九州征伐⑱ 大友滅亡と九州統一
「村中城の戦い」が終結した後、俺は村中城を接収した。
龍造寺家は嫡男の龍造寺鎮賢(後の政家)や弟の龍造寺信周、龍造寺長信も戦死し、城内に残された元服前の男児2人と妻女たちは捕らえられた。
本来なら降伏を拒んだ敵対大名の男子は将来の禍根を断つため処刑するところだが、俺は鍋島蹊房に龍造寺家の存続を約束したため助命した。とは言え九州に残すつもりはない。
その理由は土佐の安芸郡に減封した三好家の元に、三好家恩顧の元家臣や阿波の領民が集まっているという不穏な報せが、土佐国代官の加津野信昌から届いたからだ。当主の三好孫次郎は幼いため叛乱の神輿に担がれる恐れがある。
現状では後見役の安宅冬康が謀反を企てた確証は無いが、俺は冬康を"寺倉諸島"の代官に任命した。寺倉諸島とは史実で20年後に発見される小笠原諸島のことだが、九州征伐の直前に発見され、俺が命名したものだ。
つまりは三好家を日本本土から遠ざけた訳である。実質的には無人島への改易処分だが、安宅冬康は淡路水軍の家柄なので島暮らしには好都合だし、集まった浪人たちも開拓民として連れていかせた。
そして今回、龍造寺の遺児や妻女も寺倉諸島に遠島とした。これで反乱は起こしようもないだろう。
◇◇◇
少し時を遡り、2月下旬。蒲生軍は豊後の栂牟礼城で足止めを喰っていた。とはいえ堅城相手に力攻めを続けて、徒に兵を失う真似はするつもりはなかった。
「城主の佐伯紀伊守は大友と対立して伊予に亡命し、昨年帰参したばかりにござれば調略に応じるかと存じまする」
黒田官兵衛の進言で蒲生忠秀が佐伯領の安堵を条件に降伏勧告すると、佐伯惟教は降伏に応じた。
3月上旬、蒲生軍は海沿いを北上し、大友家の本拠である丹生島城を包囲した。臼杵湾に面した丹生島城は南北と東を海に囲まれ、西は干潮時に干潟で繋がる小島を丸ごと城郭化した天然の要害である。
しかし、大友宗麟を始めとする大友軍は豊前に出陣し、丹生島城には僅か5百の城兵しか残っていない。そのため海から佐伯水軍が協力すると、5日目には丹生島城は落城し、大友家は本拠地を失うこととなった。
◇◇◇
一方、浅井軍は2月上旬に小倉城を落とした後、筑前に西進した。博多の町を押さえて大友軍の補給を断つためだ。
しかし、博多の東には立花山全体を要塞化した立花城がある。史実でも立花宗茂が4万の島津軍に徹底抗戦した巨大な山城であり、戸次道雪(立花道雪)が筑前と筑後の兵を集めて迎え撃つ構えであった。
ところが北九州には火種が存在していた。秋月種実、宗像氏貞、原田隆種、筑紫広門といった筑前や筑後の国人は、過去に毛利家に寝返った経緯から大友家に臣従後も肩身の狭い思いを強いられていたのだ。
2月下旬、浅井家が反大友勢力に調略を続けると、内通した彼らは立花城内で一斉に蜂起する。さすがの堅城も内部からの攻めには脆く、戸次道雪は切腹して果てた。
3月中旬には高橋鎮種(後の高橋紹運)が守る大宰府の宝満城も落ちた。浅井軍が大友軍本隊の待ち構える豊前の香春岳城に東進すると、蒲生軍も歩調を合わせて豊後から進軍する。
さらに筑後では、龍造寺隆信が大友家の苦境に乗じた火事場泥棒で大友領を奪いつつあり、浅井・蒲生軍に香春岳城を東西から挟撃された大友軍は四面楚歌となり、土俵際に追い詰められる形となった。
これに対して大友宗麟は、重臣の諫言を聞き入れなかった日頃の行いが災いして急速に信望を失い、士気も低下しつつあった。
「宗麟様。勝敗は兵家の常と申しますが、もはや万に一つも勝ち目はございませぬ。由緒ある大友家を滅ぼすことになりますれば、ここは潔く降伏し、御家存続を乞うべきにございまする」
軍師の角隈石宗が忠言するが、一時は安芸まで攻め獲ったことで傲慢な性格に変わった宗麟は烈火のごとく怒り出す。
「儂に腹を切れと申すか。成り上がり者の浅井や蒲生に降伏など出来るか!」
(まるで別人になられてしもうたな。もはや斯様な宗麟様に仕える訳には参らぬ)
腹心の言葉にも聞く耳さえ持たない主君に、角隈石宗と重臣の志賀親守、田原親賢、城井鎮房は離反を決意する。
「次郎右衛門」
「ここに」
角隈石宗の前で平伏するのは三雲成持である。
「尼子右衛門督(義久)の身柄を臼杵から連れて参れ」
「はっ、承知」
大友家を見限った彼らは、安芸から連れ去られた尼子義久の身柄を手土産にして浅井軍に降ったのである。
3月31日、重臣たちが大挙して寝返った結果、混乱した大友軍は事態を収拾できないまま、浅井・蒲生軍に決戦を挑んで大敗を喫した。大友宗麟は最後まで降伏を拒んだ末に、嫡男の大友義統ら息子3人を道連れにして自刃し、大友家は滅亡した。
永禄13年(1570年)3月、"六雄"はついに九州を統一した。
◇◇◇
筑前国・太宰府天満宮。
4月5日。俺は太宰府天満宮の本殿で浅井長政と蒲生忠秀と久しぶりの再会を果たした。3人とも満面の笑顔だ。
「ついに九州を平定しましたな」
「まるで夢のようですな」
「真に成し遂げたのですね」
「ああ、夢や幻ではない。我らが日ノ本の西半分を平らげ、泰平の世をもたらしたのだ」
「「……」」
2人とも感極まっているようだが、実は俺も込み上げるものを堪えているのだ。
「早速だが、2人に相談したいことがある。肥前の扱いだ」
「義兄上。確かに当初の約定で肥前は浅井家の領分でしたが、平定したのは寺倉家にございますれば、義兄上が治めるべきにございます」
「新九郎の厚意はありがたいのだが、肥前一国は大きすぎる。故に寺倉家は五島列島だけで構わぬ。松浦郡は浅井家に譲る故、新九郎には北の玄界灘を抑えてもらいたい。松浦郡以外は蒲生家に譲る故、筑紫平野をまとめて治め、西の海にも出られるであろう。代わりに豊前の企救郡と田川郡を浅井家に譲ってもらえば、早鞆瀬戸(関門海峡)は浅井家が掌握できよう」
「それは誠にありがたいが、寺倉家の丸損ではござらぬか?」
両家とも15万石ほどを得ることになるため、蒲生忠秀が怪訝な顔を浮かべるが、もちろんタダで譲る訳ではない。
「うむ。そこで2人に頼みがある。実は……」
「「承知いたした」」
俺は交換条件として2人に最後の仕事を頼んだ。
◇◇◇
肥後国・隈本城。
4月10日、俺は論功行賞を執り行った。殊勲甲は何と言っても命の恩人である鍋島蹊房だ。
「飛騨守が駆けつけねば私は死んでいたやもしれぬ。よって、飛騨守はこの北肥後の代官に任じよう」
北肥後なら大幅な加増となるので蹊房も不満はないだろう。
「はっ、ありがたき幸せにございまする」
続いては島津兄弟だ。危険な夜襲を請負い、城攻めを一晩阻止してくれた。あの働きが無ければ鍋島軍が到着する前に落城していたに違いない。
その時は甑島列島か五島列島くらいなら与えてもいいと考えていたが、俺は考えを改めた。あの吶喊を見るとやはり島津は怖い。味方としては頼もしいが、できれば日本本土から遠ざけておきたい。徳川幕府が木曽川の治水を命じて弱体化を図ったのも理解できる。
「兵庫頭(島津義弘)には済州島の代官に任じる故、4人で協力して治めてくれ」
「済州島、にございまするか?」
「そうだ。五島列島の西にある琉球よりも大きな火山島だ。とは言え、まだ制圧しておらぬ故、しばし待ってもらうがな」
俺は浅井家と蒲生家に肥前を譲る条件として済州島の制圧を頼んだのだ。南蛮船を使って兵を輸送する予定だが、夏には制圧できるだろう。
「はっ、誠にかたじけなく存じまする」
その後、相良蹊長には返上された天草郡を返還し、五島列島の代官には甲斐宗運を任命した。63歳だが、後10年は長生きするはずだ。
俺は九州が平穏になるまで隈本城に留まることにした。市や子供たちの顔が目に浮かぶが、振り払うようにして政務に勤しんだ。
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