはなかったぞ。ったく、よりによって私が動けんときに……」

「貴方はもとからあの件には反対だったでしょう? もし私と共に報告を聞いていたら、貴方こそ何をしでかしたか」

 ヴィーはごく微かな笑みを取り戻して言う。リエール卿は肩を竦めた。

「まさか。当事者の前でそれ以上に取り乱すなどあるわけなかろう。……大体、私は反対だの賛成だの言える立場にない。ただ上の大人たちが、あまりに恥知らずなことをお前に押しつけるから腹が立っただけだ」

 ヴィーは困ったような、理解し難いとでもいうような顔になる。

「……そんなに貴方が心を痛めることでもないのに。私のような人間は、多かれ少なかれそういったことを求められるものだし、務めと言えば務めでもあります。私は分かっていて承知したのですから」

 ヴィーの言葉に、リエール卿はぴたりと歩みを止めた。つられてヴィーも立ち止まる。

 卿は身体ごとこちらを向くと、腰に手を当て、厳しい口調で言った。

「お前がな! あと五年十年生きた後にあの選択をしたのなら、私はなんとも思わなかった。だがお前の『分かっていて』は身をもって体験すべきを経験した上での決断じゃない。ただの諦念だ。そこが私は気に入らない」

 今度こそヴィーははっきり困ったような顔になった。

「……私の齢が足らなかったのは、私の責任じゃないですよ……?」

「そこに文句があるとは言ってない。お前の物分かりが良すぎるところが問題だと言っている」

「足掻いたってどうしようもないことに無駄な労力を使ったって……」

「だから! そこが自分を大事にしてないように見えるんだ、傍目はためには。少しは周りを梃子摺てこずらせろ」

 そこまで言って、リエール卿は前に向き直り、再び歩き始めた。

「お前は生きてるだけで十分面倒なんだ。周りからもお前に何かさせるのは面倒だと思わせるくらいで丁度いい」

 後に続きながら、ヴィーは小首を傾げる。

「そういうものですか?」

「そういうものだ。……というのが分からんから、お前はまだ子供だと言うんだ」

 無言のまま、未だに難しい表情で首を傾げながらついてくるヴィーを横目で見遣り、リエール卿は変なやつ、と呆れた顔をした。

「……お前、背が伸びたな。説教しづらいわ久々に黒酸塊くろすぐりに乗せたら恐ろしく邪魔だわ」

 言われてヴィーは傾げた首を戻し、柔らかく微笑んだ。

「貴方の馬に乗せてもらうなんて、何年ぶりでしたでしょうね」

「もう乗せんぞ」

 すかさず返ってきた言葉に、ヴィーは声をあげて笑う。

 その屈託のない表情は天を透かす青空のような明るさで、リエール卿は痛ましげに彼を見遣ると、まばゆいものから目を逸らすように視線を前に戻した。



 目指す場所にはすぐに辿り着いた。そこには人だかりができており、何も知らない通行人もつい引き寄せられ、更に人が増えていく、そんな状態になっている。

 世間一般の民衆よりは比較的長身であるヴィーとリエール卿は、遠目からでも人々の塊の向こうに何があるのか、大まかに確認できた。

 人の骸が吊るされている。数は六体。

 人死にが出たら何はともあれ遺骸を墓地に運び、まじないを込めつつ地中に葬るのが常のエルムにあって、遺体を晒すという行為には当然、重い刑罰の意味合いがあった。

 見せしめとはいえ、街中に恐ろしいニームを誘き寄せるような真似はできないため、晒す場所は市壁の外で、かつ日中は人通りのある街道沿いとされた。

 ニーム除けの呪いも唱えてもらえず、一夜明けるごとに毀損していく遺骸を見ては、エルム人は「ニームに喰われた」と恐ろしげに首を竦めるのであった。実のところそれは、野犬か何かの仕業なのであろうが。

「どうだ?」

 リエール卿が小声で訊いてきた。

 ヴィーは背伸びをしながら遠くに吊るされた遺骸に目を凝らしたが、やがて首を振る。

「うーん、もう少し近づかないとなんとも。数は合ってる気がしますが……」

「そうか。無理にそこで身を乗り出すな。追っ手がお前を張っていないとも限らん」

「そうですね」

 ふたりは諦めて前方へと少しずつ進む人の流れの中に入る。

「あら、騎士様。お戻りでしたの?」

 そこへ、なまめかしく張りのある声が横から聞こえた。ヴィーが声のした方を目だけ動かして見てみると、ひとりの女が身体を軽く傾げ、自分を挟んで向こう側のリエール卿の顔を覗き込んでいる。

「アルニカ」

 声を掛けられたリエール卿は、彼女の顔を見るなりそう呼んだ。

 薄手の肩掛けを頭から被り、地味な色合いの長衣に腰より高めの位置で帯を巻いている。その帯が縞柄であることが、彼女が娼婦であることを表していた。二十代後半くらいの、娼婦としては若くはないが、華やかな顔立ちに知性を宿した瞳が印象的な美女である。背後に屈強な男が張りついており、恐らく娼館が彼女に付けた用心棒だろう。

 娼婦は一目でそれと分かる身なりを強制されるなど、社会において一般に区別される存在だが、それなりの格式の娼館にとって、彼女らは大切な『商品』でもある。娼館は常に何人かの用心棒を雇い、昼は彼女らが市街を歩く際の護衛をさせ、夜はたちの悪い客が不当に彼女らを傷つけることがないよう、客に睨みを利かせていた。

 このアルニカと呼ばれた女も、恐らくは街で比較的高級な部類に入る娼婦に違いない。

 リエール卿のいらえに、彼女は少々険のある目つきで笑った。

「まあ、名を覚えていてくださいましたの? てっきりわたしのことなどお忘れのまま旅立ってしまわれたかと思いましたのに」

 リエール卿は流れるような動作で彼女に手を伸ばす。ふたりを阻む位置になってしまったヴィーがそれとなく一歩下がるのと、リエール卿の右手が彼女の白い手を捕らえたのは、ほぼ同時のことだった。

「私は美女に恥を掻かせたまま出奔するような真似はしない。――許せ、今夜必ず埋め合わせをする」

 卿はアルニカの正面に向き直ると、彼女の手を唇に引き寄せながらそう言って、指先に口付ける。

 要するに、昨夜自分がこのふたりの夜を邪魔してしまったというわけか、とヴィーは理解した。別に責任は感じないが。

 アルニカは表情を和らげて悪戯っぽく笑った。

「ふふ、ほんとうですの? 今宵はどのような寝物語をご所望かしら。あまり長くては終わる前にお発ちになってしまいそう」

「もうその心配はない。元凶をちゃんと捕まえたからな」

 そう言って、リエール卿は黙ってやり取りを聞いていたヴィーを見遣る。

「お連れさま?」

 アルニカは彼の視線を追って、こちらを振り向いた。

「従者だ」

 彼女は淑やかな目つきで、外套で半ば陰に隠れたヴィーの顔を覗く。ヴィーは挨拶がわりに控えめに微笑んだ。

「お弟子でいらっしゃるのね」

 騎士の従者には二種類ある。ひとつは生涯騎士に仕える平民、もうひとつはいずれ騎士となるために見習いとして預けられる貴族の少年。

 ヴィーの平民と見るにはあまりに整いすぎた容貌と佇まいから、アルニカは後者と判断したのだろう。

「ふん、勝手にはぐれた挙句、悪所で面倒に巻き込まれて主人の愉しみを邪魔するやつが弟子なものか」

「あら、まあ、お怒りですこと」

「当然だろう。万死に値する」

 ヴィーはリエール卿の勝手な物言いに特に反論するでもなく、ただ慎ましく口を噤み、若干の呆れと諦めを表情に織り交ぜながら視線を斜め上に泳がせた。

 その様子にアルニカはリエール卿に取られたのとは反対の手で口許を隠し、くすくすと笑う。

 一頻り主従の様子を楽しげに眺めてから、彼女はふと真顔になって言った。

「……ここにいらしたということは、お知りになりたいことがありますのね。――今宵は、王都の噂話でもお聞きになります?」

「ああ、ぜひとも頼む」

「ほんとうにいらしてくださいますのね?」

「ニームのあぎとからでも参じるさ。それでゆうべの非礼の詫びになるなら。……無論、詫びだけが目的ではないが」

 言いながらリエール卿はアルニカの細腰に手をまわして抱き寄せる。そしてその頬に軽く口付けると、ゆっくりと彼女を離した。

「ふふ、騎士様にそのようなお言葉をいただけるなんて、身に余る光栄ですわ。わたしも、拾える限りの話を拾って参りましょう。――では、夜に」

 アルニカはふたりの前を辞すと、人混みの中に紛れていった。

「……彼女は、馴染みなんですか?」

 後ろ姿を見送りながら、ヴィーは問う。

「いや、昨夜初めて買った。王都エキナセアとの行き来ではあの街に寄ることがないからな」

 王都から徒歩で一日ということは、騎馬では通り過ぎることが多い位置にある街だ。

「だがいい耳を持っている。下手な詮索をしない慎ましさもある。話しぶりでい女だと分かるだろう?」

「まあ、賢い女性なのだろうとは」

 リエール卿は女だけを目的に娼館へ赴くことはない。昨夜彼自身が言ったように、仕事――つまりは情報収集の一環であると、ヴィーも承知していた。……もっとも、情報通は娼婦に限った存在ではないので、趣味と実益を兼ねていることを本人も否定はしないが。

「……今夜やることって、それですか」

 ヴィーはぼそりと言う。

「そうだ」

 リエール卿は悪びれもせずに肯定した。

「女に義理を欠くようなやつはろくな死に方をしない、といつも言っているだろう? 忘れたのか」

「忘れてませんし、そのことについて異論があるわけではないのですけれど」

「じゃあ、なんだ?」

「……先に行ってていいですか? 王都」

「おーまーえーなぁ!」

 リエール卿はじろりとヴィーを睨んだ。

「主人の言いつけを忘れたのか従者! お前は今夜はまともな夕飯をしっかり食え。そして寝ろ。言っておくがな、王都の連中は痩せこけて憔悴したお前なんぞに用はないんだ」

「……」

「それに、お前の手形は預かった。勝手に飛び出して行っても王都に入れんぞ」

「な……! いつの間に!? なんてことするんです!」

 今朝、水浴のあと身支度をした際には確かに持っていた。

「私の手がことは、お前も分かっているだろう? ついでに、お前に妙な行動力があることも知ってるんでな」

「……私の手形に手を触れるなんて」

「訴えるか? 誰に?」

 言われたヴィーは言葉に詰まる。できるわけがなかった。

 自分は、この目の前の騎士には手が出せない。かつての師だから、ということではなく、もっと現実的な理由で。

 ヴィーはため息をついた。

「……分かりましたよ。でも明日には出発するようにしてください」

 リエール卿は意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「従者が命令するのか?」

「……お願いします。ご主人様」

「考えてやろう」

「私の忍耐力を試すのって、楽しいですか?」

 ヴィーは憮然として言った。

 その言葉に、リエール卿は少しばかりおや、という顔をする。

「……ふん? 珍しく機嫌が悪いな」

 ヴィーは答えなかった。

「気晴らしが必要か? 今夜連れてってやるか? 小遣いならやるぞ――いや貸すぞ」

「寝ろって言ったのに」

「夜通し熱中されたら話にならんが、眠れるならひとり寝でなくてもいいだろうよ。子連れになったら行きにくくなるぞ?」

「……その子供がひとり敵地に捕らわれてるというのに、そんな気にはなれませんね。――だいたい、貴方は私がこの国に来た目的をご存知なんでしょう?」

「それは分かっているが……」

 リエール卿は答えながら、眉を顰める。

「お前まさか……」

「ご心配なく。そういうことではありません。――でも、この旅の間くらいは、私の気の済むようにしたっていいでしょう?」

 リエール卿の視線を受けつつ、ヴィーはそちらには顔を向けずに前方を見つめ、そう言った。卿はやれやれといった様子で首を左右に振る。

「……まったく、言わぬことじゃない」

 そしてヴィーの後頭部を慰めるように軽く叩いた。

「……やっぱりお前、背が伸びすぎだ……」



 ようやく近づくことができた目的のものを、ヴィーは被った外套の奥からじっと見つめる。

「致命傷はどれも騎士の剣だな」

 同じく吊るされた骸をつぶさに観察しつつ、リエール卿が言った。

「騎士の?」

「良く手入れされた長剣の斬り口だ。速度もあるし無駄がない。賊のなまくらではこうはいかん」

「なるほど。……この者たちは確かに昨夜の『狐』です。そこの隻眼の者が頭目だったそうです」

 ディルに激しい執念を燃やしていた男の姿をヴィーは思い起こす。

 一晩で変わり果て、今は少しずつ水分を失って縮み始めた頭から、巻いていた包帯が取れかかっていた。膿みただれていたらしい目の傷が見え、これはどのみち長くなかったかもしれない、とヴィーは思う。

 人々は好奇心に駆られてこの場までやってきては、その無残なさまに首を竦めて去っていく。

「……なんでも、リリーのお屋敷の使用人を拐って殺したとか。まだ子供だってよ」

「なんだってそんな……」

「さあな」

 そんな声が、どこからともなくふたりの耳に届いた。

 途端、ヴィーの全身が凍りつく。

 寸刻、自分が周りの世界から切り離されたかのように、すべての感覚が遠くなった。


 ――なんだろう、この、突然世界から独り放り出されでもしたような、恐怖? いや絶望? 以前にも憶えがある。あれは……。


 リエール卿が棒立ちになった彼の肩を即座に掴み、小声で言った。

「おい! 落ち着け。子供をれぬよう斬ってこいつらの動きを封じたのは他ならぬお前だろう? 誰かが噂を流している」

 ヴィーははっとして、彼を振り返った。

「あ……ああ、そうですね……」

 呼吸を忘れかけていたことに気付き、息を吐く。全身に冷や汗を掻いていた。

 少し考えればただの噂だと分かったはずの話だ。なのにここまで動揺した己に、ヴィーは自分で驚く。

 そして気付いた。

 自分の中の『傷』が、ちっとも癒えていなかったことに。

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