九州征伐② 島津攻略の戦略

「うむ。皆の忠義嬉しく思うぞ。では三位入道、まず南九州の情勢をお教え願おう」


「はっ。まずは日向と大隅についてお話し申しまする。伊東家は長年敵対関係にあった島津を昨年ようやく南日向から撤退せしめ申した。伊東家は宮崎郡と那珂郡の大半を領有し、飫肥には三男の六郎三郎(伊東祐兵)が入っており申す」


確か昨年、「第九飫肥役」の「小越の戦い」で80年以上に渡る戦いにようやく決着が付き、日向守護の島津豊州家を日向から追い出したのだったな。伊東祐兵はまだ11歳と聞くが、史実では義益の死により今頃は義祐の後見で伊東家の当主を継いでいる。


「一方、大隅の肝付家とは同盟を結んでおり、肝付家は志布志湾に面する那珂郡南部の櫛間と諸県郡の志布志、さらに大隅の肝属郡と大隅郡の大半を領しており申すが、囎唹郡以西は島津や国人衆が領しており申す。当主の肝付河内守殿(良兼)は3年前に父親を島津に弑されたと信じ、復讐に燃えており申す。以上が日向と大隅の現状にございまする」


肝付家は大隅国の大名だ。以前は島津家に服属していたが、名将の誉れ高い16代当主の肝付兼続の台頭により数々の戦勝を遂げ、一時的に島津家を圧倒する勢威を見せる。


しかし、兼続は3年前に病死した。今の当主は兼続の長男の肝付良兼だが、史実では彼も2年後に37歳で病死してしまう。だが親子2代に渡って、勇将と名高い当主が病死などするだろうか?


俺は兼続も良兼も病死ではなく、伊東義益と同じようにおそらく島津が放った刺客による毒殺だと考えている。義益の場合は一条松平に援軍を送る際に自ら援軍を率いたことにより、幸いにも暗殺される運命を回避しているが、今後も用心すべきだな。


暗殺は宇喜多直家が有名だが、一度成功すると味を占めて繰り返したくなるものだ。なにしろ戦をせずに敵将を排除できるのだ。コストパフォーマンスが余りにも高いのだから当然の帰結だ。


島津家は"釣り野伏"や勇猛な武将が多いことで有名だが、実際には敵対する厄介な武将を闇に葬るのが常套手段のようだ。どうやら優秀な素破集団を抱えているようだが、そうなると俺も島津に命を狙われる危険が高い。くれぐれも用心しないとな。


「肝付家との関係は良好か? 伊東家には日向一国を安堵すると約しているが、いくら同盟関係にあろうと、櫛間と志布志を伊東家に奪われるとなれば、肝付家もいい顔はせぬであろう」


「拙僧もそれは危惧しており申す。ただ、肝付家には寺倉家に臣従したこと以外は伝えておりませぬ」


なるほど。肝付家とは強固な同盟関係というよりは、互いに利害が一致した時の協力関係という訳か。伊東家は南九州に覇を唱えるため、肝付家は先代当主の仇を討つため、島津という共通の敵を有していることからお互いに相手を利用しているというのが実情なのだろう。


「左様か。だが島津は手強い故、できれば肝付家を敵に回したくはない。肝付家には島津を討ち果たした暁には大隅一国を安堵する条件で俺から臣従を迫るとしよう。肝付河内守は父親の仇が討て、大隅一国に加増されるならば喜んで受け入れよう。三位入道、肝付家に顔を繋いで貰えぬかな?」


大隅一国となると17万石だ。櫛間と志布志を失っても大幅な加増になる。断ることはないだろう。だが、菱刈郡だけは菱刈金山が眠っているので、薩摩28万石と合わせて直轄地にしよう。


「無論にございまする。島津は南日向で我らに敗れた後、大口の相良家を攻めており申すが、かなり疲弊しており申そう。今こそ島津攻めの好機なれば、肝付河内守も喜んで臣従するかと存じまする」


「うむ、では肝付家への書状を認める故、伊東家から使者を送ってくれ」


「はっ、承知いたし申した」


だが話はまだ終わりではない。俺は真剣な表情で続ける。


「島津は手強い。それは長い間戦ってきた伊東家が良く存じておろう。島津を討ち果たすためには、南肥後の相良家も味方に付けるべきであろう」


島津家は寡兵であろうと、大軍を撃ち破る突破力を備える。少しでも戦を有利に進めるべく、南肥後を領する相良家を臣従させるべきだと考えたのだ。


「なるほど。日向と大隅、肥後に加え、八代海を南下して西からも薩摩に攻め入るという訳ですな」


義祐は俺の意図を瞬時に読み取り、横に控える義益も深く頷いているが、それではまだ不十分だな。


「いや、南からもだ。寺倉水軍には南蛮船がある故、指宿か枕崎あたりから薩摩に上陸できよう」


「おお、それは良き策にございますな。相良家は工藤氏の庶流で、伊東家とは縁戚の関係にございますれば、以前より島津を打倒すべく我らと盟を約しており申す。我らの説得があれば味方に付けるのは容易いでしょう」


今まで黙っていた義益が気丈な口調で答える。俺は首肯して義祐に目を向ける。


「それに相良家は大口にて島津との抗争の最中にて、我らも真幸院にて様子を窺っており申すが、戦況は悪化の一途を辿るばかりにございまする」


相良家当主の相良義陽は10数年ほど前に悲願だった薩摩国伊佐郡の大口城を奪っており、今は大口領を死守すべく全力を注いでいるそうだ。


だが、今年5月に新陰流の指南役で剣豪として名を轟かせていた丸目長恵が、致命的とも言える失策を犯した。敵将の島津家久が雨中に伏兵を忍ばせ、大口城の城兵を誘い込み、これにまんまと嵌って相良勢は大敗を喫する憂き目を見たのだ。


この敗戦を契機に相良家は劣勢に立たされることとなる。史実では義益の死により伊東軍が真幸院から兵を引いたために、9月に大口城は落ちているが、義益が健在の今は伊東家の助力もあって何とか持ち堪えている。


そう考えると、義益の存在が如何に大きかったのかが良く分かるな。義益が死ななければ、島津家の伸張はあり得なかったと言っても過言ではないだろう。


「相良家には我が弟の北畠伊勢守を送ろう。伊勢の長野家も工藤家の流れだ。説得の役に立てるだろう。後は渋谷一族の入来院家と東郷家を味方につける必要もあるな」


渋谷一族は桓武平氏の秩父氏から分かれ、鎌倉時代に相模国高座郡渋谷荘から薩摩国高城郡に移住した渋谷氏の庶流で、日露戦争の連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥も渋谷一族の出自だ。


入来院家はかつては島津の傘下だったが、当主の入来院重嗣の父・重朝が謀反の濡れ衣を着せられ、所領の一部を島津に没収されている。入来院家が味方に付けば同族の東郷家当主・東郷重尚を説得するのも容易いだろう。


「入来院家も東郷家も島津の圧迫に耐えており申すが、もし大口が落ちれば平佐も落ち、薩摩は島津の手に落ちましょう」


島津が薩摩を統一すれば勢いづいてしまう。渋谷一族は西薩摩の川内地方を領しており、調略に成功すれば西からも攻め入ることが出来る。何としても味方につけたい。


「うむ。ならば、急ぎ使者を送らねばならぬな。適任の者に心当たりはおるか?」


「では、その役目は伊東相模守(祐梁)にお任せくだされ。相模守は六郎(義益)の又従兄で側近にて、入来院家とは親交があり申す。必ずや良き返事を得られましょうぞ」


渋谷一族は80年以上前の「第一飫肥役」の際に、島津宗家に叛した島津伊作家の島津久逸に伊東義祐の祖父・伊東祐国と共に呼応するなど、伊東家とは古くから繋がりがあるため、入来院家への使者には一門衆の伊東祐梁が適任だと義祐は判断したようだ。


「そうか。ならば入来院家と東郷家の調略は伊東相模守に頼むとしよう」


「ははっ、拙者にお任せくだされ。必ずやご期待に沿うて見せまする」


島津家に暗君なしと言うが、"島津の英主"と称えられた島津伯囿(貴久)が存命で、当主の島津義久には義弘、歳久、家久の3人の優秀な弟もいる。油断は禁物だ。一層気を引き締めねばならない。


こうして島津攻略の戦略がまとまり、俺は満足げに首肯して会談を終えたのだった。

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