遺形の承継者

Skorca

第1部

第1章 小さな取引

 さあ子供らよ 日が暮れる

 二つおもてのニームが来る

 家に帰りて戸を閉めよ

 鏡面かがみおもてのニームが来る

 (エレカンペインの童歌)



 ねえ、ソレル。

 君は「従兄上あにうえのように強くなりたい」と、真夏の日差しを受けた木の葉のように輝いた目で私の剣を褒めてくれたけど、そんなに私は強くなかったようだよ。ちょっと体格のいい数人に囲まれて、まともに打ち合ったらこの様だもの。

 今私は後ろ手に縛られて、両脚もまとめて縛られて、薄暗い小屋の中に転がされている。剣も荷物もみな奪われて、目の前で大男たちが物色している。

 こんなことを言っても君は信じないかもしれないね。でも、今現実に、私の身に起こっていることなんだ。

 勿論、君に会えなくなった後のこの数年、鍛練を怠りがちだったということもあるけれど、そもそも武器の扱いだけを知っていてもだめなんだ。

 ひとりで旅をするなら、どんな道をどの時間に通るのが良いか、適切な路銀はいくらくらいか、どんな身なりなら賊に目を付けられないか――つまり世間を知らないといけないということだね。

 だからソレル、今度は君とふたりで旅をしたい。それはもう、考えてもみなかったような出来事がたくさん起こるんだ。君と共に体験できたらどんなに楽しいだろう――



「……って、手紙を書いても、また読んではくれないのだろうな……」

 誰にも聞こえない小声で、ため息混じりにヴィーは呟いた。

 床などない、地面がむき出しの掘っ建て小屋の中、汚れきった身なりの大柄な男たちが、四、五人で自分の所持していた荷物をひっくり返している。

 旅嚢りょのうにはわずかばかりの小銭以外、金目のものがないと知ると、ひとりが苛立った様子でこちらに向かってきた。

 ぐい、と地面に転がったままの彼の胸ぐらを掴むと、そのまま引き起こす。まだ成長途中のヴィーの細身の身体は簡単に宙に浮いた。

「おい。お前、いいとこの坊なんだろう? どこに金隠してる」

 聞き取りにくい発音で言いながら、男はヴィーの顔を覗き込んだ。

 ああ、これはこの大陸の人ではないのだな、とヴィーは思った。

 髪の色こそこの国の住人とあまり変わらない茶色だが、顔立ちが大陸内の人種と少々異なるし、母国語でない言葉をどうにか操っているような不自然さを感じる。

 近頃、こうしてこちらの大陸に流れ着いたものの、生活が成り立たず、賊となる者が多いと聞いてはいた。

 棍棒と形容したほうがよいくらいの手入れの悪さではあったが、一応剣を持って襲い掛かってきたところを見ると、兵士崩れか。

 この土地に何のつても知識もない彼らは、物品をぶん盗ってもまともに金に換える術がない。だからとにかく金と食料を奪いたがるのだという。

「そう言われても、ただの騎士見習いです……。用事を言いつかって砦から出てきただけで……」

「砦?」

 男の顔がわずかに強張った。

「ですから、必要なお金しか持ってないのです。私が帰らないと、騎士たちが探しにくるかも……っ」

 そこまで言ったヴィーは、唐突に身体を地面に投げ出された。

 男たちは動揺を隠せない様子で何やら早口で喋っている。ヴィーの知らない言葉だった。

 一しきり何かを言い合ったあと、同じ男がもういちどこちらに向き直る。

「でたらめ言うな、こ、ここらで騎士なんか、見たことねぇぞ」

「今日は特別な用事だったから……。でも私はあの道を通ると皆に伝えてあります。だから私を捕まえたままだときっと来ますよ」

「……っ」

 男は腹立たしそうに歯ぎしりする。再度彼らの母国語で悪態をついたようだった。

「確かにここは騎士団領ではないですから、私さえ無事に戻れば誰も来ません……って、あの、ちょっと!」

 ヴィーの言葉を最後まで聞かず、男たちはあたふたと全員が小屋の出口に走り出した。彼の財布はしっかり握ったまま。

「縄を……!」

 慌てて声をかけたが、誰も振り返ることなく出ていってしまった。

 ちょっと身なりの整った旅人と思って襲ったはずが、賊の取り締まりの任も担う騎士団に繋がりがあると聞いて、ヴィーの小難しい理屈を理解しようとする前に逃げることにしたらしい。

 自分以外誰もいなくなった小屋の中で、力なく転がりながらヴィーはしばし戸口を見つめた。

 頬に当たる地面の感触が冷たい。この辺りの土地では少数派の、色素の薄い金髪が土にまみれているのを視界の端に捉える。

「……ああ、失敗した」

 これでは誰にも拘束を解いてもらえない。

 衣服の袖の内側に小刀でも潜ませておくべきだった、いやもう少しうまく彼らと話して、縄を解かせるよう仕向けられれば……と反省したところでもはや遅い。

「……失敗したって、なに?」

 突然、小屋の奥からこれまで聞いたことのない声がかけられ、ヴィーはぎょっとした。子供の声だった。

「……誰?」

 ヴィーは陽が差さず真っ暗な奥に向かって声をかけた。

 すると壁際にしつらえられた棚の脇から、小さな子供がそっと顔を覗かせる。

 先ほどの男たちと違い、この国の子供のようだった。緑の瞳に薄茶色の髪。栄養状態は良くないらしく、頬は痩せこけ、あちこちに殴られたあととみられる痛々しいあざがある。

「……その傷、先ほど出ていった男たちにやられたのですか?」

 ヴィーが問うと、子供は無言でうなずき、そして少しだけ歩み出てきた。十歳にもならないくらいの歳の頃に見える。

 珍しげにヴィーを一頻り眺めてから、子供はようやく口を開いた。

「……おれ、あいつらにつかまって、無理やり働かされてた。水汲みとか、色々……」

「……子供は、貴方ひとりですか?」

「うん」

「皆出ていってしまったけれど、今、逃げないのですか?」

 ヴィーの素朴な疑問に、子供はかぶりを振った。

「逃げても行くとこない。おれ、孤児だから」

「そう……」

 確かにここは山の中だ。子供がひとりで道を歩いていれば、結局はまた人買いやらなにやらに捕まってしまうのが関の山だろう。

「騎士団とかっていうのが来たら、おれも捕まるのかな……」

 不本意にも賊の一味とみなされ、牢に入れられると思ったのか、悄然と項垂うなだれる。

 しかしヴィーは落ち着き払って言った。

「来ませんよ」

「……え?」

「騎士団は嘘です。私は騎士見習いではないし」

「……えっ? ……まさか、あいつらをだましたの?」

 何やら子供の顔に、尊敬のような色が広がる。

 よくよく見ると、彼は傷だらけで汚れてもいたが、その瞳は存外に光が強い。孤児というが、親も知らず、希望も絶望も知らずに育った類の子供でないのは明らかだった。

「彼らは金目の物が欲しい。でも私は持っていない。ですからいつまでも私を拘束していたところで、彼らに得るところは何もないのです。しかし彼らは私がどこかに大金を隠し持っていると信じて疑わないようだったので……なのでまず私のことを諦めてもらおうと思ったのですが」

「へぇ。……すごいなぁ」

「そう褒められても居心地が悪いのだけれど。縛られたままでは自力で逃げることもできない。ああ、ほんとうに失敗した……」

 最後はすっかり気落ちした様子で、ヴィーは独りちる。

「縄を切ればいいの?」

「ぜひ。お願いします。そこに散らばってる私の荷物の中に、短剣があるはず……」

 そう言って、ヴィーは子供に目線で男たちが散らかした自分の荷物を示す。

 しかし、子供はすぐには動かなかった。何やら思いつめた様子で考え込んでいる。

「あの、さ……。縄、切ってもいいけど、代わりにお願いがあるんだ」

 躊躇ためらいがちに、しかし何かを決意したように子供は切り出した。

「お願い?」

「おれ、すごく腹が減ってるんだ。おれに食べ物をくれない?」

 ヴィーは、子供の顔を覗き込んだ。

 彼の要求はもっともなようにも聞こえる。けれど、ヴィーはすぐには答えず、しばし考えた。

「……今貴方に食べ物を差し上げるのは簡単なことです。でも、それではすぐに飢えてしまいますよ。今食べられる、ではなく、ずっと食べていける、にならなくては」

 彼の言葉に、子供は小首を傾げる。

 ヴィーは肘と腹の力を使って身を起こした。背筋を伸ばして子供に向き直る。

 彼を取り巻く空気の色が変わったように、子供には感じられた。

 いまだ縄で縛られたままの姿だというのに、どこか侵しがたい、威厳すら感じる気配が、辺りを静かに満たしていく。

「私はヴァーヴェイン。普段はヴィーと名乗っています。貴方の名前は?」

「……ディル」

「ディル。私と一緒に来ますか? 私は隣の国の人間なので、この国から離れてもらうことになりますが……」

 ディルと名乗った子供は、一瞬きょとんとした。しかしその表情はほどなく怪訝けげんなものになる。

「……おれ、孤児だよ? 連れて帰ったら家の人に嫌がられたり叱られたりするんじゃないの?」

 面倒はごめんだ、とばかりのディルの態度に、今度はヴィーが目をみはる。

「ずいぶん慎重なのですね」

「おれ、生まれは王都だし、親は貴族に仕える書記だった。下っ端の下っ端だったけど。だから貴族のことならちょっとは見てる。ヴィーが貴族なのかなんなのか知らないけど」

「なるほど……」

 ヴィーが思った通り、ディルの出自はかなりきちんとしていたようだ。

 あてもなく無闇に賊の許を逃げ出さない、ヴィーの縄を解く前に自分の要求を伝えて取引する、などの齢に似合わぬ慎重さは、彼が非常に聡明であることを表している。

「心配には及びませんよ。私の両親も他界しています。あなたのことをとやかく言うような家族はいないのです」

「……ヴィーって……没落貴族?」

「なぜそう思うのです?」

「だって、こんなところひとりで歩いてるし、金目の物持ってないんでしょ? 親が死んで家が潰れちゃったとか……誰かに家を乗っ取られたとか……」

 この、年端もいかない子供にも丁寧な口調を崩さない人のさ。たとえば強欲な親類に財産も家督も奪われて放逐されていても不思議はない、とディルには思えたらしい。

 ヴィーは苦笑した。

「潰れてはいませんし奪われてもいませんよ。安心なさい。貴方を当面養うことくらいできます」

「養う……?」

「衣食住の面倒を見るという意味です。でも、ずっとではありません。その間に貴方は自分で生きていく力を身に付けて、いずれは独り立ちしなくては。ずっと食べていけるようになる、とはそういう意味です」

 ディルは不思議なものを見るような目つきになる。

 身分もなく、そしていまや心ならずとはいえ賊の一味として生きている孤児の自分に、真摯に語りかける良家の子息など、これまで見たことがない。その辺の大人でさえ、明らかに傷だらけの訳ありげな子供にはまともに口など利きはしない。

 まったく、奇妙と言うほかなかった。一時の恵みでよいとこちらは言っているのに、わざわざ連れ帰って面倒を見ようなどと。

 名前以外、何者なのかちっとも分からない、まだ大人と少年の境くらいの若者。正直、自分を捕らえていた賊の男たちより、よほど得体が知れない。ひとりで旅をしてあっさり捕まっているし、今だって自分が縄を切ってやらなければ何もできない。

 果たして頼りになるのだろうか?

 それでも、ディルにはこれが生涯に一度、あるかないかの機会に思えた。

 ディルはヴィーの目をまっすぐに見つめ、はっきりとした口調で答えた。

「行く。おれ、ヴィーと行くよ。どこだって」



「……それで、ヴィーの国って、どこ?」

 たった今自分の庇護者となった相手を拘束する縄を切りながら、ディルは尋ねた。

「エレカンペインです。分かりますか?」

「ええと、北の大きな国?」

「そう」

 エレカンペイン王国はここカンファー王国の西と北に国境を接する大国である。エルム大陸において、南東部のリツェア帝国に次ぐ版図を持ち、歴史は最も古いとされる。

「私は王都の隣の都市、ケンプフェリアに帰るところです」

 ヴィーの両足を縛る縄を、慣れない短剣の扱いに苦労しながらどうにか断ち切り、次いで彼の背後に回りながら、ディルは聞いたことのある地名だな、と思って言った。

「ケンプフェリア……大きな教会のあるところ?」

「ええ、よく知っていますね。たくさんの巡礼者が訪れる大聖堂のある街です」

「ヴィーはそこに住んでるの?」

「今はね。本当の家は別のところにあるのだけれど」

 一瞬、修道僧かな? とディルは思った。そう思えてしまうほど、ヴィーは浮世離れしている印象があるのだ。

 しかし持ち物に長剣があるし、聖職者に着用が義務付けられている僧服も着ていない。

 両腕の縄もなんとか切ることができ、ようやく身体の自由を取り戻したヴィーは「ありがとう」と丁寧な口調で礼を述べた。

 土に汚れた髪や顔を払いながら立ち上がり、小屋の中に散らばった自分の荷物を拾い集めては旅嚢に入れていく。

「……貴方がなぜ孤児になったのか、訊いても?」

 子供に辛い記憶を語らせることに気が引けるのか、遠慮がちにヴィーは尋ねた。

 ディルは数瞬の間を置いた後、意を決したように口を開く。

「……母さんは風邪をこじらせて死んだ。父さんは……」

 そこでディルは唇を引き結んだ。闊達かったつだった表情に初めて暗い色が浮かび、みるみる彼を塗り潰していく。小さな肩が、知らず震えた。

「……父さんも、死んだ」

 俯き、辛うじてそれだけ、声を絞り出すように言う。

 その様子を見てヴィーは持っていた旅嚢をそこに置き、ディルに歩み寄る。そして両腕を伸ばして彼の肩を引き寄せ、そっと抱き締めた。

 唐突なヴィーの行動に、ディルはぎょっとする。

「無理はしないで。貴方がとても辛い思いをしたことはよく分かりました。……話してくれてありがとう」

 咄嗟に身を固くしたディルだったが、穏やかな彼の声音が静かに心に滲み入り、やがて身体の力を抜いた。

 小さく頷き、顔を上げる。その様子にヴィーはすんなりと両腕を解き、一歩身を引いて向き直った。

 ……と、そのとき、ディルの腹が盛大に鳴る。ああいけない、とヴィーは急いでまだ片付けきっていない自分の荷物の方を振り返り――、そして凍りついた。

「……あの、ですね、ディル。ちょっと怒らないで聞いてほしいのですが」

「え……、なに?」

「食糧が、無いです」

「え……」

「食糧を手に入れるための、お金も無いです」

 彼らに持っていかれてしまったから……と困ったように頬を掻くヴィーに、ディルは本当についていって大丈夫なのだろうか、と早くも不安になった。



 何か捕まえるかるかしたら、貴方にあげますから、とヴィーは言い、いささか表情が険しくなったディルを伴って小屋を出た。

 辺りは木々に囲まれ、昼間にもかかわらず薄暗い。

 それでも小屋の中よりはずっと明るく、ディルはまぶしそうに目をすがめながら己の庇護者を見上げた。そして、そのままその容貌に釘付けになった。

 短いが緩く波打つ金髪であることは既に分かっていたが、それが縁取る面長の顔立ちは、ディルがこれまで見たことがないほど整っていた。

 北国の人間らしく白い肌、金の睫毛に縁取られた薄青の瞳、全体的に色素が薄い印象だが酷薄そうな雰囲気は微塵みじんもなく、瞳は静かに柔らかな光をたたえ、口許は穏やかな微笑を刻む。

 笑みに目を細めると目尻が少し下がり、より優しげな面持ちになる。

 立ち上がると細身ながら長身で、すっと伸びた背筋のままこちらを見るために顔をうつむける様子は、まるで教会で見る聖人画のようだ、とディルは思った。

 人間に見惚れるなど、生まれて初めての経験である。

「……ヴィーって、美人だね」

 思わず口をついて出たディルの本音に、ヴィーはわずかばかり苦笑した。

「美人……一般的に男に使う言葉ではない、と分かっていて言いました?」

「……うん」

 気まずそうな顔をしながらも、ディルは正直に肯く。

「……よく、亡くなった母に似ている、とは言われます。その点については自分でもあまり否定できないのが辛いところなのですが」

 複雑な表情を浮かべるヴィーにディルは慌てて付け加えた。

「でも、女の人には見えないよ」

 それも本当だった。ただ、それでも、美しいという形容が一番しっくりきたのだ。

「それはどうも」

 意外な気遣いを見せられ、ヴィーは悪戯いたずらっぽい笑みを返す。

「さて、早めに人里まで出て貴方の旅支度を整えたいところですが……、その痣、消えるまでにどのくらいかかるものでしょうね」

「それより食べ物……」

「分かっています。生憎あいにく今の季節……果実はあまり望めそうにないので、野草を摘んで、あとは川を探して魚でも捕りましょう」

「草と魚……」

 期待していたパンや干し肉といった食料とはあまりにかけ離れた現実に、ディルはがっくりと肩を落とす。

 王都育ちの彼にはどちらも馴染みの薄い食べ物だった。しかもそれらがいま目の前にあるわけではない。これから探すというのである。

 ありつけるまでに、あとどれほどひもじさに耐えなければならないのか。

「貴方は食べ物、としか言っていないでしょう? 何であれ文句は言わない。私だって当面、自力で食糧を調達しなければならないのですから」

 意外にこの庇護者は厳しいのかもしれない、とディルは何となく思いつつ、ヴィーの後に続いて歩き出した。



「まったく、あの方は! なぜ唐突にこういうことをなさるのか……!」

 豪奢な大主教の法衣をまとった老人の嘆息を目の前で聞かされながら、黒い外套に黒い外衣、黒の長靴という全身黒ずくめの青年貴族は内心で呟いた。

(そりゃ、事前に知られたら止められると分かっていて、言うわけがない……)

「……まあ、気をお鎮めください、猊下げいか。そうは仰っても、彼の立場からすればカンファーを放っておくわけにもいかないのですから……」

 思っていることとは裏腹に、青年貴族は微苦笑を浮かべながら眼前の高僧をなだめに入る。

「リエール卿、そういうことを申しておるのではない。毎度毎度、供も連れずに……」

「それも教会の『草』が方々に散っていることを承知だからでしょう。自分が置かれている状況も立場も考えずに動くほど、彼は愚か者ではありませんよ。それは猊下もよくご存じのはず」

「しかしな……」

 なおも老人は愁眉しゅうびを開かない。

「もう王都は出たのでしょう? あまり心配召されずとも、今に国境に現れますよ」

暢気のんきに構えてもらっては困る。そなたを呼んだのは他でもない……」

「承知しております。東へ飛んで、捕まえてくればよろしいのでしょう?」

「そうじゃ。このようなこと、そなたにしか頼めぬ」

「御意に」

 リエール卿と呼ばれた青年は優雅に一礼し、その場を辞した。

 教会の磨き抜かれた回廊を靴音高く進みながら、大主教の前とは打って変わって真剣な面持ちになり、彼は独り言ちる。

「……さて、なぜこの微妙な時期に、わざわざ蟄居ちっきょ先を抜け出すなどという暴挙に出たのかな?」

 まあ、理由は大方予想がついているのだが、と声に出さずに続け、彼はいささか沈鬱なため息をついた。

「やれやれ、気が進まん……今回ばかりはそっとしておいてやりたかったな。……『彼女』に会いに行ったのだろう? ヴィー……」

 その問いかけに応える者はなく。リエール卿の声は誰の耳にも届かぬまま、回廊を流れる風に溶けるように消えていった。

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