九州征伐⑤ 相良兄弟の相剋

薩摩国・内城。


「「新年おめでとうございまする」」


島津家を降伏させた俺は、戦後処理に忙殺されている間に、永禄13年(1570年)の元日を迎えてしまった。


昨年の正月も四国で迎えており、今回も年内には九州征伐を終えられないと分かっていたので、出陣する時に市には伝えてはあるが、2年続けて父親が不在の正月に、市や子供たちには申し訳ない気持ちで一杯だ。


島津家の本拠である内城本丸の大広間には従軍している重臣たちや伊東家、肝付家、相良家、渋谷一族に加えて、末席には島津義弘も招いたが、苦虫を噛み潰した表情をしている。


家臣たちから年始の挨拶を受けた俺は年頭訓示を行う。


「うむ。新年おめでとう。昨年はついに四国を平定し、年末には薩摩を平定することもできた。この寺倉正吉郎左馬頭蹊政、皆の忠勤に心より礼を申す」


「「ははっ」」


「いよいよ天下泰平は目前だ。そのためにも今年は浅井家や蒲生家と合力して、大友家など"六雄"に抗う者どもを征伐し、必ずや日ノ本の平定を成し遂げる。皆の奮励努力を期待するものである」


「「ははっー!」」


「では、祝宴の前に申し渡す。薩摩国代官には武田太郎(義信)を任じる。武田太郎が務めていた河内国代官の後任には大島雲八(政光)を任じる。両名とも励めよ」


島津一門や重臣たちは俺に仕えるが、その他の家臣は薩摩国代官に仕えることになる。だが、島津家の祖の惟宗忠久は源頼朝の落胤とされ、鎌倉時代から続く名門だ。生半可な家柄の者では薩摩を治められない。


そこで、島津家と同じ清和源氏の源義光を祖とし、島津家以上の名門である武田家当主の武田義信ならば、薩摩を無事に治められるだろうと白羽の矢を立てたのだ。


一方、大島政光は"将星"に数えられるほど数多の戦功を挙げてきたが、これまで代官の任命を固辞していた。だがこの機を逃すと政光の功に報いる機会を失うため、事前に本人に伝えると河内国代官を渋々了承した。


「はっ、確と薩摩国を治めて参りまする」


「ありがたき幸せにございまする」


「それと、島津兵庫頭(義弘)」


「はっ」


「さぞや居心地が悪かろうが、今後の九州征伐で戦功を挙げてみせよ。見事期待に応えた暁には島津家の再興を許し、幾ばくかの領地を与えよう」


種子島や屋久島は大隅で肝付家の領分なので難しいが、薩摩の西の甑島列島くらいなら3兄弟の働き次第では与えてもいいだろう。


「真にござるか! ならば全身全霊を以って槍働きをご覧に入れ申そう」


露骨なニンジン作戦だと知りながらも、御家再興のために島津義弘は応じたようだ。


その後は続いて正月の祝宴が催され、重臣たちは酒と料理を堪能し、英気を養った。




◇◇◇




肥後国・栖本城。


栖本城は天草郡に勢力を持ち、「天草五人衆」の一角の有力国人として天草諸島東部で名を馳せている栖本家の本拠である。


その城内の一室で何不自由のない生活を送りながらも鬱屈とした日々を送る男がいた。その男の名は相良頼貞と言い、相良家当主・相良蹊長の実弟である。


相良一門の頼貞がなぜ相良家の本拠の球磨郡から遠く離れた天草諸島に住んでいるのか。それは頼貞の不幸な生い立ちに起因する。


頼貞と蹊長は偶然同じ日に生まれた兄弟であるが、忌み嫌われる双子ではない。兄・蹊長は正室の子、頼貞は側室の子であり、腹違いの異母兄弟だった。


幼少の頃は2人は仲良く遊びながら成長した。だが、6歳を迎えると突如として2人の日常は激変する。将来の無用な家督争いを避けるため、父・相良晴広は蹊長を嫡男に指名したのだ。


家督を継ぐ資格を失った頼貞はすぐにはその意味を理解できなかったが、ある日を境にして家臣や侍女は蹊長を持ち上げ、自分には哀れんだ目を向けるようになったのを敏感に感じ取った。


同じ父を持ち、同じ日に生まれた兄弟なのに、やがて2人の扱いに大きな格差が付けられると、頼貞は自分は側室腹であるが故に見捨てられたのを悟り、純真無垢だった心根は次第に荒んでいく。


やがて少年期を迎えると、頼貞は襖や障子をわざと破いたり、手入れされた庭木の枝を折るなど、周囲に認められたい反抗期特有の暴れぶりで、近習も手が付けられないほどに変貌した。


周囲も頼貞の不満は理解したが、叱られても一向に態度を改めない頼貞を次第に疎ましく思うようになる。頼貞の行状に頭を痛めた父・晴広は、相良家代々の崇敬を受ける曹洞宗の永国寺に頼貞を預けるよう遺言を残して、頼貞が12歳の時に43歳でこの世を去る。


嫡男の兄が相良家当主を継ぐと、父の遺言どおりに頼貞は出家させられ、泰雲和尚に弟子入りして「奝雲祖栄」と称し、兄への敵愾心を秘めながらも不承不承ながらも修行生活を送った。


しかし、元来武勇を好む性格のため頼貞は僧兵と武芸の稽古にも精を出し、20歳を過ぎると勝手に寺を抜け出して還俗し、「頼貞」と名乗って八代に居を構えた。


ところが、昨年の夏に兄・義陽が寺倉家に臣従し、偏諱を授かって「蹊長」と改名したと聞くと、頼貞は人吉城に単身で乗り込んだ。久しぶりに再会した兄に対して頼貞は猛抗議するが、冷淡に突っ撥ねられてしまう。


激怒して出奔した頼貞は八代海を渡ると、天草郡で相良家と同盟する栖本家を頼った。相良家から幾度も援助を受けた恩のある栖本家当主の栖本鎮通は、相良家当主の実弟を無碍には出来なかった。


栖本家でも上位となる武芸の腕前に栖本鎮通も戦働きを期待し、頼貞は客将として栖本家に居候していたのだが、そんな頼貞に転機が訪れる。年末を迎えたある日、とある人物から意外な話を打診されたのだった。




◇◇◇




肥後国・人吉城。


1月中旬。北肥後を攻めるため、俺は相良家の居城である人吉城に移っていた。


「左馬頭様。軍議の最中に申し訳ございませぬが、是非ともお耳に入れたき儀がございまする」


大広間で軍議を行う俺の元に急報が舞い込んだ。伝えたのは植田順蔵ではなく、相良家当主の相良蹊長だ。顔色を見る限りおそらくは悪い報せだろう。


「構わぬ。で、如何なる報せだ?」


「実は、某には腹違いの相良大膳大夫と申す弟がおりまする」


「弟? ああ、出奔したという同い年の弟か」


「はい。父の遺言により仏門に入りながら身勝手に還俗した上に、寺倉家に臣従したことに反発して出て行った愚弟にございます。それがあろうことか、盟を結ぶ栖本家の娘を拐かし、天草上島の阿村神社に篭もったとの由にございまする」


「なんと!」


悪い予感が当たったな。人質立て篭り事件は前世のニュースでも見たが、確か下手に犯人を刺激すると人質の身が危なくなると聞いた覚えがあるな。


だが、これは相良家で解決すべき身内の不始末だ。なぜ俺に御家の恥を明かすのかと疑問に思うと、蹊長が理由を明かした。


「彼奴は15年前に滅んだ菊池家を再興しようと、左馬頭様と直接会って再興を認める誓紙を交わさない限り、栖本家の娘を解放しないと申しておるのでございまする」


「はあ? 菊池家の再興? それが栖本家や相良家と何の関係があるのだ?」


菊池家はかつて肥後守護を務めた北肥後の大名だが、大友の養子の菊池義武を最後に滅んでいる。その菊池家を再興するとは何とも呆れるしかない。


「栖本家は菊池家の祖・藤原大宰少監(則隆)の子である小島次郎(保隆)を家祖といたします。菊池家一門である栖本家の娘を娶って菊池家を再興しようなど、余りにも愚かな野心にござれば、相良家の恥にございまする!」


蹊長は困惑を隠せない様子で頼貞を痛罵する。


このまま無視しても弟の企みは潰えるだろうが、娘が犠牲になれば栖本家が相良家との同盟を破棄して天草郡の平定に支障が出かねない。さて、どうしたものか。

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