九州征伐① 日向の英傑

8月中旬、服部半蔵から浅井家が毛利を降伏臣従させたとの報告を受けた俺は、急遽予定を変更して日向国に向かうことにした。ただ、九州への侵攻はあくまでも秋の収穫後に変わりはない。


今回は四国征伐で全くと言っていいほど戦う機会のなかった近衛部隊の兵2千を連れての日向上陸だが、日向訪問の目的は2つある。


1つは伊東家の実権を握る伊東三位入道義祐と会見し、伊東家の臣従と義祐の為人を確かめた上で、南九州を平定する戦略について協議するためだ。俺は九州の事情に疎いため、予習が必要と考えたのだ。


ただ主君は俺なので、話し合うだけならば家臣の伊東家を呼び出すべきだ。俺も当初は9月に呼び出すつもりだった。武家は前世の極道みたいなもので、最初に舐められたらお終いだ。光秀からも俺が足を運ぶことには反対されたが、日向訪問を強行したのはもう1つ理由がある。


それは、大友家との戦いで苦戦しそうな蒲生家と浅井家に援護射撃をするためだ。俺が日向を来訪すれば、日向にいる大友の素破から今は安芸にいる大友宗麟に、寺倉家が日向の伊東家を臣従させたことを伝えるはずである。


宗麟が豊後の南隣の日向が"六雄"の支配下となったと知れば、俺に本国を空き巣狙いされるのを恐れるはずだ。俺が宗麟ならば慌てて九州に撤退するだろう。もちろん浅井長政と蒲生忠秀には俺の援護射撃の意図は伝えてあるので、大友軍が撤退すれば全力で追撃するだろう。


したがって、大友軍を一日でも早く安芸から撤退させるため、今回は堺ではなく、統麟城から近い伊勢の安濃津に向かう。安濃津城で弟の北畠惟蹊と合流すると、俺は南蛮船で出航した。


途中、土佐の浦戸湊で停泊し、翌日に意図的に豊後に近い北日向の細島湊に上陸すると、伊東義益の出迎えを受けた。次の日には伊東義益の案内で児湯郡にある伊東家の本拠である都於郡城に入り、旅の汚れを落とした。




◇◇◇




日向国・佐土原城。


翌日、俺は都於郡城の東5kmに位置する先代当主・伊東義祐の居城・佐土原城に向かう。ここからは単身で敵地に乗り込むようなものだ。前世でベトナム帰還兵が大暴れするアメリカ映画があったが、思わず俺も胸が昂ってしまう。


もちろん実際は単身ではなく、俺の後ろには光秀や滝川利益あらため朝倉景利などが付いて来ているが、もしも伊東家が謀反を起こし、一斉に刀を抜いて襲い掛かってきたら、生きて帰れる可能性は皆無に等しい。


そのため、万が一のリスク回避のため弟の惟蹊は兵1千と共に都於郡城に残してきている。惟蹊が無事ならば寺倉家は安泰だからな。


本拠の都於郡城も総構えの巨城だったが、佐土原城も俺の予想を遥かに超える威容を誇っていた。二の丸に聳える天守閣は南九州で唯一のものらしく、その屋根には金箔鯱瓦が神々しく光って俺を睥睨している。


本丸に案内された俺は、控えの間で正式な公家装束である束帯に着替えた。束帯に身を包むと自然と気が引き締まる。束帯を着た理由は、これから対面する伊東義祐が従三位・大膳大夫に叙せられており、従四位上・左馬頭の俺よりも位階が上なので、初対面の相手に敬意を払ったのだ。


それと、人の他人の評価は第一印象の比重が大きく、もし悪い印象を与えた場合はそれを覆すには多大な労力と時間が必要となる。さらに、その印象の7割ほどが視覚によるものだと、前世の大学の心理学の講義で習った記憶がある。


だが、26歳で若造の俺が初対面の極道相手に舐められないためには、せめて束帯を身に纏って威厳のある外見にしたという訳だ。


廊下を進んで大広間の前に立つと、恭しく襖が綽綽然と開いた。俺が大広間の中に一歩足を踏み入れると、左右に居並ぶ伊東家の重臣たちの視線が一斉に俺に集まり、一様に驚いた様子を見せた後に慌てて平伏するのが目の端に映る。


ゴングと同時の先制パンチはかなり効いたようだ。しかし俺の視線は、正面の上座を向いたまま動くことはない。上座の中央の席は空いており、俺はゆっくりと威厳を示すような足取りで上座に歩を進める。


上座から少し離れた2つの下座には伊東家当主である伊東義益と、伊東義祐と思しき僧体の人物が静かに瞑目していた。座席の位置を見ただけでも義祐が伊東家の実権を握っているのは明らかだ。


俺が静かに上座に着座すると、徐に目を開けた義祐は驚いたように瞠目した。その瞬間、義祐の表情に『してやられたわ』という感情が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。


それでも義祐はすぐに俺の方に慇懃に姿勢を正すと、頭を垂れつつ謹厚な口上を述べる。


「拙僧は伊東三位入道義祐と申しまする。寺倉典厩様の御尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする」


義祐からは敵意は微塵も感じることはないが、坊主としては余りに鋭すぎる眼光には威圧感を感じる。


まあ当然だろうな。一条松平家の援軍に出た息子の義益が、四国で自分に断りもなく寺倉家に臣従を決めてしまったのだ。だが、曲がりなりにも義益は当主なので、今さら易々と臣従を反故にする訳にも行かない。


そして今、義益が臣従を決めた主君であり、"六雄"の筆頭格の"天下人"である俺が目の前に現れたのだ。内心では一体どんな男かと、俺を値踏みしても不思議ではない。


「面を上げよ。寺倉左馬頭正吉郎蹊政である。三位入道殿、九州一の英傑と謳われる貴殿にはかねてから是非一度お会いしたいと思うていた。こうして顔を合わせられたことを、誠に嬉しく思う」


さすがに外交辞令としても過分な評価と思ったのか、義祐は白髪交じりの眉を上げた。


「拙僧は今や齢58にて隠居の身にございますれば、左様なお言葉をいただき、身に余る次第にございまする」


「ははは、そう謙遜せずとも良い。当主の左京大夫殿も親子揃っての傑物だな。都於郡城や佐土原城の城下を見れば一目瞭然だ。武勇だけではなく、善政を敷き、民を安んじる君主としての仁徳にも優れておる。これから日ノ本が泰平の世となれば、伊東家が殷賑を極めるのは間違いなかろう」


俺の賛辞に義祐の口角が僅かに緩むが、俺は過分な褒め言葉とは思わない。


最初はこれほど褒めちぎるつもりはなかったが、天守閣は本当に荘厳で美しかった。城下町の繁栄も予想を超えたもので、建物が所狭しと並び、人や荷車の往来も多く活気に溢れている。まさしく"九州の小京都"と呼ぶに相応しい繁栄だ。


「誠にもったいないお言葉にございまする。ですが、伊東家は寺倉家に臣下の礼を取り申したからには、主君である典厩様が家臣の拙僧に"殿"を付ける必要はございませぬ」


史実では今年、当主の伊東義益が島津家に暗殺されると、義祐は奢侈と京風文化に溺れ、名将としての覇気が失われていき、やがて伊東家の衰退を招くこととなる。


だが、今こうして相対すると、義祐が奢侈に溺れそうな兆しなど全くない。やはり知勇兼備で将来を嘱望していた義益の死が大きかったのだろう。寵愛する温厚誠実な愛息子を失えば、義祐が気を病んでも何ら不思議ではない。


史実では3年後の"九州の桶狭間"とも呼ばれる「木崎原の戦い」で島津に敗れたのも肯ける。10倍もの圧倒的な兵数差が油断を生んだのだろう。勇将である伊東義益の死がなければ、この"九州の桶狭間"は起きていなかったに違いない。


「左様か。では三位入道。我ら"六雄"は戦乱の世を鎮め、泰平の世を成すため、秋の収穫後にはこの日向国を足掛かりとして九州征伐を始める所存だ」


「はっ。我らも"天下人"たる典厩様の天下泰平の覇業に加わることができ、誠に嬉しく存じまする」


そう言って義祐が平伏すると、伊東家の重臣たちも一斉に平伏する。これで伊東家の臣従は間違いないな。

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