天下泰平の幕開け① 君臣豊楽への変革

年が明け、永禄14年(1571年)1月を迎えた。しかし、永禄14年は半月で終わることとなった。


1月15日に改元の詔が発せられ、「恒和」元年となったからだ。おそらく出典は中国の古典だろうが、「恒和」は文字どおり帝が恒久の平和を祈念して付けられたものだ。


ちなみに史実では永禄13年4月に「永禄」から「元亀」に改元されている。「元亀」改元は将軍に就任した直後の足利義昭が朝廷に要請したものだが、元亀4年に義昭は織田信長によって京から追放され、信長の要請により「天正」に改元されることにより「元亀」は僅か3年半で終わる。


しかしこの世界では「元亀」や「天正」改元は実現せず、「恒和」という史実にはない元号の新時代が始まった訳だ。


俺は12月24日の「六雄会談」で連邦国家体制の構想について合意すると、翌日には"六雄"全員で京に出向き、正月までの短い間で朝廷と交渉を行い、新しい国家体制や貴族制度について原案どおり認めさせた。


もちろん帝の「法王」就任についてもだ。朝廷に"六雄"の提案を拒む力はないが、「法王」就任は朝廷の財政が大きく改善されるため、特に内蔵頭の山科言継が大喜びしていたな。


そうした経緯もあり、俺は初代『大公』として『公爵』5人と共に大坂城で正月を迎えた。俺の『大公』の任期は1571年から1580年までの10年間となる。


俺は最初の1年は日ノ本を1000年王国とすべく基盤固めに専念する方針を定めた。史実の明治維新と同じく、日ノ本が全く新しい国に生まれ変わるため、古代から続く律令制を抜本的に見直すことにした。いわば行政改革だな。


まずは朝廷改革として官職や位階を定めた太政官制を概ね廃止した。これは『爵位』に基づく新たな貴族制度を導入するためには必須だ。関白や左大臣、右大臣など帝の側近として摂家や清華家の必要最小限の官職は残したが、有名無実化した官職はすべて廃止している。


そもそも朝廷改革を行おうとしたのは4つの目的がある。1つは「法王」を全国の寺社の頂点とすることにより、古代では神格化されていた帝を再び神聖化させて、中世ヨーロッパのローマ法王と神聖ローマ皇帝の関係のように、帝の権威を『大公』の後ろ盾に利用しようと考えたのだ。


2つ目は寺社勢力を「法王」の統制下に置くことにより、本願寺や延暦寺のような反抗勢力を作らないようにするためだ。「法王」が大坂城下にいる限りは、顕如のように全国の寺社に一揆を起こすように煽動することは不可能だ。要するに形式上では政教分離を謳いながらも、実態としては「法王」を介して寺社の間接支配を狙ったのだ。


3つ目は形骸化しながらも存続していた儀式や制度を廃止させ、朝廷の組織を前世の宮内庁程度にスリム化するためだ。これにより朝廷の役割は改元や即位礼など最小限の宮中祭祀と全国の寺社の統括儀礼に限定され、財政難で行われなかった儀式は不要なものとして廃止させた。


無論、これには公家衆から「伝統を軽んじてはならぬ」と猛反対があった。しかし、本当の理由は朝廷の役割が縮小されると、必然的に大臣家、羽林家、名家、半家クラスの公家衆のほとんどは失業する羽目になるからだ。


現実的に下級の公家は日々の食事にも困窮し、釣りや山菜採りをして糊口を凌いでいるのが実態であり、朝廷という勤め先を無くしたら生活が成り立たなくなるのだ。


しかしながら、一方で公家は読み書きや算術のできる高い教養を持った有用な人材である。そこで俺は半ば強制的に彼らを『公爵』家に再就職させ、官僚として働くという道を示した。


これが4つ目の目的だ。史実の明治政府を参考にしたものだが、特に東国は西国に比べて文化レベルで遅れており、識字率も低い。武家でも教育水準が低いため文盲が多く、まともに読み書き計算の出来る文官が不足しているのが実情だ。公家の官僚化は切実な目的でもあった。


そこで俺は、東国を治める上杉家、竹中家、織田家に優先的に公家たちを再就職させることとした。西国の浅井家、蒲生家、寺倉家は縁故があったり、売れ残った公家を救済した程度だ。


「ほほほ、大公様、これからも何卒宜しくお願いするでおじゃります」


寺倉家も数名の公家を採用したが、その中にはなんと山科言継もいる。帝の「法王」就任により朝廷の財政が改善され、献金集めで全国を奔走していた言継も内蔵頭をお役御免となり、自ら寺倉家に仕官を希望したのだ。


「お主の目当ては酒であろう? もう還暦も過ぎておる故、少しは身体を労わるが良いぞ」


「お優しい御言葉をいただき、誠にかたじけないでおじゃる」


どうやら言継は歯に衣着せぬ物言いをする俺のことを気に入っていたみたいだ。既に65歳だが、依然として矍鑠としており、今後は行政面の相談役として働いてもらうつもりである。


朝廷をリストラした俺は、律令制の行政区分である五畿七道の60余国の区割りを見直すと同時に、すべての「国」の呼称を「州」に変更した。理由は連邦国家体制となった日ノ本は6公爵領がそれぞれ1つの「国」となるため、律令制の国の概念を変える必要があったからだ。


最たる例は「近江国」だ。近江は3分割し、蒲生領の南近江は「江南州」、浅井領の北近江は越前の敦賀郡と併せて「江北州」、寺倉領の東近江は西美濃と併せて「江東州」とした。これならば3家の国境も明確となって統治し易くなるはずだ。


他にも北から順に、「蝦夷」は「北海道」と改称され、「陸奥国」は明治維新後に倣って「陸奥州」、「陸中州」、「陸前州」、「岩代州」、「磐城州」に5分割し、「出羽国」も「羽後州」と「羽前州」に分けた。この時代は交通手段や通信技術が発達していないため、行政区分を細分化しないと統治し辛いためだ。


関東では「武蔵国」が竹中領の「北武州」と織田領の「南武州」に分割され、竹中領の「信濃国」も「北信州」と「南信州」と分けて、竹中領の甲斐の巨摩郡は「南信州」に編入している。


九州でも浅井領の豊前の企救郡と田川郡、肥前の松浦郡は「筑前州」に編入され、制圧したばかりの済州島も「済州」となった。


それと、お膝元の「摂津国」も蒲生領の「北摂州」と寺倉領の「南摂州」となったが、大坂城のある「南摂州」は今後は「大公御料地」として『大公』の直轄地とした。史実のアメリカのワシントンD.C.みたいなものだな。


続いて俺が手を付けた行政改革は戸籍と検地だ。古代には存在した戸籍制度は今は廃れており、史実の「太閤検地」では納税者である惣村の代表者は調べたが、農民全員の家族構成までは調査していない。そこで、現代の戸籍制度と同様の全戸調査と検地を行った。


それと同時に刀狩も行い、不要となった農民の槍や刀を強制的に鍬やスコップに交換させた。回収した槍や刀は鋳潰し、鍬やスコップの材料にする。これにより一揆の発生を抑え、石高アップに繋がる一石二鳥の策だ。


いずれも史実の豊臣秀吉の政策の真似ではあるが、泰平の世とするためには絶対に必要な政策だ。それに全国の戸籍調査の過程で住所不定の輩、いわゆる破落戸やヤクザが特定された。彼らは問答無用で捕縛し、屯田兵として蝦夷あらため北海道へ送られた。


教育や医療・福祉制度にも手を加えた。「六雄会談」で話したとおり全国に寺子屋あらため小学校を設置し、7歳から10歳までを義務教育として国民の識字率向上を狙った。同時に、教育を受けられない戦災孤児などを養育する孤児院を全国に設けることにした。


来年には選抜した優秀者に高等教育を施すため、文官向けの高等学校や武官向けの士官学校、医者や教師を養成する医学校や師範学校を設置する計画だ。史実の明治維新でも海外留学に派遣された者が後の日本を発展させたように、人材育成は最優先課題である。


経済政策としては造幣局を設立し、統一通貨(金貨、銀貨、銅貨)の発行に着手している。これまでは明銭や宋銭、私鋳銭が混在していたが、堺で造らせるようになった寺倉家の高品質な私鋳銭を統一銅貨に定め、それ以外は統一通貨に両替させた。


いずれは国立銀行が設立され、高額紙幣も発行されるだろう。また並行して、枡や物差しなど不統一だった度量衡も統一し、主要街道に橋を掛けるなど流通面も整備した。将来は主要街道に木製軌道を併設し、駅馬車による交通網を整備したいものだ。

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