九州征伐④ 島津家の落日

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収穫期を終えた11月下旬、俺は5万の軍勢を率いて一条松平家の本拠だった中村城に入った。俺が中村城に留まる間に、寺倉軍は南蛮船のピストン輸送により日向に上陸し、最後に俺も上陸した。


8月に相良家と肝付家を臣従させた後、伊東家重臣の伊東祐梁の説得により9月中に入来院重嗣や東郷重尚ら渋谷一族が臣従した。相良家も北畠の援軍を得て、大口城から島津軍を撤退させている。


島津家は薩摩一国すら平定できずに決戦を強いられることになった。島津家当主の島津義久は武勇に優れた弟3人とは違い、祖父の島津忠良から『三州の総大将たるの材徳自ら備わる』と評された寡黙な性格で、内政や外交など政治力に長けた武将だ。


島津の動員兵力は精々5千に対して、我が軍は伊東家2千、肝付家2千、相良家1千を加えると計5万5千だ。戦わずとも勝敗は明らかであり、島津家中は抗戦か降伏かで揉めているようだ。


だが俺は、最小限の犠牲で島津を降すつもりだ。俺は島津の戦力を分断するため、相良の大口、肝付の北大隅、入来院の川内の北東西に加えて、南大隅から船で指宿に渡り、南薩摩からも兵を進めた。


南大隅の大隅郡には禰寝家がいたが、以前から肝付家や伊地知家と組んで島津に対抗しており、当主の禰寝重長は寺倉軍の日向上陸を知ってすぐに臣従した。水軍を有する禰寝家は種子島や屋久島にも度々侵攻しており、喜んで指宿上陸に協力した。


かくして12月上旬、寺倉軍は圧倒的な兵力を以って島津領に攻め入った。




◇◇◇




大隅国・国分。


俺は大隅国曽於郡にある橘木城を攻めていた。橘木城はギアナ高地のテーブルマウンテンのような断崖に囲まれた山に築かれ、古代の「隼人の乱」で隼人族が立て籠もった城だ。


橘木城には島津義久の従弟の島津以久が籠っており、やはり島津家は手強いと言うべきか、非常に厚い守りに手を焼いている。


「正吉郎様。島津の後詰が迫っておりまする。後詰を知った城兵の士気が上がっており、このままでは後詰が到着する前に落とすのは難しいと存じますが、如何されますか?」


明智光秀の冷静な声が耳に届いた。


四方から攻め込まれた島津は各地で連戦連敗しており、防戦一方に焦った義久はどうやら北大隅の寺倉軍本隊を率いる俺に狙いを絞ったらしい。妥当な判断だな。


義久自身は鹿児島郡の内城に居残り、史実の「朝鮮の役」で朝鮮兵から"鬼島津"と恐れられた次弟の島津義弘が三弟・歳久と四弟・家久を率いて出陣したようだ。島津3兄弟のお出ましか。


「已むを得ぬ。包囲を解いて備えるとしよう。だが、正面から戦って徒に兵を失うのは避けたい。源右衛門、私は検校川の東の狭い山間の地に陣を構える。島津の本隊を釣れるか?」


俺を討つしか勝ち目のない島津軍は、俺がいる本陣に向かわざるを得ない。つまり俺自身が餌となって島津のお家芸の"釣り野伏"を逆に仕掛けようという魂胆だ。もちろん本家本元が相手では成功するとは限らないが、失敗した時は正面から戦うだけだ。


「無論にございます。必ずや成し遂げまする」


俺の問いに藤堂虎高は決意に満ちた鋭い眼光を放って応答した。




◇◇◇




夕方、2千の兵を率いた藤堂虎高は国分の地で天降川を挟んで、島津義弘率いる島津軍5千と対峙した。島津軍も異様な敵兵の少なさを訝しみ、動こうとはしない。しかし、虎高は考える暇を与えず、正面から弓矢と鉄砲で仕掛けた。


虎高の用兵は正に"釣り野伏"の完成形であった。寺倉軍はできるだけ被害を少なく敵兵を減らすことに注力し、逸った島津兵が渡河して劣勢になると、すぐさま撤退を命じる。そこに不自然さは見当たらず、退却する姿は敗軍の将そのものだった。


しかし、島津義弘の本隊はこの"釣り"には乗らず、追撃しなかった。とはいえ将兵すべてがそうではない。橘木城から打って出て援軍に合流した島津以久の隊5百が釣られてしまったのだ。


以久は島津一門の名に恥じず、勇猛果敢な将であったが、弱冠20歳で猪突猛進な面があった。敗走する寺倉軍を見た以久は、先ほどまで籠城を強いられた鬱憤を晴らすべく、思わず追撃してしまう。


義弘の制止する声は届かず、もはや以久の隊は遠ざかる一方である。敵の罠だと見破った義弘は従弟の以久を見捨てるべきか思い悩む。そこへ義弘の意を汲み取り、手勢を率いて以久の救出に向かったのは末弟の島津家久だった。


「又四郎ぉぉーー!」


島津相州家の嫡男だった以久は、12歳の時に父・忠将が討死したため伯父の貴久に養育され、従兄の四兄弟とは昵懇の仲だった。特に3歳しか違わない家久とは実の兄弟も同然であり、家久が以久を見捨てる訳もなく、罠だと知りつつ以久の後を追ったのである。


撤退する藤堂虎高の隊を東に追撃した以久と家久は、危惧したとおり南北の丘陵に潜んでいた伏兵に背後を封じられると、正面の寺倉軍の本隊から鉄砲の一斉射撃により一網打尽にされていく。


しかし、2人の運は尽きてはいなかった。見計らったように突然の激しい雨が降り注いだのだ。視界は塞がれ、鉄砲は使えなくなり、家久は以久を連れて南の丘陵を突っ切る道筋を選ぶと、木々の合間を縫うように狭い獣道を進んでいった。


ところが、そんな獣道も寺倉軍の志能便は事前に把握しており、伏兵が待ち受けていた。寺倉兵と対峙した家久と以久は、卓越した武勇を以って次々と敵を薙ぎ倒していく。だが、雨中の戦いに体力の消耗は激しく、泥濘に足を取られた2人はやがて力尽きた。


「島津中務大輔、島津右馬頭、討ち取ったりぃぃーー!!」


2人の討死を知らせる勝鬨の声が響くと、抗戦していた島津兵も投降した。1千近い兵を失って敗北を悟った島津義弘は、もはや戦の続行は不可能と見て、残った4千の兵を率いて鹿児島に退却すると、間もなく橘木城は落城した。




◇◇◇




薩摩国・鹿児島。


家久と以久が討死したとの報せに、島津家の本拠である内城では激震が走った。瞬く間に動揺は広がり、精強で鳴る島津兵の士気は低落し、島津領は真綿で首を絞めるように四方から刈り取られていった。


12月中旬、島津軍は熾烈を極める寺倉軍の侵攻を食い止められず、寺倉軍は内城に迫りつつあった。島津義久は平時の居館である内城は防御力は皆無に等しいため、後詰の城である東福寺城に籠城を決める。


東福寺城は500年前に海沿いの小山に築かれた山城である。だが、海に面した城であるが故に、寺倉水軍の艦砲射撃の格好の餌食だった。錦江湾に入った南蛮船は東福寺城の本丸をわざと避けるように砲撃した。


翌日、鎌倉時代からの名門である島津家に敬意を払い、正吉郎は武田義信を降伏勧告の使者として送った。


「某と父上の首と共に降伏すれば、捕虜とした島津中務大輔、島津右馬頭を含む島津家全員を助命するだと? 2人は生きておったのか!」


正吉郎は島津兵の戦意を奪うため、実はわざと家久と以久が討死したと嘘を流したのだ。


家久と以久が捕虜となっていると知り、当主の義久は降伏も已む無しと考えるが、武闘派の義弘と歳久は玉砕覚悟の徹底抗戦を主張し、島津家中は割れる。


激論が繰り広げられる中、東福寺城の曲輪の一つである浜崎城が艦砲射撃によって破壊された。


「父上。もはや一刻の猶予もあり申さぬ」


「うむ。当主である又三郎に従おう。御家存続のためならば儂の皺枯れ首なぞ喜んで差し出そうぞ」


御家存続のためには降伏するしかないと判断した義久と父・島津伯囿は自刃した。


義弘と歳久は父と兄の死に号泣し、別れの言葉も交わせなかったことに悔恨の念を抱いた。兄の遺志を継いだ義弘は御家存続のため降伏し、義弘以下の島津家主従は寺倉家に臣従し、戦国大名としての島津家は滅びの日を迎える。


こうして寺倉家は薩摩国28万石を平定し、北肥後の大友陣営に対する圧力をより一層強めることになる。

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