旧き威信の掃討① 奥州平定

陸奥国・黒川城。


永禄13年(1570年)4月20日。九州から遙か東の陸奥国ではようやく雪解けも過ぎ、間もなく田植えの季節を迎えようとしていた。


かつて蘆名家の居城であった会津黒川城の本丸で、"六雄"の一人、上杉輝虎は報告を受けていた。


「越後守様。3月末に寺倉家、浅井家、蒲生家が九州征伐を成し遂げたとの由にございまする」


「そうか! 正吉郎はついに九州を平定したか」


上杉輝虎に報告する男は上杉家の素破を束ねる三雲新左衛門尉賢持という。落城寸前の三雲城から落ち延びた三雲3兄弟の長男であり、大友家に仕えていた次男の三雲成持は浅井家に、三男・三雲政持は松永家を経て寺倉家に仕官していた。


「関東も織田家と竹中家が間もなく平定しよう。奥州攻めもかれこれ4年半か。我もこの夏には奥州を平定せねば、正吉郎に会わせる顔が無いな」


上杉家が浅井家の援軍と共に蘆名領だった越後の津川城を攻め始めたのは永禄8年(1565年)11月である。それ以来、奥州征伐にここまで長い時間を要している要因は何と言っても冬の豪雪であった。


小氷河期の戦国時代は現代よりも冬が長いうえに降雪が多く、11月後半から3月は積雪のため戦ができない。そのため大軍を擁する上杉軍を以ってしても、遅々として制圧が捗らなかったのである。


「だが昨年、出羽を平定してから風向きは徐々にではあるが変わりつつある。新左衛門尉、南部は如何なっておる?」


昨年11月に上杉軍がようやく出羽国を平定した直後、北陸奥で突出した権勢を誇っていた南部家において内紛が起こったのだ。発端は南部家当主の南部晴政に54歳にして長男の鶴千代(後の南部晴継)が誕生したことにあった。


「はっ、南部大膳太夫は2月に長男が生まれてからは我が子に家督を継がせようと、養嗣子の田子九郎(南部信直)を疎んじ、家中は御家騒動の様相となっておりまする」


それまで晴政には男子がおらず、弟・石川高信の子、つまり甥の信直を養嗣子として長女の婿に迎えていた。しかし当然ながら、晴政は突如授かった長男に狂喜し、目に入れても痛くないほど溺愛した。


対照的に晴政は信直に対する態度を急変させ、廃嫡を仄めかすようになる。もはや自分が邪魔な存在になったのを自覚した信直は、3月に三戸城から実父・高信の居城である弘前の石川城へ逃げた。


"綸言汗の如し"、一度決めた嫡男を撤回しようとする晴政に、南部家中では重臣の北信愛や石川高信の弟・南長義ら多くの家臣が猛反発し、信直に与した。かくして御家騒動が勃発したのである。


「そうか。では、新左衛門尉。石川左衛門尉と田子九郎に南部家の家督と津軽地方の安堵を条件として、臣従を促して参れ」


「はっ、承知いたしました」


こうして三雲賢持は上杉輝虎の命令により石川家の調略のため弘前に向かった。




◇◇◇





陸奥国・石川城。


「お初にお目に掛かりまする。拙者は上杉家家臣、三雲新左衛門尉と申しまする」


「ほう、儂は石川左衛門尉だ。……して、上杉家の者が何用で参られたのかな?」


上座の石川高信の目が野獣のようにギラリと光る。


「用件は察しておられると存じますが、関東管領である主君・上杉越後守の御言葉をお伝えいたします。『田子九郎殿の南部家の家督継承ならびに津軽地方の安堵を条件とし、上杉家に臣従すべし』にございまする」


「やはり左様な用件か」


「たとえ兄弟同士であろうと、このままでは石川家は南部家に滅ぼされるは必定にございます。しからば、臣従された暁には上杉家から後詰の兵をお送りいたす所存故、三戸の南部大膳太夫に敗れることなど決してござらぬ。田子九郎殿に南部家を継がせるためには上杉家に降るしかございませぬ」


史実でも南部晴政は弟の石川高信に絶大な信頼を置いていたが、信直が離反すると自らは手を汚さず、庶流の大浦為信(後の津軽為信)に石川家の津軽地方を奪えと唆し、翌年に為信は石川城を奇襲し、高信を自害に追い込んでいる。


「兄者と斯様な形で別れることになろうとは……是非も無しか。今これより石川家は上杉家に臣従いたしまする」


「ご英断、かたじけなく存じまする」


高信は兄との決別を決意し、上杉家に寝返った。


南部家が津軽地方を支配できたのは、何よりも智勇兼備の名将である石川高信の才能によるところが大きかった。高信は津軽において圧倒的な勢威を誇り、津軽地方の国人勢力も石川家に従い、一斉に南部家から離反する。その中には大浦為信の姿もあった。


田植えの終わった5月下旬、石川高信・南部信直父子が挙兵すると同時に、上杉家は援軍として石川軍を凌駕する軍勢を出羽から差し向ける。


石川高信は息子・南部信直の南部家嫡男としての正当性を錦の御旗に掲げ、上杉家の援軍を得て南部軍を圧倒すると、南部晴政をじわじわと三戸城へ追い詰めていった。


7月上旬には三戸城は落城し、南部晴政は自害に追い込まれた。約束どおり南部家の家督は信直が継ぐこととなり、弘前を中心とする津軽地方を安堵され、南部家は石川家に乗っ取られる形で滅亡した。




◇◇◇




これにより窮地に追い込まれたのは、中陸奥の東部で盟主的立場にあった葛西家当主の葛西晴信であった。南の大崎家と長年対立していた葛西家は、北で領地を接する南部家と同盟を結んで大崎家に対抗していた。


ところが、今回は後ろ盾である南部家が上杉家に攻められる事態となり、葛西晴信は大崎家と一時的に和睦を結ぶと、周辺の斯波家や稗貫家、阿曽沼家、和賀家といった国人勢力を糾合し、南部家に援軍を送って支援した。


しかし、南部家が敗れた今となっては上杉軍に抵抗する力はもはや残っておらず、葛西晴信らは雪崩を打つように膝を折った。彼らが最後まで拘ったのは既に滅んだ室町幕府の関東管領という旧き威信であった。


その結果、陸奥国で最後に残ったのは大崎家だった。かつては奥州探題の家柄ながら衰退の一途を辿っていた大崎家は伊達家の武力に屈し、伊達稙宗の次男の大崎義宣が養嗣子として送り込まれ、一時は伊達家の従属下に入った。


しかし、大崎家中には伊達家に対する反発が渦巻いており、「天文の乱」の終結後に大崎義宣は暗殺される。ようやく伊達家の従属下から脱した大崎家は長年敵対関係にあった葛西家とも一時的に和睦し、上杉家の侵攻に対して備えていた。


とはいえ、かつては隣接する敵対勢力だった伊達家や葛西家も今や上杉家に降伏した状況で、奥州で抵抗する勢力は大崎家のみという崖っぷちに立たされると、当然ながら大崎家に独力で上杉軍に対抗する力などあるはずも無かった。


8月上旬、大崎家当主の大崎義隆は数度の野戦で敗戦した末に居城の中新田城に籠城した。3万の上杉軍に包囲され、最後通告とも言える降伏勧告を受けると、義隆はもはや抵抗は無駄だと悟る。


「代々奥州探題を務めてきた大崎家が関東管領の上杉家に降る訳には行かぬと意地を貫いてきたが、もはやこれまでか。私の代で大崎家を絶やす訳には行かぬ」


義隆は御家存続と城兵の助命を条件に切腹し、上杉家に降伏する。


「これで日ノ本に天下泰平の世をもたらすという5年前の約定を守ることが出来たな」


上杉輝虎は感慨深そうに呟いた。


こうして上杉家はついに念願叶い、奥州の平定を成し遂げた。

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