九州征伐⑯ 西肥前平定

2月17日の日没後、重臣たちが居並ぶ浅井城の広間で、一人の男が平伏していた。


「某は鍋島飛騨守信生と申しまする」


大村軍を撤退に追い込んだのは有馬家の援軍ではなく、意外にも龍造寺家の軍勢2千であり、率いていたのは鍋島信生、後の鍋島直茂だった。1日中城攻めして極度に疲労していた大村軍は後方から現れた龍造寺軍に大敗を喫して撤退した。


「寺倉左馬頭蹊政だ。此度の助力、誠にかたじけない」


「いえ、間に合って幸甚にございまする」


落ち着き払いつつも、信生は勇猛さを纏わせる所作だった。史実では豊臣秀吉に『天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない』と評されたというが、確かに目の前の信生に野心家の印象は感じない。どちらかと言えば軍師タイプだな。


「ただ、助力には礼を申すが、龍造寺家は私の降伏勧告を無視し、大友領を攻め獲ろうとしていたはずだ。単刀直入に訊ねるが、今頃になって突然、我らに助勢するとは一体如何なる仕儀かな?」


「はっ、実は"六雄"に味方するか否かで主君の龍造寺山城守様と意見を違えた結果、もはや御家存続のためには一刻の猶予もないと考え、手勢を率いて後詰に参った次第にございまする」


「ほう、龍造寺山城守と袂を別ったと申すか?」


「左様にございまする」


確か史実でも龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で戦死すると、信生は後を継いだ龍造寺政家の後見役となるが、やがて豊臣秀吉の信任を受けて龍造寺家を乗っ取り、佐賀藩の藩祖となっている。


信生の援軍がなければ俺は討死していたかもしれない。降伏勧告を無視した末に、俺に一番恩を売れるタイミングで援軍に現れるとは、史実どおり相当に強かな男だな。


「それは私に臣従する、と受け取っても良いのか?」


「はい。ですが何卒、龍造寺家にご温情を賜りたくお頼み申しまする」


そう言うと、信生は再び平伏した。


「ほう、離反したとは言え、龍造寺家の恩顧に報いたいか?」


「はっ」


「今後の龍造寺家の態度にもよるが、龍造寺山城守の助命は叶えられぬと思うのだな。無論、お主が此度の助力の褒美をすべて返上すれば助命も叶うやもしれぬが、それはお主も本意ではあるまい。だが、龍造寺家の存続については考慮しよう。それでどうだ?」


「はっ、誠にかたじけなく存じまする」


さすがに信生も今回の援軍の褒美を捨てるほどお人好しではないようだ。


「では、此度の褒美については九州を平定した後の論功行賞にて申し渡すが、その前に感謝の気持ちとして私の偏諱を授ける故、鍋島飛騨守蹊房と名乗るが良い。飛騨守も将の一人として肥前の平定に従軍せよ」


史実の鍋島直茂は龍造寺隆信から偏諱を受けて何度も改名している。龍造寺家との離反により隆信の偏諱を捨てさせ、俺の偏諱と父・清房の「房」で命名した。いわば"踏み絵"だな。


「はっ、誠にかたじけなく存じまする。この鍋島飛騨守蹊房、寺倉家に忠誠をお誓い申しまする」


こうして鍋島蹊房が寺倉家に臣従し、ささやかながら戦勝の祝杯を挙げたのだった。




◇◇◇




翌2月18日の朝、山田城の夜襲で散り散りになっていた第3軍の将兵が浅井城に集まってきた。その数、約1万だ。


さらに昼前には有馬家の援軍2千も到着したが、有馬義貞はやや気まずい顔をしていた。おそらく落城寸前と予想していたのが外れたのだろう。


既に第3軍の将兵と鍋島軍が合流したため、俺に恩を売る絶好の機会を逃したばかりか、あまり意味のない援軍となってしまった。たとえ5百の兵でも全速力で1日早く到着していれば、西肥前くらいは褒美に貰えただろうに後悔先に立たずだな。


その後も第3軍の生き残りの将兵は続々と集結し、鍋島軍2千を加えた第3軍は1万6千となった。もちろん負傷した者も少なくないが、予想以上に多い数に俺はひと安心した。これならば肥前の平定も問題ない。


兵たちに2日の休息を取らせた後の2月20日、第3軍は浅井城を出立した。有馬義貞も何もせずに帰る訳にも行かず、肥前平定に従軍することになり、最終的に第3軍は1万8千の軍勢となった。




◇◇◇




2月22日、西郷家の居城だった伊佐早の高城城に到着した。しかし、高城城は既に鍋島軍に落とされており、鍋島兵5百が城を守っていた。


西郷軍1千は浅井城から慌てて引き返してきたが、西郷純堯は高城城の落城を知ると兵数に勝る鍋島軍と一戦して敗れた後、北に落ち延びたそうだ。おそらくは同盟する松浦家を頼って平戸へ向かったのだろう。


2月24日の昼前には大村家の本拠である三城城に着いた。既に大村純忠は城に戻っており、1千の城兵と籠城する構えだが、東の多良岳の麓の丘陵に築かれた三城城は堅城ではない。


史実でも武雄の後藤貴明に三城城を包囲されるが、寡兵で援軍到着まで持ち堪え、後に「三城七騎篭り」と称されている。だが、今回は頼みの綱の有馬家さえ敵となったからには、大村家に援軍は来ない。


俺は降伏勧告で無駄な時間を費やすつもりは無い。第1軍で用済みとなった大鉄砲を北肥後から南蛮船で運ばせた俺は、敵の鉄砲の射程外から大鉄砲で城門や城壁に砲弾を撃ち込む。大村軍も鉄砲では対抗できても、さすがに大鉄砲の砲撃は予想外だろう。


一刻ほど砲撃して城郭を徹底的に破壊し尽くした後、城内に兵を進めさせると、瓦礫の山となった本丸から圧死した大村純忠の遺体が見つかった。さすがに遺体の首を刎ねる趣味はないので、実兄の有馬義貞に供養を委ねた。


それと、城下には伴天連の住む屋敷があり、コスメ・デ・トーレス、ルイス・フロイス、ガスパル・ヴィレラ、そしてロレンソ了斎も捕らえられた。もっと早く逃げればいいのにと思うが、どうやら大村領の大勢のキリシタンを見捨てるのを躊躇ったようだ。


彼らには3年前に「バテレン追放令」を伝えてあるので、改めて会見するつもりはなく、俺は横瀬浦のポルトガル商人の船で国外追放を命じた。


しかしその船がマカオに到着することはない。東シナ海で"不幸な海難事故"で海の藻屑となる運命だ。今はマラッカやゴアのイエズス会に余計な情報を与えて、ポルトガル艦隊を派遣されるのは御免だ。


伴天連を国外追放の形にしたのは、日本で伴天連を処刑すればキリシタンから恨みを買い、今後の統治が難しくなるからだ。気の毒だが、こればかりは国防のため仕方ない。


翌日、唐津から2千の援軍で駆け付けた波多家が臣従すると、俺は第3軍を2つに分けた。前田利蹊と大島政光、島清興、本多忠勝に武藤昌幸を付けて、1万の別働隊を武雄の後藤家討伐に向かわせると、俺は残りの1万を率いて平戸へ向かう。




◇◇◇




3月15日、途中で松浦軍の攻撃を受けることなく、平戸島の北端にある平戸に到着した。


史実で松浦鎮信が築く平戸城はまだ存在せず、本拠は丘陵に築かれた居館だそうだが、既に南蛮船の艦砲射撃により瓦礫と化し、松浦家当主の松浦鎮信と実権を握る父の松浦隆信は死亡していた。道理で道中で攻撃が無かった訳だ。


しかし、生き残った2千の松浦軍と西郷軍の将兵の中には西郷純堯の姿もあり、降伏しても無駄と悟ったのか無謀にも野戦を挑んできた。


「榊原小平太政長が敵将、西郷石見守を討ち取ったりぃー!!」


だが多勢に無勢。5倍の軍勢の前に殲滅され、西郷純堯も榊原政長との一騎打ちに敗れて壮絶な討死を遂げる。


これにより松浦家と西郷家は断絶することとなった。松浦党は波多家が率いることになるだろう。


翌日には松浦家に対する容赦のない仕置を知り、抵抗すれば御家断絶だと観念したのか、五島列島の宇久純定が戦わずして降伏してきた。


一方、前田利蹊率いる別働隊は武雄城を攻め、後藤家を降伏させた。当主の後藤貴明と嫡男で松浦家からの養子である後藤惟明は切腹させた。だが、後藤貴明には9歳の実子の後藤晴明がいたため将来的に御家存続だけは許した。


こうして西肥前を平定すると、東肥前に残る龍造寺家を討ち果たすため、俺は龍造寺家の本拠・村中城のある佐嘉郡に向かうのだった。

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