九州征伐⑰ 阿蘇合戦と肥前の熊
肥後国・御船城。
少し時を遡り、2月10日の夕刻。寺倉軍第2軍を率いる藤堂虎高は御船城の外の陣中で、阿蘇家の重臣で御船城主の甲斐宗運と対面していた。
「拙者は阿蘇家家臣、甲斐宗運と申しまする」
「某は寺倉家家臣、藤堂源右衛門虎高と申す。本日は書状に記した猶予の期限であるが、貴殿の考えは如何でござるかな?」
1月下旬に御船城を包囲した第2軍は無理に力攻めすることなく、『2月10日まで猶予を与える』と記した降伏勧告の書状を送っており、今日はその期限であった。
「我が阿蘇家は大友家とは同盟を結んでおるが、既に豊前と豊後には浅井家と蒲生家が9万の兵で攻め込んでおる。さらには北肥後の国人衆も次々に寺倉家に臣従しておるようでございますな」
一度は降伏勧告の使者を追い返した宗運だったが、直後に素破を放って北九州の状況を探った結果、阿蘇家が後ろ盾としていた大友家が滅亡の危機に瀕しているのを知った。
「左様。さらに肥前には我が主君、寺倉左馬頭様が攻め入っておられる。大浦家や龍造寺家が滅ぶのも時間の問題にござろう。それでもなお阿蘇家は降伏を拒むつもりかな?」
「いや、もはや"六雄"に歯向かうは匹夫の勇にござろう。何より阿蘇家は古から続く阿蘇神社の大宮司を務める由緒ある家柄にござれば、滅ぼす訳には参りませぬ。今より拙者が矢部に赴き、主君を説得して参ります故、何卒もうしばらくお待ちくだされ」
「宗運殿、この期に及んで時間稼ぎは無用に願いたい。降伏勧告の書状には『期限を過ぎれば阿蘇家の領地は召し上げると覚悟せよ』と記してあったはず。甲斐家の臣従は認めるが、阿蘇家が従わぬのであれば攻め入るしかござらぬ。貴殿が阿蘇家と共に抗うつもりならば我らはそれでも構わぬが、御家断絶は覚悟なされよ」
「……分かり申した。我が代で御家を絶やしては御先祖様に顔向けできませぬ。甲斐家は寺倉家に臣従いたしまする」
最後まで主家に忠義を尽くすか、それとも見捨てるかは苦渋の選択だ。しかし、今や大友家の援軍は見込めず、肥後で同盟を結んでいた相良家と名和家も寺倉家に臣従し、八方塞がりの状況を鑑みた宗運は、御家存続を優先する非情な決断を下した。
「左様か、英断にござる。では、明日より我らは南の堅志田城を攻める故、貴殿にも従軍してもらおう」
「はっ、承知しました」
こうして御船城が開城すると、第2軍は阿蘇領の最前線にある堅志田城へ進軍した。
険しい山の山頂に築かれ、堅い守りが敷かれた堅志田城だったが、第2軍1万の攻勢に晒されると、10日後には落城寸前に追い込まれる。
しかし、堅志田城の城主を務めていた阿蘇惟種は阿蘇家当主・阿蘇惟将の実弟であったため、正吉郎から『生かして捕らえよ』という指示を受けていた。
2月下旬、宗運と阿蘇家の盟友だった相良蹊長は降伏勧告の使者として堅志田城に赴いた。
「……分かり申した。城兵を救けるためには已む得ませぬ。開城いたしまする」
2人が城兵の助命を条件として必死に惟種を説得した甲斐もあって、開城を決断した惟種は捕虜となった。
◇◇◇
肥後国・岩尾城。
3月上旬、第2軍は益城郡の矢部にある岩尾城を包囲した。
阿蘇家は平時は浜の館と呼ばれる居館で生活しているが、堅志田城の落城を知った阿蘇惟将は、既に南の山に築かれた詰城の岩尾城に籠っている。惟将に降伏する意思がないのは明らかだった。
「ふん、これまで降伏したことのない故の名家の誇りか。御家を潰して如何する。時流を読めぬ愚か者だな」
岩尾城は東側を除く3方を五老ヶ滝川に守られた堅城であったが、藤堂虎高は浜の館から岩尾城を見上げながら唾棄するように呟いた。
一方その頃、岩尾城の本丸では阿蘇惟将が重臣たちの前で眼下の寺倉軍に罵声を浴びせていた。
「ええぃ、大友家の援軍はまだ来ぬのか! 阿蘇大宮司である阿蘇家を攻め滅ぼそうなど、神罰が降るとは思わぬのか。寺倉左馬頭は神をも畏れぬ不届き者か!」
「誠に畏れながら、大友家も浅井と蒲生の侵攻を受け、我らに援軍を送る余裕は無いようにございまする」
「大宮司様。寺倉左馬頭は天照大御神の加護を受けているとも噂されますれば、我が阿蘇家にも何の畏れも抱かぬのでしょう」
重臣の長野惟久が進言すると、阿蘇家一門で南郷七家の筆頭である高森惟直も続く。2人は阿蘇山の外輪山の内側にある長野城と高森城の城主を務めていたが、阿蘇家の本拠を守るため城兵を率いて援軍に駆け付けていた。
「ふん、阿蘇大宮司を措いて"神の御使い"が他にいるはずもない。神の加護のある阿蘇家は絶対に負けぬ。寺倉の成り上がり者など恐れるに足りぬわ!」
しかし3月中旬、岩尾城は抵抗空しく落城する。阿蘇惟将や重臣たちは最後まで抗戦した末に討死を遂げた。
こうして戦国大名としての阿蘇家は滅亡した。阿蘇大宮司を継いだ阿蘇惟種は阿蘇郡に僅かな神領を与えられ、神官職に専念することとなり、肥後国34万石は平定された。
◇◇◇
肥前国・村中城。
残す敵は大友と龍造寺のみとなった。俺も「浅井城の戦い」を乗り越えて、精神的に少し逞しくなったように思う。
平戸から第3軍を率いて南下した俺は、途中で別働隊と合流すると、龍造寺家の本貫である佐嘉郡に侵攻した。
一方、龍造寺隆信は大友領の筑後と筑前を奪い取るのに夢中になっていたが、本拠地への侵攻を知ると、慌てて村中城に引き返した。
3月30日の昼前。村中城近くの佐賀平野に布陣した寺倉軍第3軍は2万、対する龍造寺軍は1万5千でほぼ互角だ。場所も同じで、まるで史実で今年8月に起きた「今山の戦い」の再現だな。
「今山の戦い」は5千の龍造寺軍が6万もの大友軍を奇襲で破った戦いだ。大友宗麟の弟・大友親貞が村中城攻めの将だったが、油断して今山の本陣で前祝いに酒宴を開き、そこを鍋島信生率いる龍造寺軍5百に夜襲されて親貞は討死し、大友軍は退却する。
「桶狭間の戦い」と似てはいるが、高良山に布陣していた大友宗麟は無事だったため、今川義元が討死した今川家とは違い、大友家は局地戦に負けた程度で大きな影響はなかった。
兵数では若干優勢の寺倉軍だが、馬鹿正直に正面から野戦に応じて徒に兵を損耗するつもりは無い。手元にはこれまで城攻めで使用した大鉄砲があり、もちろん野戦でも有効だ。
俺は先手を打って龍造寺軍の陣形が密集した場所を狙って大鉄砲で砲撃させた。
―――ドガーーン、ドガーーン。
「「ぎゃああぁぁーー!!」」
突然の轟音が響いた直後に、密集した敵陣に打ち込まれた砲弾が兵馬を木っ端微塵に吹き飛ばしていく。武田家との「焼津の戦い」の艦砲射撃ほどではないが、鉄砲の一斉射撃とは桁違いの威力だ。
さらには砲撃の轟音が合図となり、龍造寺軍の背後の筑後平野に第1軍2万と第2軍1万が姿を現す。
大鉄砲で大混乱している上に、前後から5万の大軍に挟撃された龍造寺軍は、もはや将の統率が失われ、戦意を失った兵たちは散り散りに逃げ出し、瓦解し始める。
こうなったら後はもはや一方的な虐殺だ。領民兵は逃がしても構わないが、武将は逃がす訳には行かない。前後左右から包囲殲滅だ。
「大島雲八政光が敵の総大将、龍造寺山城守を討ち取ったりぃーー!」
「「おおおおぉぉーー!!」」
四半刻ほどして突然、戦場に大きな歓声が上がった。どうやら大島政光が強弓で馬上の龍蔵寺隆信を見事に射貫いたらしい。大殊勲だな。
総大将が討死したとなれば勝敗は決したも同じだ。半刻ほど後には「龍造寺四天王」と呼ばれた成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤など多くの重臣が討死し、「村中城の戦い」は終わりを告げる。
かくして龍造寺家は滅亡し、肥前国31万石はついに平定に至った。
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