無言の祈り、声なき声援

きさらぎみやび

無言の祈り、声なき声援 

初めてフィギュアスケートを見たのはテレビの中だった。

珍しく早く家に帰れた日になんとなくテレビをつけると中継をやっていた。

白いスケートリンクの上を縦横無尽に動き回る6人の選手たち。時折シャッ、という氷を削る音と共に誰かがジャンプする。

客席からは小さなどよめきと拍手がおこる。

特にほかに見たい番組もなかったので、夕飯の支度、といっても袋麺用のお湯を沸かすだけだが、その間もテレビをそのままつけっぱなしにしていた。

冷凍庫からほうれん草を取り出してパキパキと適当に割りながら鍋に放り込む。沸騰し泡立っていたお湯が一瞬すっとおとなしくなるのを見ながら麺を割り、再び泡立ち始めた鍋に投入する。

ぐるぐるとかき混ぜている間にちらりとテレビ画面を見るといつの間にかリンクの上には選手が一人だけになっていた。

会場が静かになり、知らないクラシック音楽が流れ始めるとするりと選手は動き始めた。氷を蹴りながら加速し、リンクを1周半ほどしてからぐっと力を溜めて宙に舞い上がる。

一瞬空中でぐらりとバランスが崩れたようにも見えたが、膝のばねを最大限まで使って氷の上に降りたち、再び氷を蹴って加速を始める。

わっ、と会場が拍手と一瞬の歓声に包まれる。選手は両手を大きく広げて氷の上を舞いはじめた。

じゅう、という音に気が付き手元に目を落とすと鍋が軽く吹きこぼれはじめていた。慌てて火を止め、こぼさないようにゆっくりと鍋の中身を丼に移す。粉末スープを入れて馴染むまでかき混ぜてから卵を割り入れ、丼と箸をつかんでテレビの正面のこたつに陣取る。

見ると選手はリンクの中央でくるくると回転していた。しゃがんだ状態から姿勢を変えてすっと立ち上がるととたんに回転のスピードが増す。

じゃんっ、とオーケストラの弦楽器が音楽を閉じるとともに、選手の回転も解き放たれ、汗をだくだくと垂らしながら紅潮した顔がアップとなる。

緊張の面持ちは途端に一面の笑顔とガッツポーズに変わる。

よくわからないがどうやら上手くいったらしい。

その証拠に会場中がスタンディングオベーションを惜しみなく選手に贈り、花束とぬいぐるみが高々と宙を舞ってリンクに投げ込まれている。

選手は四方に丁寧にお辞儀をしてから、リンクの入り口まで戻っていった。

解説の声も選手の演技を褒めたたえている。

得点が発表されるまでの緊張の時を経て、色んな記録を更新したらしい選手は隣のコーチらしき人と抱き合っていた。

茹ですぎてすっかり柔らかくなった麺をすすりながら結局番組の最後まで見終わると、優勝したのは最初に滑ったあの選手だった。

(せっかくなら全部見ておけば良かったな)

そう思った時には、もう心のどこかを掴まれていたんだろう。


現地でフィギュアスケートを見る機会は意外と早く訪れた。

昼飯時、会社の食堂でぽろっと同僚に「最近、フィギュアにはまってて」と話したら、どこかでその話が伝わったらしく、帰り際に総務課の須藤さんが声をかけてきた。


「藤崎さん、フィギュアスケート好きなんですか?」

「いや、まあ好きっていうかちょっと最近気になってて、ていうかどこで聞いたのそれ」

「お昼休みに島田さんから聞きました」

「あ、そうなの。あいつ最初フィギュアって言ったら人形のほうかと勘違いしてたよ」

「あるあるですねー。でも男の人でフィギュアって言ったらまずそっちを思い浮かべるんじゃないですか」

「えー、俺そんな風に見える?」

「フィギュアスケート気になってる時点でオタクになる要素持ってると思いますよ。はまったら深いんですから」

「須藤さんは、はまってる感じなの」

「激はまり中です。でもあんまり周りに語れる人いなくて、実は今度のNHK杯、代々木第一体育館でやる大会のチケットも二人分とれたんですけど、一緒に行く人いなくて、良かったら藤崎さん一緒に行きませんか」

「あ、え、いきなり?俺でいいの?ファン仲間とかいるんじゃないの」

「ファン仲間はいるんですけど、みんな今回奇跡的にチケットとれたんですよ。なのでせっかくならフィギュア仲間を増やしたくって」


ふんふんと鼻息が荒い。あ、こりゃ俺に対する下心とかじゃなくてほんとにフィギュア仲間を増やしたいんだな。

ちょっと肩透かし感もあったけどどうせなら、と乗ってみることにした。


「じゃあせっかくのお誘いだし行こうかな」

「ほんとですか!やった」

「良く知らないんだけどチケ代いくらなの。俺の分、今払っとくよ」


ごそごそと尻ポケットから財布を取り出す。


「アリーナ席で1万4000円です」

「高っか!?フィギュアのチケットってそんなするの?俺、てっきり5000円くらいかと思ってた」

「フィギュアスケートは芸術作品ですよ。それぐらいしますって」

「他の芸術作品に怒られるよ、それ」


流石に1万4000円をキャッシュでぽんと払えるくらいの手持ちは無かった。

現地で集合した際に払うことにして、その場はいったんお開きとなったが、須藤さんはまだ話したりなさそうでうずうずしているようだった。どんだけフィギュアが好きなんだこの子。


袋麺の夕飯で日々過ごしている人間からすると、1万4000円という金額は馬鹿にできたものではなく、最初に金額を聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。仲間が増えるかもしれないという期待に満ちた目でこっちを見てくる須藤さんの顔を思い浮かべると今更断りもしずらく、しばらく夕飯の袋麺のグレードを下げてしのぐこととした。


NHK杯の当日。原宿駅で待ち合わせた須藤さんは予想以上にモコモコしていた。女性に言うのもちょっとはばかられたが思わず聞いてしまった。


「なんかモコモコしてない?」

「会場内ってけっこう寒いんですよ。これくらいでちょうどいいんです。藤崎さんも寒かったらひざ掛け貸してあげますね」

「あー、そっか。氷張ってるんだからそりゃ寒いか」


厚手のジャケットだけで来たことをちょっと後悔したが、東北の出身だし寒さには強いつもりだ。なんとかなるだろう。

会場に入ると須藤さんはすぐにプログラムを手に入れてきた。しっかりとした冊子で各選手の紹介が写真付きで載っている。パラパラとめくりながら聞いてみる。


「そういえばさ、須藤さんはどの選手が好きとかあるの?」

「そうですね、人によっていろいろなんですけど、私はどっちかというと女子選手が好きです。今一番応援しているのは田中あずさ選手ですね。ビールマンスピンが安定していてとても奇麗なんです。ジャンプも女子ではなかなか飛べる人のいないトリプルアクセルが飛べる数少ない選手なんですよ。

外国の選手も好きでカミンスカヤ選手とか手足がすらっとしていてスケーティングの姿勢がとっても良くってまるで白鳥みたいなんです」


ぐっと拳を握りながら選手を語る彼女の眼は熱意でぎらぎらしている気がする。仕事中はずいぶんとおとなしそうに見えたけど、今日はだいぶ印象が違って見えるな。


「そうなんだ。意外と男子選手じゃないんだね」

「もちろん男子選手も好きなんですけど、私は女子選手の美しさに惹かれるみたいです。でも美しさだけじゃなくってなんていうのかな、内に秘めた闘争心がにじみ出てくる感じが打たれますね。フィギュアって演技中は観客は皆黙ってて静かなんですけど、演技開始前の張りつめた感じとか、演技終了後にその緊張がぶわっと弾けてくる感じとか含めて、実はとっても熱いスポーツだと思うんです」

「あ、それはわかる気がする。スポーツって大声でわーっと応援するイメージだったんだけどさ、フィギュアって逆にすごく静かなぶん心は熱いっていう気がするよね」

「分かっているじゃないですか藤崎さん」

「あ、はい。ありがとうございます」


なんか褒められたけど、いったいどういう立ち位置で話しているんだろうか、この子。なんとなく気圧されながら、チケットと会場入り口にある見取り図を見比べて席に向かおうとすると、途中に花屋のようなスタンドが立っていた。


「あ、フラワースタンドで花買いましょう、花」

「へえ、初めて見たけど会場で売ってる花束って花の上までビニールで閉じられてるんだ」

「花びらがリンクに落ちちゃったらまずいですからね」

「なるほど」


現地に来てみないと知らないことだらけだな、とちょっとわくわくしながら座席を目指す。


座席はアリーナのほぼ中央だった。

最初は思ったよりリンクが遠く感じたのだが、最初の選手達が練習で滑り始めるとその印象はがらりと変わった。

選手が氷を蹴るたびにシャッ、シャッという音が響き、ジャンプの着地によって氷がごりごりと削られる音が聞こえる。

それはテレビごしに聞こえてくるよりも遥かに重々しい音だった。

考えてみればジャンプの加速度が加わった人間一人分の重量をあの細いスケート靴の先で受け止めるのだ。よく見ればこの練習だけでもきれいにならされていた氷の表面のあちこちに鋭い傷が刻まれている。

隣に座る須藤さんのほうを見ると、選手ひとりひとりの動きを見逃すまいと真剣な眼差しを送っている。誰かがジャンプを成功させるたびに眼差しはそのままに拍手を送る。


そして最初の滑走が始まった。


会場の空気は冷気に負けじとピンと張りつめていた。

プログラムの音楽が鳴り出すといよいよその張力は増し続けていく。

最初のジャンプに失敗した選手が転倒すると、会場にはああ...という思わず漏れたため息の合唱がこだまする。

選手はすぐに立ち上がると音楽に乗り遅れまいと滑りだし、次のジャンプへと向かっていく。

手先は優美に幾何学曲線を描きながら、足元はくるりくるりと目まぐるしく向きを変え、徐々に加速していく。

生まれた流れに逆らわず、背筋を伸ばして後ろを振り向いた刹那、スパッと氷を蹴りだして宙を舞う。

鋭く3回転。着氷したかと思うと勢いを殺さずそのままさらに2回転。

鳥が風に羽を打ち付けるかのごとく両手を広げて氷上に降り立つ。


観客は選手の一挙手、一投足を固唾を飲んで追いかける。

成功すれば惜しみなく賛辞を送り、失敗してもぐっと唾を飲み込んで次の選手の動きに備える。しっかりと拳を握りしめ、思わず出そうになる声の代わりにありったけを視線に込めて選手に送る。演技終盤では曲に合わせて手拍子を鳴らし、わずかでも力になればと気持ちを込める。うまくいってもいかなくても、最後まで毅然と演技を続けた選手に対して万雷の拍手と花束を捧げる。

想いをそのまま声に出せない分、その応援は祈りにも似ていた。

選手が今持てる全てを出せますように。自らとの戦いに勝てますように。


全ての選手の演技が終了した時には、なぜか自分も疲労困憊だった。


「いや、月並みだけどやっぱり現地で見るとまた違うね」

「でしょ。なんていうか緊張感とかが違ってきますよね。自分が滑るわけじゃないのに力入っちゃって」

「俺もなんか見てるだけでぐったりしちゃったもん」

「でも明日もありますからね、これ」


今日は男子ショートと女子フリーの日程となっており、彼女は明日も男子フリーとアイスダンスフリーの試合を見に来るのだ。


「こうなると男子フリーの試合も見たくなるわ。正直なところ、明日どうなるかすごく気になる」

「お、藤崎さんもはまっちゃいましたか」

「そうだね。次チケット取れたらまた誘ってよ」

「いいですけど、お財布は少し重くしておいてくださいね」

「うん、そこが問題なんだよなぁ。でもこれだけ長丁場で会場設営だって大規模だし、そりゃチケットもそれなりにするわ」


彼女の勧めにしたがってそのシーズンの全日本選手権も観戦した。

国際大会とはまた異なり、国内大会ではさらに選手との距離が近く、会場をうろついていると見たことのある選手が普通に歩いているのにびっくりした。選手同士小さなころから見知っているためか、多少年齢が離れていてもあまり上下なく君付け、ちゃん付けで呼び合っているのが新鮮だった。



気が付けは須藤さんに導かれるままにすっかりとフィギュアスケートオタク、いわゆるスケオタと化している自分がいた。

闘争心の矛先が向かう先はなによりも今までの自分、というところもたまらなく好きになった。須藤さんと同様、推しの選手はいるものの、リンク外での選手同士の仲の良い雰囲気につられて選手みんなが愛おしくなってくる。

選手年齢が全体的に若いこともあり、順位の変動は目まぐるしく、他のスポーツと比べて引退が早いからどんどん選手が入れ変わっていく。


必死になって追いかけているうちにあっという間に数年が経っていた。


東京以外で行われる大会も追いかけるようになり、フィギュア仲間もいつの間にか増えていた。仲間同士のシーズン開始時、7月の挨拶は決まって「明けましておめでとうございます」だ。須藤さんは以前にも増して守備範囲を広げており、ついに海外まで遠征するようになっている。


今年の全日本選手権は久しぶりに須藤さんと二人だけで観戦となった。感慨深そうに須藤さんがつぶやく。


「いやはや藤崎さんがここまでどっぷりフィギュアにはまってくれるとは思いませんでした」

「はめてくれたご本人がいまさら何言ってんの」


そうでした、と照れたように笑う須藤さんが、ふと真顔になってこちらに問いかける。


「どうしてフィギュアスケートをこんなに応援してくれてるんですか」


いつの間にか自分でも疑問にならなくなっていたその問いの答えを、改めて胸の内から探り出す。


「うん、なんでろうね。――――そうだな、スポーツの応援ってきっとみんな同じなんだと思うけど、見てるこっちも元気になるからじゃないかな」


そう、昨日の自分を今日の自分が超えられるようにと全霊を尽くすその輝きは、見ている僕らにも力を与えてくれる。

願わくば、彼ら、彼女らが全てを出し切ってリンクで舞うことができますように。そんな無言の祈りを込めて、僕らは今日もリンクの外から声なき声援を送り続ける。

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