第7章 苦闘の後

 やはり沢には追っ手が待ち伏せていた。音も無く走り寄ってくる敵に、ヴィーは足元から適当に拾った石をその額めがけて投げつける。

 更に別の追っ手が木から飛び降り、行く手に立ちはだかったが、ヴィーの長剣が翻り、柄頭が相手の顳顬こめかみを強打した。

 森で彼らが密集しないよう、方向を定めず動き回ったのが功を奏したらしく、突然一方向に向かい始めた標的に、草は一斉に襲いかかることができない。

 沢づたいに走る。倒木を飛び越え、泥を蹴散らし進むうち、街道は目前に迫った。

 先ほどから聞こえている馬蹄の音は一度通り過ぎたが、そこから誰かが大声で呼んでいるのが聞こえる。

「ヴィー! どこにいる!?」

 ヴィーは叫んだ。

「ここです! 後方の沢……」

 彼のいらえに向こうも気付き、即座に馬首を返した。

 ヴィーは沢べりから路上までの土手を一気に駆け上がる。馬上の騎士は速度を緩めぬままこちらに身を乗り出し、駆け寄ってきたヴィーの身体を抱え上げた。

 掬い上げられたヴィーが自力で鞍上に収まると、騎士は舌打ちする。

「くそっ……美女だったら完璧な絵だったんだが……!」

「こんな夜中に観客なんていませんよ」

「いるだろうが、そら……!」

 騎士――リエール卿が言い終わらないうちに、道脇の斜面に生えた木から追っ手が飛びかかってきた。

 リエール卿が抜剣するが、ヴィーは咄嗟にその腕を抑え、取り付いた敵に蹴りを入れて突き落とす。

「おい! 何のつもりだ!?」

 攻撃を止められたリエール卿が険しい声で問い詰めた。ヴィーは後ろを振り返って叫ぶ。

「殺さないでください!」

「ああ? 寝呆けたことを言うな」

「彼らはリリーの草なんです」

「……!」

 ヴィーの言葉にリエール卿は一瞬、押し黙った。蹄の音だけが規則正しく響くなか、彼は一呼吸置くと、ありったけの怒りを込めて怒鳴る。

「……馬鹿か!!」

 その反応は予測済みだったヴィーは首を竦めた。リエール卿はヴィーが被っているフードを荒っぽい手つきでぐいと引っ張る。

「今すぐこの外套を脱げ! そのなまちろい面を奴らに晒せ! 今すぐ!」

 ヴィーはフードを抑え、彼の手に抵抗した。

「駄目です! 今私だと知られたくないし、彼らが止まるかも分からない!」

巫山戯ふざけるな! こっちはいい迷惑だ。黒酸塊くろすぐりが怪我したらどうしてくれる」

 黒酸塊はリエール卿の馬の名だ。

「……頑張って逃げてくださいとしか……」

「お前叩き落とすぞ」

「せっかく来てくださったのに?」

「私が望んで来たと思うほど目出度めでたい頭になったか。お前に奴らの飛剣が何本刺さろうが知ったことではないが、ひとつでも黒酸塊に当たったらただじゃ済まさん。刻んで吊るして狼の餌にしてやる」

「……ひどい」

「どっちがだ。こちらはいきなり真夜中に叩き起こされて、お前がわけの分からん連中と交戦してると聞かされたんだぞ!?」

 それで不機嫌なのか、とヴィーは得心がいった。

 ふたりが喋る間も暗器は襲いかかり、リエール卿が片端から払い落とす。

 足を止めようと馬を狙って飛んでくるものも多く、その度にヴィーは背後の騎士から冷気が伝わってくる気がしてならなかった。

 多分に動きが制限される状況ではあったが、彼も剣で前方や下方の防御に努める。

「おそらく五、六人程度ですから、しばらく駆ければ引き離せるでしょう」

「大所帯だな」

「やっぱりそう思いますよね……」

 うんざりした様子でヴィーはため息をついた。

「この他に『グネモン侯の狐』までいたんです。とんだ夜ですよ」

「狐?」

「ああ、侯爵家の子飼の盗賊集団です」

「……草だの賊だの、お前何やってるんだ?」

「私にもよく分からないのですよね……」

 小首を傾げるヴィーを、リエール卿は呆れた目で見下ろした。

「ならとっとと帰ってこい。まったく、国境で待っていればいつまでたっても現れない、探らせてみれば子供を拾って東に逆戻りしてるときた。……で、その拾ったとかいう子供はどうした?」

「グネモン卿の配下に捕われています。長くなるので詳しいことはあとで……。でも、来てくださって助かりました。もう少しで教会の草に応戦させてしまうところでしたよ」

「むしろさっさとそうしてくれ。なぜ使わなかった」

「草の介入があったら向こうも只事ではないと警戒するでしょう。尻尾を掴む前に逃げられたくないのです」

 ヴィーの言葉を、リエール卿は鼻でわらう。

「はっ! 草から逃げおおせている時点で十分怪しまれるさ」

 草は稀少だ。小国カンファーでは王家と教会を除けば、彼らを抱えているのはリリー家くらいだろう。

 ゆえに通常の騎士や兵が遭遇することはほぼ無いような存在だ。

 であるからして、草の不意討ちを躱せるのは相当な手練れか、常に暗殺の危険があり、警戒を怠らない人種か――いずれにしても只者ではない。

 そのことにようやく思い至ったヴィーは悄然とする。

「……そう言われてみればそうですね……」

「お前はまだまだ世間知らずだな」

「そのようです……。もう少し修行を」

「要らん。聖堂の爺さんの心臓を潰す気か」

 言い終わらないうちに却下され、ヴィーは面白くなさそうに口を噤んだ。

 ――どれほど駆け続けただろうか。執拗だった攻撃はいつしか止み、やがてリエール卿は馬速を落として剣を収める。

 しばらく彼らは黙々と馬の歩みに任せて進んだ。あの騒ぎはなんだったのかと言いたくなるくらい、辺りは静寂に包まれていた。背後から、だいぶ欠けた月がようやく昇り始め、自分たちのごくごく薄い影が行く手の荒れた路面に歪に浮かぶ。

「……師匠」

 黒酸塊の歩みの律動に身を任せながら、ぽつりとヴィーが呼びかけた。

「師匠じゃない」

師匠」

「なんだ?」

「……眠いです」

 リエール卿の眉根がぐっと寄せられた。

「お前、それを私に言うのか」

「貴方が起きた頃には私はもう戦闘中だったんですよ?」

「私はお前のような早寝のお子様とは違う」

「……やっぱり娼館から来たのですね……」

「仕事だ」

「分かってます。どうりで言動が恨みがましいなと思っただけです」

 生意気極まりないヴィーの発言に、リエール卿の顳顬こめかみに青筋が浮かぶ。

「……あのな、今夜の件に限らずお前には言いたいことが山ほどあるんだが」

「大体想像がつくのであとで伺いますね。……それより、私は王都エキナセアに行きたいので東に向かっていただけませんか? 外郭辺りで宿を取って寝たい……」

 リエール卿の青筋がもうひとつ増える。

「お前なぞこのままエレカンペインに連行して、王都ラウウォルフィアに突き出してやる」

「悪い冗談ですね……」

「お前のその、ひとを食った態度を見てると定期的にそういう衝動に駆られるんだが。――で、本当にエキナセアに戻る気か?」

 軽口口調から一転、リエール卿は尋ねた。ヴィーは頷く。

「ええ。ディル――例の子を迎えに行かなくては」

「なぜお前がそこまでする。どういう子供だ?」

 問われたヴィーは寸刻、口を閉ざした。

「……私が、連れていくと約束したのです」

「だからなぜそんな約束をしたんだ?」

 重ねて問われ、ついにヴィーは完全に沈黙する。

 リエール卿は肩を竦めた。

 ヴィーは言いたくないことには頑として口を割らない。それを知っている彼は早々に諦めてため息をついた。

 ……と、どん、とヴィーの背が胸に当たる。そのまま彼の姿勢が戻らず、寄りかかられたままとなったリエール卿は半眼になった。

「……なんだ、眠っただけか」

 その声にまたうっすらとヴィーは意識を取り戻したらしく、目を擦りながら不明瞭な声で言った。

「そうだリエール卿……。お金、貸してください……」

「は?」

 唐突な言葉にリエール卿は訊き返す。

「今文無しなんです……野盗に奪られて」

「ほう? ……まあどのみち今回の経費はまとめてお前に請求するつもりだったからな。その額が増えるだけだ、私は構わんが」

「そうですか……では、お願いします」

 言われた内容には特に驚く様子も頓着する様子もなく、ヴィーはあっさりと受け入れた。

 そんな彼をしばしリエール卿は無言で見つめる。が、やがて重々しく口を開いた。

「しかしだな、ヴィー……」

 そこまで言って、勿体をつけるように黙り込み、大仰にため息をついてみせる。

「なんです?」

 さすがに気になったヴィーが、つい受け流せずに訊いた。

 リエール卿はしかつめらしい顔で言う。

「お前、だいぶ情けないな」

 手厳しい言われように、しかしヴィーは腹を立てる様子もなく苦笑いした。

「はは、本当ですね。私に貴方くらいの経験と技量があればなぁ。そうしたら、文無しもそうですけど、あんな小さな子をたったひとり、敵の手に委ねるなんてひどいことをせずに済んだでしょうにね」

「……お前のその、己れを省みることに抵抗がないところは得がたい美点だと思うがな、もう少し意地だの見栄だの無いのか?」

 揶揄からかい甲斐のない、とつまらなそうに呟くリエール卿に、ヴィーは笑いながら返す。

「私がそんなことに拘ったら、あっという間に破滅する、と教えてくださったのは貴方でしょう? ……ああ、それで思い出した。先ほどの質問、答えてませんでしたね」

「話す気が無いのかと思ったが」

「そうではないのです……」

 ヴィーは大きく欠伸あくびをする。

「どう言ったらいいのか考えてるうちに、眠気に負けてしまって……」

 言いながら、彼は木々の合間から微かに溢れる星明かりをぼんやりと見上げた。もうしばらく、開けた空を見ていないなとふと思う。

「……私は、あそこであの子に会って……強い違和感を覚えたんです。……なぜこんなところにこんな子が? という疑念……でしょうか。他にも引っ掛かることが色々あったのですが、とにかく何事に対しても……どんな小さな違和感も見逃すなって、貴方は言っていたでしょう? それで……私は……」

 とうとうヴィーは限界が来たらしい。再び言葉が途切れがちになってくる。

「おい、私の問いの答になってないぞ」

「すみません師匠……もう頭が……働かない……」

 ついに黒酸塊の蹄の音に混じって寝息が聞こえてくる。

 リエール卿は小さくため息をついた。

 馬の足を止めると、後ろに括り付けていた荷を鞍の前に積んだ。ヴィーの上半身を自分から引き剥がし、その上に俯せに寝かせる。そして自らは鞍を降りた。

 このままふたりで乗り続けては、黒酸塊に負担がかかり過ぎるからだ。

「……ヴィー、私はもう師匠じゃないと何度言ったら分かる。お前は破門済みだ」

 黒酸塊の顔の脇に立ち、手綱を持ち直して歩みを促しながら、彼は独り言ちた。



 服から草が生えるぞ、その腐葉土まみれのひどい身なりをなんとかしろ、とヴィーに言い置いて、リエール卿は出掛けていった。

 夜明け直後の川で冷水浴を余儀なくされたヴィーは、その冷たさと、全身に負った無数の裂傷や打ち身の痛みに水中で凍りつく。

 昨夜はさして気にならなかったが、思った以上にヴィーの身体は敵の攻撃を食らっていた。

(初陣の新兵でもあるまいし……これだけの数の負傷に気付かなかったなんて)

 よほど余裕が無かったのだろう。敵をたおさずに戦うなど、我ながら無茶なことをした。

 冷水がひどく沁みるが、怪我の放置は禁物だ。歯を食いしばりながらひとつひとつ傷口を洗う。

 王都エキナセアに入る、というヴィーの希望は未だ叶えられていない。ヴィーが意識を手放している間も、リエール卿は東に転進してくれなかったからだ。

 逃げてきた道をただ戻ってどうする、もう一度襲われたいのか、と言われればごもっともな話で、初めから逆向きに逃げてもらえれば良かったですね、と特に含みもなく言ったら耳を引っ張られ、そのまま黒酸塊の背から引き摺り下ろされた。

(まあ川にそのまま放り込まれなかっただけマシだけど)

 水から上がり、岸に置いた荷の中の着替えに身を包む。

 幸い、昨夜は旅嚢を背に括り付けた上に外套を着ていたので、荷物は比較的無事だった。が、一番泥だらけな外衣と外套はそもそも替えを持ち歩いていない。

 せめてもと、こびりついた泥を手ではたき、引っかかっている落ち葉を取り除いて外衣を被る。帯を締め、その上から剣帯を着けて長剣を提げた。

 そして、荷物と共に足元に置いていた小刀を拾い上げる。

 これは昨夜、ディルを狙った暗器の一投目だ。外套に刺さったものをずっと帯に挟んで持っていたのである。

 ヴィーはしげしげと独特な形の小刀を眺めた。この武器から、追っ手がリリーの草であると彼は判断したのであるが、万一暗闇の中で見誤った可能性を考え、手許に残しておいたのだ。

 朝陽を浴びて鈍い光を放つそれは、やはりリリー家に仕える草が使うものだった。自分の目が正しかったわけだが、喜ぶ気にはなれない。

 再びそれを帯に挟み込み、草地に脱ぎ捨てていた外套を拾って両手で広げる。

 そして、あまりの惨状にため息をついた。

「あーあ……」

 汚れ云々以前に、穴だらけだ。

 ひとつふたつの破れやほつれくらいなら、旅の装備なので不審に見えることもない。

 しかし、これは刺し跡の数があまりに多すぎた。こんなものを白昼身に着けていたら、悪目立ちすることこの上ない。

 それでリエール卿はヴィーを人里には連れていかず、ここに置いていったのだろう。

(卿は経費を全部私に請求するって言ってたけど……)

 襤褸ぼろと化した布地を太陽に翳してみた。陽光が布地を貫き、無数の薄い刃のように自分の身体に差し掛かる。

 そのさまについ、ヴィーは声に出して呟いた。

「……私は、外套代をリリーに請求すべきかな……」



「何をブツブツ言っている」

 不意に頭から何かをばさっと被された。

 気配はしていたのでヴィーはそれほど驚かなかった。振り返れば粗削りだが端正な顔立ちの偉丈夫が、呆れ顔で自分を見下ろしている。

「リエール卿……」

 ヴィーは被されたくすんだ茶色の布を頭から引き摺り下ろした。

「とりあえずだ。当然、に飛剣を止めるなんて能力はないからな」

「分かってます」

 防御面でも外套は重要だったが、それ以上にヴィーの髪色はこの辺りでは目立つ。それを隠すためにも外套は必須だった。

 同じエレカンペイン人であるリエール卿も金髪だが、彼の髪はもっと濃く、蜜色に近いのでこの国でも周囲に馴染みやすい。それが今のヴィーには少々羨ましかった。

 ヴィーが外套を被り直すと、リエール卿は片手に持っていた包みを彼に渡す。

「朝飯だ。空腹だろうがあまりがっついて食べるなよ。何日かまともに食べてないんだろう?」

「助かります……。ずっと小さな魚ばかりで」

「お前の下手くそな罠にかかる動物はこの国にもいないとみえる。拾われた子供も災難なことだな。それともご自慢のトカゲ料理でも食わせてやったか?」

 言われてヴィーはぐっ、と言葉に詰まった。

「……この季節にうろついてるトカゲなんていないですよ……」

「冬眠中のやつのほうが捕まえやすいだろ?」

「そういう問題ではなく! あれは非常措置です。まるで常食してるように言わないでください」

 とはいえ、ディルの文句を封じるためにすでに話題に出していたことは黙っておこう、とヴィーは思った。

 ここはヴィーが使っていた山の中の裏道ではなく、平地を通る大街道の近辺で、通りからは少し外れた場所らしい。

 林の中ではあったが、ここしばらく歩いていた山中より森番の管理が行き届いているようで、下草はほどよく刈られ、木々の間隔も広く、新芽が陽光を弾いてかなり明るい。

 王都からは徒歩でおよそ一日の距離、とリエール卿は言った。

 彼はここからほど近い小さな宿場町に宿を取ったらしい。夜通し歩かせた黒酸塊を厩舎に預け、厨房から朝食を分けてもらって戻ってきたとのことだった。

 川岸から少し奥まった草地に腰を降ろし、まだ温かさの残るパンをちぎって口に運びながら、果たしてディルは何か食べさせてもらえているのだろうか、とヴィーは心配になる。口に広がる久方ぶりの穀物の味は甘く、それだけに彼の心の中に苦いものが広がった。

「……つまり? 偶然拾った孤児がリリー家を追い出された元使用人で? しかもリリーとカーラント両家に追われていた、と」

 隣に座ったリエール卿は、ヴィーから聞かされた話をそう要約した。

「……そういうことのようです」

 肯定するヴィーを、リエール卿は憐みにも似た目つきで見遣る。

「……まったく大した目利きだな。そこまで面倒そうなガキ、探したってそうそう見つかるもんじゃないぞ」

「私だって驚いてるんです。王都で何かあったらしいことはなんとなく察しがついてましたけど」

 ヴィーの言葉に、リエール卿は嫌な予感がした。

「……まさかと思うが、わざわざその『何か』の始末をつけてやるためにエキナセアに戻る気になったんじゃあるまいな?」

「まあ、それもあります」

 これは文句を言われるな、と予測したヴィーは歯切れ悪く答える。

「――でも」

 案の定、何か言ってやろうと息を吸い込んだ相手を制するように、ヴィーは声に力を込めた。そしてリエール卿に顔を向け、その険しい光を宿した青灰色の瞳を真っ直ぐに捉える。

「貴方の教えは正しかった。こうなった以上、やはり謎を謎のままにしておかなくてよかったと思っています」

「……」

「……私は、まだ貴方に話していないことがあります。――いずれ明かせるのか、今はそれも分かりません」

 リエール卿は途端にひどく厭そうな顔をした。ヴィーから視線を外し、降参するように両手を挙げる。

「分かった! それ以上は結構。お前の『お話しできません』ほどこの世で厄介なものはないからな。そのまま墓の中まで抱えて持っていってくれ」

「そこまでの大事でないことを祈っていますが」

 そう言いながら、ヴィーはパンの最後のひとかけを口に入れた。それをゆっくり咀嚼し、飲み込んでから立ち上がると、服についた枯れ草を払う。

「ごちそうさま。内密の話はこのくらいです。……宿、案内していただけますか?」



 王都までは騎士とその従者という設定で行動することにし、ふたりは宿場町に入った。

 旅慣れているリエール卿は、宿は最低限の信用と快適ささえ確保できれば上々、という考えの持ち主なので、いちいち身分相応と思われるような高級宿を使ったりはしない。

 それを知っているヴィーは、案内された部屋に設えられた、簡素だが清潔に整えられている寝床を見て、その目の確かさに感心する。

 何はともあれ旅装を解くと、ヴィーはどさりと寝床に全身を投げ出した。俯せのまましばし眼を閉じる。

 野盗に遭う前から野宿が続いていたので、もはやまともな寝床が何日ぶりか知れない。

 それを手放しで喜べないのは、やはり昨夜まで共にいた小さな連れのことがあるからだ。

 最善を選んだつもりではあるが、最低の中での最善でしかない。自分で庇護すると言っておいてこの体たらく、リエール卿に言われるまでもなく、自分が不甲斐なかった。

(ディル……約束のこと、ちゃんと思い出せただろうか)

 今のディルにとって、疑心と絶望こそが何よりの毒だ。なので必ず助け出す、という意味で言ったのであるが……。あの歳の子供に、それもこれまで至って平穏に生きてきた彼に、何をどこまで期待できるかは全くの未知数である。

(王都に入れば。そうすれば私は……)

 自分の戦い方ができるのに。

 自身を宥めるように、ひとつ大きく息を吐くと、ヴィーは片腕を伸ばした。寝台の脇に置いた旅嚢に手を突っ込み、手探りで羊皮紙を掴んで引っ張り出す。

 丸められたそれは、ディルから預かった例の書簡だった。ごろりと身体を反転させて仰向けになり、羊皮紙を開く。

 文面をつぶさに観察し、そしてその下、問題の署名に視線を移した。

 しばらく見つめたあと、やや乱暴に書簡を左手に握りしめ、その手の甲を額に当てる。そして眼を閉じ、部屋中に響くような大きなため息をついた。

(ああ、もう……)

 無力感と焦燥で占められていた心の中に、新たな感情の火が灯る。それはじわじわと燻り、次第にヴィーの胸中を濁していった。

 形の良い両の眉がきつく寄せられる。

「……いいかげん、腹が立ってきた」

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