山陽山陰の平定

安芸国・吉田郡山城。


大友宗麟は毛利就辰が撤退してもぬけの殻となった吉田郡山城を占拠すると、8月上旬には毛利家の本貫である安芸国から毛利勢を追い出すことに成功し、これにより大友家は安芸をほぼ手中にしていた。


「ほう、毛利が浅井家に降伏したか」


8月中旬、そうした大友宗麟の元へ大友家にとってさらに都合の良い報告が届く。


「はい。どうやら朝廷から勅使として遣わされた禅閤様が仲介したとの由にございまする」


「なるほど、帝が長年の忠臣である毛利に情けを掛けられたか」


「宗麟様。これは好機ですぞ。我らは周防でも大内恩顧の国人衆が次々と寝返り、安芸でも毛利の撤退により兵を大して損耗することなく労せずして落としておりますれば、ここは石見銀山を狙うべきかと存じまする」


宗麟にそう進言するのは、対毛利戦総責任者を務めていた筆頭家老の吉岡宗歓であった。


「ふむ。確かにほぼ無傷の3万もの兵をこのまま秋の収穫で領国へ帰すのは余りにももったいないな。浅井は毛利を臣従させたばかりで石見の国人を掌握し切れてはおらぬであろうしな」


「それに毛利が滅んだ今となっては最早"六雄"との対立は避けられず、長期戦は必須となりましょう。ならば長期戦に耐え得るだけの後ろ盾が必要にございまする」


長い戦国の世で石見銀山は大内、尼子、毛利と幾度となく争奪戦の舞台となった。大友家が今後の"六雄"との戦いを見据えた場合、石見銀山の経済力は不可欠であり、何としても確保したい気持ちが強かった。


「石見銀山を制した者が天下を制すると申すとおり、確かにその価値は計り知れぬほど大きい。このまま手をこまねいて浅井を潤わせることになっても拙い。となれば、兵の士気も低くない今を措いて銀山を奪う機会は他にはないか。よし、石見銀山を攻め取るぞ!」


今ならば"六雄"と事を構えても十分に持ち堪えられると判断した宗麟は、吉田郡山城を出陣すると石見銀山へ向けて一路北に兵を進めた。




◇◇◇





石見国・青杉城。


8月20日、石見国に入った大友軍は江の川沿いに邑智郡を真っ直ぐ北上し、江の川が西に屈曲する要衝である粕淵の地に着陣する。


粕淵の南の青杉ヶ山に築かれた青杉城は邑智郡の国人領主である佐波家の居城であり、当主の佐波隆秀が5百の兵と共に籠っていた。


「常陸介様、大友は2万もの大軍にございまする!」


「皆の者、狼狽えるな! 間もなく浅井加賀守様から後詰が到着する。それまで守り切るのだ!」


佐波隆秀が言ったとおり翌21日の朝には、北から浅井家の援軍1万5千が到着した。石見は険しい山地が多く、平地も非常に狭隘としているため、浅井長政は臣従したばかりの毛利就辰に援軍を率いさせ、土地勘のある石見や出雲の国人衆に功を競わせる狙いだった。


浅井家は大友軍が石見に進軍した動きをいち早く察知していた。宗麟の狙いが石見銀山だと知ると、軍師の沼田祐光は毛利配下の世鬼衆に地理を聞き、わざと石見銀山の南15kmほどにある粕淵の地まで誘き寄せたのである。


そして、昼前には狭い粕淵の平地で両軍合わせて3万5千の兵が激突した。だが、開戦してから僅か四半刻(30分)もしない内に、大友宗麟に凶報がもたらされる。


「申し上げます。背後から蒲生軍が現れました! その数、1万!」


「な、何だと!!」


沼田祐光が粕淵の地を戦場に選んだのには理由があった。南北を貫く街道の他に、東からの街道が粕淵の南で合流しており、その街道が備後に通じていたからである。


そこで、長政は蒲生家と共通の敵となる大友軍を挟撃すべく、蒲生忠秀に共闘を打診した。忠秀は即座に了承すると、すぐに1万の軍勢で出陣し、大友軍の背後を襲ったのである。


大友軍は南北から挟撃される形になり、南西に屈曲する江の川沿い以外に将兵たちの逃げ道はなくなった。


「くっ、この不利な形勢では石見銀山を奪い取るどころではない。撤退だ!」


宗麟は南西に兵力を集中させて戦場からの脱出を図った。大友軍を完全に包囲して死兵にしてしまうと味方の被害も大きくなるため、沼田祐光はわざと南西の兵を薄くしたのだ。


だが、退路では浅井軍による激しい追撃と山上の青杉城から奇襲を受け、大友軍は命辛々安芸に逃げ帰ったのであった。




◇◇◇




安芸国・日野山城。


「粕淵の戦い」で大友軍が失った兵は1万を超えた。それでも挟撃されて直ぐに退却したことにより、主だった将は生き延びることができた。


しかし、この大敗により大友家の歯車は大きく狂い始め、更なる向かい風が大友家を襲う。日向に潜ませた大友家の素破から、寺倉家が伊東家を臣従させたとの報告が伝えられたのだ。


「なに! 寺倉家が伊東家を臣従させただと!」


大友家の本貫である豊後の南に隣接する日向が、"六雄"筆頭格の寺倉家の支配下となったと聞いて、大友宗麟は震撼した。山陽山陰だけでなく、南九州にも強敵が現れたのだ。


「これでは九州から後詰を送るどころの話ではない。寺倉に本貫の豊後を奪われる訳には行かぬ」


大友家は九州の領地からかなりの兵力を毛利攻めに動員していた。したがって、豊後の守りは非常に薄い現状だった。


とは言え、山陽山陰の領地を維持するには浅井軍と蒲生軍に対応する兵力も必要である。8月下旬、宗麟は已むを得ず安芸にいる大友軍2万を1万ずつに2つに分けると、自分は1万を率いていち早く豊後に帰還する道を選び、吉岡宗歓に後事を託したのである。




◇◇◇





一方、浅井家と蒲生家は「粕淵の戦い」ではほぼ無傷と言っていいほど損耗は少なかった。さらに浅井長政と蒲生忠秀は正吉郎から大友宗麟が慌てて豊後に撤退するはずだと伝えられると、蒲生軍は大友軍の半分が撤退するのを追撃するように、備後から安芸に侵攻を開始した。


同時に浅井軍も石見から東長門の阿武郡に侵攻するが、沼田祐光はわざと行軍を遅くし、大友軍に考える時間を与えた。すると、吉岡宗歓は長門を奪われれば退路を失いかねないため、9月上旬には沼田祐光の思惑どおり安芸から周防に兵を退く決断を下す。


しかし、浅井軍と蒲生軍は手を緩めず、降雪の多い冬までに大友軍を山陽山陰から追い出すという方針の下、連携して一気呵成に攻勢を仕掛ける。


蒲生軍は周防で壮絶な討死を遂げた大内輝弘の嫡男・大内武弘を旗頭として周防に侵攻した。大内武弘は父・輝弘から自分の死後は蒲生家に身を寄せるように言われた遺言を守っていたのだ。


蒲生軍が大内家の末裔である大内武弘を担ぐと、「大内輝弘の乱」の際に大内家恩顧で味方した後、大友家に寝返った周防の国人衆の心は再び揺らいだ。毛利家を破った大友家が「粕淵の戦い」で大敗すると、日の出の勢いの"六雄"には敵わないと寝返り始める。


それはすぐに他の国人にも波及する。そうなると蒲生軍に内応した国人が戦の最中に突然、自分たちに反旗を翻す恐れがあると考えた吉岡宗歓は、周防をも捨てる苦渋の決断を強いられ、9月下旬には長府の勝山城に撤退する。


その頃、浅井軍は阿武郡の萩の町を占領し、長門の国人衆を調略していた。そして10月上旬、周防の国人衆を糾合した蒲生軍が山口の町を制圧すると、浅井軍と蒲生軍は歩調を合わせて長府に向けて進軍を開始した。


10月中旬、浅井軍と蒲生軍の計3万超の軍勢が長府の勝山城を包囲した。一方、勝山城に籠る大友軍は周防や長門の国人衆の大半が離反し、今や6千を割っていた。


「ここまで敗戦を重ねて撤退してきたが、早鞆瀬戸(関門海峡)を守るためにはもはや退くことは出来ぬ。収穫の農繁期のため九州からの後詰は11月であろうが、それまで死守するしかあるまい」


しかし、堅牢だった勝山城も小早川隆景との戦いで大きく傷ついた上に多勢に無勢だった。11月上旬、九州から援軍が到着する前に勝山城は落城し、吉岡宗歓は奮戦虚しく討死した。


こうして浅井家と蒲生家は山陽山陰を平定し、両家の目はついに九州に向くことになった。

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