寺倉蹊政 後世の評価

寺倉蹊政


時代 戦国時代 

生誕 天文13年(1544年)

死没 1639年


改名 淀峰丸(幼名)→蹊政→璋繕(法名)

別名 正吉郎(通称)

官位 従六位上・掃部頭→正六位上・伊賀守→従四位上・左馬頭 

爵位 南海公、初代大公

主君 蒲生定秀 

氏族 板々谷寺倉家 

父母 父:寺倉政秀、母:寺倉静 

兄弟 蹊政、北畠惟蹊、浅井阿幸 

妻 市(織田信秀娘) 

子 嘉蹊、瑞葵姫(蒲生氏郷正室)、上杉政虎、浅井長蹊、輝咲(竹中重門正室)、美咲(北畠惟郷正室)



近江国の国人領主であった板々谷寺倉家の三代当主。宗家である日野寺倉家は蒲生郡の鳥居平城を治めていたが、小倉家の内乱に巻き込まれる形で滅亡している。その後六角義賢の暗殺によって父を失ったが、手にかけた浅井久政に報復する形で鎌刃城を夜襲、勝利したことを契機に六角家と敵対。しかし5倍の兵数差を跳ね除け完勝すると、寺倉家は近江国でも有数の実力者となった。その後も多くの戦いで勝利し、外交戦略を駆使して天下人と呼ばれるまでに飛躍を遂げた。




略歴


六角家の重臣であった蒲生家に代々仕えた寺倉家は、五千石の弱小国人に過ぎなかったが、寺倉蹊政の巧みな内政、軍事、外交によって頭角を現す。商業にも積極的に関わり、後に御用商人となる西尾藤次郎に自らが開発する様々な品の販売を委託し、莫大な財を築いた。元服してからは、より一層領内の発展に尽力する様子が様々な書物に見られる。


しかし、当主であった父・寺倉政秀が、発展を疎んだ六角義賢の命を受けた浅井久政によって暗殺されると、これに激怒した蹊政は鎌刃城を奇襲(鎌刃城夜襲)。浅井家が高宮の戦いで疲弊していたこともあり、兵の損耗少なく勝利する。


これをきっかけに両家の間で戦が勃発するかと思われるが、父の悪行を察知した嫡男・浅井長政によってクーデターが起こり、長政が非を認めたことにより寺倉家と和睦、六角を仮想敵とした秘密裏の同盟を結ぶ(源煌寺の会盟)。


しかし、武力で屈服させ臣従していた浅井への攻撃を非難した六角家が兵を挙げる。寺倉郷への侵攻を行うも、六角家は嫡男を失うばかりではなく大敗を喫した(寺倉郷の戦い)。これにより畿内に強い影響力を保持していた六角家は凋落の一途を辿ることになる。一方で勝利した寺倉家は遺体の引き渡しを条件に多賀、甲良、彦根東部の山間部と佐和山以北の物生山城一帯、そして松原湊の占有権譲渡を勝ち取り、近江だけでなく周辺諸国にもその名を轟かせた。


永禄2年(1559年)、尾張の織田家と婚姻同盟を結ぶ。蹊政の才覚を認めた織田信長による打診であった。市姫とは仲睦まじく、子宝にも恵まれた。


永禄3年(1560年)には野良田の戦いが勃発。六角家と浅井、寺倉家の一大決戦となり、戦国の趨勢を決定的なものにする戦となった。戦前は六角家の戦力が浅井、寺倉を上回っていたが、浅井長政の奮戦やかつての主君であった蒲生定秀の内通が決定的となり、六角軍は敗走した。寺倉蹊政は本隊の戦闘に直接関与することはなかったものの、敗走する六角軍に横槍を入れる形で六角承禎を討ち、殊勲の勝利となった。


戦後、六角家が滅亡したことにより六宿老を始めとする残党による抵抗が見込まれ、かつ六角家の領土への侵攻を分担することを提案した蹊政によって浅井、寺倉、蒲生の三家の間で盟約が定められることとなった(物生山城の会盟)。


群雄割拠となった近江で、寺倉家は連戦連勝。浅井家に援軍を送り、若狭侵攻を支援したことにより、坂田郡を譲渡される。その後、沼上郷に美濃一色家の軍勢が攻め寄せるが、山中の水攻めという奇策によって撃退(沼上郷の戦い)し、同盟を結んだ竹中家と足並みを揃える形で本拠の稲葉山城を占拠(稲葉山城乗っ取り)すると、美濃は竹中家が領する国となった。美濃侵攻に対する援軍の報酬として寺倉家は西美濃を獲得した。この後、竹中家は稲葉山城を岐阜城と改名し、織田、寺倉、浅井との四家同盟を結び、織田信長、寺倉蹊政、竹中重治、浅井長政の四人は義兄弟の契りを交わした(蓮華の誓い)。


寺倉蹊政は永禄6年(1563年)、北伊勢への進出を狙う。しかしながら北伊勢の国人の策謀に嵌まり、寺倉軍は大敗を喫してしまう。敗走した蹊政は家臣の先導によって近江への帰還を画策するも、関家の用意した刺客に行く手を阻まれ、蹊政本人も馬上から落下して一時は生死の境を彷徨うなど苦戦を強いられた(関谷の退き口)。


辛うじて近江への帰還が叶った蹊政は、再び北伊勢への侵攻を敢行。北伊勢を平定すると勢いそのままに伊賀国を平定した。伊賀侵攻を前に蹊政は朝廷より「伊賀守」の官位を授与されており、大義名分を得た形であった。伊賀を平定したことにより初めて一国の国司となる。


翌年には南伊勢の北畠家を屈服させ、北畠の娘が側室として弟の惟蹊に嫁ぐことにより北畠家の存続を認めた。これ以後、北畠家は寺倉家の支配下に入り、寺倉家の覇業に貢献していくことになる。


永禄8年(1565年)3月には後に六雄と呼ばれる寺倉・織田・上杉・浅井・竹中・蒲生の六人の大名が寺倉家の本拠・統麟城に集まり、近濃尾越同盟が締結される(統麟会談)。


7月にはかつて畿内の大部分を手中に収めた三好家との天王山に望み大勝。これにより天下は寺倉家を始めとする六雄の手に渡ったと朝廷は認知することとなり、蹊政には「左馬頭」の官位が授けられた。


その後も順調に領土を広げ、永禄11年(1568年)には伊勢、伊賀、志摩、大和、佐渡、河内、和泉、紀伊、淡路、讃岐、阿波の十一ヵ国を領有する大大名となり、常に六雄を先導する立場にあり続けた。


永禄12年(1569年)になると寺倉家は九州へと侵攻(九州征伐)する。四国遠征で同盟を結んだ伊東家の支援の下、敵対する島津家を撃破した。そして寺倉軍は肥前国に上陸し、有馬義貞の歓迎を受けるが、山田城で休息している最中、義貞に不満を持っていた大村純忠、西郷純堯が画策した奇襲に遭い、寺倉軍は壊滅の憂き目を見る(島原半島撤退戦)。重臣である植田順蔵により命の危機は一旦脱するも、浅井城に逃げ込むことのできた兵の数は400程度であった。


しかし寺倉軍は必死の抗戦を続け、攻撃をよく凌いだ。そして蹊政は西郷と大村の仲の険悪さにつけ込む形で扇動し、時間稼ぎに徹した。そして龍造寺の軍勢2千の到着により、寺倉軍は城を守り切ることができた(浅井城の戦い)。


日本はこの後六雄の協力によって平定され、悲願であった天下泰平を成し遂げた。


間も無くして、六雄の合議による統治体制が協議され、律令の官位制度を廃した新たな貴族制度を創設し、"六雄"を『公爵』、大国と上国の国司を『侯爵』、中国と下国の国司を『伯爵』、守護代を『子爵』、郡代や大都市の長を『男爵』と定め、公爵以外の世襲を認めない形とした。蹊政はその頂点に立つ初代「大公」に就任し、日ノ本の安定化に心血を注いだ。


恒和11年(1581年)1月に大公としての役目を終えると、六雄が順に大公を務める中で補佐役として活躍した。そして嫡男の寺倉嘉蹊に家督を譲ると、寺倉璋繕を名乗り隠居、96歳でこの世を去った。


応仁の乱以降、戦乱の世が続いていた日本を統一し、泰平の世に導いた最大の功労者であるだけでなく、初代大公に就任後は琉球、台湾を平定、さらには東南アジアに進出していた西欧勢力を駆逐し、後の太平洋連邦の礎を築いたことから、「太平洋連邦の神祖」として高額紙幣に肖像が載るほど崇められ、今もなお敬愛される日本史上最高の伝説の名君である。






お読みいただきありがとうございます。

要望の多かったwiki風の後世の評価を書いてみました。



本作が好きな読者様なら楽しんでいただける作品である、「八曜の旗印」

https://kakuyomu.jp/works/16816700426158884909

という作品をご紹介させていただきます。こちらは転生要素を含んでおり、かつて名門だった加賀守護・冨樫家の復興を目指す物語です。一向一揆という強大な敵との戦い、予想外の展開が目白押しです。良ければ読んでみてください!


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