役に立たない場所

増田朋美

役に立たない場所

学校生活にやっと慣れて、梅雨の季節になる直前に、高校ではどういうわけか体育祭というものが行われるのが恒例になっている。

そうなると、多くの高校生が、練習に明け暮れるようになるので、高校近くの住宅街では、高校生の声がうるさいと、学校に苦情を入れるものもいる。学校の行事なので、少し我慢してくださいと多くの教師たちは、頼むのだが毎年のように、苦情がやってくるのも、恒例になっていた。

ところが、この年は、そのような苦情が、一切入ってこなかった。特に学校がおしまいになってしまったような、大きな障害が生じたわけでもない。

それでは、なんだろうと考えていると、今年は、体育祭そのものが、開催されなくなったという理由があった。今年の吉永高校では、とても体育祭なんかやってられないほどの、大事件が起きてしまったのである。

「何とか先生の力をお貸しください。お願いします。」

小久保法律事務所では、朝早くから、一組の夫婦が来訪していた。

「はあ、そうですか、しかし、富士市内の法律事務所では、対応しきれなかったんですか?」

とりあえず、小久保さんはそう聞いてみる。

「ええ、いくつか事務所を回ってみましたが、どこも対応してくれませんでした。なので、今日は、こちらに伺いました。」

と、身なりの立派な男性が、そういうことを言った。

「えーとまず、お名前をうかがいますね。お名前は、河野博さん。ご家族は、奥様と、息子さんと、三人暮らしでいらっしゃいましたな。」

「はい、妻は河野美代子、息子は、河野正春と言います。」

と、その人、河野博さんは、そういうことを言った。

「で、今日は、息子さんのことで、相談があると、メールには書かれていましたが、息子さんは、現在どちらか学校に通われていますか?」

小久保さんが聞くと、河野さんは、

「ええ、正確にはその年齢ではありますけれども、今は、大けがをして、病院に入院しています。」

と、答えた。

「わかりました。今日はその、息子さんのけがのことで相談でしょうか?」

「はい。実は、先日、体育祭の練習をしていた時に、作っていた人間ピラミッドが崩れて、息子が、脊髄を損傷してしまいました。学校に言わせれば、十分に安全対策は取っていたというのですが、果たしてどうだったのか。それを知りたいんです。そのためには、私たちしろうとの力では、どうにもなりませんから。親戚に聞いてみたところ、弁護士に頼むとよいと言われましたので、今、協力してくださる先生を探しております。お願いできませんでしょうか。」

河野さんは、ここまでを一気に語った。とてもつらそうな感じだった。確かにそうだろう。こういうところにやってくるなんて、普通の人には、めったにないことだから。

「わかりました。息子さんはどちらの学校に在籍されていたのでしょうか?」

「ええ、吉永高校です。富士市内の。」

「はあ、そうですか。ずいぶん伝統がある、歴史の古い学校ですね。」

確かにその通りなのだ。一般的に言ったら、吉永高校は、歴史ある名門校である。

「そうなんですけど、みんな口をそろええて名門高校というのですが、息子の話を聞くと、そういうことはありません。なんだか見栄ばかり張って、生徒に、まるでサーカスみたいな、組体操をさせるんです。」

と、河野さんは言った。

「はあ、確かに、そんなことやって、何になるんでしょうね。それよりも、学校は教育するところなんですから、それももっと一生懸命やってもらわないと。で、その組体操で、人間ピラミッドをやらされたわけですね、息子さんは。」

「ええ、しかも、10段ですよ。それを、やらされるわけですから、大変なのも無理はないですよね。10段なんて、100人以上の人間が必要になるんだ。息子は、体が小さいので、上の段に立つように言われたようですが、うちの子は、バランスを失って落下したようです。」

河野さんは、悔しそうに言った。

「わかりました。けがの程度はどれくらいだったのでしょうか?」

「ええ、それが、打ち所が悪かったのでしょう。一生、歩行は無理だと言われました。幸い、手は大丈夫だったので、手作業をするのは問題ないのですが、受験する予定だった大学からも拒否されてしまい、もうどうしてあげたらいいか、私もわかりません。このままだと、自殺してしまうかもしれない。もうどうしたらいいのか、私にもわかりません。何とか先生の力をお貸しください。お願いします。」

と、河野さんは、半分泣きながら言った。

「お話は分かりました。それでは、私も手伝いましょう。まず初めに、学校側に損害賠償ということですね。」

「ええ、お金をもらうというのは二の次で、それより、学校で何があったのか、それをしっかり知りたいと思っています。」

河野さんは、しっかりと、それだけを言った。

「そうですか。わかりました。それでは、よろしくお願いします。」

小久保さんは、にこやかに笑った。こういう時はできるだけ笑顔でいるようにしている。そうなければ、依頼人は、ものすごく緊張していると思うので。

「それでは、さっそくですが、息子さんの、河野正春君にお会いすることはできませんでしょうか。少々、ご挨拶に伺いたいので。」

と、小久保さんは、できるだけにこやかに言う。

「ええ、よろしくお願いします。富士は少し遠いですが、いらしてください。」

河野さんに言われて、小久保さんは、出かける支度をした。二人は、小久保さんに連れだって、御殿場線に乗って沼津駅に行く。沼津駅は、にぎやかな駅だ。多くの人たちが駅の中を歩いている。そこから東海道線に乗り換えて吉原駅へ。もともと鈴川駅と言われていた、富士の中心的な駅だったようだが、その役目は富士駅にとってかわられていた。そこからさらに、富士市のローカル線である、岳南鉄道に乗り換えて、吉原本町駅で降りると、河野正春君が入院している、病院があった。

その病院は、ずいぶん大きな病院であったが、外来の患者さんはあまり多くなかった。予約制をとっているとか、そういうことなんだろう。

「あの、河野正春君はどちらに。」

受け付けにそう聞いてみると、主治医の先生にまずあってくれと言われた。数分後、十徳羽織に身を包んだ、影浦が小久保さんと河野さんの前に、やってくる。

「初めまして、正春君の主治医の影浦千代吉です。」

二人は、お互いに名刺を渡しあって、あいさつした。

「で、正春君に面会をしたいのですが、お願いできませんでしょうか?」

「ええ、そうですね、まず学校関係者の方であれば、お断りさせてください。彼に、これ以上話をさせるわけにはいかないんです。確かに、話をするのは大切ではありますが、患者さんに、これ以上つらい思いをさせるわけにはいかないんです。それは、お分かりいただけますね。」

小久保さんが言うと、影浦は医者らしくそういうことを言った。

「そうですか。では、私どもは、学校で何があったか、を、知りたくて、こちらに来させてもらったのですが、」

「ええ、それはわかっております。ですが、医療関係者として、彼に話をすることは、自粛していただきたいんです。彼は学校にされたことによって、非常に傷ついております。それを、余計に深くしてしまうことはしたくありません。学校であったことの真相を解明するのも、必要なことだとは思いますが、それをするにはもうちょっと、あとにしていただきたいんです。」

影浦先生、そういうことを言うけれど、そこをまげて会わせてくれれば、学校であっつたことを、明らかにできるのですが、と小久保さんは思った。

「でも、これは、大事なことです。学校であったことを、しっかり明らかにしなければなりません。そのためにも、彼と話をさせてもらえないでしょうか。」

と、小久保さんが言うと、

「ええ、じゃあ、医者の影浦から、代理で申しましょう。正春君は、人間ピラミッドの頂点に立たされたのですが、バランスを崩して落下し、脊髄を損傷し、現在歩行不能ということになっています。それに、現在はそのショックからか、ひどい抑うつ状態でもあります。そのような状態の正春君に、学校で何かあったのかなど、弁護士さんに、話す気力があるでしょうか?それは、あなたの心で、考え直してもらえないでしょうか。」

と、影浦はもう一回言った。

「わかりました。挨拶だけでもさせてもらえないでしょうか?」

小久保さんはそういうと、

「もう少し、あとにさせてください。私たちに、もう少し、時間をください。」

と、影浦は懇願するように言った。

「本当に短時間だけでもよろしいですから。」

小久保さんはそういうが、影浦はまだ無理だといった。まだ、家族以外の人と、はなせるようになるには時間がかかるといった。

「わかりました、では、また時間をおいてまた来ます。」

と、小久保さんは、そういうことを言って、とりあえず、病院を出ていった。河野さんが、申し訳ありませんといって、小久保さんの後をついていく。

「小久保先生、本当に住みません、正春が、もう少し、落ち着いてくれればいいんですが。せっかく来ていただいたのに。」

河野さんが、そういって、小久保さんにまた頭を下げる。

「いいえ、かまいません、むしろ仕方ありませんよ。そういう風になってしまっても、仕方ないでしょう。彼の、傷口がある程度ふさがるまで、影浦先生にお任せしましょう。」

小久保さんはそういって、どこかにカフェでもないかといった。そこで打ち合わせしようと思ったのだ。河野さんは、わかりましたと言って、吉原本町商店街にある、小さなレストランに入った。

「あの、可能であればの話ですが、息子さんの携帯電話か何か持っておりませんか。それで、もしかしたら、同級生に、学校のことをメールか何かで話していたかもしれないんです。」

と、小久保さんは、河野さんに言った。

「ええ、あの子は、確か、SNSはやっていたはずです。私は、あまり見たことがありませんでしたが、妻が、時折、やりすぎに注意と言っていたことがありました。」

と、河野さんは言った。

「そうですか。それなら、こちらのパソコンで同期できているはずですよね。もし、彼が、SNSにブロック機能をかけていたのなら、どうにもなりませんが、もしそうでなかったら、こちらでも見ることができるのではないでしょうか?」

と、小久保さんが言うと、そうでしたね、と河野さんも言って、急いで古いノートパソコンを取り出して、SNSのサイトにアクセスしてみる。

「ああ、これですね、ちゃんと本名でやっているんですね。まあ、最近のSNSは、本名でやる人も多くいますからな。ほら、ここに河野正春と書いてある。」

と、小久保さんは、パソコンの画面を指さした。

「ええ、これは、何人かの女子生徒とやり取りしたものでしょうか。多分そうだと思うんですが。」

確かに、河野正春という名前は本名であったが、やり取りした相手の女子生徒は、ハンドルネームで投稿していて、誰なのかわからなかった。

「どうして、ほかのひとは匿名なんでしょう。」

「ええ、そのあたりは、本人に聞かないと分かりませんが、たぶん、学校でそういうルールが設けられていたのかもしれない。特に女子生徒は、悪質な犯罪に巻き込まれるのを阻止するためにも、匿名にする必要がありますからな。」

河野さんが聞くと、小久保さんはそう答えた。最近のSNSは確かにそういう傾向になっている。男性は割と本名で投稿しても危険性はないが、女性は、凶悪犯罪が多いからと言って、匿名にしている人は多い。

「はあ、なるほどね。そういうことでしたか。」

小久保さんは内容を理解したようだが、河野さんは、何もわからないという顔をする。

「確かに顔文字の連発なので、大人の方には、難しいかもしれませんが、これはこういう内容です。あの、河野という人のせいで、運動会の組体操がダメになったという投稿ですね。」

「そ、そういうことなんですか!」

河野さんは驚いているが、小久保さんは、まじめな顔をしてそう解読した。

「ええ、そうですよ。絵文字と顔文字を解読すればそうなります。はあなるほど、こういうことですか。つまり河野正春君のクラスは、10段の人間ピラミッドに、何回も不成功だったんですね。」

「そんなこと、正春がそういうことを話したことはありませんでした。」

と、河野さんは言うが、小久保さんはかまわず続ける。

「はい、そういうことです。ですから、学校の先生も、焦っていたんでしょう。何回も、生徒を怒鳴りつけてでもいたんでしょうね。ですから、最上段の正春君は、次の練習は、一生懸命やらないといけないと焦っていたんでしょう。それで焦りすぎて、上の段から落下してしまったんだと思います。」

「そんなこと、なんで親の私にも言わなかったんでしょうか。学校の先生も、どうしてそんな風に、怒鳴りつけたのでしょう。あんな、組体操なんて、危険すぎるだけで、何もやっても意味がないと思うんですがね。それに、なんで、こういうことを、こういうパソコンの画面に投稿するのでしょうか?」

河野さんは、泣き出してしまいそうになっている。

「そういうことは、じかに口に出して、言い合ったりしないのでしょうか。なんで、こんなパソコンの画面に、こんな文字でもない記号みたいなもので、愚痴を言い合うのでしょう?」

「お父さん、正春君を責めないであげてください。彼は、何も悪いことはしておりませんよ。仕方ないじゃありませんか。そういうことを、話す場所が、学生にとって、SNSしかないというのは、本当なんです。生徒さんたちは、自分たちの鬱憤を晴らす場所などどこにもないんですよ。」

「でも、学校なら、同級生たちがいるのではないですか?先生からひどいことを言われても、同級生同士で、話し合ったりしなかったのでしょうか?」

「しませんよ。今はそういう時代です。」

河野さんに小久保さんはきっぱりといった。

「河野さんが話しているのは、河野さんたちが、学生だった時のこと。それと今は全然違いますよ。十年前、いや五年前と比べても、時代は明らかに違っています。正春君は、同級生と愚痴を漏らしあうことができていたら、落下なんかしなかったはずですよ。」

「そうでしょうか、では、誰が、ああいう事故を引き起こしたんでしょうか。」

「わかりません。」

と、小久保さんは言った。

「誰のせいでもないでしょう。確かに、何回も、人間ピラミッドが不成功で、生徒さんが焦っていたということもありますでしょうし、先生がたも焦りすぎて、安全管理が不行き届きだったかもしれない。それらを故意に生徒や先生方が意識していたかどうか、も、わかりませんね。このSNSの投稿を見るだけでは。ただわかるのは、何回も人間ピラミッドを試みて、失敗していること。それだけであるということです。」

「そうですか。うちの子は、これからどうすればいいのでしょうか。もう、歩けないことは確実だと言われました。私が、何かしてやろうにも何もしてやれないんです。あの子は、大好きだった、勉強も、スポーツも、何もできなくなってしまいました。それをどうしたらいいのですか。私は、何一つ、できることはないんです。」

河野さんは、泣きはらすように言った。

「ええ、あなたは何もできないでしょうね。それは言えていると思いますよ。大事なのは、正春君がこれから生きていくときに、はっきりとどんな生き方をしていけばいいか、示してあげることですよ。それは、SNSではだめです。ちゃんと態度で示してあげなくちゃ。それが何より大切でしょ。」

そういって小久保さんは、河野さんを慰めた。

「大事なことはね、お父さんというのは、息子さんにとって、模範的な存在だということです。」

「わかりました。私も、なんだか小久保先生に話して、何か一歩進もうかという気になれました。早く行動を起こしてよかったと思います。まあ、いい父親かどうかわからないですけれども、そうすることにします。」

河野さんは、まだ自信がなさそうな様子であったが、にこやかに笑って、そういうことを言ってくれた。それを見て、小久保さんは、この人であれば、正春君が、立ち直っていくための力があると確信した。時には、そういうことのできない弱い親もたくさんいるからである。今はそのほうが多いのかもしれない。

「じゃあ、このSNSの投稿を参考にして、学校に損害賠償を請求する過程を整理してみましょうか。きっと学校側が、安全管理を怠っているか、が争点になると思うんですね。このSNSの投稿、つまり、学校の先生が、学校の見えばかり貼っていて、自分たちのことを見てくれていないというのも、生徒の本音として、重要な証拠になりますよ。吉永高校と言えば、この辺りで知らない人はいないと言われるほどですからな。それで、10段ピラミッドに失敗していて、焦っているということがつかめれば、こちら側に有利になります。」

小久保さんは、そういって専門家の顔になった。

「ありがとうございます。私も、学校で何があったか知りたいので、泣き言は言わずに頑張ってみます。」

と、河野さんも、涙を拭いて、しっかりと、小久保さんのほうを見た。

「よし、じゃあ、一緒にやっていきましょう。まずは、学校の評判を探ることから始めることかな。」

小久保さんは、にこやかに笑って、そのSNSサイトを閉じた。

すると、河野さんの携帯電話が鳴った。なんだと思ったら、河野さんの妻からだった。

「はいはいもしもし。ああ、そうですか。わかったよ。こちらも、弁護士の先生と話をすることができた。うん、わかった。それでは、引き続き、正春のそばにいてやってくれな。」

と、河野さんは、電話を切る。小久保さんは、どうしたんですかと聞いてみると、

「ええ、正春が、小久保先生と話してもいいと言っているそうです。だいぶ落ち着いていると、影浦先生もおっしゃっているそうですよ。」

と、河野さんは、しっかりといった。

「わかりました。それでは、すぐに話を聞きに行きましょう。」

小久保さんは、身を整えてよいしょと立ち上がる。河野さんも、急いでカバンを整理し、すぐに支払いをしようと、伝票の入っている、入れ物に手を伸ばした。



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役に立たない場所 増田朋美 @masubuchi4996

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