第2章 狙う者
カンファーという国はエルム大陸でも小さな国である。
北西は北の雄たるエレカンペインに、南は大陸の華と謳われるリツェア帝国にそれぞれ国境を接している。
東は山脈を挟んだ向こうに、エルム大陸と文化も信仰も異にするニゲラ大陸が続くため、必然的にこの国はエルムの玄関口としての役割を担っていた。
多少ではあるがニゲラ大陸との交易が行われており、こちらでは産出されない
また王都エキナセアはエルム大陸を横断する大街道の東の起点でもあるため、人の行き交いは活発であり、その分経済活動も盛んで、国民の生活は比較的豊かだった。
対して国の規模が小さいゆえに軍事力は然程ではなく、多くの場合において、隣国エレカンペインの庇護を必要としてきた歴史がある。
幸い、現在大陸内の情勢は落ち着いており、この国の存在が脅かされるような事態は、もう長い間起きていない。……あくまで、エルム大陸内では、の話であるが。
「あの子供を逃しただと!? 今になってそんな報告か!」
王都内、ある貴族の邸宅にて、屋敷の主の執務室に三人の男たちが集まっていた。
ニゲラからの交易品であろう、繊細な彫刻が施された縞瑪瑙のゴブレットが、怒声と共に机に叩きつけられる。
「ただの平民の子供だぞ? 間抜けどもめ、カーラントの子飼いが聞いて呆れるわ」
怒りも顕に吐き捨てたのは、執務机の向こうに座る、屋敷の主とおぼしき壮年の貴族。彼は顔が映るほどに磨かれた机を苛々と指で叩いた。
「まことに……。かようなことなら王都から連れ出さず、こちらの手で始末しておくべきでした」
机を挟んで向かいに立つ、同年代だがこちらは貴族に仕える下級騎士であろう、地味な外衣と外套に身を包んだ男が沈鬱な表情で言う。
「それはならぬ。手を下すのは我々であってはならないのだからな」
即座に口を挟んだのは、執務机の更に奥で、同じゴブレットを片手に壁際に佇む二十歳そこそこの貴族だった。
この場で最も年若いが、紋章入りの金のマント留めや金糸の縫い取りが施された肩帯など、装いはこの中で最も格式高く、伯爵身分以上であることを伺わせる。彼は眼光鋭く騎士を見返した。
「万が一、叔父上の関与が明るみに出ては全てが水の泡……。我らは最後まで、あの忌々しい宗主を欺き通さねばならぬ」
「は……」
「今頃は死物狂いで子供の行方を追っていよう。まずはあちらに任せるしかあるまい。……そうでしょう? 叔父上」
同意を求められた執務机の貴族は
「……確かにそうだが、こんな失態を犯す輩を傍観していてよいとは思えぬ。この企みが失敗してみよ。我らが失脚するだけではない。我が国がアイブライトの傀儡たる現状から脱却する道が閉ざされるのだぞ」
青年は神妙な面持ちで頷いた。
「ええ、心得ております。……あの賊どもがあまりに使えぬとあれば、そのときは致し方ありません」
そう言って彼は騎士の方に顔を向ける。
「草に子供を追わせよ。先に発見したとしてもまずは手出し無用。だが五日ののち、いまだカーラントがあの子供を探し出せぬようであれば、草を使って内密に処理せよ。無論、その場合カーラントにはせいぜい高く恩を売りつけてやらねばな。――叔父上、これでよろしいか?」
「うむ……」
未だ不安が拭いきれない様子ではあったが、甥の案以上の良策が思いつかないらしく、彼は唸るように同意した。そして机の反対側の騎士に向き直る。
「最終的に息の根を止めるのがどちらであるにせよ、一刻も早く子供の居場所を掴むのだ。よいな」
「は、必ずや。……しかし相手は子供です。今は同行者がいることも考えられます。その場合はいかがいたしましょう」
騎士の問いに、青年は迷いのない様子で答えた。
「全員、生かしておくな。知らず保護した者には気の毒だが、これは大義のためなのだ」
「今日も魚……」
ふたりで旅を始めて三日目、ディルは火にくべられた川魚を見てぼそりと呟いた。
結局、ヴィーが自信がないと言いつつ眠る前に仕掛ける罠に動物がかかることはなく、辛うじて川で捕まえた小魚で飢えをしのぐ日々となっている。
「そんなことを言うなら明日はトカゲを焼いて出しますよ」
すかさず返された言葉にディルは竦み上がった。
「トカゲ!?」
「おや、荒野ではご馳走ですよ?」
「嘘だ……」
「嘘ではありません。知っていますか? この国の南の方には広大な荒野があります。あそこを旅していたときに食糧が足りなくなってしまって……。捕まえて食べたのですが、あの味ときたら、飢えきった私には天上の神の晩餐も
ふふ、と美しい思い出でも語るかのように楽しげなヴィーに、ディルは呆れ顔になった。
「なんで荒野なんか旅したの?」
まるで冒険者のような体験談だが、この体たらくでそれはないな、と思いながら、焼け縮んで更に小さくなった川魚をもそもそと咀嚼する。
苦味が強いという
「あれもこの国に来ていて、その帰り道でしたね。違う道を通りたくなって。でも盗賊に手傷を負わされて――荷物は死守したのですけれど――動けなくなって干からびかけて、大変な目に遭いました。運良く通りかかった旅人に助けられましたが」
「……変なの。そんなに何度もこの国に来てたの? 何しに?」
普通、国境というのはおいそれと越えられるものではない。行商人や貿易商でもない様子のヴィーが頻繁に自国からこちらにやってくる理由が、ディルには見当もつかない。
「親戚がいるので。時折、その家を手伝いに行くのです」
「……ふうん? じゃあ、ヴィーはカンファー人でもあるの?」
「血は引いてますね。私の祖母がこの国から嫁いできたので」
「へぇ」
またひとつ増えたヴィーの情報を頭の片隅に仕舞いながら、しかしディルはふと思いついて小首を傾げた。
「……あれ、家族はいないって言ってなかった?」
「肉親はいないですが、親戚はたくさんいます」
「じゃあ、寂しくない?」
そう問われて、ヴィーはなんとも言えない表情になった。
「んん……どうでしょう。エレカンペインにいる親戚とは、ほとんど会えない状態ですから……」
どういうことだろう、とディルはきょとんとする。
「仲が悪いの?」
「平たく言ってしまえば、それがいちばん近い表現かもしれませんね」
苦笑いとも何ともつかない微笑を浮かべて、ヴィーは肩を竦めてみせる。
この一見温和で人当たりの良い彼に、不仲な相手がいるなど想像がつかない。ディルは首を傾げてしまった。その素直な反応に、ヴィーは小さく吹き出す。
「世の中にはね、私がいくら仲良くしたいと思っても、それが叶わない相手がいるのです」
笑いながらそう話しているのにヴィーの眼差しは儚げに揺れていて、それがどこか泣きそうなようにも見え、ディルはなんだか胸が詰まった。
「……そういえば訊いていなかった。貴方は今幾つです?」
「おれ? ええと……八歳」
「では、私は今ちょうど、貴方の倍の歳なのですね。もう間もなく十七になりますけれど」
「ふうん」
子供にとって、十代から上の人間の年齢は、何歳と言われても実感が湧かないのかもしれない。よく分からず、ディルは気の抜けた相槌を打つ。
「私は十歳のときに家族を亡くして、それ以来、親族とも顔を合わせることがなくなりました。仲の良い従弟もいたのだけれど……。最後の記憶の従弟は、そういえば今の貴方と同じ歳でしたよ」
「……そう。ずいぶん前のことなんだね」
「ええ」
日暮れ前にふたりで整えた野営地に、静かに夜の帳が降りてきた。穏やかな口調で語られるヴィーの話を聞くうちに、ディルは瞼が重くなってくる。
疲れきった身体が切実に休息を必要としていた。ヴィーが歩調を合わせてくれているとはいえ、十分な食事も無しに日中歩き通しである。元々が都会育ちでそれほど体力があるとは言い難い。
「明日には王都に着きます。もう寝ましょう」
ディルの様子に気付いたヴィーが、そう言って毛布を差し出す。ディルはもはや声に出して返事をする元気もなく、毛布を受け取るなり地面に倒れ込むようにして眠りに就いた。
ヴィーは、結局カンファーの王都エキナセアに戻ることにした。
ディルという連れもでき、纏まった路銀が必須となったが、それは街でないと調達が難しい。位置的に、戻ったほうが早いとヴィーは判断したのであった。
三日前、捕えられていた小屋を発ち、森の中を貫く街道――と言っても裏道だが――まで出たところで、ヴィーはそのことをディルに伝えた。
「えっ……?」
それを聞いたディルは一瞬声をあげたきり、言葉に詰まる。
ヴィーが彼を見下ろすと、傍目にもそれと分かるほど全身を強張らせていた。本来であれば王都はディルの故郷であり、戻れるとなれば手放しで喜びそうなものであるが、彼は明らかに怯えている。
しかし、敢えてヴィーはそれを気にしない体で、そのまま言葉を続けた。
「もういちど路銀を用意しないといけません。この先の街はあまり大きくないので、王都に戻ったほうが確実なのです」
ディルは俯き、少し考えてから口を開いた。
「……ヴィーはいいけど、おれ……手形が無い。無理やり王都から出されたから……。だから、城壁の中に入れないよ」
王都――特に城壁で囲まれた内郭に入るには、役所か教会が発行した手形が必要だ。ディルは元々内郭で暮らしていたが、その身の証となるものが、今は何も無いのだという。
「それについては私がどうにかできるでしょう。……でも貴方が今、王都に向かいたくない理由は、それだけ?」
ディルは唇を引き結んだ。本当は、言わなければいけないとは思う。でも、どうしても言いたくない。うまく説明できる気もしない。そんな思いが頭の中をぐるぐる廻り、息をすることも忘れてしまいそうになる。
そんな彼の様子に、ヴィーはその場に膝をついてしゃがみ、彼の顔を下から覗き込んだ。
真正面から自分の目を覗かれて、ディルの瞳が大きく揺らぐ。ヴィーは両手を伸ばしてディルの両肩に添え、噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「決して、貴方の悪いようにはしません。どこかに置いていったりもしない。約束します。……だから、私と王都に戻りましょう?」
ディルは泣きそうに顔を歪めた。
「……なんで、おれまだ何も話してないのに、そんなこと言えるんだよ……」
「無理に話さなくていい、とさっき伝えたばかりですよ。私はそこまで記憶力は悪くありません」
「でも……!」
「貴方を連れていこうと最初に言ったのは私であって、貴方ではない。だから、全ての責任は私が持つ、それだけです」
当然のようにヴィーは言うが、世の中ではそれが決して当然では有り得ない、そんなに世界というものは誠実ではない、ということくらい、もはやディルにも分かっていた。というよりここしばらくで、それを厭でも思い知らされたのだ。
「さっきまで野盗に捕まってたくせに……おれがいなきゃ逃げられなかったくせに、そんなんでどうやって……」
うっかり感動しそうになったところで先ほどまでの事態を思い出し、ディルは照れ隠しもあって辛辣に言う。ヴィーは怒るどころかさもおかしげに笑い出した。
「はは、まったく貴方の言う通りですね! ですが人間、何事にも領分や、得手不得手があるのです。王都であれば、私はそうそう脅かされることはありません」
きっぱりと言われた言葉の意味が、ディルにはよく分からなかった。この辺りでは頼りないヴィーだが、王都では頼りになる、ということだろうか。どう頼りになるのかは謎なのだが……。
「……分かった。王都に行く。おれも、どこへだってついていくって、さっき言ったから」
ディルの言葉に、ヴィーは心底嬉しそうな顔をした。
もしかして、彼は彼なりに、自分を説得することに必死だったのかもしれない、とディルは思った。どうしてそんなにまでして自分を? という疑問が頭に浮かぶが、眩しいほどに晴れやかなヴィーの笑顔の前では、そんな疑念など些細なことのように思えてきて、その問いが口をついて出ることはなかった。
そうしてふたりは一路、東に向けて旅を始めたのである。
いかほど眠った頃だろうか。ディルは強く肩を揺さぶられ、深く沈んだ眠りの淵から強引に引き揚げられた。
「……ヴィ……っ!?」
何事かとぼんやりした頭で連れの名を呼びかけたところで、その口を塞がれる。
ぎょっとして目を見開くと、自分の口を塞いでいるのはヴィーだった。いつの間にか獣除けの焚火は消され、星明りさえ木々に遮られて届かない森の中は真の暗闇だ。
それでも目が慣れると、彼の金髪や白い顔がぼんやりと見えてくる。ヴィーって暗いところだと目立つんだな……と、どこか他人事のようにディルは思った。
それは自身も自覚しているのか、ヴィーは寝具代わりに羽織っていた外套のフードを引き上げ、頭に被りながら、極限まで抑えた声でディルに囁く。
「何者かが近付いてきます。十人近い。相手の正体が分かるまで身を隠しましょう」
彼の口調は落ち着いていたが、それでも今までにない緊迫感が漂っていた。ディルは慌てて毛布を跳ね除け身を起こす。その毛布をヴィーは手早く畳んで旅嚢に突っ込み、そして言った。
「あそこの繁みの向こうに隠れます。運びますよ」
行く先を顎で示したかと思うと、ヴィーは突然ディルをひょいと小脇に抱えて立ち上がった。
「!」
ディルが咄嗟に声を出さなかったのは僥倖としか言いようがない。いきなり宙に浮いた自分の身体に、彼は飛び上がるほど驚いたのだから。
ヴィーは音もなく移動し、木立の中、葉を繁らせる低木の向こうにディルを降ろし、共に屈み込んだ。その無駄のない動きは訓練されたものだろう。
ディルはなぜヴィーが自分を歩かせなかったのか、ようやく悟る。足音を立てずに素早く移動するなど、とても自分にはできない。
騎士見習いではないとヴィーは言ったが、それでも剣の心得はあるようだし、彼は明らかに、戦闘に関する訓練を受けたことのある者に見えた。
低木の葉の隙間から、自分たちがいた野営地を息を殺して窺う。
虫の声や森の上層を吹き渡る風の音、近くの沢の水音などが雑多に混じり合うなか、何者かが落ち葉を踏みしだいてやってくる音が聴こえてきた。
ディルはこれから何が起こるのかと、緊張と恐怖で身を強張らせ、生唾を飲み込む。その様子に気付いたのか、ヴィーが彼の背中を落ち着かせるように撫で始めた。
その、なんとも気遣わしげな手つきに、母親みたい……とディルはいささか呆れ、けれどそのお陰で張りつめた心が幾分冷静さを取り戻す。
ヴィーのやることは毎度想像を越え、正直ディルにはますます彼のことが分からなくなった。
(ほんとに、ヴィーってなんなの?)
質問にはいつもきちんと答えてくれる彼のことだ。訊いたらあっさり回答を得られそうな気もするのだが、しかしディルは、その根本的な疑問をいまだヴィーにぶつけられずにいた。どうして
ただ何にせよ、彼からは悪意も他意も感じない。そして自分に対して乱暴なことをしなければ言うこともないが、さりとて殊更に機嫌を取るようなこともしない。
その自然な接し方が、家族を失ってからこのかた、ほとんど害意ばかりに晒されてきたディルにとって、何より居心地が良かった。
足音の主たちはついに、彼らが眠っていた野営地に松明を持って現れた。
正確な数は分からないが、ヴィーの言ったとおり、確実に五人以上はいる。全身を外套に包み、長剣を提げていると思われる者が二人、その他各々手に剣や棍棒などを持ち、無精髭で顔の下半分は隠れているような、薄汚れた衣服に身を包んだ目つきの悪い男たちが五、六人。
その中心に立つ男は頭から右眼にかけてに包帯を巻いていた。出血を止めても替えの包帯がないのか、古い血に染まってほとんどが茶色い。
「あ……っ」
松明に照らし出されたその男を見てディルは思わず小声をあげた。ヴィーが鋭い動きでディルの方を見る。その視線を受けて彼は慌てて口を噤んだ。
「畜生、気付いてやがったのか。忌々しいガキどもめ」
焚火の跡がまだ燻っているのを見て、包帯の男は苛立たしげに吐き捨てた。
「また逃したと?」
外套の男が冷えた声を浴びせかける。丁寧な発音と、その口調からして、そこらのならず者ではなかった。ある程度の身分のある人間だろう。
言われた男は憮然として返した。
「黙ってろ。てめえらだけで見つけられねえくせによ。見掛けた奴の話じゃ、騎士みてぇななりの若造と一緒だったんだ。ガキだけの知恵じゃねえ――おい、近くを探せ。まだ火が消えたばっかりだ。あんなガキがいつまでもこの暗がりに隠れてられるわけがねぇ。炙り出せ」
おう、と応えた彼の手下らしき男たちが、野営地の周りの木々の間を探し始める。
「子供のほうは殺してはならん。生きたまま捕らえろ」
外套の男が指示を付け足した。
会話から、自分たちに友好的でない相手だということは間違いないだろう。
その確証が持てたヴィーは、男たちから目を離さずに隣のディルの身体を引き寄せる。男たちが当てずっぽうに草むらや低木の中に武器を突っ込んで掻き分け始めると、その音に紛れつつディルを抱えながら更に後退した。
十分に距離を取ると、そこでようやくディルを降ろし、小声で「走って!」と言うなりヴィーは木々の間を身を低くしたまま駆け出した。
いったいどこへ? などという疑問を口にする間もあらばこそ、ディルも必死に彼の後を追い、暗闇に向かって走り出した。
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